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原三溪市民研究会の10年

 美しい紅葉の残る12月14日(土曜)、三溪園の鶴翔閣の楽室棟で、「原三溪市民研究会創立10周年記念 第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」が開かれた。

 原三溪市民研究会(以下、市民研)のシンポジウムについては、これまで本ブログでも3回にわたり取りあげてきた。( )内は掲載年月日。
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年11月20日)
第5回「原三溪の生き方を考える」(2018年11月10日)
そして今回の第6回シンポジウムである。

 その標題から読みとれるように、第3、4回は<まちづくり>、第5回からは<三溪の生き方>、その延長上に横浜美術館アートギャラリーの展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」(8月3日~9月1日)があった(本ブログ2019年9月9日掲載 展示「もっと知ろう! 原三溪」参照)。

 それから3か月、展示「もっと知ろう! 原三溪」のさらなる普及活動として、ほぼ同じ内容の展示パネルを三溪記念館の第3展示室で12月17日から開催している(3月11日まで)。このような一連の流れのなかで、今回の「第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」を位置づけたい。

 原三溪没後80年「原三溪のたたずまい」をめぐる座談会は、内田弘保理事長の市民研を紹介する挨拶、ついで尾関孝彦副会長の総合司会のもと、コーディネーターの内海孝さん(東京外国語大学名誉教授、顧問)が三溪に近かった方々の子孫5氏のパネリストから、三溪の<たたずまい>と人としての生き方(主にその内面)を聴き出そうとする試みである。

 五十音順に、(1)朝比奈恵温(あさひな えおん)さん(朝比奈宗源の孫、鎌倉浄智寺住職)、(2)久保泰朗(くぼ やすろう)さん(もと原合名会社社員、93歳)(3)佐藤善一(さとう よしかず)さん(神奈川学園創立者・佐藤善治郎のひ孫、朝日新聞宇都宮総局次長)、(4)根岸五百子(ねぎし いおこ)さん(原合名会社で原社長の私設秘書、のち製糸部勤務の鈴木政次の長女)、(5)野村弘光(のむら ひろみつ)さん(野村洋三の孫、原地所常務取締役)。

 いつもながら丁寧に作られた「関係年表」(三溪を縦軸に5氏の祖先たちの動きを含む)付のレジメ(A4×8ページ)の最後(裏表紙)には三溪作の画<鵜>(1925年、57歳)と画賛の漢詩(七言絶句、1917年、49歳の作)とその現代語訳を載せている。再掲したい。

 いつのまにか鬢の髪が白くなり 老いとともに俗世に染まってしまい 情けない これまでの四十九年は夢のようで 自分の思いとは裏腹である それでも今やりかけていることがある 風が吹こうが雨が降ろうが 蓑笠を着て あとひと踏ん張りしよう

 内海さんがパネリストたちから巧みに発言を引き出そうと努める。

 まず(4)佐藤さんは、1914年に創立した神奈川学園創立者・善治郎(1870~1957年、教育者、『実践倫理講義』1908年等)のひ孫なので善治郎の実感がなく、新聞記者として一次資料なしで話すのは心苦しいと前置きし、学園史を読むと、釈宗演(1860~1919年、32歳で鎌倉円覚寺派管長、慶応義塾大学で学ぶ)の紹介で三溪、野村洋三と知り合い、横浜の女子教育振興のためならと三溪から支援を頂いた。それがなければ今はないと話す。

 根岸さんは、鈴木政次(1908~1983年)の長女。鈴木政次は横浜市役所勤務、1923(大正12)年の関東大震災の復興で横浜市復興会に派遣され、1926年に原合名会社庶務部で社長(三溪)の私的秘書となる。長女の五百子(いおこ)さんが父から聞いた三溪の人柄を語る。なお五百子の命名は生糸の値段がやっと500円に戻したことの記念という。

 野村さんは野村洋三(1870~1965年)の孫。洋三は英語の修得に岐阜から横浜に出る。23歳で釈宗演(上掲)の通訳として渡米、翌年、横浜にサムライ商会開業。1907年に来日した米人フリーア(実業家で東洋古美術蒐集家)を三溪園へ案内、三溪に引き合わせる。1927年、ホテル、ニューグランド開業(井坂孝会長)、1938年に2代目会長。弘光さんはワシントンDCにあるフリーア美術館で門外不出の美術品を鑑賞した思い出等を語る。

 朝比奈さんは朝比奈宗源(1891~1979年)の孫で、鎌倉浄智寺住職。宗源は1934~1942年、横浜専門学校(現神奈川大学)で倫理学の教鞭を執る。1945年、円覚寺派管長。1951年、三溪の漢詩集『三溪集』の編集を任される。宗源の孫として、三溪について直接に語るだけの体験や記憶はごく少ないと言う。

 久保さん(93歳)は、原合名の社員章を誇らしげに胸に付けて登壇、存命の最古参の一人。

 同時代の関係者から可能なかぎり<三溪のたたずまい>を引き出そうと試みるが、その孫やひ孫の世代となればかなり難しい。それでも想像力を働かせて、その一端を浮かび上がらせることができた。

 最後に総合司会の尾関さんが1冊の本をかざし、今日、完成したばかりです、と紹介した。

 ついで隣室で、会員による第2部「市民研 10年の歩みの集い」が開かれ、私も来賓として案内された。始まる前に上記の本を開く。原三溪市民研究会編『原三溪市民研究会十周年記念誌 もっと知ろう! 原三溪』(A4版73ページ 2019年12月14日)とある(以下、『記念誌』とする)。編集委員は藤嶋峻會事務局長、速水美智子事務局次長、広報の久保いく子さん、事務局の南屋巳枝子さんと小林一彦さんの計5氏。
 
 猿渡紀代子顧問の「発刊にあたって」は、横浜美術館の開館30周年の今年は原三溪没後80年であり、「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」記念開催に合わせ、横浜美術館アートギャラリー1でも連携事業として市民研の展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」を開催したことの意義を述べる。

 『記念誌』は、展示「もっと知ろう! 原三溪」のパネルを中心とした<図録>と<資料編>からなる。本ブログ2019年9月9日掲載の展示「もっと知ろう! 原三溪」でも紹介したが、本書にはパネルそのもの、すなわちプロローグ、Ⅰ実業の人、Ⅱ愛市の人、Ⅲ文芸の人 漢詩人としての三溪、Ⅳ原三溪市民研究会10年の足跡、が収められている。

 このなかにある「三溪・富太郎年譜」(5ページ)は、次の<資料編>の「原三溪市民研究会活動記録年表」(8ページ)と相まって、緻密で確実な作業の成果である。

 第2部では、西郷建彦隣花苑取締役と上掲「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」を統轄した横浜美術館柏木智雄副館長が挨拶、ついで広報の久保さんがスライドを放映して、市民研10年の歩みを語った。会員との応答により、数年前からの活動を回顧し、記憶を共有・確認しようと試みる。

