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木原均博士の魅力

  横浜市の最高顕彰である横浜文化賞の第68回(令和元年=2019年度)の受賞者6名と若手の奨励賞2名の贈呈式が、11月22日(金曜)、みなとみらい小ホールで行われた。林文子市長の心のこもった挨拶があり、受賞者たちがめいめい応える。つづいて前回の奨励賞を受賞したヴァイオリン大関万結さん、ピアノ入江一雄さんによる記念コンサートが開かれた。

  横浜文化賞は芸術・学術・文化・まちづくり等の部門からなり、その<社会貢献>の部の受賞者が木原ゆり子さん(横浜市立大学木原生物学研究所木原記念室名誉室長)である。受賞理由は次の通り。

  横浜における生命科学振興の推進者
ゲノムの概念を確立した遺伝学者・植物学者である父・木原均(ひとし)博士の研究理念を受け継ぎ、(財)木原生物学研究所入所(1978年)、その横浜市立大学移管後は木原記念横浜生命科学振興財団に勤務、以来、一貫して横浜における生命科学の振興に貢献。
 未来の科学者の芽を育むことを目的に、生きものの観察、調査、実験などの活動を奨励する木原記念こども科学賞の審査員を務め、横浜の子どもたちに対する生命科学の知識普及啓発に尽力。
2010年より木原記念室名誉室長として生命科学を学ぶ学生や市民に対する展示や講演会等の企画に従事。木原博士の研究姿勢や業績を伝え続けている。

 上記からキーワードを一つだけ挙げよと言われれば、末尾にある<研究姿勢>を挙げたい。換言すれば研究を支える情熱、着想を支える行動原理。

 木原博士は1893(明治26)年10月21日、東京の芝白金に生まれ、麻布中学から北海道大学予科(当時は東北帝国大学農科大学、以下、北大)へ進み、1920(大正9)年から京都大学(以下、京大)で長く研究教育に当たった。

 1984(昭和59)年、木原生物学研究所(以下、木原生研)が横浜市立大学(以下、市大)に移管される時、市大側の一人として40代後半の若造の私が、90歳を越える博士にお目にかかる機会を得た。まさに中国古典に言う「謦咳(けいがい)に接する」驚きと喜びである。打合せの場はご自宅、そして三女のゆり子さんの手料理をいただいた。

 それから30年。木原生研教授でテニス仲間の坂智広(ばん ともひろ)さん主催のシンポジウムで、ゆり子さんと再会する(本ブログ2015年12月23日掲載「コムギの里帰り」)。

 このシンポジウムは、「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッション」である。

 JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後の復興途上にあるアフガニスタンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を目的とする、5年間の共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考える市民フォーラムである。

 そこで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映があった。この映画を私は19歳のとき、池袋の映画館で観て強烈な印象を受けた。

 外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい1955年、京大が戦後初の総合的学術調査隊(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)を編成、タルホコムギ(パンコムギの祖先種)を発見し、その発祥起原地を確認した。

 その総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。

 砂漠の中のオアシス、バザール、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、そのコムギで作られるナンやチャパティ、羊肉料理、豊富な果物、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は若者たちに大きな夢を与えた。

 木原博士が植物遺伝学の研究、とりわけコムギ研究に入るきっかけは、ふとした偶然からだという。北大予科に進学してまもなく、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」に強い感銘を受ける。数年後、坂村さんが海外へ留学、後を託されたのが大学院生になっていた木原青年であった。

 北大にはクラーク博士以来の伝統である貴重な素材、コムギ・オオムギ・ライムギ・カラスムギ等が集積していた。染色体数の異なる種と種の雑種を作り、その子孫の染色体の変化を調べる。その研究の最初の成果が<五倍小麦雑種>の創出である。

 1920(大正9)年、北大の恩師・郡場寛(こおりば かん)博士が京大に新設された理学部植物学教室教授に異動すると、木原博士も京大の助手(現在の助教)に就く。1924年に助教授(准教授)、1927~56年教授。コムギ研究の世界的権威となり、ゲノムという概念を提唱。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(1946年)という名言を残した。また高等植物(スイバ)の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。

