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ラグビーW杯2019

 <ラグビー・ワールドカップ 日本大会 2019>が、9月20日(金曜)から始まり、日本各地で展開されている(以下、<ラグビーW杯2019>と略称)。ラグビーW杯は1987年に創立、4年に1回開催される。今回が第9回にあたり、初の日本開催となった。

 ラグビーW杯は、夏季オリンピック、サッカーFIFAワールドカップとともに、世界3大スポーツイベントの一つと言われるが、日本のラグビーは青少年からプロにいたる広範な選手層と広いファン層という点で、野球、サッカーに後れをとっていた。

 FIFA(国際サッカー連盟)の創設は1904年、日本サッカー協会(JFA)がFIFAに加盟したのは1929年である。FIFAワールドカップの初の日本開催は2002年で、それに向けて各地に競技場(スタジアム)が作られ、今回のラグビーW杯2019でも使われている。

 ラグビーは強豪国を見れば分かるように、その発祥の地イギリスと英連邦を中心に広がったスポーツである。過去にもいくつかの加盟国を持つラグビーW杯があったが、現在の世界20カ国・地域からなるラグビーW杯は、32年前の1987年に創設された。

 ラグビーの起源は遠くさかのぼる。約200年も前の1823年、イングランドの有名なパブリックスクール・ラグビー校でのフットボール(現在のサッカー)の試合中、選手がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことにあると言われる。

 近代におけるスポーツ(原義は<気晴らし>)の誕生を歴史的に位置づけると、都市化のなかで自然から切り離され、肉体を駆使する機会を失った人びとのストレス解消ための<暴力の平和化>の装置と述べた(拙著『イギリスとアジア』1980年 岩波新書)。

 私にとってラグビーは青春時代の想い出とともにある。タックルやスクラムというコンタクト・プレー(肉体の衝突)でありながら、これを暴力沙汰としないのが相手へのリスペクト(敬意)とチームの結束(ONE TEAM)である。

 4年前のイギリス大会(ブライトン)で、日本は優勝候補だった南アフリカ(南ア)に勝利する<大金星>を挙げた。次の開催国が日本と決まると、さらに目標を高く掲げ、オーストラリア出身のエディー・ジョーンズをヘッドコーチ(その下にスクラムコーチ等がつく)に招いて強化、エディーがイングランドの監督に移った後は、ニュージーランド出身のジョセフ・ジェイミーが就く。

 両者の指導法の違いを強調する人は、<エディーからジョセフへの転換>と呼び、コーチ主導から選手の主体性強化への転換を指摘する。選手たちはいっそう<ONE TEAM>(団結)、<ハードワーク>(厳しい練習)を意識し、プライドを懸けて練習を重ねてきた。もちろん開催国ゆえの並々ならぬ声援も大きな力になる。

 参加国は20。プールAからDまでの4組に分かれ、それぞれに5カ国が属し、各プールから勝ち点で上位2カ国(計8カ国)が決勝リーグを戦う。日本は、アイルランド、サモア、スコットランド、ロシア(ABC順)とともにプールA(以下、A組という)に属す。

 ロシアとの初戦は9月20日(金曜)、調布市の東京スタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。白地に赤のストライプのジャージー(左胸にサクラの花3輪のロゴ)。日本は30:10で大勝。オフロードパス(タックルを受けても倒れるまでボールを持ち後続にパスする)を受けたウィングの松島幸太郎が3トライの快挙を生む。

 リーチ主将は強い突進力を発揮しつつ、選手への声かけ、レフェリーとの折衝等々、そのリーダーぶりが頼もしい。

 試合開始前に台風被災者へ黙祷を捧げ、ついで国歌斉唱。<走る冷蔵庫>と言われる巨漢集団のなかに、小柄で俊敏な司令塔役の田中史朗、流大。古参のトンプソン・ルークや堀江翔太。果敢な若手。計31人の日本代表は多国籍、千差万別。<多様性>の共存である。

 日本の第2戦は9月28日(土曜)、世界2位(つい前まで首位)で優勝候補のアイルランドと静岡のエコパスタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。日本は先制トライを許すも、田村優の正確なキックで反撃、スクラムでも押し勝ち、前半を僅差の9:12で折り返す。

 後半18分、途中出場の福岡堅樹のトライで逆転、そのまま押し切り、19:12で勝利、勝ち点を9に伸ばして、A組の首位に立った。「日本、大金星!」とメディアは大興奮。決勝リーグの8強入りに大きく近づいた。

 第3戦は、10月5日(土曜)、愛知県の豊田スタジアム(2001年開場、収容4万5000人)においてサモアと対戦。終始有利に進め、38:19で勝利した。スクラム内の混戦で、姫野和樹がボールを奪取し次の得点につなげた功績が目立つ。

 第4戦は強豪スコットランドを相手に10月13日(日曜)、横浜国際総合競技場(1998年開場、7万2000余人収容)で行われた。この前日の12日(土曜)夜、超巨大で強力な台風19号が日本列島を直撃する。横浜や東京では夜9時ころに強風が吹いたものの、想像より速く北へ去り、台風15号が強風被害を残した(2019年10月1日掲載の「台風被害と三溪園観月会」)のとは対照的な印象であった。

 ところが豪雨台風の19号は、広範囲にわたり河川の決壊、氾濫、浸水を招き、被害が日を追って増える。直後には長野県の千曲川等14河川の決壊が報じられたが、関東・東北でも河川の氾濫が次々と判明、1週間後の20日段階で71河川、130カ所が決壊したとの集計が発表された。

 東京・多摩川にまたがる多摩川(全長138km)の下流域では、高層マンションの地下浸水が電源盤を襲い停電、エレベーターが止まり、上下水道が使えず、照明も調理も不可能。オール電化の文明生活が瞬時に消失したとニュースが伝える。
 
 19号の去った翌13日(日曜)、横浜国際総合競技場の日本:スコットランド戦の開催決定にも影響が出た。雨天決行のラグビーだが、会場が使えなければ始まらない。会場近くを流れる鶴見川(全長42・5km)は昔から<暴れ川>と呼ばれている。川からの水をどう処理して氾濫を回避するか。

 スタジアム本体は7階建て。1000本以上の柱に支えられた人工基盤の上に立つ<高床式>であり、3階がフィールド(ピッチ)、4階より上が客席で、1階は駐車場になっている。したがって1階の駐車場が浸水しても、会場ゲートは2階に相当する高架式通路で遊水地外の道路と結ばれているため、徒歩なら出入りに支障はない。

 とはいえ、会場周辺が浸水している。12日(土曜)の朝8時50分、90万立方メートルの巨大な<遊水池>へ水を導き、そこで受けた水を午後に放流した結果、夜には翌13日の試合決行を公表することができた。ちなみに、この<遊水池>は、1998年、建設省=国土交通省により<鶴見川多目的遊水池>(<地下調節池>ともいう)として完成したもの。

 対スコットランド戦の最初はトライを取られるも、日本が反撃に転じ、28:21で勝利、4戦全勝で決勝リーグの8強入りを果たした。オフロードパスをつなげ、最後はスクラム最前列の稲垣啓太がゴール中央にトライ、試合後のインタビューで「…ぼくの人生初のトライです」とニコリともせず応じた。

 この頃からラグビー観戦は熱を帯び、瞬間視聴率が50%を超えた。<にわかさん>と呼ばれるファンが急増する。初めて聴くルール用語ランキングは、(1)<トライ>(相手陣地にボールをつけ、5点を獲得、その後のキックに成功すれば計7点)、(2)<ノックオン>(ボールを前方にこぼす反則)、(3)<モール>(ボールを持った選手を囲み密集して押す戦法)の順であるとか。

 4年前とは違い、いまさら<大金星>とは言わせない。4強入りは確かに悲願ではあったが、終点ではない。その先に向かって作戦を組み、焦点を合わせる。被災地を励ましたい。ファンを喜ばせたい。試合後の選手たちの冷静で力強い表情がそれをよく物語っていた。

 いよいよ決勝リーグである。初の準々決勝(4強を決める対戦)は、19日(土曜)、2つの会場で行われた。大分スタジアム(2001年開場、4万人収容)でのイングラント:オーストラリア戦は40:16でイングランドが圧勝した。イングランドはW杯で過去1回の優勝経験があり、対するオーストラリアは過去2回の優勝経験を持つ。

 東京スタジアムのニュージーランド:アイルランド戦は46:16と大差をつけてニュージーランドが圧勝する。ニュージーランドはW杯で過去3回の優勝を誇る最強豪国である。

 20日(日曜)、夕方から大分スタジアムでウェールズ:フランス戦があり、ウェールズが20:19の僅差で勝利する。決勝リーグは点差ではなく勝敗だけが問題となる一発勝負である。