 『記念誌』の資料編には、「原三溪市民研究会活動記録年表(2007年6月~2019年10月)」、「活動報告の抜粋」、「原三溪市民研究会会則」、「会員名簿・役員名簿」が入っている。

 このうち「活動報告の抜粋」(9ページ)には、会員の笑顔の写真とともに、(1)学ぶ、(2)スタディ・ツアー、(3)伝える、(4)「もっと知ろう 原三溪」展の経緯が示され、また過去5回のシンポジウムの記録とシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」(基調講演は関東学院大学の鄧捷教授)の記録を載せている。

 これがスライドによる10年の足跡とほぼ同じで、折に触れて反復することができる。本書を参照しつつ三溪記念館第3展示室のパネルを見てまわれば、いっそう理解が深まる。貴重な『記念誌』である。

 第2部の締めは野村さん、閉会の辞は廣島亨会長、そのなかで数千にのぼるアンケート回答の分析結果(概要)を示してくれた。具体的には「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートで、以下の5項目から1つを選び、壁に張ったアンケート用紙に赤丸のシールを張ってもらう形式。

「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。

 これは今年5月にも行い(本ブログ2019年5月8日掲載「10連休中の三溪園」)、さらに横浜美術館のアートギャラリーでの展示のさいにも行ったが、アンケートの回答から単純に結論を出すのは難しいと廣島さんは述べる。

 市民研のみなさんが次の10年をどう踏み出すか、大いに期待している。
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シェフ秀樹

 テニス仲間には様々な職業の人がいる。テニスをしていなければ出会えなかったに違いない人、その一人がシェフ秀樹、フレンチシェフの浅川秀樹さんである。

 いつも最後まで疲れ知らずのプレーをするので、<鉄人>の異名を持つ。合間にベンチで交わす会話も楽しみの一つ。相手かまわず自分のことだけをしゃべりまくる人もいるが、シェフ秀樹はボケもツッコミも秀逸、会話(対話)の達人である。

 テニスの鉄人、極上料理の創出人、加えて会話の達人、三拍子そろったシェフ秀樹は、テニス仲間にも多い団塊の世代である。私と干支でひと回り違う。大人になってのひと回りは大差ないが、私が大学生のころは、まだ6~7歳で、棒切れを持って走り回っていた。この年齢差は決定的である。

 彼は文京区本郷で育ち、東大構内を我が庭と心得、ワルをしては守衛さんに追い回されていた。ひょっとして私ともすれ違っていたかもしれない。

 2年前のテニス仲間の忘年会で、彼の開発したフランス料理の冷凍ダシが話題となった。とくにフォン・ド・ヴォー(Fond de Veau、子牛のダシ汁)の売れ行きが好調とのこと。ついでカナダ産オマールエビの頭(これまで廃棄されていた)から採るフォン・ド・オマール(Fond de homard)も売れ行きを伸ばしている。

 ダシは感性で創り出し、商品化は食品会社勤務の経験等を活かして材料の豊富なニュージーランドの工場を使い、販路はシェフ・ネットワークを駆使して日本各地をはじめドバイ、シンガポール、バンコック、上海、ニューヨーク、ロサンゼルスと拡げて、いよいよフランス本土を攻略中とか。

 いまや各料理店で時間と手間をかけてダシを作る時代は終わりつつあり、骨等の廃棄環境も厳しくなっている。彼の創ったダシの需要はいっそう高まるであろう。

 シェフ秀樹は、若くして料理人を志し、フレンチ・レストランの見習いから、ひょんなことでスイスへ留学、修業を重ねた。

 霞が関ビル(1968年にオープンした日本最初の超高層ビル、地上36階)のレストランで皿洗いをしている時、太ったオジサンがやって来て「坊主、大変そうだから手伝ってあげようか?」と言う。

 手伝ってもらったが、狭いのでそのうち「オジサン邪魔だからどいてくれない?」と言った。とたんに調理場の空気が凍りつき、料理長が青ざめて、「坊主、この方をどなただと思っている!」の顛末に。

 「その方は当時の天皇陛下の料理長で斎藤文次郎さんでした。水曜日になると私のところに来られる。なぜ来るのか聞いたところ、お前と話していると時代の流れが良く分かる」と言われた。

 なお斎藤氏は1965(昭和40)年に株式會社司厨士會館を設立、後継者養成に乗り出し、代表取締役に就任している。ちなみに<西洋料理>を専門にする料理人を、業界の方々は<司厨士>と呼んでいる。

 そうこうするうち、なぜお前はヨーロッパに修業に行かないのかと聞かれ、逆に「どうしたら行けるのですか?」と尋ねると、斎藤さんが「俺が推薦状を書けば行ける」。「それなら書いてください!」で、あっさりヨーロッパ行きが実現。

 当時、スイスには50人ほどが修業に行っていたが、うち45人はドイツ語圏のチューリッヒやベルンなどで、ドイツ語圏ではフレンチもドイツ風になる。「お前はフランス語圏に行けるようにしておいた」と言われ、スイス西部、レマン湖畔のモントルーに送り出された。モントルーで1年、モナコで1年ほど修行して、30歳目前に帰国。

 料理人を目指すつもりが、元の会社の総料理長から「料理ができて、いろいろなことを知っている人間を紹介してくれと、食品メーカーから頼まれている。面接だけでも良いから行って」と頼まれた。

 そこで自転車にノーネクタイで気楽に行ったら、いかめしく社長、役員などがずらりと待ち構えていた。話しているうち、製品開発のアイデアが尽きていると分かり、そこにあった白板を使って約1時間、時代の変化や今後に必要な製品の説明等をして帰ってきた。

 その後、すっかり忘れていたが、採用の電話が来た。入るつもりがないと伝えると、担当者は、今更そんな事を言われても困ると粘る。仕方がないので、ひとまず入社し、半年もしたら調理場に戻ろうと考えていた。

 ところが面接の時に話した新製品の材料買付などが始まり、辞めるに辞められなくなった。加えて、営業マンの教育、営業などに関わるうち、赤字会社は儲かる会社へと変わっていく。

 その後、別会社へ移り、ここでも赤字の黒字転換に成功。ついで食材輸入販売会社に転職。広くフランスの生産地、レストラン、ホテルなどを回り、実地で得た食の知識や情報を伝えながら販売しているうちに名前を知られるようになる。

 修業中の料理人は料理の勉強だけで精一杯で、近くに有名な産地などがあっても行く暇がない。そこで食材の背景や見分け方などを料理人に教えることを通じて、さらに人脈が拡がった。