 1942年に(財)木原生物学研究所(京都)を設立、戦後の1956(昭和31)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、財団設立40周年を機に市大への移管が決まり、1984(昭和59)年、植物系部門を中心とした市大の附置研究所となった。それから35年になる。

 市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(1982~1990年在任)の下で草薙昭雄さん(生物学、ボクシングの四回戦ボーイ)が主導、彼の急逝後は小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一市長(第17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めた。私も文科系の一人として参加した。

 博士が偉大な植物遺伝学者であるとともに、戦後初の総合的学術調査の総隊長を務めたという、もう一つの顔に私は魅きつけられた。それは私が東洋史学を専攻する背景となり、大学院生時代の、世界35カ国をまわる「広島・アウシュビッツ平和行進」につながった(『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年、梶村慎吾と共著)を参照)。

 さらに拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年)にもつながる。欧米志向の強い時代に、アジアに関心を抱いた契機の一つが上掲の記録映画である。旅を通じてアジアの現場を肌で知り、そこで得たアイディアを基に史料を漁り、関連の研究から刺激を受けつつ次の展開を図ろうと試みた。

 博士の研究の発展過程を広く伝えようとするのが、木原ゆり子著「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」の<抜粋特集号>2015所収)である(以下、<小伝>)。この題名は同ニュースから抜粋特別号を作成した編集部が付したもの。ネット検索も可能である。

 <小伝>の記述は副題とは逆に<スポーツマンの顔>、<探検家の顔>、<研究者の顔>の順に、①北大時代、②スポーツマンの顔、③探検家の顔、④研究者の顔-その1、⑤研究者の顔-その2、⑥研究者の顔-その3、あとがき、とつづく。おかげで幼少期から世界の科学者へと歩む過程がよく分かる。

 <小伝>に付されたゆり子さんの略歴は、「立教大学文学部英米文学科卒、早稲田大学語学教育研究所、(財)木原生物学研究所、木原記念横浜生命科学振興財団勤務の傍ら、自然・いのち・食・環境をテーマに研究会や講座を主宰、また野生オオカミの生息地を訪ねて世界各地を旅する。現在(2015年)は横浜市立大学木原生物学研究所<木原記念室>名誉室長」。

 この<小伝>には、私が記録映画「カラコルム」で得た感動の背景をなす、木原博士の魅力がさまざまに描かれている。今回受賞されたのを機に再読した。いくつか引用したい。

 【引用1】「学生時代には学業半分・スポーツ半分の生活だったと本人は述懐しているが、スポーツは半分どころではなかったようである。夏は野球、冬はスキーに明け暮れながらも、ライフワークとなるコムギの遺伝学に出会えたのは幸運であった。」

 【引用2】「北大在学中に学び身につけたのは、植物を収集して標本を作ること、植物の名前を覚えること、労を惜しまずコツコツと努力すること、日々の観察を怠らず<自然>から学ぶこと、フィールドワークの重視、徹底的な実践・実証主義、非権威主義、チャレンジ精神等々…。いずれも北大の学風として今も脈々と受け継がれているものばかりである。」

 【引用3】北大野球部ではエース投手で三番、その運動部で得たものとは、「仲間との協調の精神と苦境にある時にも奮い立つ勇気、そして生涯変わらない友情こそ最大の収穫だったと誇らしげに語っている。…」

 博士の最初の著作作は『最新スキー術』(遠藤吉三郎との共著、1919年、博文館)で、木原記念室に展示されている。競技スキーにとどまらず、北海道の郵便配達員をはじめ全国の雪国生活者に向けたスキー指南書でもある。

 また全日本スキー連盟の技術委員長を8年、連盟副会長を6年、会長を10年間つとめ、その間の第8回冬季オリンピック(1960年、アメリカのスコーバレー)と第9回冬季オリンピック(1964年、オーストリアのインスブルック)の選手団長をつとめた。もはやサイドワークの域を越えている。科学的スポーツを提唱し、<根性論>と<メダル獲得競争>が支配するオリンピックへの警鐘を鳴らした。

