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第8回ジョン万サミットin東京

 標記の会合が11月9日(土曜)、東京都文京区は本駒込の東洋文庫で開かれ、初めて出席した。ジョン万とはジョン万次郎あるいは中浜万次郎の愛称で、サミットは全国各地にある万次郎顕彰会の連携・親善をはかって開かれるという。

 東洋文庫は土佐出身の三菱財閥三代目の岩崎久彌(1865~1955年)が1924年に創設した東洋学の研究図書館で、学生時代にたいへん世話になった。旧来の閲覧室に加えてミュージアム機能を強化、カフェを併設して大改装、見違える姿に驚きつつ、2階の講義室へ向かう。

 話は半年ほど遡るが、今年5月、江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可、北代淳二理事長)の創立総会があり、その記念講演として「ペリー応接と万次郎」を語る機会をいただいた。漂流民となり11年後に日本に強行帰国を果たした土佐の漁師・万次郎が、ペリー来航と幕府のペリー<応接>(現在の<交渉>に該当)にいかなる影響を与えたかを主題とした(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」参照)。

 江東区文化センターの近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が11年間住んでいた。それに因み10年前に落合静男さん(当時、江東区北砂小学校長)や幅(はば)泰治さんたちが立ち上げた地域密着型の「ジョン万次郎・江東の会」(その創立記念講演は日野原重明医師)を、2014年に全国型の「中浜万次郎の会」とし、今回「NPO法人・中浜万次郎国際協会」に改組した。また幅事務局長たちの尽力により、地道な調査研究活動の成果を「研究報告」誌として刊行、すでに第9集を数える。

 講演のご縁から牧野有通さん(日本メルヴィル学会会長)と知り合い、9月8日(日曜)、中央大学駿河台記念館で開かれた「第7回日本メルヴィル学会年次大会」を聴きに行った。それというのも、15年前、私が神奈川新聞に「開国史話」を連載(月水金の週3回、計200回、のち2008年に単行本『開国史話』として同社より刊行)、そのなかに「メルビル『白鯨』の世界」として一文(2004年6月2日)を書いていたからである。

 牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 この年次大会の特別講演は作家の夢枕獏「白鯨とジョン万次郎」で、高知新聞等に連載中の「白鯨とジョン万」の執筆構想や苦労話をからめて壮大な話をされたが、そこで北代さんや幅さんたちと再会した(本ブログ2019年9月13日掲載「メルビル『白鯨』の世界」)。

 そして今回の「第8回ジョン万サミットin東京」である。いただいた平田潔事務局長からのメールには、11月9日(土)のサミットが東洋文庫で、その記念講演は夢枕獏先生、11月10日(日)の万次郎忌は例年通り雑司ヶ谷霊園で行った後、追悼昼食会も例年通り万次郎終焉の地である銀座で、ご子孫(万次郎から四代目)の中濱慶和氏をお迎えして、とあった。

 5月、9月につづき短期間に3度目の再会となったのが北代さん、幅さん、牧野さんで、夢枕さん、落合静男さん、塚本宏さんとは2度目である。万次郎が引き合わせてくれたのであろう。

 ここで万次郎の略歴の一部を再確認しておきたい。文政10(1827)年、現在の高知県土佐清水市中浜(なかのはま)で半農半漁の貧しい漁師の次男として生まれた。9歳のとき父が亡くなり、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養い、寺小屋へ通う余裕もなかった。

 天保12(1841)年、鯵鯖漁船の炊係(炊事と雑事を行う係)となる。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳、のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、その弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)、もう一人の櫓係の寅右衛門(26歳)、そして最年少の万次郎(14歳)である。

 寒中に船出し、足摺岬の沖合で操業中に突然の強風で航行不能となって数日間の漂流後、伊豆諸島の無人島、鳥島にたどり着いた。この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びる。5月9日(1841年6月27日)、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料を求めて島に立ち寄った際に発見され、救助される。
 鎖国の日本に帰国はかなわず、5人はそのままアメリカへ。翌1842(天保13)年、ハワイのホノルルに寄港。4人は下船、万次郎だけが希望してアメリカ本土を目指す。ホイットフィールド船長に気に入られ、乗組員から「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

 ジョン・ハウランド号は、1842年、船長の故郷で捕鯨船の一大拠点のマサチューセッツ州ニューベッドフォード(フェアヘブンの隣町)に帰着、万次郎は船長の養子に迎えられ、1843(天保14)年、オックスフォード学校、1844(弘化元年)年、バートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間も惜しんで勉学に励み、首席となり、民主主義や男女平等等、眼を見張る概念に触れる一方、人種差別も経験する。