 「料理人、食品メーカー、製品開発、業務食材営業、業務用食材の販売ルート作り等に精通するには総合的な知識が必要です。…」

 シェフ秀樹の熱弁にさらに熱が入る。「海外では、外資系企業や価値観の違う人たちと知り合う機会が多く、人間形成にも大きく影響する。また一人の力で時代の流れは変えられないにしても、いかに変化を感じ取り、先を読むかを忘れてはならないと思います。…」

 65歳を機に退職して5年、ダシの開発・生産・販路拡大・流通を軌道に乗せるまでになった。

 今年の忘年会もダシが話題になった。横浜の老舗ホテル、ニューグランドでも採用されたと朗報が入ったからである。そのホテル新館3階の大広間<ペリー来航の間>で、私は30年ぶりに横濱ロータリークラブの卓話(テーブルスピーチ)「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」を行ったが、それがなんと朗報が来た日と重なっていた。

 さて、テニスプレーヤーとしての彼は、トップクラスの実力。だが太ももの裏を痛めて、2年近く踏み出しが利かずにいたことがある。それを皇居周辺のマラソン等を根気強くつづけて、自力で修復。いまはサーブ&ボレーも平気なまでにした。

 テニスの区民大会をはじめ、広い人脈を活かして他流試合を企画、こまごまとした作業も厭わない。そんな時は、お手製のスイーツをお伴に連れて来る。

 また我々の使う何カ所かのテニスコートの一つは、折々の自主管理が必要で、夏はフェンスに伸びる蔓切りや草取り、秋にはコートに積もるイチョウの落葉掃きを全員総出で行う。

 そして冬の午後からの降雪には、コートが凍り付く前に雪かきをしなければならない。いつ出動するか、その判断はシェフ秀樹の経験と勘にかかっている。

外国人居留地研究会2019全国大会

 標題の全国大会が、12月7日(土曜)に神奈川大学で、翌8日(日曜)は波止場会館で開かれた。正式名称はもうすこし長く、「第12回 外国人居留地研究会2019全国大会 第2回横浜大会」である。2008年に神戸で初めて開催された外国人居留地研究会全国大会は、後に持ち回りにより各居留地で開催して今年が第12回、そして横浜開催が2014年に次ぐ2回目となった(後述パンフレット10ページに一覧あり)。

 もともとは10月12日(土曜)と13日(日曜)の開催予定だったが、かの豪雨被害をもたらした台風19号により中止、約2か月後に繰り延べられた。横浜大会の責任者・斎藤多喜夫さんの熱意に、会場の神奈川大学と波止場会館が応えてくれたと思われる。

 横浜開港や横浜外国人居留地といえば、まず斎藤多喜夫さんである。幕末から昭和初期に掛けての横浜の歴史や文化・港湾・経済などに関する資料約25万点を所蔵する横浜開港資料館で長く仕事をつづけ、その成果を早くから編著として世に出している。『横浜居留地と異文化交流』(山川出版社 1996年)、『図説 横浜外国人居留地』(有隣堂 1998年)、『横浜もののはじめ考』(横浜開港資料館 1988年、第3版が2010年)等。

 著書としては、『幕末明治 横浜写真館物語 (歴史文化ライブラリー)』(2004年)、『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂 2012年)、『横浜もののはじめ物語』(有隣堂、2017年)、『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(明石書店、2017年)、『歴史主義とマルクス主義-歴史と神・人・自然』(明石書店 2018年)等がある。

 横浜開港資料館は昭和56(1981)年創設、初代館長が遠山茂樹さん(横浜市立大学名誉教授)であったこともあり、私も同館の研究会に早くから参加した。その1つが斎藤さんの担当した「横浜居留地研究会」で、以来、40年になろうとしている。

 また37年前に刊行された同館の『横浜開港資料館紀要』の第1号(1982年3月刊)に、私は「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」を発表する機会があった。アジア近代史専攻の私が初めて発表した日本開国史に関する論文だったので良く覚えている。

 論文名に<アヘン禁輸条項>とあるのは、拙稿「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」(『横浜市立大学論叢』1979年)、拙著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)、拙稿「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『(東京大学)東洋文化研究所紀要』第83冊、1981年)等を受けたものである。イギリス植民地インド産のアヘンが中国等に密輸されてアヘン戦争(1839~42年)を引き起こしたが、日本の開国開港にさいしてアヘン条項はどう扱われたかの疑問に答えようとした。

 次いで「黒船前後の世界」を『思想』誌(岩波書店)に1983年から1984年にかけ計8回連載、うち(四)「東アジアにおける英米の存在」、(五)「香港植民地の形成」、(六)「上海居留地の形成」において中国を中心に分析した。アヘン戦争(1839~42年)の結果の南京条約(1842年8月29日調印)が五港開港と香港植民地、<懲罰>としての巨額の賠償金を生み出す。

 一方、日本の対外令は4つの段階を踏む。1891年の寛政令(薪水供与令)、1806年の文化令(寛政令のいっそうの緩和)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)、そして1842年の天保薪水令(文化令に復す)である。天保薪水令の公布は南京条約締結の1日前であった(同上連載(七)「経験と風説」1984年5月号所収)。

 幕府は長崎に入るオランダ商船と中国商船にアヘン戦争の戦況を提出させ、イギリス海軍の戦闘力と戦況を収集・分析していた。鎖国の<祖法>により外洋船(軍艦を含む)を持たない日本が異国船無二念打払令を続ければ敗北必至。天保薪水令に切り替え、戦争回避に徹して積極的に外交を進めた。

 この連載と関連論文を合わせて、『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)を刊行、さらに1994年には、ちくま学芸文庫版『黒船前後の世界』で約2割を増補、「Ⅹ 展望―開国から開港へ」の1章を加え、また20の補注を付したが、その4つは米総領事ハリス(のち公使)に関するものである。

 近代アジア史からアヘン問題を契機に日本開国史に踏み入った私にとって、斎藤さんの横浜に関する研究から多くを教えられ、「横浜居留地研究会」ではさまざまな研究者と知り合う機会を得た。斎藤さんの粘り強い史料探求力と<百科全書派>に匹敵する膨大な事項の記憶力に舌を巻いた。

 その成果物の横浜居留地研究会編『横浜居留地と異文化交流-19世紀後半の国際都市を読む』(山川出版社 1996年)に寄せた拙稿は、「アヘン密輸ハートレー事件-1877年の横浜税関の摘発、領事裁判、日英外交交渉」である。斎藤さんの個別具体的な史実把握から影響を受けたように思う。

