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横浜市立大学ホームカミングデー

 大学教員として私が勤めた大半が横浜市立大学(以下、市大とする)である。1973(昭和48)年から定年の2002(平成4)年まで29年間、長いよういで短い。退任してから早くも17年が過ぎた。

 学長退任(2002年)後、市大の制度の急速な変わりようを危惧しつつ見守っていたが、数年前から見直しが始まり、昨秋には新体制を創りあげたと公表、9年後に迫る創立100周年に向けて動き出した。

 すなわち創立90周年記念式典の場で、100周年への大方針が示され(本ブログ2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)、本年度からいよいよ5学部、5大学院研究科、2附属病院、1研究所という待望の新体制が発足した(本ブログ2019年4月11日掲載「横浜市立大学の入学式」)。また『横浜市立大学100年史』(仮題)の編纂事業も始まるという。

 そこに第10回ホームカミングデーでの講演依頼が来た。加藤貴之さん(学務・教務部学生支援課 卒業生担当)からのメールで、今年からはホームカミングデーの講演を創立100周年シリーズにしたい、初回は「横浜開港の頃の歴史に本学の創設の経緯を交えた内容を」とある。

 対象は主に「昭和30年~40年頃に在学された卒業生をメインに約100名」の方々。私が市大に着任した1973(昭和48)年以前の卒業生諸氏であり、私とほぼ同じ年齢層である。11月3日(日曜、文化の日)、第69回<浜大祭>の初日、会場は時計塔の右奥にあるカメリア・ホール。

 新制度の発足を祝う初のホームカミングデーであり、カメリア・ホールは一般教育改革の一環として1985(昭和60)年に始めた「横浜学事始」の教室に使った思い出深い場所でもある。

 演題は「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」とした。要請のあった「本学の創設の経緯を交えた内容」まで含めるには時間が足りない。それは次回のお楽しみとしてもらおう。

 今年は横浜開港160周年にあたる。開港の5年前に日米和親条約の交渉が行われたのが横浜村である。現在の大桟橋の近く、横浜開港資料館と神奈川県庁の中間あたりに<応接所>が設営された。この一帯が開港場の中心となり、つづく都市横浜の起源となる。果たして幕府はペリー艦隊の強大な軍事力に屈したのか?

 パワーポイントで地図、図像、表など40枚のスライドを用意し、最初の2枚だけをレジメとして配布してもらうため事前に電送した。会場で手にしたプリントを見ると、A4×2枚の原紙をA3×1枚の両面コピーにしてある。これだけしっかり拡大してあるのは参加者の年齢に配慮した工夫であろう、なによりも私自身が眼鏡を使わずに済んだ。

 目次には以下の5点を記した。
(1)はじめに - 今年が開港160周年。横浜村⇒横浜町⇒横浜市
(2)1850年ころの環太平洋-東漸する英国、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
(3)ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳
(4)日米和親条約―<交渉条約>の意義
(5)都市横浜の起源     

 目次のほかに以下8点を掲げた(拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫から)。①略年表、この左欄が日本で1793年の寛政令から1860年の幕府遣米使節まで、右欄が世界で「1773年 英がインドを植民地化、アヘン生産を開始」から1860年の北京条約(第二次アヘン戦争終結)まで。②私自身の主な著作10点、③「概念図 近代国際政治(4つの政体)」。裏面には地図を3点、すなわち④「ペリー来航時の江戸湾防備」、⑤「ペリー提督の旗艦航路図」、⑥「1850年前後の環太平洋」、さらに⑦日本人絵師が描いた旗艦ミシシッピー号の絵、⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」。

 京浜急行の金沢八景駅周辺の大幅改修工事が進み、ホームから外へ出るのに戸惑う。市大の正門をくぐると、学生たちの案内所や屋台のテントが所狭ましと並んでいる。『第69回 浜大祭 爛漫』と題するプログラムを貰い、カメリア・ホールへ。二見良之理事長、田中靖副局長(元文理学部事務長、元国際文化学部事務長)が出迎えて下さる。

 司会は鎌倉みきさん(学務・教務部学生支援課 キャリア支援担当係長、卒業生担当係長)。11時開催、窪田吉信学長の開会挨拶、中條祐介副学長による大学の取組紹介の後、私の講演に90分をいただいた。

 講演の冒頭で次のように述べた。チラシには<講演>とありますが、学生時代の90分<授業>のつもりで話します。ただし<感想カード>の提出は免除です、と。

 会場には最年長と思われる昭和31年商学部卒の間宮靖宏さん(88歳)、昭和37年文理学部卒の阿部貞夫さん、川辺久子さんたちの顔が見えた。年配の方々に交じって人文理学部人文課程東洋史の卒業生諸氏(50歳代)や齊藤淳一さん(本ブログ2018年3月26日掲載「善四郎とペリー饗応の膳」参照)の姿もある。