 卒業後は捕鯨業に従事、投票で副船長に選ばれる(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位を譲った)。1850(嘉永3)年5月、日本に帰る意志を固め、資金調達のためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ。サクラメント川を蒸気船で遡上、鉄道で鉱山に向かう。数ヶ月間の金鉱採掘で600ドルを得ると、ホノルルに渡って昔の仲間を誘い、1850年12月17日、上海行きの商船に購入した小舟「アドベンチャラー号」を搭載して日本を目ざした。

 1851年3月4日(嘉永4年2月2日)、帰国禁止(鎖国)の掟を破り、アドベンチャラー号で薩摩藩に服属していた琉球に上陸、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られた。薩摩藩で取調べを受けるも厚遇され、西洋文物に興味のあった開明的な藩主・島津斉彬から海外情勢や文化等について問われる。
 薩摩から長崎への移送後は、長崎奉行所から長期間の尋問を受け、絵踏みにより非キリスト教徒の証明をさせられ、さらに外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人とともに土佐に向かう。

 高知城下では吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍が、その記録を『漂巽紀畧』として刊行した。

 拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)の第1章「1853年 浦賀沖」の「5 ジョン万次郎の語るアメリカ」では、取調べに答えた発言6点を引用した。①歴史と地理について、②食事と酒について、③アメリカ人について、④大統領について、⑤日本に関する評判、⑥江戸の評判。

 この⑥で「江戸は世界中でもっとも繁盛の所と評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と述べている。これから大きなヒントを得て、私は『世界繁盛の三都-ロンドン・北京・江戸』(1993年、NHKブックス)を刊行した。

 万次郎はペリー2回目来航直前の1854年1月、20俵取りの御普請役として召し抱えられる。史上初の日米交渉については、上掲の拙著『幕末外交と開国』や『開国史話』ならびに本ブログ(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」)等を参照していただきたい。ただ、交渉の場で果たした万次郎の役割については史料が少なく、今後の解明が待たれる。
 
 その後の万次郎の活躍について、簡単に挙げておきたい。1860年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節通訳として渡米、ついで幕府の軍艦操練所教授(1862年)、土佐藩の開成館教授(1866年)となり、英語、航海術、測量術などを教える。明治政府により1869年、開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。著書に英会話書『英米対話捷径』(1859年)がある。

 東洋文庫の「第8回ジョン万サミットin東京」では、開会の挨拶に司会の平田潔事務局長、歓迎の挨拶に「NPO法人・中浜万次郎国際協会」の北代理事長、そして各地域の活動が報告された。

1 台湾 陳新炎氏(中国語で『約翰・万次郎傳奇一生』を刊行、紹介)
2 沖縄県 豊見城市沖縄ジョン万会 赤嶺秀光会長
3 沖縄県 糸満市万次郎上陸記念碑期成会 徳元秀雄会長
4 高知県 土佐清水市ウェルカムジョン万の会 田中慎太郎会長
5 高知県 高知市 土佐ジョン万会 アーサー・デイビス理事
6 大阪府 ホイットフィールド万次郎の会 上野貴與之会長
7 東京都 中浜万次郎国際協会 北代淳二理事長
8 秋田県 秋田市 佐藤宗久氏
9 熊本県 熊本市 吉岡七郎氏
10 特別報告 沖縄県 神谷良昌氏(沖縄ジョン万次郎会・理事、糸満市万次郎上陸記念碑期成会・理事)
和田達雄氏(糸満市万次郎上陸記念碑期成会副会長)

 記念講演会 夢枕獏氏「白鯨とジョン万」

 配布資料は(順不同)、(1)「中濱万次郎家系図」、(2)「NPO法人ジョン万次郎上陸地記念碑建立期成会の活動状況について」、(3)「(中浜万次郎国際協会の佐藤宗久氏による)今後の活動計画(案)」、(4)「第30回 日米草の根交流サミット2020 フィラデルフィア大会」のチラシ(「公益財団法人 ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根センター」(小沢一郎会長、略称はCIE)の第30回大会で、北代さん、平田さん、後述の中濱京さんが評議員、青木千佳さんが理事兼事務局長)、そして(5)『第14回沖縄ジョン万次郎会講演会』(全21ページ)である。

 これらのうち(5)『第14回 沖縄ジョン万次郎会講演会』所収の幅泰治「ジョン万次郎はどのようにして知られて行ったのか」と塚本宏「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」の2つを紹介したい。