 その後、かながわ検定協議会(テレビ神奈川、神奈川新聞、横浜商工会議所で構成)の「かながわ検定」(「横浜ライセンス」と「神奈川ライセンス」の2本立て)が発足、その作問委員会でご一緒したが、もっぱら斎藤さんの博識に依存して12年間(2007~2017年)を完遂することができた。

 今年5月、斎藤さんから今回の全国大会の案内メールを頂いた。追いかけて届いたパンフレットは、表紙と賛同企業の広告を含め、A4×24ページの丁寧な作り。冒頭の<ごあいさつ>では、兼子良夫さん(神奈川大学長)、水野佐知香さん(横浜音楽文化協会会長)、斎藤多喜夫さん(横浜外国人居留地研究会会長)の3氏が、2019全国大会の意義を語る。

 初日は午前に公開研究会「租界と居留地」、午後にヨコハマ・ワーグナー祭スペシャルコンサートがあり、2日目が会場を波止場会館に移して午前にシンポジウム「居留地の音楽・美術・文学」、午後にドーリング商会のオルガン演奏が予定されていた。全部に出たかったが、日程の変更にともない、12月7日(土曜)午前の「租界と居留地」にだけ参加できた。

 「租界と居留地」について、パンフレットに3氏の発表主旨が各1ページを割いて載せている。鶴田啓(東京大学史料編纂所教授)「前近代日本の<居留地>」、大里浩秋(神奈川大学名誉教授)「中国に置かれた租界について」、斎藤多喜夫「日本の開港場・開市場と居留地・雑居地」。

 会場ではパンフレットの補足としてめ、さらにA4×24ページの冊子「租界と居留地」が配られた。報告の詳細な補足と放映する図像・表等が掲載されている。パンフレットの原稿執筆が5月ころで、その補遺であると説明があったが、貴重な資料集である。

 鶴田啓「前近代日本の<居留地>」の概要は次の通り。古代には外国使節を滞在させた筑紫の<鴻臚館>、664年に設置された大宰府、さらに<難波館>があった。ついで中世の博多には唐人商人が居住していたが国家が制度として設定したものではない。近世になると家康は自由に貿易を認めていたが、1635年、中国商船の来航地を長崎に限定し、翌年、ポルトガル人を収容する埋立地(出島)を有力町人の出資で完成させる。ポルトガル人追放後はオランダ人用とした。また1689年、唐人屋敷を作った。

 斎藤多喜夫「日本の開港場・開市場と居留地・雑居地」の概要は次の通り。居留地の起源は「遠隔地貿易のためにやってくる異邦人を隔離し、混乱を避けるために現地社会とは別に管理した。…日本側の意識としては近代日本の居留地は中国の租界を移植したものではなく、長崎出島の制限を緩和したもの」であり、五港開港・2開市は同時ではなく段階的に進められたため、一律の内容ではない。そして各港市の居留地と雑居地(借家と借地の別)の有無については一覧表で示す。

 大里浩秋「中国に置かれた租界について」の概要は次の通り。「1840年代から1930年代にかけて日本を含む諸国が中国に置いた空間的利権として、租界・租借地・鉄道附属地などがあり、…うち租界はとは主権は中国に属しながらも、その中国側の行政権が行使されずに、他国政府に長期間貸与された地域」である。1842年の南京条約で五港開港、2年後にアメリカとフランスが条約を結び同等の権益を確保、ついで天津条約(1858年)、北京条約(1860年)、下関条約(1895年)と拡がることについて、また後の租借地と鉄道附属地について触れる。

 3つの報告はきわめて広い時代と内容をカバーしている。日本古代の<居留地>から、安政五カ国条約(1858年~)以降の開港五港(函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)と2開市場(東京の築地と大坂の川口)を中心とする日本各地の展開、そして中国の租界についてはアヘン戦争(1839~42年)に伴う南京条約(1842年)の五港開港から約90年に及ぶ租界・租借地・鉄道附属地の展開を網羅している。

 3氏の報告を受けて、孫安石さん(神奈川大学非文字資料研究センター研究員)と菊池敏夫さん(同研究員)によるコメントと質問があった。お二方の研究課題に基づく見解と質問が示され、充実した時間を味わうことができた。

 その一方で、それぞれに深く究明する熱意は伝わってくるものの、わずか一人の持ち時間が30分、コメントと質疑応答を含めて計2時間半の公開研究会で全体を貫くテーマが何か、なかなか把握しきれない。私はせっかくの貴重な資料を頂いて、それらをどう生かすべきか迷っている、と敢えて質問した。

 「租界と居留地」の後には、新井力夫さん(横浜音楽文化協会顧問、フルーティスト)の「ヨコハマ・ワーグナー祭スペシャルコンサートについて」と演奏プログラム(計3ページ)、神木哲男さん(外国人居留地研究会全国会議議長)の「外国人居留地研究会全国大会in横浜開催に寄せて」(ここに過去の全国大会の一覧がある)がつづく。

 2日目の「居留地の音楽・美術・文学」には計7本の論考。発表者名とタイトルだけを以下に一覧する。
(1)山田耕太(敬和学園大学学長)さんの「新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後」
(2) 角田拓朗(神奈川県立歴史博物館主任学芸員)さんの「横浜居留地と近代日本美術-ワーグマン、五姓田派、横浜絵…」
(3) 中村三佳(神戸外国人居留地研究会会員)さんの「居留地の文学-「INAKA」について」
(4) ブライアン・バークガフニ(長崎総合科学大学教授、代読:松田恵/姫野順一)さんの「長崎居留地と西洋音楽の普及」
(5) 佐々木茂(北海道教育大学名誉教授)さんの「洋楽受容の先進地函館-ハリストス正教会の日本語聖歌-」
(6) 玉置栄二(桃山学院史料室室員)さんの「大阪の洋楽受容と川口居留地:ジョージ・オルチンを中心に」
(7) 中島耕二(フェリス女学院資料室研究員)さんの「築地居留地と近代
音楽-讃美歌との出会い-」

 ついで斎藤さんの「横浜居留地豆知識」(3ページ分)があり、具体的で分かりやすく、ともすると混同しかねない事象・事実を明快に解き明かしている。「神奈川か?横浜か?」、「開港場とは?居留地とは?」、「開港場横浜の範囲は?」、「関内とは?」、「横浜居留地の範囲は?」、「治外法権とは?」、「居留地に日本人は住めたか?」の7点。

 締めくくりが「開港期の音がよみがえる」(ウィンダム/鈴木史子)である。横浜外国人居留地の楽器商人ドーリング商会が輸入した貴重なリードオルガンを、まわりまわって山本博士さん(眞葛焼きの研究・蒐集家)が入手、修理を施した。このオルガンで、中村英子さんがバッハの瞑想曲や讃美歌、唱歌等を演奏する。