 「…みなさんの在学時には、このカメリア・ホール(総合研究教育棟の一部)一帯はシェイクスピア・ガーデンと呼ばれ、椿(つばき)の木がたくさんあったでしょう、椿の学名がカメリア・ジャポニカで、そこから取ってカメリア・ホールと命名されました。完成は1985(昭和60)年、みなさんが卒業して10年以上経った時期です。今の文科系研究棟(4号館)の完成は1978(昭和53)年ですから、それ以前の旧海軍兵器廠の将校兵舎に研究室があった時代に在学されていたはずですね。…」と述べて、本題に入った。

 上掲の目次に従い、(1)で次の確認から始めた。今年が横浜開港160周年、そこから引き算をすると開港は1859年、法的根拠はその前年に幕府がアメリカのハリス総領事(のち公使)と結んだ日米修好通商条約(1858)年であり、さらにハリス来日の根拠となったのがその5年前にペリー提督と締結した日米和親条約(1854年)であることを述べる。

 1989(平成元)年に開催された横浜博覧会(YES’89)が市政公布100周年、横浜開港130年の周年事業であり、後にみなとみらい地区の開発につながったが、それを鮮明に記憶している世代は50代以上か。ここで市大が編纂・刊行した横浜の英文ガイド ”Yokohama Past and Present”(1990)を紹介、このような大部な都市ガイドブックは日本で最初の試みであり、世界ではニューヨークに次ぐ二番手であったと説明する。

 パワーポイントを放映して横浜村を古地図で示す。室町時代に初出する横浜村(武藏国久良岐郡)は浜が横につき出す地形に由来、現在の横浜市域450㎢内にあった215か村の1つである。

 (2)1850年ころの環太平洋については、地図⑥「1850年前後の環太平洋」を使い、難破した日本の漁船や廻船の乗組員が北太平洋海流と偏西風によりアメリカ方面へ押し流され、その反対に日本へはアメリカ捕鯨船が漂着。両国の漂流民が日米関係の新しい扉を開く最大の要因になったことに触れた。

 (3)「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」が、この<授業>の一つのハイライトである。 次の3点を話した。

 第一、レジメ⑤「ペリー提督の旗艦航路図」を使い、旗艦ミシシッピー号がアメリカ東部の軍港を出港、大西洋を渡って南下、喜望峰を回って北上、インド洋から中国海域へ、そこで先発艦隊と合流し、琉球を経て1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、江戸湾の入り口にある浦賀に到着するまで、地球の約4分の3を航海し、7か月半を要した。また<新興国アメリカ>は蒸気軍艦の燃料である石炭等を補給する独自のシーレーンを持っておらず、<超大国イギリス>の蒸気郵船P&O社のシーレーンに頼らざるを得なかった。

 第二、ペリー艦隊4隻は全艦に臨戦態勢を敷いて浦賀沖へ入る。すぐに浦賀奉行所の与力・中島三郎助がオランダ通詞・堀達之助とともに小型の番船で近づき、英語で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(当方はオランダ語を話せる)。この一声が功を奏し、小競り合いもなく、旗艦サスケハナ号内でアメリカ側通訳ポートマンを介して副官コンティとの面談が始まる。

 ペリーは久里浜(地図④ペリー来航時の江戸湾防備を参照)で浦賀奉行にアメリカ大統領国書を手渡す儀式を終えると、わずか10日の滞在で、来春の再来を言い残して去る。
老中首座(総理大臣相当)阿部正弘は大統領国書を回覧して広く意見を求める大胆な手を打ち、国書受理から2か月後の9月にはオランダへ蒸気船を発注、200年にわたり堅持してきた鎖国の<祖法>である<外洋船所有禁止>の解禁に踏みきった。

 第三、翌1854年2月に再来したペリー艦隊は9隻。前年の4隻よりさらに規模を増強、超大国イギリス海軍にもない2500トン級の蒸気軍艦3隻と、強力な大砲を備えた帆走軍艦を有していた。その大砲は計63門(上掲⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」参照)、幕府が沿岸部に造った砲台の砲門数をはるかに凌駕している。

 種々の折衝の末、1854年3月8日、横浜村に設けた<応接所>における会談が決まる。ペリーの同行画家ハイネの<ペリー横浜上陸の図>等の映像を示しつつ、林大学頭(はやし だいがくのかみ)とペリーの首脳会談における論戦を紹介した。

 交渉の使用言語はオランダ語。幕府は優秀なオランダ通詞の森山栄之助(34歳)や堀達之助(21歳)を立てたが、アメリカは急きょ上海で雇った通訳のポートマン(21歳)が政治・外交・法律に疎く、森山が司会と双方の通訳まで担う場面もあった。