 郡場博士が京大旅行部(学生の団体)の部長に就くと木原博士も旅行部に関わる。そこにヒマラヤ登山史と熱帯・極地史に名を残す錚々たる面々、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫たちが集まり、世間では京都大学を<探検大学>と呼ぶようになる。

 1931(昭和6)年、旅行部の先輩と現役がヒマラヤ遠征の母体として京大学士山岳会を結成すると、木原博士は翌年、会長兼旅行部部長となる。人を得て、さらに人を呼び、5次にわたる探検を成し遂げた。

 すなわち、第①次1938年の内蒙古~動植物の生物学調査、第②次1955年のカラコルム・ヒンズークシ~コムギの祖先を尋ねて、第③次1966年のシッキム・アッサム~イネの起原を探る~、第④次1966年のコーカサス~コムギの起原を求めて~、第⑤次1973年の南北スリナム~カワゴケソウに惹かれて。

 1976(昭和51)年、北大創基100周年記念事業の一つ、国際学術講演会で、83歳の博士が「生命科学の現代的使命」と題する講演を行った。

 【引用4】「長年、遺伝学の基礎研究に従事してきたが、研究成果が応用面にまで発展することが重要だと常々考えていたので、1978(昭和53)年から再び北海道に拠点を置いて、北大、帯広畜産大学…等の協力でコムギの共同研究プロジェクトを立ち上げ、核と細胞質の間のヘテローシス(雑種強勢)が作物の品種改良に役立つかどうかの研究を始めています。……地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいること、人間は他の生物なしに生きることができないと述べ、医師が人類の病気を予防したり治療したりするように、生命科学(者)は地球の医師となって働いてほしいものです」。

 研究意欲はとどまることを知らず、90歳を過ぎてもチベット調査に情熱を燃やした。「近代品種がチベットに流入する前に調査したい。…ムギ類だけでなくイネについても調査が必要である。予備調査だけでも進めたい。奥地までは行けなくても、せめてラサまで出かけて、隊員からの吉報を待ちたい」。これにゆり子さんは、「父は過去を振り返らない人だった。今したいこと、これからしたいことだけが日々の関心事だった」と記す。

 <小伝>のあとがきで、「…家庭人としての父親については知っていても、…公人としての父親について知る機会が少なく、…身内が書くことの難しさが加わって立ち往生することもしばしばであった」と述懐している。

 このたび『一粒舎主人写真譜』(1985年、(財)木原生物学研究所)と、ゆり子さんが編集・監修した『木原均博士が見ていた世界‐「小さい実験」を中心に』(木原生物学研究所木原記念室 2016年)もいただいた。

 前者は、公私にわたる博士の生涯を写真で追う貴重な作品で、次女の田中ゑみ子さんと三女ゆり子さんが編纂したもの。ふだん日記をつけない博士が学会等で海外に出かけたときは備忘録をつけていた。40冊を越えるそれを「学術旅日記」として編集する過程で、写真そのものが語る豊富な世界をそのまま年譜として編むことに考えが変わった、と<はじめに>で書いている。

 後者は木原博士の研究所跡地にできた横浜市こども植物園で開催された展示を基に制作、ルーペとノートと鉛筆があればできる「小さい実験」を綴る。小麦の芽生えの観察をはじめ、身近な動植物の<左巻き>と<右巻き>の観察、雌雄の見分け方等々を伝える絵入りの冊子。<動植物の名前を覚えよう!>、<違うことってすばらしい!>、<驚きをカラダでたしかめよう!>、<木原均博士の足跡をたどる>(年譜)、<木原生物学研究所(京都)で掲示されていた「研究者・作業者の心得」>等の記述が含まれる。

 子どもたちに向け、身近にある多様な動植物に触れて欲しいと願う、ゆり子さんの想いが伝わってくる。これぞ木原博士の<研究姿勢>を彼女らしい形で、たゆまず推し進めている証左ではないか。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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