原三溪市民研究会の10年
美しい紅葉の残る12月14日(土曜)、三溪園の鶴翔閣の楽室棟で、「原三溪市民研究会創立10周年記念 第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」が開かれた。
原三溪市民研究会(以下、市民研)のシンポジウムについては、これまで本ブログでも3回にわたり取りあげてきた。( )内は掲載年月日。
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年11月20日)
第5回「原三溪の生き方を考える」(2018年11月10日)
そして今回の第6回シンポジウムである。
その標題から読みとれるように、第3、4回は<まちづくり>、第5回からは<三溪の生き方>、その延長上に横浜美術館アートギャラリーの展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」(8月3日~9月1日)があった(本ブログ2019年9月9日掲載 展示「もっと知ろう! 原三溪」参照)。
それから3か月、展示「もっと知ろう! 原三溪」のさらなる普及活動として、ほぼ同じ内容の展示パネルを三溪記念館の第3展示室で12月17日から開催している(3月11日まで)。このような一連の流れのなかで、今回の「第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」を位置づけたい。
原三溪没後80年「原三溪のたたずまい」をめぐる座談会は、内田弘保理事長の市民研を紹介する挨拶、ついで尾関孝彦副会長の総合司会のもと、コーディネーターの内海孝さん(東京外国語大学名誉教授、顧問)が三溪に近かった方々の子孫5氏のパネリストから、三溪の<たたずまい>と人としての生き方(主にその内面)を聴き出そうとする試みである。
五十音順に、(1)朝比奈恵温(あさひな えおん)さん(朝比奈宗源の孫、鎌倉浄智寺住職)、(2)久保泰朗(くぼ やすろう)さん(もと原合名会社社員、93歳)(3)佐藤善一(さとう よしかず)さん(神奈川学園創立者・佐藤善治郎のひ孫、朝日新聞宇都宮総局次長)、(4)根岸五百子(ねぎし いおこ)さん(原合名会社で原社長の私設秘書、のち製糸部勤務の鈴木政次の長女)、(5)野村弘光(のむら ひろみつ)さん(野村洋三の孫、原地所常務取締役)。
いつもながら丁寧に作られた「関係年表」(三溪を縦軸に5氏の祖先たちの動きを含む)付のレジメ(A4×8ページ)の最後(裏表紙)には三溪作の画<鵜>(1925年、57歳)と画賛の漢詩(七言絶句、1917年、49歳の作)とその現代語訳を載せている。再掲したい。
いつのまにか鬢の髪が白くなり 老いとともに俗世に染まってしまい 情けない これまでの四十九年は夢のようで 自分の思いとは裏腹である それでも今やりかけていることがある 風が吹こうが雨が降ろうが 蓑笠を着て あとひと踏ん張りしよう
内海さんがパネリストたちから巧みに発言を引き出そうと努める。
まず(4)佐藤さんは、1914年に創立した神奈川学園創立者・善治郎(1870~1957年、教育者、『実践倫理講義』1908年等)のひ孫なので善治郎の実感がなく、新聞記者として一次資料なしで話すのは心苦しいと前置きし、学園史を読むと、釈宗演(1860~1919年、32歳で鎌倉円覚寺派管長、慶応義塾大学で学ぶ)の紹介で三溪、野村洋三と知り合い、横浜の女子教育振興のためならと三溪から支援を頂いた。それがなければ今はないと話す。
根岸さんは、鈴木政次(1908~1983年)の長女。鈴木政次は横浜市役所勤務、1923(大正12)年の関東大震災の復興で横浜市復興会に派遣され、1926年に原合名会社庶務部で社長(三溪)の私的秘書となる。長女の五百子(いおこ)さんが父から聞いた三溪の人柄を語る。なお五百子の命名は生糸の値段がやっと500円に戻したことの記念という。
野村さんは野村洋三(1870~1965年)の孫。洋三は英語の修得に岐阜から横浜に出る。23歳で釈宗演(上掲)の通訳として渡米、翌年、横浜にサムライ商会開業。1907年に来日した米人フリーア(実業家で東洋古美術蒐集家)を三溪園へ案内、三溪に引き合わせる。1927年、ホテル、ニューグランド開業(井坂孝会長)、1938年に2代目会長。弘光さんはワシントンDCにあるフリーア美術館で門外不出の美術品を鑑賞した思い出等を語る。