 幅さんは1937年、名古屋生まれ。学習院大学政治経済学部卒、千葉大学で工業デザインを、早稲田大学で生産工学を学び、日立化成工業で開発設計を担当。定年退職後、文化財や地域史に関心を持ち、万次郎ゆかりの土佐藩下屋敷近くに居を得た縁から、10年前に上掲「ジョン万次郎・江東の会」を落合さんたちと立ち上げ、事務局長を務めた。現在は中浜万次郎国際協会理事。

 ジョン万の生涯を追いつつ、彼が世に知られるようになった経緯を、①取調べ調書、②流布本、③本人の記録、④伝記、⑤歌舞伎・講談・演劇、⑥小説・絵本、⑦教科書、⑧TV番組・新聞、⑨解説・評論・読物、⑩研究、⑪資料館・イベント、⑫その他、に分けて収録し、的確な解説を付す。

 人間・万次郎について、幅広く全分野を網羅するほどに目が行き届いている。例えば⑤歌舞伎・講談・演劇では、明治21年新富座で公演の歌舞伎「土佐半紙初荷鑑」から現代の劇団四季「ミュージカル・ジョン万次郎の夢」まで、⑥小説・絵本では井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(1937年)を筆頭に多数、また⑦教科書での取り上げられ方の変遷、そして⑩内外の諸研究では20数点を渉猟している。

 幅さんから頂戴した冊子「歌舞伎になった万次郎」は、上掲の竹柴其水作「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね)の台本の解説と抄訳からなり(A4×30ページの仮綴じ)、万次郎と親方の2役を演じるのが市川左団次と知ればさらに興味が尽きない。

 塚本さんは1932年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒、明治生命保険(相)で医務部長、取締役を歴任。この経験と知見を基に万次郎と長男・東一郎(1857~1937年)についてまとめる。中浜万次郎国際協会監事。
 
 万次郎30歳の時、芝新銭座で授かった東一郎は、東京大学医学部の3回生。万次郎が3人のアメリカ大統領(28代のT.W.ウィルソン、30代のJ.C.クーリッジ、32代のF.D.ルーズベルト)から評価されていること、また万次郎に感銘を受け、東一郎と親交のあった石井菊次郎が、駐米大使時代にフェアヘブンの日本刀献呈式典に参加するなど日米親善に努めたこと、東一郎をはじめ現在の五代目に至るまで子孫たちが民間の草の根交流に努力してきたこと等を挙げる。
 
 そして「…中浜家が、先祖の万次郎への篤い敬慕の気持ちと、アメリカの二人の恩人(ホイットフィールド船長とデーモン牧師)に対する深い感謝の念に裏打ちされて、民間の草の根交流を続けてきたことは感動的というしかない。」と述べる。しっかり典拠も示されている。
 
 夕食会は東洋文庫の敷地の奥にあるオリエント・カフェで行われた。乾杯の音頭は万次郎から数えて五代目に当たる中濱京さん、富士通勤務のかたわら講演やTV等を通じて万次郎の広報に取り組み、また「公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター」の評議員を務める。
 
異なる経歴・職業の老若男女60名ほどが、立食の場を行き来しつつ歓談。稀有の傑物ジョン万に惹かれて集まった人びとの賑やかな宴であった。
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横浜市立大学ホームカミングデー

 大学教員として私が勤めた大半が横浜市立大学(以下、市大とする)である。1973(昭和48)年から定年の2002(平成4)年まで29年間、長いよういで短い。退任してから早くも17年が過ぎた。

 学長退任(2002年)後、市大の制度の急速な変わりようを危惧しつつ見守っていたが、数年前から見直しが始まり、昨秋には新体制を創りあげたと公表、9年後に迫る創立100周年に向けて動き出した。

 すなわち創立90周年記念式典の場で、100周年への大方針が示され(本ブログ2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)、本年度からいよいよ5学部、5大学院研究科、2附属病院、1研究所という待望の新体制が発足した(本ブログ2019年4月11日掲載「横浜市立大学の入学式」)。また『横浜市立大学100年史』(仮題)の編纂事業も始まるという。

 そこに第10回ホームカミングデーでの講演依頼が来た。加藤貴之さん(学務・教務部学生支援課 卒業生担当)からのメールで、今年からはホームカミングデーの講演を創立100周年シリーズにしたい、初回は「横浜開港の頃の歴史に本学の創設の経緯を交えた内容を」とある。