 斎藤多喜夫さんは「12回を重ねるなかで、…研究の<深まり>と<広がり>があった」と記す。<深まり>とは「居留地の起源や実態を世界史的な視野で研究すること」であり、<広がり>とは「居留地をさまざまな側面から研究すること、…今回は<居留地の音楽・美術・音楽>というシンポジウムでこの課題に応えるつもり」と意気込みを示す。

 さらなる情報を得たい方は、横浜外国人居留地研究会ホームページにアクセスされたい。yokohama-fs.jimbo.com

 2019全国大会を終えたいま、12年の歩みを通じて、「外国人居留地研究」の<深まり>と<広がり>は、見事に目標の8割を達成したのではないかと、私は感じている。

横須賀開国史研究会の20年

 11月30日(土曜)、横須賀藝術劇場ベイサイド・ポケットにおいて、横須賀開国史研究会の創立20周年記念シンポジウムが開かれた。横須賀開国史研究会(以下、<開国史研>)とは、その会則第3条に「三浦半島と関わりのある開国及び日本近代化の歴史(以下「開国史」という)に光をあてるため、その掘りおこしと研究を行う」と謳う。事務局を横須賀市文化スポーツ観光部文化振興課に置く(第2条)。

 上記の目的を達成する事業として、会則第4条には、(1)開国史にまつわる資料及び情報の収集、(2)講演会、シンポジウム、史跡めぐり、市民交流会などの開催、(3)開国史にまつわる人物の顕彰、(4)機関誌の発行、(5)市内外諸関係団体との連携、(6)会員の研究に資する情報の交換、(7)文献の紹介、(8)その他必要な事項、の8項目が記されている。
 
 <開国史研>は歴史研究の学術団体であると同時に、地域文化振興の市民団体の性格も併せ持つ。その性格を存分に示すのが(2)講演会、シンポジウム、史跡めぐり、市民交流会などの開催で、それを広く伝える媒体が(4)機関誌『開国史研究』(年報、A5版2段組)の発行である。2019年からは、会報紙「よこすか開国史かわら版」の発行も始めた。

 <開国史研>は400名超の会員で発足(一般会員の年会費は1000円)。会則第6条には、会員の互選により幹事(若干名)と監事を選出し、幹事の互選により会長、副会長(2名以内)、事務局長、会計を決め、役員の任期は2年とし、再任を妨げない。

 また総会は会員をもって構成し、研究会の最高機関として会の意思と方針を決定する。年1回開催、必要に応じて臨時総会も可。議決は出席者の過半数の同意による(第9条 総会)、とある。会則は機関誌の毎号に掲げられている。

 <開国史研>は2000(平成12)年に設立総会を開き、以来、着実に歩みつづけて20年を迎えた。壮大なビジョンを描いて手堅い計画を立て、やり遂げてきたのが、会長の山本詔一さん、事務局長の小倉隆代さんたち幹事とそれを支える会員である。

 山本さんたちと初めてお会いしたのは1997年の秋、場所は横浜の関内ホール、宮崎壽子監訳『ペリー艦隊日本遠征記』(全4巻、1997年、栄光教育文化研究所)の刊行を祝う会合である。私も解説を書いた関係から話をした。

 終了後に名刺交換。「…横須賀で開国史の研究をしており、近く研究団体を立ち上げたい」と言われ、浦賀奉行所の地元だから面白くなるに違いないと直感したが、翌1998年度から横浜市大学長に就任、多忙のうちに忘れかけていた。

 学長室に来られたのは2年後の1999年であったか、「いよいよ横須賀開国史研究会を立ち上げるので、創立記念総会で記念講演をお願いしたい…」、山本さんの人なつっこい笑顔の内に、後には引かない熱さがあった。

 これが20年前、創立記念総会で「ペリー来航とその時代」と題する講演を引き受けることになった経緯である。創立20年と一言でいうが、簡単に達成できるものではない。ここまで道のりを示す「横須賀開国史研究会20年のあゆみ」が小倉事務局長から送られてきた。5月総会の記念講演と秋の講演会・シンポジウムの、過去19年分を一覧したものである。これがなによりも雄弁に実績を語る。