朝比奈さんは朝比奈宗源(1891~1979年)の孫で、鎌倉浄智寺住職。宗源は1934~1942年、横浜専門学校(現神奈川大学)で倫理学の教鞭を執る。1945年、円覚寺派管長。1951年、三溪の漢詩集『三溪集』の編集を任される。宗源の孫として、三溪について直接に語るだけの体験や記憶はごく少ないと言う。
久保さん(93歳)は、原合名の社員章を誇らしげに胸に付けて登壇、存命の最古参の一人。
同時代の関係者から可能なかぎり<三溪のたたずまい>を引き出そうと試みるが、その孫やひ孫の世代となればかなり難しい。それでも想像力を働かせて、その一端を浮かび上がらせることができた。
最後に総合司会の尾関さんが1冊の本をかざし、今日、完成したばかりです、と紹介した。
ついで隣室で、会員による第2部「市民研 10年の歩みの集い」が開かれ、私も来賓として案内された。始まる前に上記の本を開く。原三溪市民研究会編『原三溪市民研究会十周年記念誌 もっと知ろう! 原三溪』(A4版73ページ 2019年12月14日)とある(以下、『記念誌』とする)。編集委員は藤嶋峻會事務局長、速水美智子事務局次長、広報の久保いく子さん、事務局の南屋巳枝子さんと小林一彦さんの計5氏。
猿渡紀代子顧問の「発刊にあたって」は、横浜美術館の開館30周年の今年は原三溪没後80年であり、「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」記念開催に合わせ、横浜美術館アートギャラリー1でも連携事業として市民研の展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」を開催したことの意義を述べる。
『記念誌』は、展示「もっと知ろう! 原三溪」のパネルを中心とした<図録>と<資料編>からなる。本ブログ2019年9月9日掲載の展示「もっと知ろう! 原三溪」でも紹介したが、本書にはパネルそのもの、すなわちプロローグ、Ⅰ実業の人、Ⅱ愛市の人、Ⅲ文芸の人 漢詩人としての三溪、Ⅳ原三溪市民研究会10年の足跡、が収められている。
このなかにある「三溪・富太郎年譜」(5ページ)は、次の<資料編>の「原三溪市民研究会活動記録年表」(8ページ)と相まって、緻密で確実な作業の成果である。
第2部では、西郷建彦隣花苑取締役と上掲「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」を統轄した横浜美術館柏木智雄副館長が挨拶、ついで広報の久保さんがスライドを放映して、市民研10年の歩みを語った。会員との応答により、数年前からの活動を回顧し、記憶を共有・確認しようと試みる。
『記念誌』の資料編には、「原三溪市民研究会活動記録年表(2007年6月~2019年10月)」、「活動報告の抜粋」、「原三溪市民研究会会則」、「会員名簿・役員名簿」が入っている。
このうち「活動報告の抜粋」(9ページ)には、会員の笑顔の写真とともに、(1)学ぶ、(2)スタディ・ツアー、(3)伝える、(4)「もっと知ろう 原三溪」展の経緯が示され、また過去5回のシンポジウムの記録とシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」(基調講演は関東学院大学の鄧捷教授)の記録を載せている。
これがスライドによる10年の足跡とほぼ同じで、折に触れて反復することができる。本書を参照しつつ三溪記念館第3展示室のパネルを見てまわれば、いっそう理解が深まる。貴重な『記念誌』である。
第2部の締めは野村さん、閉会の辞は廣島亨会長、そのなかで数千にのぼるアンケート回答の分析結果(概要)を示してくれた。具体的には「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートで、以下の5項目から1つを選び、壁に張ったアンケート用紙に赤丸のシールを張ってもらう形式。
「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。
これは今年5月にも行い(本ブログ2019年5月8日掲載「10連休中の三溪園」)、さらに横浜美術館のアートギャラリーでの展示のさいにも行ったが、アンケートの回答から単純に結論を出すのは難しいと廣島さんは述べる。