 東京スタジアムでは、決勝リーグの第4戦として、日本:南アフリカ(南ア)が対戦する。南アは過去2回の優勝経験を持つ強豪国で、ナショナルチーム創設127年目、アパルトヘイトの時代を経て、今年はじめて黒人主将コリシが誕生した。

 この日は3年前に逝去した平尾誠二(1963~2016年)選手の命日にあたり、南アの地元紙は警戒して「平尾を弔うため…」チーム一丸となって南アを破りかねないと報じた。平尾はラグビーW杯の第1回(1987年)から3度出場、<ミスターラグビー>と呼ばれた。

 日本勢は<ONE TEAM>(団結)を標榜、それぞれの役割を自覚し、ワン・フォー・オール(みなのために献身)、オール・フォー・ワン(みながいてこそ自分)を体得した8カ月の強化合宿(宮崎市)を経ている。

 試合は前半3:5と双方の意地の張り合いで終わる。これまでも最初にトライを許しても、後の反撃による勝利があった。ボール支配率は日本が80%という数字も期待を高めた。

 試合中、テレビ画面に流れるテロップは、台風19号から1週間後の関東・東北の状況を伝えている。「住宅被災は5万6000戸」、「箱根の源泉供給が遮断…」、「入浴支援…」、「多摩川から東京湾に流れ出たゴミが25km離れた千葉県の富津港に漂着…」、「災害ごみ回収」…

 後半に入るや、南アの激しいタックルに押し返され、頭上を抜くパントキックにより自陣のゴール近くまで後退、次々とトライを許す。ラインアウトからのスローインも相手に取られる。3つのペナルティーゴール、2トライを許し、ついにノーサイドのホイッスルが鳴った。結果は3:26。日本はペナルティーゴールの3点のみ、1つのトライもできない完敗であった。

 日本チームは、この日をもって解散。翌21日(月曜)の11時過ぎから、ヘッドコーチのジョセフ・ジェイミー、リーチ・マイケル主将が最前列に並ぶ選手たちの記者会見があった。

 「…この悔しさをバネに4年後を目ざしたい」と、チーム一丸となって全力を出し切った表情。「チームの一員であったことを誇りに思う…」とは掛け値なしの本音であろう。

 これから舞台は横浜国際総合競技場に移る。26日(土曜)が準決勝の初日でイングランド:ニュージーランド戦、27日(日曜)が準決勝第2戦のウェールズ:南ア戦である。そして11月2日(土曜)の決勝戦、これら3試合すべてがここで行われる。なお11月1日(金曜)のブロンズファイナル(3位決定戦)は東京スタジアム開催。

 ラグビー観戦に横浜を来訪する内外の方々をもてなそうと、9月20日に始まった「三溪園 和音まつり2019~「音」故知新~」については、本ブログ2019年10月11日掲載の「10月初旬の三溪園」で述べたが、その盛況を受け、いよいよ、その後半が始まる。

 とくに外国人客にとって、三溪園で催される<和音(WAON)まつり2019>は、日本文化を堪能できる絶好の機会となろう。そのため開園時間を19時まで延長、16時半以降は入園無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配。三溪園外苑のライトアップされた旧燈明寺本堂を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 後半のもともとの予定は、10月25日、26日の2日と、28日から最後の11月1日まで連続5日、合わせて7日間の予定であった。ところが超大型台風19号接近で、前半の10月11日、12日、13日の3日分を中止としたため、その振替に27日(日曜)を充て、8日連続の上演となっている。
 
 プログラムは(敬称略)、10月25日(金曜)尺八の松村湧太、26日(土曜)チェロの海野幹雄、27日(日曜)は振替公演で、朝倉盛企+矢吹和仁による津軽三味線の競演とヴァイオリンの森田綾乃の2本立て(演奏時間を15分延長)、28日(月曜)筝の吉澤延隆、29日(火曜)ギター弾き語りのAnna、30日(水曜)ハープの藤本沙織、31日(木曜)篠笛の佐藤和哉、そして最終日の11月1日(金曜)はバンドネオンの平田耕治+永易理恵(ピアノ)。

 ラグビーW杯の感動、被災地への想いを胸に奏でる<和音(WAON>を、多くの方にお聴きいただきたい。
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新しい大学評価機関

 10月11日(金曜)午後、一般財団法人大学教育質保証・評価センターの設立を祝う記念シンポジウム(3時半から)と祝賀会(5時半から)が、メルパルク東京で開かれた。超大型台風19号の接近が危惧されるなか、公立大学長及び関係者多数が集まった。なお1時半からは認証評価実務説明会があった。

 一般財団法人大学教育質保証・評価センター(以下、本センターとする)は、公立大学長を会員とする一般社団法人公立大学協会(以下、公大協とする)により設立されたもので、既存の公益財団法人大学基準協会(2004年認証)、独立行政法人大学評価・学位授与機構(2005年認証、現在は大学改革支援・学位授与機構)、公益財団法人日本高等教育評価機構(2005年認証)につぐ、第4の大学評価機関として、実に14年ぶりに誕生した。

 本センターは、大学の教育研究等についての評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする(定款第3条)。具体的には、①大学の教育研究等の総合的な状況についての評価、②大学の教育研究等の総合的な状況についての評価に関する調査研究、③前各号に附帯又は関連する事業を行う。

 認証評価制度の発足時(2002年)の<理念>である「…大学の理念や特色は多様であるため,各々の評価機関が個性輝く大学づくりを推進する評価の在り方に配慮するとともに,様々な第三者評価機関がそれぞれの特質を生かして評価を実施することにより,大学がその活動に応じて多元的に評価を受けられるようにすることが重要」(中央教育審議会答申(2002年)「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」)を存分に生かしている点に特徴がある。

 すなわち「様々な第三者評価機関がそれぞれの特質を生かして評価を実施」することを通じて、「多元的に評価を受けられるようにすること」が、認証評価制度の理念である。ともすると硬直化した制度適用(合否判定のみを重視する等)がなされかねない中で、本センターの「評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする」は大きな意義を持つ。

 なお本センターは公大協により設立された機関であるが、公立大学のみならず国立・私立の大学に広く門戸を開いており、制度本来の趣旨である「多元的に評価を受けられる」1つの機関として位置づけられる。

 14年前に3つの大学評価機関が誕生した頃、公立大学はまだ少なく、公大協として独自の行動をとる力量に欠けていた。ところが公立大学数は年を追って増えつづけ、約2倍の93校となった。2018(平成30)年度現在では、大学総数781校(国立大学86校、私立大学604校)の約12%を占める。公立大学長をメンバーとする公大協は、大学団体としての本来の役割を名実ともに存分に発揮できるまでに成長した。

 本センターの役員は、奥野武俊代表理事(元大阪府立大学長)、近藤倫明理事・認証評価委員会委員長(前北九州市立大学長)、佐々木民夫理事・評価システム委員会委員長(元岩手県立大学副学長)、吉武博通理事(公立大学法人首都大学東京理事)、監事は稲垣卓(前福山市立大学長/福山市政策顧問)、中島恭一(元富山県立大学長/前富山国際大学長)の6氏。

 評議員は、荒川哲男大阪市立大学長、鬼頭宏静岡県立大学長、郡健二郎名古屋市立大学長、柴田洋三郎福岡県立大学長の4氏である。

 記念シンポジウムは、中田晃事務局長の司会の下、奥野代表理事による「開会挨拶」に始まった。この間の苦労を淡々と語り、今後への強い決意を示す。

 「本センターは、一般社団法人公立大学協会によって設立されました。公立大学協会は、各公立大学における第1巡目の認証評価受審の実績を踏まえ、協会内の研究組織において、2012年度から6か年度に渡り、認証評価についての検討を行ってきました。同時に、「公立大学法人評価に関する調査研究」を文部科学省からの委託により実施、さらには会員校に出向いたうえで、新たな考え方のもとでの試行評価を繰り返してきました。
 これらの取り組みを踏まえ、2018年3月、本センターを独立組織としたうえで、文部科学大臣に対し、大学評価機関としての認証申請を行いました。
 その後、大学分科会及び審査委員会の1年5か月に及ぶ審査を経て、ここに正式な認証を得ることができました。審査の過程では、大学の質保証制度の重要性を改めて学ぶと同時に、評価をめぐる議論にも一石を投じることができたのではないかと考えています。認証に至るまでにいただいた、多くの支援に感謝しつつ、国公私立大学の認証評価の実施に向けて前進いたします。」

 ついで小林雅之教授(教育社会学、桜美林大学総合研究機構)の基調講演「大学の質保証と大学評価の課題」と、それを受けての討論があった。

 基調講演は、パワーポイントによる23枚のスライドを使って(配布版と放映版を併用)論旨明快に進め、大別して(1)大学の質保証と評価に関する政策の流れ、(2)大学評価の2つのタイプ(制度型と市場型)、(3)今後の課題、の3つについて述べた。