 対象は主に「昭和30年~40年頃に在学された卒業生をメインに約100名」の方々。私が市大に着任した1973(昭和48)年以前の卒業生諸氏であり、私とほぼ同じ年齢層である。11月3日(日曜、文化の日)、第69回<浜大祭>の初日、会場は時計塔の右奥にあるカメリア・ホール。

 新制度の発足を祝う初のホームカミングデーであり、カメリア・ホールは一般教育改革の一環として1985(昭和60)年に始めた「横浜学事始」の教室に使った思い出深い場所でもある。

 演題は「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」とした。要請のあった「本学の創設の経緯を交えた内容」まで含めるには時間が足りない。それは次回のお楽しみとしてもらおう。

 今年は横浜開港160周年にあたる。開港の5年前に日米和親条約の交渉が行われたのが横浜村である。現在の大桟橋の近く、横浜開港資料館と神奈川県庁の中間あたりに<応接所>が設営された。この一帯が開港場の中心となり、つづく都市横浜の起源となる。果たして幕府はペリー艦隊の強大な軍事力に屈したのか?

 パワーポイントで地図、図像、表など40枚のスライドを用意し、最初の2枚だけをレジメとして配布してもらうため事前に電送した。会場で手にしたプリントを見ると、A4×2枚の原紙をA3×1枚の両面コピーにしてある。これだけしっかり拡大してあるのは参加者の年齢に配慮した工夫であろう、なによりも私自身が眼鏡を使わずに済んだ。

 目次には以下の5点を記した。
(1)はじめに - 今年が開港160周年。横浜村⇒横浜町⇒横浜市
(2)1850年ころの環太平洋-東漸する英国、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
(3)ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳
(4)日米和親条約―<交渉条約>の意義
(5)都市横浜の起源     

 目次のほかに以下8点を掲げた(拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫から)。①略年表、この左欄が日本で1793年の寛政令から1860年の幕府遣米使節まで、右欄が世界で「1773年 英がインドを植民地化、アヘン生産を開始」から1860年の北京条約(第二次アヘン戦争終結)まで。②私自身の主な著作10点、③「概念図 近代国際政治(4つの政体)」。裏面には地図を3点、すなわち④「ペリー来航時の江戸湾防備」、⑤「ペリー提督の旗艦航路図」、⑥「1850年前後の環太平洋」、さらに⑦日本人絵師が描いた旗艦ミシシッピー号の絵、⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」。

 京浜急行の金沢八景駅周辺の大幅改修工事が進み、ホームから外へ出るのに戸惑う。市大の正門をくぐると、学生たちの案内所や屋台のテントが所狭ましと並んでいる。『第69回 浜大祭 爛漫』と題するプログラムを貰い、カメリア・ホールへ。二見良之理事長、田中靖副局長(元文理学部事務長、元国際文化学部事務長)が出迎えて下さる。

 司会は鎌倉みきさん(学務・教務部学生支援課 キャリア支援担当係長、卒業生担当係長)。11時開催、窪田吉信学長の開会挨拶、中條祐介副学長による大学の取組紹介の後、私の講演に90分をいただいた。

 講演の冒頭で次のように述べた。チラシには<講演>とありますが、学生時代の90分<授業>のつもりで話します。ただし<感想カード>の提出は免除です、と。

 会場には最年長と思われる昭和31年商学部卒の間宮靖宏さん(88歳)、昭和37年文理学部卒の阿部貞夫さん、川辺久子さんたちの顔が見えた。年配の方々に交じって人文理学部人文課程東洋史の卒業生諸氏(50歳代)や齊藤淳一さん(本ブログ2018年3月26日掲載「善四郎とペリー饗応の膳」参照)の姿もある。

 「…みなさんの在学時には、このカメリア・ホール(総合研究教育棟の一部)一帯はシェイクスピア・ガーデンと呼ばれ、椿(つばき)の木がたくさんあったでしょう、椿の学名がカメリア・ジャポニカで、そこから取ってカメリア・ホールと命名されました。完成は1985(昭和60)年、みなさんが卒業して10年以上経った時期です。今の文科系研究棟(4号館)の完成は1978(昭和53)年ですから、それ以前の旧海軍兵器廠の将校兵舎に研究室があった時代に在学されていたはずですね。…」と述べて、本題に入った。