市民研のみなさんが次の10年をどう踏み出すか、大いに期待している。
原三溪市民研究会(以下、市民研)のシンポジウムについては、これまで本ブログでも3回にわたり取りあげてきた。( )内は掲載年月日。
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年11月20日)
第5回「原三溪の生き方を考える」(2018年11月10日)
そして今回の第6回シンポジウムである。
その標題から読みとれるように、第3、4回は<まちづくり>、第5回からは<三溪の生き方>、その延長上に横浜美術館アートギャラリーの展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」(8月3日~9月1日)があった(本ブログ2019年9月9日掲載 展示「もっと知ろう! 原三溪」参照)。
それから3か月、展示「もっと知ろう! 原三溪」のさらなる普及活動として、ほぼ同じ内容の展示パネルを三溪記念館の第3展示室で12月17日から開催している(3月11日まで)。このような一連の流れのなかで、今回の「第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」を位置づけたい。
原三溪没後80年「原三溪のたたずまい」をめぐる座談会は、内田弘保理事長の市民研を紹介する挨拶、ついで尾関孝彦副会長の総合司会のもと、コーディネーターの内海孝さん(東京外国語大学名誉教授、顧問)が三溪に近かった方々の子孫5氏のパネリストから、三溪の<たたずまい>と人としての生き方(主にその内面)を聴き出そうとする試みである。
五十音順に、(1)朝比奈恵温(あさひな えおん)さん(朝比奈宗源の孫、鎌倉浄智寺住職)、(2)久保泰朗(くぼ やすろう)さん(もと原合名会社社員、93歳)(3)佐藤善一(さとう よしかず)さん(神奈川学園創立者・佐藤善治郎のひ孫、朝日新聞宇都宮総局次長)、(4)根岸五百子(ねぎし いおこ)さん(原合名会社で原社長の私設秘書、のち製糸部勤務の鈴木政次の長女)、(5)野村弘光(のむら ひろみつ)さん(野村洋三の孫、原地所常務取締役)。
いつもながら丁寧に作られた「関係年表」(三溪を縦軸に5氏の祖先たちの動きを含む)付のレジメ(A4×8ページ)の最後(裏表紙)には三溪作の画<鵜>(1925年、57歳)と画賛の漢詩(七言絶句、1917年、49歳の作)とその現代語訳を載せている。再掲したい。
いつのまにか鬢の髪が白くなり 老いとともに俗世に染まってしまい 情けない これまでの四十九年は夢のようで 自分の思いとは裏腹である それでも今やりかけていることがある 風が吹こうが雨が降ろうが 蓑笠を着て あとひと踏ん張りしよう
内海さんがパネリストたちから巧みに発言を引き出そうと努める。
まず(4)佐藤さんは、1914年に創立した神奈川学園創立者・善治郎(1870~1957年、教育者、『実践倫理講義』1908年等)のひ孫なので善治郎の実感がなく、新聞記者として一次資料なしで話すのは心苦しいと前置きし、学園史を読むと、釈宗演(1860~1919年、32歳で鎌倉円覚寺派管長、慶応義塾大学で学ぶ)の紹介で三溪、野村洋三と知り合い、横浜の女子教育振興のためならと三溪から支援を頂いた。それがなければ今はないと話す。
根岸さんは、鈴木政次(1908~1983年)の長女。鈴木政次は横浜市役所勤務、1923(大正12)年の関東大震災の復興で横浜市復興会に派遣され、1926年に原合名会社庶務部で社長(三溪)の私的秘書となる。長女の五百子(いおこ)さんが父から聞いた三溪の人柄を語る。なお五百子の命名は生糸の値段がやっと500円に戻したことの記念という。
野村さんは野村洋三(1870~1965年)の孫。洋三は英語の修得に岐阜から横浜に出る。23歳で釈宗演(上掲)の通訳として渡米、翌年、横浜にサムライ商会開業。1907年に来日した米人フリーア(実業家で東洋古美術蒐集家)を三溪園へ案内、三溪に引き合わせる。1927年、ホテル、ニューグランド開業(井坂孝会長)、1938年に2代目会長。弘光さんはワシントンDCにあるフリーア美術館で門外不出の美術品を鑑賞した思い出等を語る。