 まず(1)については(ア)事前コントロールとしての設置認可と(イ)事後コントロールとしての評価(内部質保証)があり、日本では主に(ア)が質保証の機能を果たしてきたが、国際的な傾向としては(ア)から(イ)へと移行しており、グローバル化のなかこのまま放置できないとし、その各論として、①事前コントロールと事後チェック、②大学設置認可と認証評価、③大学教育の質保証の枠組み、④認証評価制度と他の質保証制度について述べる。

 ついで中央教育審議会の「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン答申」
(平成30年11月26日の第119回総会)に触れ、その「引き続きの検討事項」の1つとして「教学マネジメント指針の作成、学修成果の可視化と情報公表の在り方の検討を行うこと」を掲げ、教員サイドから見た教育(=教え育てる)体系に止まらず、学生の学修(=学び修める)成果の点検・評価を確実に行うことの重要性を指摘する。

 そのうえで(2)大学評価の2つのタイプ(制度型と市場型)を<評価目的>、<評価責任>、<信頼性>、<評価軸>等10項目を示して比較検討し、制度型に軍配を挙げる。一方、グローバル化(資金や教員・留学生の移動等)のなかで市場型の『USニューズランキング』と『タイムズ世界大学ランキング』の2つが巨大市場を牛耳りつつある現状に注意を喚起する。

 ついで近藤理事(認証評価委員会委員長)による説明「大学教育質保証・評価センター 認証評価の理念」があり、(1)本センターの目的、(2)本センターが行う認証評価の目的、(3)設立までの経緯の3点を簡潔に述べた。

 こちらのパワーポイントはスライド8枚であるが、図や表に加え、主な役員3名(上掲の奥野代表理事、近藤理事、佐々木理事)の写真も添えてある。複雑な問題を短時間のうちに話す制約の下、巧みな話しぶりを支える補助資料として効果的である。

 本センターの目的(1)については前述の定款第3条にあるとおり、「大学の教育研究等についての評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする」である。ここを読み飛ばしてはならない。<評価>という行為(手段)を通じて、<大学の自律的な質保証活動を支援>するのが<目的>である。これを明示するのは本センターの特色である。

 ついで(2)本センターが行う認証評価の目的については、(1)を受けて「…大学の教育研究の質の保証及び向上の取組みは大学自身の責任であることを自覚し、…評価を通じて大学の教育研究の質の向上に資すること」を目的とすると述べる(大学機関別認証評価実施大綱「はじめに」)。これは2002年中央教育審議会答申の本旨を強調したものであり、14年遅れで創設された後発者メリットであろう。

 本センターの特徴を(1)<社会から見て信頼性の高い評価>として具体的に3点、(2)<関係者にとって妥当性の高い評価(法)>として具体的に3点を挙げ、そのための3つの基準を掲げる。基準1「基盤評価:法令適合性の保証」、基準2「水準評価:教育研究の水準の向上」、基準3「特色評価:特色ある教育研究の進展」である。詳しくは本センターのホームページにある。

 最後が(3)設立までの経緯であり、ここを近藤報告は強調したように思う。表「認証までの活動の経緯」は2010年度(公大協会長=矢田俊文北九州市立大学長)に始まり、2011年度(会長=奥野武俊大阪府立大学長)が空欄、2012年(会長=同)に公大協内に「公立大学の質保証に関する特別委員会」を設置して新たな評価機関の発足も念頭に検討を開始、2013年(会長=木苗直秀静岡県立大学長)に「公立大学政策・評価研究センター」に改組(センター長は浅田尚紀広島市立大学長)、ワークショップと調査研究を進め…、2018年3月、郡健二郎(名古屋市立大学長)会長のときに認証申請し、1年5か月の長い審査後の2019年8月21日、認証評価機関として文部科学大臣の認証を得た。

 検討開始から10年、申請から1年5か月、粘り強く継続的に奮闘してきた成果である。なお空欄の2011年度は、5月の公大協総会で奥野さんが公大協会長に就任した年で、直前の3月11日が東日本大震災である。これを受けて、公大協の学長会議(秋に開催)にボランティアの学生団体も参加する新しい波が起きた。そのなかから新しい大学認証評価が成長してきたと言える。いまも学長会議でランチ交流会や学長・学生合同セッション等が行われている。

 10年という歳月は長いようで短い。公大協の役員(会長、副会長)の任期は2年(5月総会で承認)、報告者の近藤理事は平成23(2011)年(以下、西暦表記とする)に北九州市立大学長となり、公大協では3代の会長の副会長(3名)の一人として、5年間にわたり継続的に本課題に関わり、本センター設立までの10年のうち、合わせて8年を経験してきた。いま最終段階の大役を担い、これからをリードする。

 ちなみに北九州市立大学長を退任(2017年)後も定年前のため特任教授として大学に残り、生涯学習の北九大社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)を立ち上げ、塾長を務める(本ブログ2016年10月13日掲載の「江戸散策」等)。

 近藤さんとの出会いは、機構の機関別大学評価の現地調査の一員として私が北九州市立大学(矢田俊文学長、2009~2010年の公大協会長)を訪問した時、副学長として説明の先頭に立っていた。その爽やかな印象から、私は密かに<若きプリンス>と呼んでいたが、その後も折を見て歓談の機会を持っている。

 今回も近藤報告の要旨を聴くために前日に落ち合い、彼の知らない時代の初代公大協事務所あたりを散策、裏手にあったそば屋もうなぎ屋のあった一帯も再開発のため更地になっていて、遠回りをした末に入ったのが居酒屋・串八珍(後述)、そこでレクチャーを受けた。

 矢田さんとは縁のある新潟つながりで話す機会が多かったが、遠く離れてからはめったに会えない。そこに偶然、このシンポジウムの直前に『矢田俊文書作集 第四巻』が届いた。題して『公立大学論(上)平成の大学改革と公立大学』(原書房 2019年)である。じっくり読みたいと思う。公大協のみなさんにもぜひ推奨したい。

 公大協をめぐる<人の縁>は、10年前からさらに10年を遡り、合計すると20年超になる。前半の10年については、公立大学協会『地域とともにつくる公立大学一公立大学協会60周年記念誌』(2010年)をご覧いただきたい。

 本ブログのリンクにある拙稿「学長在任時を振り返って」(大学マネジメン卜誌 DEC 2014 Vo.110,NO .9 2)にも手短に述べている。5大学から会長校が選出され、会長交代とともに大部の資料が開封されぬまま次の会長校へ移動する時代が約半世紀つづき、公大協としての持続的活動を支える基盤がなかった。

 この形骸化していた公大協が目を覚ましたのは、荻上紘一(東京都立大学長)会長時代(2000~01年度)、児玉隆夫(大阪市立大学長)会長時代(2001~02年度)からである。2001年2月、公大協が初めて宮澤夏樹さんを事務局長に専任し、独自の事務所(西新橋)を持ち、継続性を担保する役割を担う組織とした。これこそ組織強化の基本であり、第一歩であった。

 荻上・児玉両会長の時期が私の横浜市立大学長時代(1998~2002年度)と重なり、年齢も近く(私が少し年長)、共通の趣味があり、研究面では<文理融合>、新設の公大協事務所で会議を終えると、新橋駅へ向かう道筋にある串八珍で議論のつづきをして親交を深めた。

 20年余にわたる<戦友>を久しぶりに集めようと児玉さんからメールが入った。シンポジウムの日の昼食を共にして歓談したいと、荻上さん、森正夫(愛知県立大学長)さんに声をかけたが、あいにく時間調整ができず、<四人組>が揃ったのは祝賀会の短い時間だけであった。

 昼食の歓談は児玉さんとサシの10数年ぶり。台風の接近が分かっているのに大阪から傘もなしの手ぶらである。すこしも変わらない。思わず口元がゆるむ。近くのタイ料理屋で歓談と相成った。

 大きな転機となった公大協の事務局新設、法人化にも各種委員会を設けて積極的な議論を進めたことの意義等を再確認した(詳しくは上掲『公立大学協会60周年記念誌』を参照)。これに拍車をかけたのが、2007年の中田晃さんの事務局長就任である。

 今回の歓談は前半の10年に集中し、後半の近10年については当事者意識が薄いことに気づいた。公大協の活動ぶりについて本ブログに何本か記事を書いている(2014年10月15日掲載「公立大学学長会議」等)ものの、主体的に関わっておらず、もっぱら<記憶から記録へ>の意図にそって書いている。「…今日の参加は、この近10年を学ぶためだね…」と確かめあった。