 首脳だけの別室の会談、その緊迫した様子については、日米ともに記録を残しており、両者を合わせて実像に迫ることができる。勇み立つペリーが「…貴国が米国漂流民を乱暴に扱う国政を改めないなら、国力を尽くして戦争に及び雌雄を決する準備がある。…」と迫る(拙著『幕末外交と開国』参照)。

 林大学頭は動じず応えた。「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。…」 そう受けて、ペリーの言う「米国漂流民を乱暴に扱う国政」とは<文政令>(1825年公布の異国船無二念打払令)下の対外令であり、その後に天保薪水令(1842年)の穏健令に切り替え、いまは漂流民を手厚く保護して送還している、と事実を淡々と述べ、「…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない、とくと考えられたい」と結ぶ。

 これを受けてペリーは、「…薪水供与と外国船の救助をなされるとのこと、よく分かった。国政をそのように改めたのであれば結構である。…」と返した。これにより、ペリー艦隊の誇示する強大な軍事力は封殺され、交渉を通じて進める条約の基本内容が定まった。

 (4)「日米和親条約―<交渉条約>の意義」では、幕府が発砲交戦の回避を第一として交渉に臨み、土産物の交換や招宴・交歓を重ね、上述の論戦から3週間後の3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村において日米和親条約(12か条)の調印に至る。これが第一の意義であり、第二に国交樹立と外交官の下田駐在を認め、後続の通商条約への準備期間を取ったこと、第三に不平等な条項がないこと、以上3つの点に重要な意義がある、と述べた。

 条約文は日本語・英語・漢文・オランダ語の4つの言語で交換されたが、双方全権の署名入りの条約文は1通もない。この不備を、後の下田追加条約で「今後の両国間の条約と外交交渉においては日本語と英語を用い、オランダ語の翻訳を付す」と補った。<蘭学>(オランダ語を媒介として西洋の科学を学習)の伝統を持つ日本に有利な内容であり、オランダ語を媒介に英語の習得を早めることにつながる(幕府翻訳方にいた福沢諭吉が代表例)。

 (5)「都市横浜の起源」は、ハリスと結んだ日米修好通商条約(1858年)の<神奈川開港>にある。

 開港場をどことするか。ハリスは東海道の宿場・神奈川を主張し、幕府(神奈川奉行)は、そこは家屋が密集しており、新しく外国商人を入れるのは難しいと強調する。

 決着がつかぬまま約束の開港予定日、1859年7月1日(安政七年六月二日)が迫る。幕府は神奈川宿と横浜村を結ぶ<横浜道>(よこはまみち)を作り、突貫工事で横浜村に開港場を造りあげた。

 現在の大桟橋の付け根に近い、日米和親条約締結の地に運上所(税関)を建て、そこを中心に西へ日本人町、東へ外国人居留地を設定、最初の都市計画を実行した。こうして完成した地域一帯(<関内>と呼ばれた)、この地こそ都市横浜の起源である。

 90分<授業>の後、応援団・チアリーダー・管弦楽団が盛り上げ、全員で校歌(西条八十作詞、古関裕而作曲)を熱唱、1時に終了した。外に出て、50代の卒業生たちと模擬店の焼きそばを食べつつ歓談。卒業して30年余、ベテランとして活躍中、子どもは大学受験を控えているなどと。

 2時からシーガルセンター1階の食堂半分を貸し切り、同窓会が開かるのでお越しをと会長の金子信康さん(昭和52年商学部卒)に誘われていた。約100名の卒業生で賑わう中、二見理事長の隣に導かれる。

 自然と話題は前日のラグビーW杯決勝戦に移る。二見さんも学生時代はラガーマン。「…南アフリカはまずスクラムで押し、イングランドの反則を誘って、ペナルティーキック(3点)を確実に決め、終盤には見事なトライの連続…」と熱い。

 金子会長の開会の挨拶と経過報告が始まった。市大とY校の卒業生からなる<進交会>の市大部会を<市大同窓会>としたのが馬場彰さんである。今回が17回目。私の学長在任中に創立75周年記念の募金を集め、正門を入って右手にある<いちょうの館>の建設(2004年竣工)に尽力してくださった(本ブログの2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)。昨秋にはお目にかかったが、今年は姿が見えない。

 窪田学長、中條副学長、各学部長の挨拶と進み、古屋文雄進交会理事長の音頭で乾杯の儀となった。ビールは市大木原生物学研究所が栽培した大麦で醸したクラフトビールKORNMUTTER(コルンムッター、麦の母)である。瓶のラベルには麦を抱く女性像(コルンムッター)が描かれている。

 市大に大麦を栽培する農場があることも、また木原均博士の世界的貢献についても、あまり知られていないのではないかと、同研究所の坂智広教授が「市大ビールの紹介」をした。秋、学生たちと種をまき、冬は麦踏み、<麦秋>の5月に収穫。土や風の恵みを感じつつ、力を合わせ、汗を流した賜物である。
「…本日が初の蔵出しです」の言葉に大きな拍手が湧いた。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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