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【38】連載(完)「日米和親条約への道」

 5年ほど前、このブログで【1】「新たな回顧(「我が歴史研究の歩み」1)」(2015年6月30日掲載)を書き始め、以来、【37】「連載(七)経験と風説」(2019年2月26日掲載)まで進めてきたが、ここで中断、一年半近くが経った。

 連載を始めた狙いは、①課題の着想から論文・著書の執筆に至る過程を示すこと、②掲載から時間を経て見えてくる批判点や反省点を示すこと、③時代の変遷が歴史研究に及ぼす影響について雑感を述べること、あたりにあった。いまもそれは変わらない。

 この連載の中にさらに小連載「黒船前後の世界」がある。これは『思想』誌(岩波書店)に連載した8回を振り返ったもの、この小連載の最終回がこのブログ【38】連載(完)「日米和親条約への道」である。いわば36年前の同誌1984年7月号に掲載した論文に関する<回顧と展望>である。

 原稿はA4版の400字詰縦書き原稿用紙に柔らかい4B鉛筆で書いてきたが、ついに右手が悲鳴をあげた。医者は執筆かテニスのどちらかを選べと言う。

 待望のポータブルワープロを導入したのは、忘れもしない1984年8月である。これで筆圧が10本指に分散され、新たにピアノを弾くような快感が加わった。もっとも記憶媒体の開発が遅れて、すべての原稿をワープロ処理するにはしばらく時間が必要だった。テニスも再開した。

 以来、ワープロをパソコンにつなげて今日まで36年になる。この「日米和親条約への道」は1984年の5月ころの執筆、手書き時代の思い出深い作品である。

 連載の最終回のため、まず1節で過去7回分のタイトルと要約を掲げた。それをさらに要約して主な論点を再録する。

 (一)「ペリー艦隊の来航」⇒1853年、ペリー艦隊が浦賀沖に来航、その日米の最初の出会いで、浦賀奉行所のオランダ通詞が”I can speak Dutch”と英語で呼びかけたことから、日米の接触がオランダ語を介し、対話で始まったことの重要性を指摘。
 (二)「ペリー派遣の背景」⇒従来の研究が示す経済史的な説明に代わり、漂着するアメリカ人(その大半は捕鯨船の乗組員)の保護、言い換えれば米海軍が担っていた<外交法権>の脈絡で考える観点を提示した。
 (三)「ペリー周辺の人びと」⇒ペリー派遣は国務省(外務省)ではなく、海軍省所管の東インド艦隊の業務に<外交任務>を付加する方式で行われた。中国海域に到着後は国務省所管のマーシャル弁務官と海軍省所管のペリー提督(司令長官)との意見が対立、ペリーは独自の<裁量権>を行使する。
 (四)「東アジアにおける英米の存在」⇒<超大国>イギリスと<新興国>アメリカの東アジアにおける存在の比較を行った。イギリスの経済・軍事・領土・通信網等の圧倒的優位のなかで、アメリカが誇れるのは、①世界最大の黒船(汽走軍艦)艦隊と②独自の<外交法権>理論であった。
 (五)「香港植民地の形成」⇒アヘン戦争(1839~42年)の結果の南京条約により、イギリスは敗者の清朝政府に対する<懲罰>として、①領土割譲(香港島、イギリス植民地となる)、②賠償金、③五港開港を課した。このうち①の香港の都市化をここで扱い、③の開港五港の代表である上海については次回の(六)で取り上げた。
もう1点、列強間の<協調>の一側面としての<最恵国待遇(条項)>(=列強のうちの1カ国が条約により獲得した権益は他の列強にも均霑されるとする国際法)を取り上げ、英清間の南京条約(1842年)と、それに<最恵国待遇>を主張してアメリカが清朝と締結した望厦条約(1844年)を比較した。<アヘン条項>について南京条約には記載がないが、望厦条約は<アヘン禁輸>を明示、これが後の日本に大きな影響を及ぼす。
 (六)「上海居留地の形成」⇒開港五港のうち最大港に発展する上海の居留地(settlement、中国語では<租界>)の建設、イギリス商人の権限の拡大(清朝政府も地元官僚も関与せず)、最大貿易品のアヘンの増大等を扱った。また2大列強たるイギリスとアメリカの<比較>と同時に、<最恵国待遇(条項)>に代表される両者の<関係>についても言及した。具体的には、①植民地と居留地との関係、②日本の開国はなぜイギリスではなくアメリカとの間でなされたのか、③開国に向けて幕府は対外政策をどう形成し実現したか。
 (七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」⇒前稿の最後の③をめぐる問題を扱う。モリソン号打払い事件(1837年)の<経験>、長崎に入るアヘン戦争情報(1839年~)という<風説>、これらを考えあわせ、異国船無二念打払い令=文政令(1825年)を撤回し天保薪水令(1842年)の発布に至る過程を追う。