 上掲の目次に従い、(1)で次の確認から始めた。今年が横浜開港160周年、そこから引き算をすると開港は1859年、法的根拠はその前年に幕府がアメリカのハリス総領事(のち公使)と結んだ日米修好通商条約(1858)年であり、さらにハリス来日の根拠となったのがその5年前にペリー提督と締結した日米和親条約(1854年)であることを述べる。

 1989(平成元)年に開催された横浜博覧会(YES’89)が市政公布100周年、横浜開港130年の周年事業であり、後にみなとみらい地区の開発につながったが、それを鮮明に記憶している世代は50代以上か。ここで市大が編纂・刊行した横浜の英文ガイド ”Yokohama Past and Present”(1990)を紹介、このような大部な都市ガイドブックは日本で最初の試みであり、世界ではニューヨークに次ぐ二番手であったと説明する。

 パワーポイントを放映して横浜村を古地図で示す。室町時代に初出する横浜村(武藏国久良岐郡)は浜が横につき出す地形に由来、現在の横浜市域450㎢内にあった215か村の1つである。

 (2)1850年ころの環太平洋については、地図⑥「1850年前後の環太平洋」を使い、難破した日本の漁船や廻船の乗組員が北太平洋海流と偏西風によりアメリカ方面へ押し流され、その反対に日本へはアメリカ捕鯨船が漂着。両国の漂流民が日米関係の新しい扉を開く最大の要因になったことに触れた。

 (3)「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」が、この<授業>の一つのハイライトである。 次の3点を話した。

 第一、レジメ⑤「ペリー提督の旗艦航路図」を使い、旗艦ミシシッピー号がアメリカ東部の軍港を出港、大西洋を渡って南下、喜望峰を回って北上、インド洋から中国海域へ、そこで先発艦隊と合流し、琉球を経て1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、江戸湾の入り口にある浦賀に到着するまで、地球の約4分の3を航海し、7か月半を要した。また<新興国アメリカ>は蒸気軍艦の燃料である石炭等を補給する独自のシーレーンを持っておらず、<超大国イギリス>の蒸気郵船P&O社のシーレーンに頼らざるを得なかった。

 第二、ペリー艦隊4隻は全艦に臨戦態勢を敷いて浦賀沖へ入る。すぐに浦賀奉行所の与力・中島三郎助がオランダ通詞・堀達之助とともに小型の番船で近づき、英語で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(当方はオランダ語を話せる)。この一声が功を奏し、小競り合いもなく、旗艦サスケハナ号内でアメリカ側通訳ポートマンを介して副官コンティとの面談が始まる。

 ペリーは久里浜(地図④ペリー来航時の江戸湾防備を参照)で浦賀奉行にアメリカ大統領国書を手渡す儀式を終えると、わずか10日の滞在で、来春の再来を言い残して去る。
老中首座(総理大臣相当)阿部正弘は大統領国書を回覧して広く意見を求める大胆な手を打ち、国書受理から2か月後の9月にはオランダへ蒸気船を発注、200年にわたり堅持してきた鎖国の<祖法>である<外洋船所有禁止>の解禁に踏みきった。

 第三、翌1854年2月に再来したペリー艦隊は9隻。前年の4隻よりさらに規模を増強、超大国イギリス海軍にもない2500トン級の蒸気軍艦3隻と、強力な大砲を備えた帆走軍艦を有していた。その大砲は計63門(上掲⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」参照)、幕府が沿岸部に造った砲台の砲門数をはるかに凌駕している。

 種々の折衝の末、1854年3月8日、横浜村に設けた<応接所>における会談が決まる。ペリーの同行画家ハイネの<ペリー横浜上陸の図>等の映像を示しつつ、林大学頭(はやし だいがくのかみ)とペリーの首脳会談における論戦を紹介した。

 交渉の使用言語はオランダ語。幕府は優秀なオランダ通詞の森山栄之助(34歳)や堀達之助(21歳)を立てたが、アメリカは急きょ上海で雇った通訳のポートマン(21歳)が政治・外交・法律に疎く、森山が司会と双方の通訳まで担う場面もあった。

 首脳だけの別室の会談、その緊迫した様子については、日米ともに記録を残しており、両者を合わせて実像に迫ることができる。勇み立つペリーが「…貴国が米国漂流民を乱暴に扱う国政を改めないなら、国力を尽くして戦争に及び雌雄を決する準備がある。…」と迫る(拙著『幕末外交と開国』参照)。