 シンポジウム後の祝賀会は広い会場に変更。中田さんの司会で始まり、鬼頭公大協会長(静岡県立大学長)が挨拶。来賓として佐々木さやか文部科学大臣政務官と大学改革支援・学位授与機構及び認証評価機関連絡協議会議長を務める長谷川壽一氏の挨拶があった。祝詞は<半来賓>の荻上さんが述べた。会場は祝賀に盛り上がったが、あいにくの台風による交通機関の乱れの情報に、急ぎ帰途につく姿もあった。

IUC学生の三溪園印象記(2019年)

 今年もIUCの学生・教職員のみなさんの来訪を受け、10月4日、村田和義副園長、吉川利一事業課長、ガイドボランティア金曜班の大西功さん、山田博康さん、橋本幸夫さんとともに一行を出迎えた(本ブログ2019年10月11日掲載「10月初旬の三溪園」)。

 そのとき「…20世紀初頭(明治末~大正期)の近代に創設された三溪園は、それ以前の近世(主に江戸時代)の庭園(枯山水、心字池等)が<象徴主義>であるのに対して、<自然主義>に基づき、地形の特徴(谷戸=谷と丘)を活かして造園された新しい思想に基づく日本庭園であり、この種のものは三溪園のみ、これを念頭に古建築の配置の妙も見て欲しい」と述べ、学生諸君には三溪園の印象記を寄せてほしい、とも要請した。

 学生たちと別れてから、バートン所長を招き、村田副園長と一緒に、三溪記念館にある望塔亭(池越しに三重塔を望み呈茶サービスのある施設)でゆっくり歓談する機会を得た。

 数日後、IUCの橋本佳子さんから嬉しいメールが届いた。「…学生の作文がまとまりましたので添付にてお送りいたします。今回は15名が貴園見学について作文にまとめました。15名全員、本文が氏名とともに掲載される可能性があることを承諾しております。…」

 三溪園の吉川利一事業課長も、この報せを喜び、「初めての訪問の第一印象、また日本の文化や自然に対する概観など、さまざまな異文化への視点を知る、当方にとって貴重な資料であると思います。」と返礼した。

 15名の学生たちの新鮮な印象、学内授業から解放された喜び、そして日本文化に関する鋭い切込み等、とても貴重な内容である。学生諸君にとっても、この<記憶から記録へ>の意義は、いつか得がたいものになると思う。

 余計な解説を付さず、さっそく掲載する。【お断り】お送りいただいた作文の字体を本ブログで常用するものに改め、また12ポイントに拡大しました。なお原文の三渓園(三溪園の略字)表記はそのまま残しました。


チャン アンソニー
 この夏、他の先生とクラスメイト達と三渓園を訪ねたことがありますが、時間が比較的限られていたので残念ながらグループで単に散歩することしかできませんでした。今回の機会で庭園の美しさを見ることだけではなく、庭園の真の構造を鑑賞することができました。ボランティアの橋本さんに三渓園のそれぞれの建物の歴史と意義について丁寧な説明を聞かせていただきました。京都からの建物が分解され、横浜まで移築され、異なる環境で建て直され、新しい意味を与えられて文化財として保存されたことは本当にすごい出来事だと思って印象に残りました。三渓園の意図的な構造の意味についても考えさせていただきました。例えば、橋本さんの説明で臨春閣の次の間から見える三重塔と池と月の景色を意図的に「絵にした」ことと春草廬の周りを荒れ果てたお寺のような雰囲気にすることなどを勉強したことで新しく鑑賞できました。もしそのような背景が分からなかったら、その建物と周りの自然の意味をそのまま気付かなかったでしょう。この目を見張るような経験のおかげで、今後日本の庭園に行くと、きっと構造の意味について考えると思います。この大切な機会で新しく学ぶことができたことに感謝しています。


東まり子
 横浜美術館で開催していた「原三渓の美術」と言う展覧会を見た時以来、訪れたかった三渓園へやっと行けて良かったです。横浜の中心地から遠く離れている森林の中のお庭で、とてもリフレッシュできた気分になりました。
 緑に囲まれた景色の中に何軒もの歴史的建造物が馴染んでおり、とてものどかな風景でした。私は特にこの建造物に興味があり、私達のグループのガイドさんからたくさんお話を聞くことが出来て、とても嬉しかったです。建造物を保存するため、様々な方法で移築されている例がありますが、三渓園のような規模と周りの風景を意識的に取り込んだ保存例はとても珍しいと思います。また、保存を通し、原三渓の個性的な趣味もお庭に表れているのが面白いと思いました。ガイドさんが言っていたように、「庭は生きている美術品」だと本当に実感しました。生きているからこそ変化があり、メンテナンスも必要なのです。これからの季節と共に変わって行く三渓園をまた訪れるのを楽しみにしています。


メンダズ トレバー
 三渓園を訪ねさせていただいて幸いでした。私は日本文化史が好きですので庭園に行くのは楽しみでしたが、期待以上に楽しかったです。三溪園は谷にありますので、異世界に入ったようでした。入口を通ると横浜市の企業や工場などはまるで消えてしまったような気がしました。庭園を散歩する時間しかありませんでしたが、鑑賞した建物や景色が最高でした。全国から移築された歴史的建造物を観ながら三渓の庭園の構想を聞かせていたくのも興味深かったです。移築された建物は元々異なる時代に様々な所で建てられたのに、首尾一貫した世界だと感じました。確かに、原三渓氏の理想的な世界でした。すべての建築を一番相応しくて美しい文脈で経験できて、最高でした。庭設計もぴったりだし、流水の音も自然で優雅だし、極楽と見まがう様な環境でした。
 極楽のような場所で、明治時代の美意識も感じさせていただきました。ツアーガイドの方に聴いた通り、原氏は明治時代の三大茶人の一人でした。経済的・文化的に豊かな教養人として、明治の文化的理想を庭園で示しました。それで、歩きながら、明治の美的な心へのアクセスを得たと感じました。素敵な散歩だけではなく、明治の文化的生活の理解にも大変助かりました。このような機会をいただき、心より感謝しています。


リュ シャオユ
 金曜日の校外学習は八聖殿と三渓園について深く学ぶ機会となり、横浜の歴史を間近で感じることができました。横浜市にくる前の私の感想は、横浜市といえば現代的で、国際交流の機会が多くて、大事な産業がある港湾都市というイメージでした。しかし、今回の校外学習で、ガイドボランティアの面白くて明確な説明のおかげで、私が思っていたイメージに加えて、横浜市が歴史を抱えている地であるということを学ぶことができました。
 印象に残ったことの1つは、最初に横浜の海の変遷について八聖殿館長の話を聞いたことです。かつての自然の海岸の輪郭を学んで、前より横浜市の地理をよく理解することができました。一階の「漁村の祭りとくらし」という展示では、横浜市の歴史や文化が展示されていました。きっちり文書化されて慎重に提示していて、横浜の歴史のありがたみがわかりました。横浜に行く前に、横浜が海岸の近くであるということはわかっていましたが、横浜の地域が砂州で仕切りられた形で入海が広がっているということはあまり考えませんでした。「横浜」という地名のはじまりは面白い話だと思います。館長の話によると八聖殿が建つ本牧岬の崖は、江戸時代に風光明媚な場所としてなって、北斎がそこで富士山を描いたそうです。しかし、現在その見晴台は高速道路や工場地帯となりました。その見晴台に立っている時、場所の変遷したのを少し気の毒に思いましたが、私は昔の人の進歩に対する熱心さを感じました。
 三渓園でも、その「熱心さ」を感じました。三渓園では重要文化財建築が群を成しています。園内には京都や鎌倉などから歴史的に価値の高い建造物が移築されました。私が興味を持った建造物の一つは月華殿です。京都伏見城内に建てられたものといわれていて、縁側に座ると、塔の隣の本物の月と水面に映った月がちょうど見えるそうです。三渓園の建造物は気をつけて配置されていると思いました。そして、大きな建造物が多くて、ガイドボランティアにその建造物をどのようにもらって来たかと聞いてみると、人の力で運んで来たという返事をいただきました。時間もお金もかかったそうです。ガイドボランティアは、三渓園の設立は熱心な努力のおかげだったとおっしゃいました。
 今回の校外学習で日本の文化や考え方についても勉強できました。横浜で勉強している私の役目は、ここの地域の歴史を理解して、歴史を守り残してきた人たちの努力を学ぶということだと思います。現代の横浜市を理解するために、その歴史を深く学ぶ方が良いと思います。