    ◎総会記念講演  ○秋の講演会・シンポジウム  ※その他
2000年◎加藤祐三氏(横浜市立大学長)「ペリー来航とその時代」
    ○「小栗上野介」パネリスト:沢田秀男氏・西堀昭氏・小寺弘之氏・
             エリザベット・ドゥ・トゥーシェ氏・山本詔一氏
    ※写真展「小栗上野介と横須賀製鉄所」(ショッパーズプラザ横須賀にて)
2001年◎安達裕之氏(東京大学教授)「幕末の海防政策と軍艦製造」
    ※古文書を読む会を開講      
2002年◎西川武臣氏(横浜開港資料館調査研究員)「東京湾内の台場建築と地域住民」
○1部:「黒船来航と音楽」ピアノ鈴木初音氏
     2部:岩下哲典氏(明海大学助教授)「ペリー来航、その予兆と現実」
2003年◎春名徹氏(作家) 「モリソン号事件とマンハッタン号事件」
    ○佐々木譲氏(作家)「中島三郎助」
2004年◎笠原潔氏(放送大学助教授)「黒船来航時に演奏された音楽」
    ○1部:「横須賀はじめて物語」 ピアノ鈴木初音氏
      2部:鈴木淳氏(東京大学教授)「技術者小野正作の自伝にみる明治初期の横須賀造船所」
2005年◎徳川恒孝氏(徳川記念財団理事長・徳川家十八代当主)「江戸二百六十年の天下泰平と開国」
    ○「ペリー来航と黒船かわら版」パネリスト:西澤美穂子氏・田中葉子氏・富澤達三氏
2006年◎三谷博氏(東京大学大学院教授)「長期危機への対応」
    ○「横須賀の発展~製鉄所・その後のあゆみを通じて~」 パネリスト:久保木実氏・富澤喜美枝氏・中里行雄氏
2007年◎青木美智男氏(元専修大学教授)「幕末外国人が見た庶民教育について~ペリー、シュリーマン、オールコックらの訪日日記から~」
    ○「幕末ペリー事情~太平の眠りを覚ます上喜撰~の歌はいつ詠まれたのか」
      パネリスト:加藤祐三氏・岩下哲典氏・田中葉子氏
2008年◎嶋村元宏氏(神奈川県立歴史博物館主任学芸員)「アジアの中の日本開国」
    ○「開国の歴史とうた」
    1部:「唱歌で綴る近代日本の歩み」 歌コール・グランド・マジ
    2部:「~太平の眠りを覚ます上喜撰~の歌はいつ詠まれたのか」続編
      パネリスト:岩下哲典氏・田中葉子氏・山本詔一氏
2009年◎荒野泰典氏(立教大学教授)
「『開国』とは何だったのか~いわゆる『鎖国』との関連で考える~」
   ○開国史研究会設立10周年記念シンポジウムー「明治時代の横須賀を語る~NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』放映にあわせて」
   パネリスト:藤澤浩一氏・平間洋一氏・保坂宗子氏・保坂義雄氏・山本詔一氏
    ※会報紙「よこすか開国史かわら版」の発行 
2010年◎植松三十里氏(作家)「知られざる幕府海軍総裁 矢田堀景蔵」
    ○「幕末・明治の沿岸防備の歴史~台場・砲台の機能と変遷」
      パネリスト:淺川道夫氏・鈴木淳氏・原剛氏・保谷徹氏
2011年◎吉田ゆり子氏(東京外国語大学教授)「湊町浦賀と人びとのくらし」
    ○齋藤純氏(当研究会特別研究員)
「『黒船』を見た人びと─ペリー艦隊浦賀来航を目撃した記録からわかってきたこと─」
2012年◎井上勝生氏(北海道大学名誉教授)「日本開国史を見なおすために―江戸湾を舞台に―」
   ○1部:山本詔一氏(当研究会会長)「ぺるり物語」
     2部:対談 山本詔一氏・齋藤純氏      
2013年◎田中葉子氏(東京都北区教育委員会文化財専門委員)「かわら版のなかのペルリたち」
    ○1部:野口信一氏「山国会津の侍、日本の海を守る―幕末会津藩海防史―」
     2部:対談 野口信一氏・山本詔一氏     
    ※ペリー来航160周年記念「ペリー艦隊の航路をめぐるクルーズ」
2014年◎高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
「幕臣小栗上野介忠順の幕政改革構造と横須賀製鉄所」
    ○1部:岡野雅江氏(富岡製糸場総合研究センター学芸員)
「冨岡製糸場の設立に関わる横須賀製鉄所との関連性について」              
     2部:対談 岡野雅江氏・山本詔一氏       
2015年◎鈴木淳氏(東京大学教授)
「横須賀製鉄所再考―地方出身の就業に注目して―」
    ○横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念
     1部:村上泰賢氏(東善寺住職) 「幕府の運命、日本の運命―小栗上野介の日本改革と横須賀製鉄所―」    
     2部:対談 村上泰賢氏・山本詔一氏           
2016年◎植松三十里氏(作家) 「横須賀製鉄所の妹・富岡製糸場」
○「ペリー来航とその後の浦賀町」
      パネリスト:西川武臣氏・田中葉子氏・齋藤純氏・山本詔一氏
2017年◎山本一力氏(作家) 「生き方雑記帖―ジョン万次郎調査行―」
    ○1部:岩下哲典氏「黒船来航絵巻『金海奇観』とその時代~仙台藩儒者・砲術家大槻磐渓とペリー再来日」
     2部:対談 岩下哲典氏・山本詔一氏
2018年◎後藤敦史氏(京都橘大学准教授)「ペリーとハリスのあいだ~世界史のなかの日本開国~」
   ○1部:村上泰賢氏「小栗上野介と横須賀造船所」
   2部:シンポジウム パネリスト:村上泰賢氏・齋藤隆氏・山本詔一氏
   3部:海上自衛隊横須賀音楽隊演奏
2019年◎齋藤純氏「浦賀奉行所の明治維新―奉行・与力・同心たちのその後―」
 
 山本さんは企画から講演者の人選、交渉にいたる下準備にとどまらず、自ら対談やパネリストとして、ほぼ欠かさず参加している。

 ほかに「開国史基礎講座」、「開国史研究講座」、「開国史に関する古文書を読む会」(数回の連続もの)を開講。講師は主に山本さんと斎藤純さん。さらに四季ごとの<史跡巡り>で実際に現場を歩く。

 その成果の一つに、浦賀奉行所300年を記念して山本さんが連載中の「浦賀往来新聞」(神奈川新聞横須賀支社企画・制作、月刊)がある。最新号(2019年10月24日)は43代奉行・伊沢正義。いよいよ日米和親条約の調印である。

 たゆまぬ努力が、<開国史研>をここまで揺るぎない存在にしてきた。但し、これだけでは人はついてこない。「…一度会ったら友達だぁ」の山本さんの明るさや、多様な人を受け入れる器の大きさは見逃せない。
 
 山本さんは昭和24(1949)年、浦賀に生まれ育ち、専修大学で日本史を学び、浦賀で家業の書店を経営している。<開国史研>が歴史研究の学術団体であると同時に地域文化振興の市民団体の性格も併せ持つ、と述べたが、私が理想とする「セカイミスエ モチバデウゴカム」(世界を見据え 持ち場で動かむ)を地で行っている。

機関誌『開国史研究』各号の巻頭言にあたる「〇〇号の発刊にあたり」(見開き2ページ)に山本さんの真髄を垣間見ることができる。論文掲載の経緯と内容紹介が見事である。最新号は第19号で2019年3月刊。すでに全国の主要大学図書館にも入り、高い評価を得ている。

20年の歩みをなぞりながらの基調講演とシンポジウムの詳細は、来年1月発行予定の会報紙「よこすか開国史かわら版」(季刊)と機関誌『開国史研究』第20号(来年春予定)に掲載されるはずである。

第1部 基調講演「近世日本の国際関係と現代~<鎖国>と呼ばれた時代が私たちに問い掛けるもの~」 講師 荒野泰典さん(立教大学名誉教授)
 配布レジメには、Ⅰ.はじめに Ⅱ.前回のおさらい Ⅲ.<開国とは何だったのか-実態と言説との間、Ⅳ.終わりに、からなる。「Ⅱ.前回のおさらいと」とは2009年の同名の講演を指す。機関誌10号を参照。

第2部 シンポジウム「20年を振り返る」は、パネリストとして私、平尾信子さん(海事史学会理事)、斎藤純さん(元専修大学講師)の3人が年齢順に並び、山本さんの司会進行で進む。

 私は今にいたる20年の私自身を振り返り、<日米和親条約双六>(年表、地図、表等8点を拙著『幕末外交と開国』から抜粋したパワーポイント版A3×両面)を作って話した。双六の<振り出し>は1853年7月8日の、浦賀奉行所とペリー艦隊の最初の接触とし、奉行所が果たした役割へと進み、<上がり>を4か国語から成る条約文とした。

 平尾信子さんは、著書『黒船前夜の出会い-捕鯨船長クーパーの来航』(1994年、NHKブックス)を書くにあたり、NY駐在中に集めたアメリカ側史料だけではなく、日本側の史料とも照合させたいと、帰国後に渡辺正美『異国船来と三浦半島』を経由して、山本さん、小倉さんたちと知り合った経緯を述べる。

