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中学校の同期会

 久しぶりに中学校の同期会に顔を出した。9月22日(日曜)午後、西武池袋線・大泉学園の駅ビルの一室が会場の、新制3期生の集まりである。

 参加は何年ぶりか、古い記録を見る。本ブログの2014年6月16日掲載「中学の同期会」が見つかった。5年前、有楽町の糖業会館で開催、約10年ぶりの出席と書いてある。この15年間にたった2回だけの出席である。

 呼びかけのメールには「毎年母校のホームカミングデーに併せて大泉近辺に集まりお喋りしようという趣旨です。今までの格調高い同期会ではなく気楽な集まりです」とあり、その末尾に「中西、山下両先生にはお声をかける予定です。永久世話役(いつまで続くかわかりませんが)を仰せつかった近藤 平野 藤原 山元」と、懐かしい名前が並ぶ。

 世話役諸氏への感謝、身罷った友への想い…。「出席します。あの頑強そうに見えた小西が逝き、このあたりでみなさんのお顔を拝む気になりました。…」と返信する。

 大泉学園駅は西武池袋線の始発池袋駅から9つ目の駅(後に1駅増設)で、そこから南へ徒歩5分のところにある東京学芸大学大泉附属中学校、ここが附属小学校から持ちあがりの、私の通った学校である。 

 大泉学園駅の3駅手前の中村橋駅から、当時は珍しい電車通学をしていた。駅の近くには木炭を燃料に走るバス(木炭バスと呼んでいた)の待機所があり、憧れの運転手さんにサツマイモを預けておくと、下校時にホカホカの焼きあがりを返してくれた。

 入学は1943(昭和18)年、当時の校名は、東京第三師範大泉附属国民学校。3年生になってすぐ群馬県勢多郡新里村の祥雲寺学寮へ集団疎開。戦後の学制改革で東京学芸大学附属小学校と改名されるが、私はすでに中学校へ進学していた。

 参加者は18名、配られた名簿によると、山下先生、飯倉、加藤、金子、近藤、田村、戸塚、室田、八木、山元、横山、岡野、大橋、永池、藤原、平野、本道、野中。男子は互いに呼びつけで、あだ名でも呼びあい、女子にはさん付けであった。

 欠席の返事は16名、中西先生、生野、持田、菅家、長畑、安岡、市川、今泉、宮下、西田、相良、白戸、松本、尾形、飯田、小藤田である。

 出欠を知らせてきた34名のうち15名がメールアドレスを持つ。82~83歳のグループでパソコンを駆使するデジタル人間が半数は悪くない。

 席順は籤で決める。運よく長テーブル中央の山下政太郎先生(国語、クラス担任)の隣を引き当てた。90歳とは思えぬ若々しい風貌と話しぶりである。

 まず幹事の山元の報告。「…昨年以来の物故者は2名です…。黙祷を捧げます。…」

 のち山元と藤原さんに問い合わせると、5年前、「物故者は27名…」と記した私のブログは誤りで、29名が正しいとのこと。したがって、この5年間の8名を加えると、物故者の総計は37名となる。なお卒業時の生徒数は2クラス合計で109名と山元は推定しているよし。

 冒頭の先生の挨拶が堂々としている。「…酒、タバコ、運転、いずれも止めておらず現役です。運転は一日に300キロは平気…」

 5年前の挨拶は次の通り。「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスはいまも楽しんでいます。寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本を…」とにっこり。

 5年前より過激?、あるいは一種の諦観? 「85歳くらいを境にガタっと弱る。…」とつぶやかれたが、それでも、この勢い!

 ついで、久しぶりの参加という理由で、突然、私に近況報告が振られた。先生の挨拶に圧倒されて、まとまりもないままに話し始める。

 「私はタバコを止めて14年、運転免許を返納して5年となりました。以前は時おり、夢のなかで細巻葉巻のキャプテンブラックを美味そうにくゆらす自分に会いましたが、今はそれもありません。ここは恩師と大違いです。…
しかしながら恩師の教えを守っていることが2つあります。第1が中学2年の夏休みの作文を褒められて書く喜びを知り、以来、70年にわたり書きつづけていること。
 第2がテニスです。先生に教えていただいた放課後の軟式テニスの面白さを忘れられず、硬式テニスを30代後半から始めて40余年が経ちました。いまも現役で、週に数時間はプレーしています。…」

 最後の一言にどよめきが湧いたので答えた。「…世に言う<好きこそものの上手なれ>、そして<下手の横好き>。…私がどちらかは想像に任せます。…」

 先生が話しかけてきた。「…君の作文のどこを褒めたか覚えていないなあ…」。それに私は答える。「私も教員生活が長かったので、学生のレポートや論文に書いたコメントを一つ一つは覚えていませんが、良い所を見つけて褒めてきました。内容に欠陥があるのは当然で、それだからこそ教育の役目がある…」

 先生は深く頷く。たった7歳違いであっても、14歳の生徒にとって21歳の先生は大きな存在であり、頼もしい兄貴であった。70年ほどを経てやっと教員として同じ目線に立てたような気がする。

 平野さんが書類を手に話し始めた。「…<終活>のつもりで身辺整理をしていたら、いわゆる<通信簿>が3年分まとまって出てきました。1年生の昭和24(1949)年度のものは何と書いてあるでしょう?」 答えは「…縦書きの<通告票>です」。

 <通告票>と言っていたのか! 誰も正確に覚えてはいなかったが、期末に手にした緊張の通信簿で盛り上がる。戦時中の<通告票>を承継して、新制中学の発足時に、そのまま使ったに違いない。国民学校3年生の集団疎開先で<玉音放送>(昭和20年8月15日、日本の敗戦を伝える昭和天皇のことば)を聞いた世代の共通の記憶が蘇る。

 昭和25(1950)年度から横書きの<通知表>となった。B5版二つ折りの真ん中に成績欄、裏面が<修業証書>。つづく昭和26(1951)年も同じ形式である。どうやら昭和25(1950)年度が現在につづく新制中学への実質的な転換期だったのではないか。

 最後に校歌斉唱。「-東京学芸大学附属大泉中学校-校歌 緑陰深き」の歌詞・楽譜が配られた。作詞:山下政太郎、作曲:笹谷栄一朗。

1 緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2 はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ 高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3 今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余 泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

 先生によれば、作ったときはまだ<校歌>ではなく、小学校では校歌を運動会等で歌っているのに中学にないのは寂しいと言われ、「…戯れに作詞して、…それが後に<校歌>と呼ばれるようになった。…」とのこと。

 中学の校歌は暗記していない。<校歌>になりかけの時期で歌う機会が少な
く、記憶に刻まれなかったようだ。

 先生が誰にともなく「…90歳になった今年を最後の出席にしたい…」と言われる。私は聴こえないふりをして、代わりに「紅葉の三溪園へぜひお越しください。12月初旬が良いと思います。…」と、電話番号の入った名刺をお渡しした。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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