ホワン シューティン
 横浜で新しい生活が始まってから、もう数週間になったが、毎日学校と家を往復するばかりなので、このまちをゆっくりと感じる時間がなかなかないと思う。だから、今週の金曜日に、八聖殿郷土資料館と三渓園を見学することができて、嬉しかった。
 八聖殿郷土資料館で横浜の歴史や伝統的な行事などを館長さんが詳しく説明してくれた。最も驚いたのは、横浜の海の変遷のことだ。館内に展示されている写真によると、今センターが位置しているみなとみらいは昔は海だったそうだ。戦後の経済成長に合うように、海が埋め立てられて、経済の中心が漁業から工業へ変わっていったとのことだ。「巨人の肩にのる矮人」と科学者ニュートンが言った。横浜の昔と今のそれぞれの写真を見たところで、急にそのニュートンの言葉が頭に浮かんだ。それで、横浜の歴史を少しだけ知って、このまちとのつながりが強くなっていくと感じた。
 三渓園は八聖殿から徒歩10分くらいの距離にある。日本の四季がはっきりしているとボランティアさんが言った。庭園の建物の名前を見ると、確かにその通りだ。「臨春閣」や「聴秋閣」や「月華殿」や「白雲邸」などの名前には四季と自然が含まれていて、もっともよい季節を感じることができるようだ。名前だけで、日本が持つ特別な美しさが伝わってくると思う。さらに、建物の非相称性についても教えてくれた。平面図から見ると、建物の構成は確かに相称的ではない。しかし、全体として、周りの自然に合わせていて、調和した景観になっていると思う。私は専門的な分析はできないが、ただ直感的な優雅さが目に入ってきた。
 11月には菊花展が開催されるそうだ。その時、もう一度三渓園を訪れるつもりだ。


バーク  エイミー
 校外学習として10月4日に横浜の有名な三渓園に参りました。そこで、ボランティアガイドの橋本さんが分かりやすく詳しく案内してくださいました。まだ10月で、紅葉は始まっていないですが、朝の大雨が止んだあとの植物の豊かな緑が綺麗で、とてもすばらしい自然に囲まれた感じで嬉しかったです。
 明治39年に原三渓という実業家が三渓園を開園しました。ほかの日本の最も有名な日本庭園と違って、三渓園は自然主義に基づいて造園されました。公園の計画は人工のものですが、本物の自然のように整理されたそうです。お客さんの鑑賞のために、植物から像までよく設計されていて、公園の中の全部のものの位置に理由があります。
 三渓さんの美意識は高いと思います。公園にある和風の家の縁側から三重塔が見える眺めの印象はまだ頭に残っています。それも三渓さんによって設計されたもので、いつでも瞑想中に家から絵のような自然を見ることがでるそうです。
 三渓園では、お茶が重要な役割を果しています。橋本さんが庭園のいろいろな茶室を案内してくださいました。特に春草廬という茶室が好きでしたが、九つの窓があるので、室内に自然光が差し込むように見えます。茶室の入り口は低くて、どんなに偉い人でも入るときに頭を下げなければなりません。こういうふうに、茶道の際だけは地位が関係なくて別の世界が作られていると橋本さんに説明していただきました。昔の習慣が大事に保存されているのはすごいと思いました。
 ほかの日本庭園に比べると、三渓園の雰囲気は落ち着いていて、ゆったりした環境で自然や歴史を楽しむことができます。季節が変わると公園の景色も変わるので、ぜひまた行きたいとおもいます。


モール シャトルンジェイ
 10月3日、私は日本語のプログラムの同級生と一緒に三渓園という綺麗な庭園に行った。三渓園は1906年に作られた庭園だ。三渓園には京都や奈良や鎌倉にあった江戸時代の建物が展示されている。創立者、原三渓は実業家だったが商業以外の慈善事業についても興味を持った。それで三渓園を作った。三渓園には博物館と違う雰囲気があった。普通の博物館では展示物はビルの中に並べてあるが、三渓園では綺麗な自然の場所に江戸時代の建物が展示されている。ガイドの方がとても良く説明してくださって、江戸時代の習慣や生活について大変勉強になった。
 三渓園にある池には綺麗な魚や亀やカモなど色々な動物がいた。ツアーが終わった後で友達と一緒に池の景色を見て、可愛い動物を見て感動した。自然に近づいたような気がした。その後で友達と一緒に丘に登って三重塔を見学した。丘にいるとき音楽が聴こえてきたのでとても良い気持ちになった。実はその夕方、フルートのコンサートが行われるということだった。行きたかったが残念ながら金曜日の晩に前から約束した予定があって、東京へ行かなければならなかった。
 毎日のクラスの代わりに、1日の遠足に出かけるのはとても楽しかった。横浜のことをいろいろ知ることができたが自然との親しさも感じられた。友達にも三渓園のことを勧めたいと思う。また、紅葉の写真が綺麗だったので、機会があれば秋に三渓園の風景を見てみたいと思う。


ニューサム サラ
 以前に三渓園に行ったことがある。前に行った時は大雨が降っていて、ちょっと大変だったが。大雨のおかげで、人があまりいなくてよかったが、道はいくつかは雨や風のために通行止めになって、三重塔にも行けなかった。そこで、今回また、三渓園に行くことにした。三渓園に行く日は、朝、大雨だったので心配だったが、バス停に着く前に、雨が止んで晴れたので、ほっとした。
 まず、八聖殿にいった。横浜市の歴史をすこし説明してもらって面白かった。後で、三渓園をガイドの方に案内してもらった。面白かった点は、いろいろな古い建物が京都で建てられて、それが明治時代後に三渓園に移築されたということだ。なので、実際には三渓園自体はあまり古くないのだが、きれいで静かなところである。三重塔に登ったが、とてもすてきであった。三渓園は大都市横浜にあるけど、自然に近く、田舎にいるようで、とてもいい経験だった。


リン スルウィン
 私にとって、金曜日の校外学習は初めての経験なので、何を期待すべきかわかりませんでした。ですが、思ったより楽しくて、面白かったです。日本の文化について学べただけでなく、クラスメートのことをよく知ることもできました。
 正直に言うと、校外学習に行く前に八聖殿というところについて、全然知りませんでした。外から見た時、ちょっとつまらなそうにも見えましたが、中に入ってみると、「何事も見かけではわからない」ということがわかりました。親切なスタッフの皆さんのおかげで、八聖殿と横浜の豊かな歴史がわかりました。説明と写真で、以前と比べて、現在の横浜は大分都市化が進んでいるという感じがしました。また、勾玉作りというワークショップはとても興味深かったです。皆が一緒に楽しめ、日本の伝統文化をもっと深く理解できました。
 三溪園でも素敵な経験をしました。そこを歩きながら、素晴らしい茶室や木を見ました。何回も京都のようだと思いました。ボランティアガイドの方のお話によると、三渓園は芸術家や文学者などの文化人たちの交流の場としても知られ、近代日本文化の一端を育んだ場所でもあるそうです。ガイドの方は年配の方でしたが、とても熱心に説明をして教えてくださいました。本当にありがたかったです。
 金曜日はほんとうにいい一日でした。日本の文化について学んだし、同じ授業以外のクラスメートと話す機会もいっぱいありましたし、いろいろ感動もしました。


デービス ヘザー
 今週、授業の代わりに、遠足に行くチャンスがやっときました。金曜日は三渓園という日本の伝統的な公園に行くことになりました。皆はとても期待していましたけど、台風が来るかもしれないので、心配もありました。雨でも行くと言われましたが、やっぱり公園というのは晴れた日の方が楽しめるところだと思います。しかし、金曜日は、雨が朝だけ降った後、すぐに止み、午後は晴天になりました。
 三渓園に行く前に私たちは近くの博物館で面白い歴史についての講演を聞かせてもらいました。個人的には、横浜港の説明が一番面白くて、本当に勉強になりました。その後は三渓園の庭園に入りました。すごく印象的な景色で、入ったとたんに好きになりました。伝統の茶室は現代でも堅牢にみえて、昔の貴族がそこでお茶会をするのが想像できました。ガイドの方も優しかったし、静かで自然が多かったし、本当に楽しかったです。今度アメリカの家族と一緒に行きたいと思っています。


コナー マイケル
 10月4日にセンターで校外学習として、横浜の八聖殿と三渓園という歴史的な所に行ってきました。八聖殿で横浜の起源について学んで、勾玉という伝統的なものを作ることができました。三渓園できれいな庭園を散歩しながら案内人の方が建物や庭について説明してくださいました。
 八聖殿は 1933年に建設された八角形の建物で、1973年から横浜の歴史博物館として存在しています。そこで、横浜の名の由来を習いました。江戸時代の横浜の地図を見たら、今と地形が全然違います。以前は湾があって、湾と海の間に長い砂浜がありました。地図を見るとその砂浜は横に出ていて、「横浜」という名になったと言われています。現在は、 湾の代わりに街になりましたが、二本の川が残っています。
 三渓園はもともと蚕糸業でお金持ちになった原富太郎の庭園でした。その人が100年ぐらい前、京都や和歌山から歴史的な建物を集めました。今三渓園では、建物と造園と茶会の組み合わせが中心にされています。校外学習で横浜について色々学ぶことができ、行って本当によかったです。