 また機関誌2号、4号、8号にアメリカ側史料の翻訳と解説を掲載し、2013年、『ペリー日本遠征命令公式複写集』として刊行。そして<史跡巡り>で会津、新見、松坂等から得た数々の経験を通して「…<開国史研>が私を育ててくれた」と結んだ。

 齊藤純さんは、山本会長が信頼する専修大学の2年先輩で、古文書講座を引き受けて15年になる。上掲の総会記念講演と秋の講演会・シンポジウムのほか、「開国史基礎講座」、「開国史研究講座」、「開国史に関する古文書を読む会」(それぞれ数回の連続もの)等の活動を重ねているが、「古文書を読む会」は齋藤さんの独擅場である。

 既存の古文書集があるわけではない。各地各所にある古文書を丹念に探し求めて解読する。その作業を通じて大きな発見があった。その代表例が有名な狂歌「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」(上喜撰は煎茶の銘柄で蒸気船と音通、4隻のペリー艦隊とかけている)、これが明治時代になって作られたものか、あるいはペリー来航時に詠まれたものかの<論争>である。齋藤さんがペリー来航時の史料を発見し、決着をつけた。この論文を掲載した10号は200部を増刷したという。

 中身の濃い20年であった。この確かな探求の勢いを、まずは10年先まで維持してほしい。勝手に応援団長を自任する私の願いである。

木原均博士の魅力

  横浜市の最高顕彰である横浜文化賞の第68回(令和元年=2019年度)の受賞者6名と若手の奨励賞2名の贈呈式が、11月22日(金曜)、みなとみらい小ホールで行われた。林文子市長の心のこもった挨拶があり、受賞者たちがめいめい応える。つづいて前回の奨励賞を受賞したヴァイオリン大関万結さん、ピアノ入江一雄さんによる記念コンサートが開かれた。

  横浜文化賞は芸術・学術・文化・まちづくり等の部門からなり、その<社会貢献>の部の受賞者が木原ゆり子さん(横浜市立大学木原生物学研究所木原記念室名誉室長)である。受賞理由は次の通り。

  横浜における生命科学振興の推進者
ゲノムの概念を確立した遺伝学者・植物学者である父・木原均(ひとし)博士の研究理念を受け継ぎ、(財)木原生物学研究所入所(1978年)、その横浜市立大学移管後は木原記念横浜生命科学振興財団に勤務、以来、一貫して横浜における生命科学の振興に貢献。
 未来の科学者の芽を育むことを目的に、生きものの観察、調査、実験などの活動を奨励する木原記念こども科学賞の審査員を務め、横浜の子どもたちに対する生命科学の知識普及啓発に尽力。
2010年より木原記念室名誉室長として生命科学を学ぶ学生や市民に対する展示や講演会等の企画に従事。木原博士の研究姿勢や業績を伝え続けている。

 上記からキーワードを一つだけ挙げよと言われれば、末尾にある<研究姿勢>を挙げたい。換言すれば研究を支える情熱、着想を支える行動原理。

 木原博士は1893(明治26)年10月21日、東京の芝白金に生まれ、麻布中学から北海道大学予科(当時は東北帝国大学農科大学、以下、北大)へ進み、1920(大正9)年から京都大学(以下、京大)で長く研究教育に当たった。

 1984(昭和59)年、木原生物学研究所(以下、木原生研)が横浜市立大学(以下、市大)に移管される時、市大側の一人として40代後半の若造の私が、90歳を越える博士にお目にかかる機会を得た。まさに中国古典に言う「謦咳(けいがい)に接する」驚きと喜びである。打合せの場はご自宅、そして三女のゆり子さんの手料理をいただいた。

 それから30年。木原生研教授でテニス仲間の坂智広(ばん ともひろ)さん主催のシンポジウムで、ゆり子さんと再会する(本ブログ2015年12月23日掲載「コムギの里帰り」)。

 このシンポジウムは、「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッション」である。

 JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後の復興途上にあるアフガニスタンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を目的とする、5年間の共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考える市民フォーラムである。

 そこで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映があった。この映画を私は19歳のとき、池袋の映画館で観て強烈な印象を受けた。

 外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい1955年、京大が戦後初の総合的学術調査隊(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)を編成、タルホコムギ(パンコムギの祖先種)を発見し、その発祥起原地を確認した。

 その総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。

 砂漠の中のオアシス、バザール、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、そのコムギで作られるナンやチャパティ、羊肉料理、豊富な果物、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は若者たちに大きな夢を与えた。

 木原博士が植物遺伝学の研究、とりわけコムギ研究に入るきっかけは、ふとした偶然からだという。北大予科に進学してまもなく、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」に強い感銘を受ける。数年後、坂村さんが海外へ留学、後を託されたのが大学院生になっていた木原青年であった。

 北大にはクラーク博士以来の伝統である貴重な素材、コムギ・オオムギ・ライムギ・カラスムギ等が集積していた。染色体数の異なる種と種の雑種を作り、その子孫の染色体の変化を調べる。その研究の最初の成果が<五倍小麦雑種>の創出である。

 1920(大正9)年、北大の恩師・郡場寛(こおりば かん)博士が京大に新設された理学部植物学教室教授に異動すると、木原博士も京大の助手(現在の助教)に就く。1924年に助教授(准教授)、1927~56年教授。コムギ研究の世界的権威となり、ゲノムという概念を提唱。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(1946年)という名言を残した。また高等植物(スイバ)の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。

 1942年に(財)木原生物学研究所(京都)を設立、戦後の1956(昭和31)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、財団設立40周年を機に市大への移管が決まり、1984(昭和59)年、植物系部門を中心とした市大の附置研究所となった。それから35年になる。

 市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(1982~1990年在任)の下で草薙昭雄さん(生物学、ボクシングの四回戦ボーイ)が主導、彼の急逝後は小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一市長(第17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めた。私も文科系の一人として参加した。

 博士が偉大な植物遺伝学者であるとともに、戦後初の総合的学術調査の総隊長を務めたという、もう一つの顔に私は魅きつけられた。それは私が東洋史学を専攻する背景となり、大学院生時代の、世界35カ国をまわる「広島・アウシュビッツ平和行進」につながった(『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年、梶村慎吾と共著)を参照)。

 さらに拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年)にもつながる。欧米志向の強い時代に、アジアに関心を抱いた契機の一つが上掲の記録映画である。旅を通じてアジアの現場を肌で知り、そこで得たアイディアを基に史料を漁り、関連の研究から刺激を受けつつ次の展開を図ろうと試みた。