 林大学頭は動じず応えた。「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。…」 そう受けて、ペリーの言う「米国漂流民を乱暴に扱う国政」とは<文政令>(1825年公布の異国船無二念打払令)下の対外令であり、その後に天保薪水令(1842年)の穏健令に切り替え、いまは漂流民を手厚く保護して送還している、と事実を淡々と述べ、「…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない、とくと考えられたい」と結ぶ。

 これを受けてペリーは、「…薪水供与と外国船の救助をなされるとのこと、よく分かった。国政をそのように改めたのであれば結構である。…」と返した。これにより、ペリー艦隊の誇示する強大な軍事力は封殺され、交渉を通じて進める条約の基本内容が定まった。

 (4)「日米和親条約―<交渉条約>の意義」では、幕府が発砲交戦の回避を第一として交渉に臨み、土産物の交換や招宴・交歓を重ね、上述の論戦から3週間後の3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村において日米和親条約(12か条)の調印に至る。これが第一の意義であり、第二に国交樹立と外交官の下田駐在を認め、後続の通商条約への準備期間を取ったこと、第三に不平等な条項がないこと、以上3つの点に重要な意義がある、と述べた。

 条約文は日本語・英語・漢文・オランダ語の4つの言語で交換されたが、双方全権の署名入りの条約文は1通もない。この不備を、後の下田追加条約で「今後の両国間の条約と外交交渉においては日本語と英語を用い、オランダ語の翻訳を付す」と補った。<蘭学>(オランダ語を媒介として西洋の科学を学習)の伝統を持つ日本に有利な内容であり、オランダ語を媒介に英語の習得を早めることにつながる(幕府翻訳方にいた福沢諭吉が代表例)。

 (5)「都市横浜の起源」は、ハリスと結んだ日米修好通商条約(1858年)の<神奈川開港>にある。

 開港場をどことするか。ハリスは東海道の宿場・神奈川を主張し、幕府(神奈川奉行)は、そこは家屋が密集しており、新しく外国商人を入れるのは難しいと強調する。

 決着がつかぬまま約束の開港予定日、1859年7月1日(安政七年六月二日)が迫る。幕府は神奈川宿と横浜村を結ぶ<横浜道>(よこはまみち)を作り、突貫工事で横浜村に開港場を造りあげた。

 現在の大桟橋の付け根に近い、日米和親条約締結の地に運上所(税関)を建て、そこを中心に西へ日本人町、東へ外国人居留地を設定、最初の都市計画を実行した。こうして完成した地域一帯(<関内>と呼ばれた)、この地こそ都市横浜の起源である。

 90分<授業>の後、応援団・チアリーダー・管弦楽団が盛り上げ、全員で校歌(西条八十作詞、古関裕而作曲)を熱唱、1時に終了した。外に出て、50代の卒業生たちと模擬店の焼きそばを食べつつ歓談。卒業して30年余、ベテランとして活躍中、子どもは大学受験を控えているなどと。

 2時からシーガルセンター1階の食堂半分を貸し切り、同窓会が開かるのでお越しをと会長の金子信康さん(昭和52年商学部卒)に誘われていた。約100名の卒業生で賑わう中、二見理事長の隣に導かれる。

 自然と話題は前日のラグビーW杯決勝戦に移る。二見さんも学生時代はラガーマン。「…南アフリカはまずスクラムで押し、イングランドの反則を誘って、ペナルティーキック(3点)を確実に決め、終盤には見事なトライの連続…」と熱い。

 金子会長の開会の挨拶と経過報告が始まった。市大とY校の卒業生からなる<進交会>の市大部会を<市大同窓会>としたのが馬場彰さんである。今回が17回目。私の学長在任中に創立75周年記念の募金を集め、正門を入って右手にある<いちょうの館>の建設(2004年竣工)に尽力してくださった(本ブログの2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)。昨秋にはお目にかかったが、今年は姿が見えない。

 窪田学長、中條副学長、各学部長の挨拶と進み、古屋文雄進交会理事長の音頭で乾杯の儀となった。ビールは市大木原生物学研究所が栽培した大麦で醸したクラフトビールKORNMUTTER(コルンムッター、麦の母)である。瓶のラベルには麦を抱く女性像(コルンムッター)が描かれている。

 市大に大麦を栽培する農場があることも、また木原均博士の世界的貢献についても、あまり知られていないのではないかと、同研究所の坂智広教授が「市大ビールの紹介」をした。秋、学生たちと種をまき、冬は麦踏み、<麦秋>の5月に収穫。土や風の恵みを感じつつ、力を合わせ、汗を流した賜物である。
「…本日が初の蔵出しです」の言葉に大きな拍手が湧いた。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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