グレイザー ヴィンセント 
 遠足から帰ってから、そして土日もずっと庭園について考えていました。そのコースを選択した時は、特に大きな期待はなく、自然の中にいられればいいと思っていました。しかし、三溪園は自分に強い印象を与えてくれました。
 まず、蚕です。私は毎日虫の勉強に夢中ですが、遠足の前に本物の蚕を見たことがありませんでした。幼虫と繭を見ると、絹を作ることについてもっと深く理解できました。そして、その絹の興味から、三溪園も楽しめました。あの素晴らしい所は、人間と虫の協力で作られたことが分かり、人間と自然のつながりも分かるようになりました。
 ところで、三溪園は全体が自然のなかにあるように作られているそうです。建物の様子は周りの植物にすぐに溶け込みました。そのような場所にいると、ストレスが消えて、心が静かになるように感じます。原三溪が客のために庭を無料にしたということを聞いて、より鑑賞できるようになりました。みんなが平等に楽しめる所だったら、さらに美しく感じられます。実際に来てみたら、思ったよりとても楽しかったので、嬉しかったです。

 
エズゲラ パウラ
 先週の金曜日に遠足で八聖殿と三渓園に行った。興味深い印象をたくさん受けて、とても楽しめた。その経験は、日本文化と季節の関係についてとても考えさせてくれた。
 まず、八聖殿で日本の祭りの説明を教えていただいた。八聖殿の所長の話によると、日本ではそれぞれの祭りが一つの季節の必要な行事と関係があるということだ。春は植物の生える時期なので、雨が特に大事で、雨が降るように色々な踊りと祈りがある。夏は、蒸し暑さのせいで日本では害虫が危ないので、国を守るために賑やかな祭りが行われている。収穫は秋だから、その時、神様に感謝の気持ちをお伝えする。冬は食べ物を保存しなければならないので、正しく保存できるように多くの供物をそなえる。そうすれば、神様に冬の間に十分な食べ物を食べていただけるはずだということだ。
 そのあと、三渓園に行って、そこで素晴らしい三渓園を計画した原という人の生い立ちを聞かせていただいた。原さんは市民を喜ばせるために、10年間頑張って三渓園を作った。目的の一つは季節を感じさせることだと言われている。そのため、きれいな常緑を植えるだけでなく、桜や蓮子や紅葉や梅など何種類も探して植えた。つまり、原さんの努力のおかげで昔も今も三渓園で人々はきれいな日本の季節を楽しめるわけだ。
 今回の遠足で日本文化と季節の関係について細かい点を学んだ。しかし、最近は世界中で、地球温暖化が問題になっていて、そのせいで季節がどんどんなくなっていくと言われている。なので、私は「季節がなくなれば、日本文化にどんな影響を与えるだろう」ということを考えている。


プラング ディラン
 ⼤学の時に⽇本の芸術や美学のクラスを取ったが、それにもかかわらず⽇本の庭園と欧米の庭園の違いに驚いた。もちろん、季節によって三渓園はいつも変化しているそうだし、このような感想は初めて訪れた経験にしか基づいていないので、間違っているかもしれない。しかし、三渓園は、花や植物だけに焦点をあてるより、建物や訪れる人の園での経験にも注意を払って作られているようだ。それは⼀番驚いた点だった。しかし、その⼀⽅、欧⽶の庭園は⼀般的にもっとケバケバしく⾊や植物の多さを⼀度に強調する。そのため、この遠⾜で庭園のイメージをちょっと考え直すことができてよかった。


シェン トン
 中国でも、いろいろな庭を見学したことがあった。それと比べて、三渓園の一番特別な点は自然を重視している点だと思う。中国の庭は自然の美しさを利用して、建物を強調することが多い。だが三渓園は、建物が自然の一部になる、そういう印象がある。簡単に言えば、それは「自然に生まれる庭」という感じだ。また、三渓園は自然の偉大さを強調することもあると思う。南門から入った時、高い山があると思ったが、登ったら、そんなに高い山ではなかった。だが、山の下から見ると、緑が山の本当の姿を隠して、視覚的な大きさを作った。それはとても面白いと思った。

10月初旬の三溪園

 10月の声を聴くと暑さもやわらぐものだが、今年は観月会を終えても、最高気温が30℃前後の暑い日がつづく。それでも三溪園では、暦通り秋の行事が進んでいる。

 10月3日(木曜)から、三溪記念館の第一、第二展示室で、新しい所蔵品展「三溪の書画・牛田雞村・臨春閣の障壁画・漆芸品から」(11月6日まで)が始まった(担当は北泉剛史学芸員)。

 なかでも三溪の筆になる<旅の絵>に心惹かれる。《石山秋月》、《堅田》、《彦根城》、《大和路》、《白河関所》、《鳥海山》、《裾野》の7点。三溪の旅の絵は秋の景色が多いという。

 翌4日(金曜)午後、パシフィコ横浜内にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter University Center for Japanese Studies、略称は最初の3文字を採りIUC)の、2019年次生34名と職員9名が来園した。

 IUCとの付き合いは、私が横浜市立大学在任中の1987年、東京の紀尾井町にあったIUCを横浜へ誘致する企画に始まり、以来30年を超える。この貴重な上級日本語教育機関を継続維持する活動に頭が下がり、国際都市・横浜として、できるだけのお手伝いをしたいと思った。

 本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の111号(2013年12月16日)にある通り、IUCは2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、学生たちは来日前にそれぞれの大学で専門分野と日本語を学び、ここIUCで10カ月間にわたり750時間の集中訓練を受ける。

 ブルース・バートン現所長とは25年前、彼が所長として赴任した折(今回は2回目)にお会いしている。付合いが長かったのはケネス・バトラー元所長(1930~2009 年)で、1967~77 年、1995~2001年、2003~2008 年と3回、計22年にわたり所長をつとめた。

 いよいよ4日の午後、村田和義副園長、吉川利一事業課長、ガイドボランティア金曜班の大西功さん、山田博康さん、橋本幸夫さんとともにIUC一行を出迎える。

 短く歓迎の言葉を述べた後、20世紀初頭(明治末~大正期)の近代に創設された三溪園は、それ以前の近世(主に江戸時代)の庭園(枯山水、心字池等)が<象徴主義>であるのに対して、<自然主義>に基づき、地形の特徴(谷戸=谷と丘)を活かして造園された新しい思想に基づく日本庭園であり、この種のものは三溪園のみ、これを念頭に古建築の配置の妙も見て欲しいと述べた。

 学生諸君には三溪園の印象記を寄せてほしい、とも要請した。印象記はまとまり次第、本ブログに掲載したいと思う。

 鶴翔閣では「手仕事に遊ぶ錦秋」(10月4日(金曜)から6日(日曜)までの3日間)が開かれた。2006年に三溪園で始めた「日本の夏じたく」に端を発し、毎年すこしずつメンバーを変えて続けてきたという(事務局の米倉久美子さんによる)。

 その案内パンフ(A6版のハガキサイズ、A3サイズの8つ折り)が手仕事の見本のようで美しい。裏返して拡げるとA3サイズ、そこに鶴翔閣(290坪)の地図があり、出展作品25点の写真と作者・題名がある。静かな展示と思いきや、想像以上に展示品(木器、帯生地、ショール等)が多く、即売会も兼ねる盛況ぶりであった。

 夕刻には<三溪園和音(WAON)まつり2019~「音」故知新~>が始まる。会場は外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)。旧燈明寺三重塔(重要文化財)を見上げる位置にある。案内用のリーフレットは外国人を想定して、日本語と英語で書かれている。

 この催事は、ラグビーW杯日本大会2019の試合が行われる期間(9月20日~11月1日)のうち、主に週末の19日間、開園時間を19時まで延長し、日没からは灯りで彩られる幻想的な風情を楽しんでいただく趣向である。将来を嘱望される若いアーティストたちが重要文化財を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 三溪園職員の多忙な日々に配慮して横浜市文化観光局観光振興課の三溪園チーム(永井、關、菅野、廣瀨)が中心となり企画・実施している。その中心を担い、毎回の司会も務める廣瀨知理さんの斬新な発想と精力的な活動に脱帽。しかも16時半以降は入園料を無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配した。