 いよいよ2節から本論に入り、10節までつづく。

 2節では、前稿(七)の記述は天保薪水令(1842年)の発布までであり、そこからペリー来航(1853年7月と翌年2月~)までの10余年に起きた変化に注目すべきこととして、①日本の開国に関して<仲介者>に徹するとする1844年のオランダ国王国書の意図、②英清南京条約(1842年)と米清望厦条約(1844年)の関係、すなわち<最恵国待遇(条項)>理論の2点を挙げる。

 ついで長崎港へ入港した外国軍艦の名称と船籍を挙げ、当時の列強5ヵ国(入港順にイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ロシア)のすべてが来航していることを示したうえで、ペリー艦隊が長崎を避け江戸湾へ直行した背景を示す。ペリーは精度の高いオランダ情報を活用しつつ、オランダの<仲介者>としての役割は忌避した。

 3節は、オランダの日本情報について述べる。オランダは世界で唯一、日本に商館を置き、長崎の出島でモノの交流(=貿易)と文化交流(商館員と幕府のオランダ通詞や民間の蘭学者等との間で)を担っていた。商館長の<江戸参府>等により蓄積された日本情報は、日本との国交樹立を求める諸外国にとって、きわめて貴重な資料となった。

 一方、アメリカ人宣教師たちを中心として中国の広東で編集・刊行された『チャイニーズ・レポジトリー』誌(1831~51年)がある。本誌は誌名が示すように主な対象は中国であるが、ここに日本が初めて登場するのは1833年1月号で、もっぱら長崎在留オランダ人から得た情報である。

 日本情報を初めて本誌に紹介したブリッジマン(のちに1844年の米清望厦条約の通訳官)は、商館員で医師のシーボルトによるドイツ語の著書『日本 Nippon』を取り上げた。本書は分冊形式で刊行された全20冊。最初の刊行は1832年、最終分冊の刊行が1852年で、その英訳版(抄訳)の刊行は1841年、1845年、1853年である。

 シーボルト『日本』の冒頭に次のようにある。「日本は1543年、ポルトガル人によって偶然に発見された。その時、日本はすでに2203年の歴史を持ち、106代にわたる、ほとんど断絶のない統治者の家系のもとで、一大強国になっていた」。この一文は、蘭学者・美馬順三のオランダ語論文「日本古代史考」(主に『日本書紀』のオランダ語訳)からの引用である。

 4節では①オランダ情報の提供源は誰か、②日本開国を企図するアメリカにとってオランダという<第三者>の情報の持つ意味は何か、と問題を立てたうえで、美馬順三の果たした役割について、蘭訳した日本文献と交換に、西洋の医学知識を得た等々を述べる。

 日本開国に動く米英人にとって自らが収集編集した『チャイニーズ・レポジトリー』誌とは異なり、オランダ情報は<間接情報>であるがゆえに<客観性>があるとしたが、ここはもう少し踏み込みたかった。

 5節は、アメリカが『日本』等のオランダ情報の英訳版を通じて「日本が高い文明の段階に達している」(ブリッジマンの表現)と理解したとすれば、これを対日外交の具体的政策にどう反映させたか。この問題を次の4つの側面から論じる。①日本は中国を中心とする<冊封体制>の一環(=朝貢国)であるか、②個人の<人権>は認められているか、③日本との貿易の可能性はあるか、④日本はどのような対外政策を持っているか。

 この段階では、アメリカは宣教師集団が論陣を張るだけで、外交はイギリスが主導的位置にあった。ここではイギリスの現地機関(1834年に発足した貿易監督官、アヘン戦争後の1843年に発足する香港総督)に中国語通訳官として勤めたM・マーチンとギュツラフ(出身はドイツ)の二人に注目する。

 とくにギュツラフ「所見-シャム・アンナン(コーチシナ)・朝鮮および日本との通商条約締結に関する覚書」(1845年、香港総督デービスへの上奏文、イギリス公文書館所蔵)を分析する。清朝中国とは異なり、これら4ヵ国との条約交渉は、大規模な軍艦派遣をせずとも<安い経費>で可能であるとギュツラフは述べ、とりわけ日本は交渉に応じる可能性が高く、対日<和平方式>を採用すべきと主張した。