 博士の研究の発展過程を広く伝えようとするのが、木原ゆり子著「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」の<抜粋特集号>2015所収)である(以下、<小伝>)。この題名は同ニュースから抜粋特別号を作成した編集部が付したもの。ネット検索も可能である。

 <小伝>の記述は副題とは逆に<スポーツマンの顔>、<探検家の顔>、<研究者の顔>の順に、①北大時代、②スポーツマンの顔、③探検家の顔、④研究者の顔-その1、⑤研究者の顔-その2、⑥研究者の顔-その3、あとがき、とつづく。おかげで幼少期から世界の科学者へと歩む過程がよく分かる。

 <小伝>に付されたゆり子さんの略歴は、「立教大学文学部英米文学科卒、早稲田大学語学教育研究所、(財)木原生物学研究所、木原記念横浜生命科学振興財団勤務の傍ら、自然・いのち・食・環境をテーマに研究会や講座を主宰、また野生オオカミの生息地を訪ねて世界各地を旅する。現在(2015年)は横浜市立大学木原生物学研究所<木原記念室>名誉室長」。

 この<小伝>には、私が記録映画「カラコルム」で得た感動の背景をなす、木原博士の魅力がさまざまに描かれている。今回受賞されたのを機に再読した。いくつか引用したい。

 【引用1】「学生時代には学業半分・スポーツ半分の生活だったと本人は述懐しているが、スポーツは半分どころではなかったようである。夏は野球、冬はスキーに明け暮れながらも、ライフワークとなるコムギの遺伝学に出会えたのは幸運であった。」

 【引用2】「北大在学中に学び身につけたのは、植物を収集して標本を作ること、植物の名前を覚えること、労を惜しまずコツコツと努力すること、日々の観察を怠らず<自然>から学ぶこと、フィールドワークの重視、徹底的な実践・実証主義、非権威主義、チャレンジ精神等々…。いずれも北大の学風として今も脈々と受け継がれているものばかりである。」

 【引用3】北大野球部ではエース投手で三番、その運動部で得たものとは、「仲間との協調の精神と苦境にある時にも奮い立つ勇気、そして生涯変わらない友情こそ最大の収穫だったと誇らしげに語っている。…」

 博士の最初の著作作は『最新スキー術』(遠藤吉三郎との共著、1919年、博文館)で、木原記念室に展示されている。競技スキーにとどまらず、北海道の郵便配達員をはじめ全国の雪国生活者に向けたスキー指南書でもある。

 また全日本スキー連盟の技術委員長を8年、連盟副会長を6年、会長を10年間つとめ、その間の第8回冬季オリンピック(1960年、アメリカのスコーバレー)と第9回冬季オリンピック(1964年、オーストリアのインスブルック)の選手団長をつとめた。もはやサイドワークの域を越えている。科学的スポーツを提唱し、<根性論>と<メダル獲得競争>が支配するオリンピックへの警鐘を鳴らした。

 郡場博士が京大旅行部(学生の団体)の部長に就くと木原博士も旅行部に関わる。そこにヒマラヤ登山史と熱帯・極地史に名を残す錚々たる面々、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫たちが集まり、世間では京都大学を<探検大学>と呼ぶようになる。

 1931(昭和6)年、旅行部の先輩と現役がヒマラヤ遠征の母体として京大学士山岳会を結成すると、木原博士は翌年、会長兼旅行部部長となる。人を得て、さらに人を呼び、5次にわたる探検を成し遂げた。

 すなわち、第①次1938年の内蒙古~動植物の生物学調査、第②次1955年のカラコルム・ヒンズークシ~コムギの祖先を尋ねて、第③次1966年のシッキム・アッサム~イネの起原を探る~、第④次1966年のコーカサス~コムギの起原を求めて~、第⑤次1973年の南北スリナム~カワゴケソウに惹かれて。

 1976(昭和51)年、北大創基100周年記念事業の一つ、国際学術講演会で、83歳の博士が「生命科学の現代的使命」と題する講演を行った。

 【引用4】「長年、遺伝学の基礎研究に従事してきたが、研究成果が応用面にまで発展することが重要だと常々考えていたので、1978(昭和53)年から再び北海道に拠点を置いて、北大、帯広畜産大学…等の協力でコムギの共同研究プロジェクトを立ち上げ、核と細胞質の間のヘテローシス(雑種強勢)が作物の品種改良に役立つかどうかの研究を始めています。……地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいること、人間は他の生物なしに生きることができないと述べ、医師が人類の病気を予防したり治療したりするように、生命科学(者)は地球の医師となって働いてほしいものです」。

 研究意欲はとどまることを知らず、90歳を過ぎてもチベット調査に情熱を燃やした。「近代品種がチベットに流入する前に調査したい。…ムギ類だけでなくイネについても調査が必要である。予備調査だけでも進めたい。奥地までは行けなくても、せめてラサまで出かけて、隊員からの吉報を待ちたい」。これにゆり子さんは、「父は過去を振り返らない人だった。今したいこと、これからしたいことだけが日々の関心事だった」と記す。

 <小伝>のあとがきで、「…家庭人としての父親については知っていても、…公人としての父親について知る機会が少なく、…身内が書くことの難しさが加わって立ち往生することもしばしばであった」と述懐している。

 このたび『一粒舎主人写真譜』(1985年、(財)木原生物学研究所)と、ゆり子さんが編集・監修した『木原均博士が見ていた世界‐「小さい実験」を中心に』(木原生物学研究所木原記念室 2016年)もいただいた。

 前者は、公私にわたる博士の生涯を写真で追う貴重な作品で、次女の田中ゑみ子さんと三女ゆり子さんが編纂したもの。ふだん日記をつけない博士が学会等で海外に出かけたときは備忘録をつけていた。40冊を越えるそれを「学術旅日記」として編集する過程で、写真そのものが語る豊富な世界をそのまま年譜として編むことに考えが変わった、と<はじめに>で書いている。

 後者は木原博士の研究所跡地にできた横浜市こども植物園で開催された展示を基に制作、ルーペとノートと鉛筆があればできる「小さい実験」を綴る。小麦の芽生えの観察をはじめ、身近な動植物の<左巻き>と<右巻き>の観察、雌雄の見分け方等々を伝える絵入りの冊子。<動植物の名前を覚えよう!>、<違うことってすばらしい!>、<驚きをカラダでたしかめよう!>、<木原均博士の足跡をたどる>(年譜)、<木原生物学研究所(京都)で掲示されていた「研究者・作業者の心得」>等の記述が含まれる。

 子どもたちに向け、身近にある多様な動植物に触れて欲しいと願う、ゆり子さんの想いが伝わってくる。これぞ木原博士の<研究姿勢>を彼女らしい形で、たゆまず推し進めている証左ではないか。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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