朝比奈さんは朝比奈宗源(1891~1979年)の孫で、鎌倉浄智寺住職。宗源は1934~1942年、横浜専門学校(現神奈川大学)で倫理学の教鞭を執る。1945年、円覚寺派管長。1951年、三溪の漢詩集『三溪集』の編集を任される。宗源の孫として、三溪について直接に語るだけの体験や記憶はごく少ないと言う。
久保さん(93歳)は、原合名の社員章を誇らしげに胸に付けて登壇、存命の最古参の一人。
同時代の関係者から可能なかぎり<三溪のたたずまい>を引き出そうと試みるが、その孫やひ孫の世代となればかなり難しい。それでも想像力を働かせて、その一端を浮かび上がらせることができた。
最後に総合司会の尾関さんが1冊の本をかざし、今日、完成したばかりです、と紹介した。
ついで隣室で、会員による第2部「市民研 10年の歩みの集い」が開かれ、私も来賓として案内された。始まる前に上記の本を開く。原三溪市民研究会編『原三溪市民研究会十周年記念誌 もっと知ろう! 原三溪』(A4版73ページ 2019年12月14日)とある(以下、『記念誌』とする)。編集委員は藤嶋峻會事務局長、速水美智子事務局次長、広報の久保いく子さん、事務局の南屋巳枝子さんと小林一彦さんの計5氏。
猿渡紀代子顧問の「発刊にあたって」は、横浜美術館の開館30周年の今年は原三溪没後80年であり、「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」記念開催に合わせ、横浜美術館アートギャラリー1でも連携事業として市民研の展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」を開催したことの意義を述べる。
『記念誌』は、展示「もっと知ろう! 原三溪」のパネルを中心とした<図録>と<資料編>からなる。本ブログ2019年9月9日掲載の展示「もっと知ろう! 原三溪」でも紹介したが、本書にはパネルそのもの、すなわちプロローグ、Ⅰ実業の人、Ⅱ愛市の人、Ⅲ文芸の人 漢詩人としての三溪、Ⅳ原三溪市民研究会10年の足跡、が収められている。
このなかにある「三溪・富太郎年譜」(5ページ)は、次の<資料編>の「原三溪市民研究会活動記録年表」(8ページ)と相まって、緻密で確実な作業の成果である。
第2部では、西郷建彦隣花苑取締役と上掲「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」を統轄した横浜美術館柏木智雄副館長が挨拶、ついで広報の久保さんがスライドを放映して、市民研10年の歩みを語った。会員との応答により、数年前からの活動を回顧し、記憶を共有・確認しようと試みる。
『記念誌』の資料編には、「原三溪市民研究会活動記録年表(2007年6月~2019年10月)」、「活動報告の抜粋」、「原三溪市民研究会会則」、「会員名簿・役員名簿」が入っている。
このうち「活動報告の抜粋」(9ページ)には、会員の笑顔の写真とともに、(1)学ぶ、(2)スタディ・ツアー、(3)伝える、(4)「もっと知ろう 原三溪」展の経緯が示され、また過去5回のシンポジウムの記録とシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」(基調講演は関東学院大学の鄧捷教授)の記録を載せている。
これがスライドによる10年の足跡とほぼ同じで、折に触れて反復することができる。本書を参照しつつ三溪記念館第3展示室のパネルを見てまわれば、いっそう理解が深まる。貴重な『記念誌』である。
第2部の締めは野村さん、閉会の辞は廣島亨会長、そのなかで数千にのぼるアンケート回答の分析結果(概要)を示してくれた。具体的には「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートで、以下の5項目から1つを選び、壁に張ったアンケート用紙に赤丸のシールを張ってもらう形式。
「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。
これは今年5月にも行い(本ブログ2019年5月8日掲載「10連休中の三溪園」)、さらに横浜美術館のアートギャラリーでの展示のさいにも行ったが、アンケートの回答から単純に結論を出すのは難しいと廣島さんは述べる。
市民研のみなさんが次の10年をどう踏み出すか、大いに期待している。
スポンサーサイト