 6節でさらに「ギュツラフ所見」の分析を進める。この所見は「南京条約のこれらの諸国におよぼす影響」と「これらの諸国への使節派遣」の2部構成。そこから①「アヘン戦争に勝利したイギリスは強力な敵であると意識させている今こそ使節派遣の好機」とする論点を引き出し、②これら4ヵ国のうち日本がいちばん貿易への期待が大きいとして鎖国以前の情報を用い、「日本人はアジアの誇る、もっとも進取の気性に富んだ航海者であり、貿易商人であった」とする。

 さらに交易の主な港として、大坂、江戸、薩摩、仙台か加賀の4港を挙げ、「…日本がシャム・アンナン・朝鮮と異なるところは、文明化されており、我国の商品を消費する…」と述べる。

 ところがギュツラフ所見はイギリス本国では、いわば凍結され、政府も議会も動かず、イギリス海軍も中国海域から大幅に引き上げた。代わりに増強されたアメリカ艦隊とフランス艦隊が勢力を伸ばすなかで、アメリカ人宣教師グループがギュツラフらの見解を継承する。

 7節はシーボルト『日本』を参考にして日本を目ざしたペリーと、その最終報告書『ペリー提督日本遠征記』の共通面を分析する。その序言でペリーは「…きわめて長い歴史をもつ文明国・日本を開国させ、初めて商業国に仲間入りさせる仕事は、もっとも若き国・アメリカ合衆国に残されていた。…」と記す。

 ついでペリー派遣に関するコンラッド国務長官からケネディ海軍長官への書簡(1852年11月5日)等を分析し、1826年のハワイとの条約、1832年のシャム・マスカット条約、1844年の望厦条約と継承されるアメリカのアジア外交の系譜として、①外交法権(アメリカ人の生命・財産の保護)、②交渉による条約締結(戦争からの中立)、③アヘン禁輸の主張、の3点を引き出す。

 8節は1854年3月の横浜村(現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁舎のあたり)における日米条約交渉の条項等の分析である。ただ、白熱する交渉過程、林大学頭とペリーの対話と駆け引き、双方のオランダ語通訳の能力差については触れていない。

 ペリーは日米交渉にあたり米清望厦条約をモデルとする条約草案を準備していた(24ヵ条の漢文版)。その理由は、①アメリカがアジアの国と結んだ直近の条約であること、②法律家カッシングを全権とし、高い評価を得ていること、③<正文>が英語と漢文から成ること、の3点である。

 ところが幕府側(全権は林大学頭復斉)は一覧しただけで取り上げなかった。代わりに7ヵ条の草案を渡すが、これにはペリー側が返答しなかった。ここ8節では詳細な交渉過程にかんする記述が少ない。

 9節では、前年の1983年に発表した拙稿「幕末開国考」から重要と思われる点を再掲しつつ、従来のアメリカ外交の基本の一つに<アヘン禁輸>があることを資料集から詳細に分析する。それ自体は有意義であったと思うが、ここに枚数を割きすぎたため、全体のバランスを欠いた。

 これまでのアメリカ外交の延長上に、ペリーが幕府に示した条約草案第3条の<アヘン禁輸>条項を取り上げた。しかし日米和親条約の内容は、1854年3月8日の横浜村応接において大枠が決まり、条約は国交樹立を中心とし、<アヘン禁輸>を含む通商条項は幕府が拒否、次の通商条約に委ねられた。

 最後の10節は、条約交渉が進む中で行われた土産物の交換(蒸気機関車と客車の4分の1モデル等々)とその意味を語り、幕府側からの贈り物も記す。このあたりから記述はさらに足早となる。

 1854年3月31日(嘉永七年三月三日)に横浜村で交換された日米和親条約(和・英・蘭・漢文の4か国語)に言及した後、この条約に<正文>がないことを考慮した幕府が提案、下田で結んだ6月17日付け<追加条約>に、今後は日本語と英語を<正文>とし、オランダ語訳を付すと初めて明記した。

 この記述を以て8回の小連載が終わる。1983年7月に書き始め、毎月の掲載だったが、第4回からは隔月となり、最終回が1年後の1984年7月号であった。読み返すと、書き足りないところ、流れの悪い個所が少なくない。

 その欠を補うのは、1年半後に刊行した著書『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年11月)である。本連載の他に先行論文や新たに書き下ろした論考をも合わせて作り上げた。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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