 この<三溪園和音2(WAON)まつり>は、9月20日(金曜)から始まって3週目になる。その特別演奏会には、ハープの操美穂子、ボーカルグループJewel、津軽三味線の朝倉盛企、尺八の阿部大輔、アコースティックギターの松井祐貴(敬称略)が出演した。10月4日(金曜)からの演奏についてはリーフレットを更新、フルートの小川恵理紗、筝の古澤延隆、津軽三味線の朝倉盛企、アコースティックギター弾語りのRihwa、ヴァイオリンの森田綾乃(敬称略)が写真と解説とともに載る。

 日没が早まり、演奏開始6時の真っ暗がりに、旧燈明寺本堂の舞台が耿々と浮かび上がる。音響・照明を含む舞台造りは㈱tvkコミュニケーションズ。㈱マントルによる足元灯は、電線を使わない個別電池方式で、蓮の花弁型の行灯を単体・3連・5連で配置。ライトアップされた旧燈明寺三重塔に上弦の月が寄り添っていた。

 翌5日(土曜)、「第19回 三溪園フォトコンテスト・四季のおもいで」の表彰式が三溪記念館の応接室で行われた。419点の応募のなかから選ばれた入賞作品46点の表彰である。応募期間は2018年9月~2019年9月1日で、応募総数は419点。審査員は大河原雅彦(神奈川新聞社カメラマン・元写真部長)、山田信次(神奈川新聞社カメラマン)、森日出夫(カメラマン・公益社団法人日本写真家協会会員)の3氏。1990(平成2)年に始まり、審査員による厳正な審査を進めて現在にいたる。

 表彰式は11時から、中島哲也総務課長の進行、北泉剛史学芸員の賞状補助により始まった。私は挨拶のなかで、およそ次のように述べた。

 今年度は419点の応募がありました。私たち三溪園職員は日々園内の景色を見ていますが、応募作品から改めて三溪園の姿に気づかされることが多く、嬉しく思います。応募作品を前に審査員の先生方が意見を出し合い、厳しい審査を通過したのが、皆さまの46点です。良い作品が多く、選考が難しかったと聞いております。今回、<推薦>(一等賞)を受賞されたのは芹野ゆかり(せりの ゆかり)さんの「風光る」です。昨年も佳作に入賞され、2年連続の受賞です。これからもカメラで三溪園の魅力を捉えてください。…

 ついで賞状授与。銘々のお名前を読み上げ、私から賞状と賞品・記念品をお渡しした。

 そして山田審査員による講評。最優秀作品<推薦>を獲得した芹野さんの<風光る>について、大池わきに咲き誇る桜の遠景と大池を右方向に行く水鳥の航跡の<動>が見事、と話される。そして会場を見渡して、「自分の属する写真家団体で最多を占めるのが70代、ついで60代です。お互い、これからも元気で撮影をつづけましょう」とエールを送った。

 受賞者46名のうち40名が市内在住の方々。足繁く来園し、春夏秋冬、さまざまな時間帯のカメラアングルを探っておられるに違いない。フォトコンテストの受賞者と標題は、以下のとおり(五十音順、敬称略)。

推薦 芹野ゆかり<風光る>

特選 大竹博<子供の世界>、平山清<防火訓練>

入選 市坪信教<月見の飾り>、嶋村すみ<秋の夕べ>、中山博<猿まわし>

佳作 石井良明<名物 干し柿>、石川元章<月下の舞>、稲谷友良<二人の行く先は輝いている>、小田博文<大輪の蓮花>、斉藤精一< 仲秋の夕暮れ>、境記子<星に願いを>、宝田利則<祝い雪>、中山泰雄<亀と鷺の睨めっこ>、濱﨑敬子<ひざし>、福田勝美<もみじの下で>

努力賞 青木克之<専門学校生による植木研修>、秋山文雄<平成最後の庖丁式>、飯島彰<早春の風情>、池田光夫<春の陽ざし>、井脇音文< 夜桜と三重塔>、乾ゆりゑ<屋根裏の窓>、今井千穂<壮観>、上野昌孝<夕暮れのシルエット>、加藤豁子<夕陽>、川口忠男<花々香る園>、川瀬閑人<虹をまとった蓮の葉シャワー>、北原實<3人画伯>、
木村佳子<観梅のおもてなし>、河野君江<見守ってます>、小林正雄<夕暮れ>、小梁川正芳<先人の足跡>、斎藤勝正<初冬の内苑>、鈴木計子<芽吹きの候>、鈴木克精<冬の光>、角弘<美の競演>、塚本紀夫<椿咲く頃>、戸澤昌之<風雅を楽しむ>、永島明<夏空>、中田達男<夏まっさかり>、中村はるみ<ママ!! ただいま~>、本田照子<ひっそり咲く>、間下光義<最終章開幕>、望月敏一<あじさいと新緑の小路>、吉川厚<春過ぎて>、米沢養躬<大きくなーれ>

 受賞作品は、三溪記念館第3展示室で10月5日から12月11日(水曜)まで観覧できる。解説には撮影月と場所も付されていて参考になる。

中学校の同期会

 久しぶりに中学校の同期会に顔を出した。9月22日(日曜)午後、西武池袋線・大泉学園の駅ビルの一室が会場の、新制3期生の集まりである。

 参加は何年ぶりか、古い記録を見る。本ブログの2014年6月16日掲載「中学の同期会」が見つかった。5年前、有楽町の糖業会館で開催、約10年ぶりの出席と書いてある。この15年間にたった2回だけの出席である。

 呼びかけのメールには「毎年母校のホームカミングデーに併せて大泉近辺に集まりお喋りしようという趣旨です。今までの格調高い同期会ではなく気楽な集まりです」とあり、その末尾に「中西、山下両先生にはお声をかける予定です。永久世話役(いつまで続くかわかりませんが)を仰せつかった近藤 平野 藤原 山元」と、懐かしい名前が並ぶ。

 世話役諸氏への感謝、身罷った友への想い…。「出席します。あの頑強そうに見えた小西が逝き、このあたりでみなさんのお顔を拝む気になりました。…」と返信する。

 大泉学園駅は西武池袋線の始発池袋駅から9つ目の駅(後に1駅増設)で、そこから南へ徒歩5分のところにある東京学芸大学大泉附属中学校、ここが附属小学校から持ちあがりの、私の通った学校である。 

 大泉学園駅の3駅手前の中村橋駅から、当時は珍しい電車通学をしていた。駅の近くには木炭を燃料に走るバス(木炭バスと呼んでいた)の待機所があり、憧れの運転手さんにサツマイモを預けておくと、下校時にホカホカの焼きあがりを返してくれた。

 入学は1943(昭和18)年、当時の校名は、東京第三師範大泉附属国民学校。3年生になってすぐ群馬県勢多郡新里村の祥雲寺学寮へ集団疎開。戦後の学制改革で東京学芸大学附属小学校と改名されるが、私はすでに中学校へ進学していた。

 参加者は18名、配られた名簿によると、山下先生、飯倉、加藤、金子、近藤、田村、戸塚、室田、八木、山元、横山、岡野、大橋、永池、藤原、平野、本道、野中。男子は互いに呼びつけで、あだ名でも呼びあい、女子にはさん付けであった。

 欠席の返事は16名、中西先生、生野、持田、菅家、長畑、安岡、市川、今泉、宮下、西田、相良、白戸、松本、尾形、飯田、小藤田である。

 出欠を知らせてきた34名のうち15名がメールアドレスを持つ。82~83歳のグループでパソコンを駆使するデジタル人間が半数は悪くない。

 席順は籤で決める。運よく長テーブル中央の山下政太郎先生(国語、クラス担任)の隣を引き当てた。90歳とは思えぬ若々しい風貌と話しぶりである。

 まず幹事の山元の報告。「…昨年以来の物故者は2名です…。黙祷を捧げます。…」

 のち山元と藤原さんに問い合わせると、5年前、「物故者は27名…」と記した私のブログは誤りで、29名が正しいとのこと。したがって、この5年間の8名を加えると、物故者の総計は37名となる。なお卒業時の生徒数は2クラス合計で109名と山元は推定しているよし。

 冒頭の先生の挨拶が堂々としている。「…酒、タバコ、運転、いずれも止めておらず現役です。運転は一日に300キロは平気…」

 5年前の挨拶は次の通り。「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスはいまも楽しんでいます。寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本を…」とにっこり。

 5年前より過激?、あるいは一種の諦観? 「85歳くらいを境にガタっと弱る。…」とつぶやかれたが、それでも、この勢い!

 ついで、久しぶりの参加という理由で、突然、私に近況報告が振られた。先生の挨拶に圧倒されて、まとまりもないままに話し始める。

 「私はタバコを止めて14年、運転免許を返納して5年となりました。以前は時おり、夢のなかで細巻葉巻のキャプテンブラックを美味そうにくゆらす自分に会いましたが、今はそれもありません。ここは恩師と大違いです。…
しかしながら恩師の教えを守っていることが2つあります。第1が中学2年の夏休みの作文を褒められて書く喜びを知り、以来、70年にわたり書きつづけていること。
 第2がテニスです。先生に教えていただいた放課後の軟式テニスの面白さを忘れられず、硬式テニスを30代後半から始めて40余年が経ちました。いまも現役で、週に数時間はプレーしています。…」

 最後の一言にどよめきが湧いたので答えた。「…世に言う<好きこそものの上手なれ>、そして<下手の横好き>。…私がどちらかは想像に任せます。…」

 先生が話しかけてきた。「…君の作文のどこを褒めたか覚えていないなあ…」。それに私は答える。「私も教員生活が長かったので、学生のレポートや論文に書いたコメントを一つ一つは覚えていませんが、良い所を見つけて褒めてきました。内容に欠陥があるのは当然で、それだからこそ教育の役目がある…」

 先生は深く頷く。たった7歳違いであっても、14歳の生徒にとって21歳の先生は大きな存在であり、頼もしい兄貴であった。70年ほどを経てやっと教員として同じ目線に立てたような気がする。

 平野さんが書類を手に話し始めた。「…<終活>のつもりで身辺整理をしていたら、いわゆる<通信簿>が3年分まとまって出てきました。1年生の昭和24(1949)年度のものは何と書いてあるでしょう?」 答えは「…縦書きの<通告票>です」。

 <通告票>と言っていたのか! 誰も正確に覚えてはいなかったが、期末に手にした緊張の通信簿で盛り上がる。戦時中の<通告票>を承継して、新制中学の発足時に、そのまま使ったに違いない。国民学校3年生の集団疎開先で<玉音放送>(昭和20年8月15日、日本の敗戦を伝える昭和天皇のことば)を聞いた世代の共通の記憶が蘇る。

 昭和25(1950)年度から横書きの<通知表>となった。B5版二つ折りの真ん中に成績欄、裏面が<修業証書>。つづく昭和26(1951)年も同じ形式である。どうやら昭和25(1950)年度が現在につづく新制中学への実質的な転換期だったのではないか。

 最後に校歌斉唱。「-東京学芸大学附属大泉中学校-校歌 緑陰深き」の歌詞・楽譜が配られた。作詞:山下政太郎、作曲:笹谷栄一朗。

1 緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2 はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ 高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3 今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余 泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

 先生によれば、作ったときはまだ<校歌>ではなく、小学校では校歌を運動会等で歌っているのに中学にないのは寂しいと言われ、「…戯れに作詞して、…それが後に<校歌>と呼ばれるようになった。…」とのこと。

 中学の校歌は暗記していない。<校歌>になりかけの時期で歌う機会が少な
く、記憶に刻まれなかったようだ。

 先生が誰にともなく「…90歳になった今年を最後の出席にしたい…」と言われる。私は聴こえないふりをして、代わりに「紅葉の三溪園へぜひお越しください。12月初旬が良いと思います。…」と、電話番号の入った名刺をお渡しした。

台風被害と三溪園観月会

 観月会の演奏会は、これまで内苑の臨春閣(重要文化財)の第二屋で行われてきた。人々は思い思いの場所で演奏を聴きつつ月を待つ。夜の始め、煌々たる月が東の空に現われ、ゆっくりと外苑の丘の上に建つ旧燈明寺三重塔に近づいていく(本ブログ2015年10月4日掲載「観月会」、2018年9月26日掲載「復興小唄「濱自慢」」等)。

 だが今年、30年ぶりに臨春閣屋根の補修工事が入り、現在、第一屋と第二屋の工事が進行中、ついで第三屋の工事に入る。そこで演奏会は300メートルほど離れた外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)で開催することとした。

 ところが観月会の1週間ほど前、超大型台風15号が関東に接近中との予報が出た。南東に池と芝生を持つ臨春閣は台風被害を受けやすい。とくに注意をしてほしい、と伝えると、すぐに雨戸の固定を確認したと報告が来た。

 9月8日(日曜)、台風は夜遅く関東地方に上陸。激しい風雨を耳に、浅い眠りに就く。一夜明けた9日(月曜)は、眩しい陽射しに嘘のような静けさ。急ぎテレビをつける。台風の中心は未明に横浜の東部を駆け抜けて北上、福島と岩手をかすめて海上へ向かっている。

 朝10時前、留守電に気づく。三溪園の中島哲也総務課長から、多数の倒木や折れ枝が散乱し来園者の安全確保が難しい、との伝言。すぐに電話する。

激しい交通渋滞にぶつかり、15分ほどの通勤時間が2時間にもなったという。その途上で、警戒待機した営業担当の滝田敦史主事や警備会社職員と連絡を取っていた。桜道の信号のある交差点から300メートル先の三溪園までの間で桜の木が3本も倒れており、傾斜地にも裂けた太い幹がぶら下がっていた。ようやく園に到着するも、激変・惨状に愕然としたという。

 昨年10月1日の深夜に北関東を通過した台風24号の被災記録があるが(本ブログ2018年10月4日掲載「台風一過のIUC学生来園」)、それとは比較にならない。

 勤続34年の中島さんは「…知る限り過去最悪…」と一瞬、立ちすくむも、すぐ各方面に臨時休園が必要か、関係者との連絡に動いた。私は「現場の判断を優先してほしい」と答える。

 朝からの状況は次のようであった。8時半頃、鈴木正技士が一番に到着し被害状況の確認にかかる。9時50分頃、庭園担当の羽田雄一郎主事と川島武技術員、柿澤幹夫さんが到着。

 10時15分から現場を見回ったメンバーで30分間の協議、その結果、障害物の除去には時間がかかり、来園者の安全確保を考えれば休園もやむなしの結論に至った。理事長名で<本日休園>を正門と南門に表示、ホームページにも掲載する。

 協議が終わるや、鈴木さんをチーフに川島さん、築地原真技術員、柿澤さんたちは、復旧作業の段取りを決めて行動開始、羽田さんはカメラを手に被害状況の記録に出る。

 11時頃、庭園ボランティア班から多くの人が駆けつけた。最高気温34℃という猛暑の中、各所で園路清掃や枝拾いに汗を流し、その後も、合掌造り班、ガイド班を含め、ボランティアさんの献身的作業がつづいた。報告がまとまるのを待ち、ここでお名前を挙げるのは控えたい。

 昼頃、完成目前の大池南岸修景整備工事を請け負っている小島造園の高下幸紀さんが到着、翌日からの高所作業車を使う復旧作業について協議した。

 夕方、再び協議。駐車場や主だった園路の安全を第一優先に、3日後に迫った観月会に向けて段取りの詳細を詰める。

 三重塔へ登る階段口から松風閣あたりは、倒木被害が大きいため通行止めに、また内苑は春草廬への2つの入口を通行止めにした。

 春草廬の脇に立つ大イチョウは樹齢130年~150年と推定され、原善三郎がこの地を入手した当時の記念樹ではないかと私は推測している(本ブログ2018年12月28日掲載「イチョウ巡り」)。その大樹の主軸先端の数カ所が折れて落下、あたり一面に太い枝が散乱していた。

 横浜市中区にある観測所の9月9日未明3~4時の最大瞬間風速は約40メートル、1時間あたり最多降水量は71ミリ。最大級の風雨が三溪園を襲ったのも、そのころと思われる。

 なお台風15号の被害は、中心の進路の東側に位置する千葉県の一部でとくに著しい。電柱2000本の倒壊による停電(9日朝に93万戸)、電話・テレビ・ネット通信の不通による情報孤立、物流の断絶による食料・飲料水不足、断水・空調切れによる生活環境の破壊、そして家屋倒壊・破損という物理的災害の復旧遅延等へと拡がっている。

 東電は10日の段階で11日中の全面復旧の見通しを示していたが、先延ばしを発表。14日段階で14万戸が、16日段階でなお8万戸が停電、完全復旧には2週間が必要とも言われる。

 三溪園では目視と写真撮影を基に被害状況の記録作成に取りかかる。羽田さんが9日13時段階で確認した主な被害状況、地図・写真・説明を付けた「名勝三溪園 令和元年9月9日 台風被害報告書」(A4×23ページ)を完成させ、関係者に配信できたのは、なんと21時40分であった。

 三溪園台風被害概報20190909_2p-地図-(1).jpg

 建築担当の原未織主事も建造物の被害状況を「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」にまとめ、関係者に配信した。重要文化財建造物被害として①内苑の天瑞寺寿塔覆堂の正面扉上欄間の裏板脱落、欄間彫刻一部の破損、②旧燈明寺三重塔の連子窓の脱落、軒支輪裏板の破損・欠失等があった。他に茶室・林洞庵(外苑)の倒木による瓦屋根および庇(銅板葺き)の破損が含まれる。

 被害を受けた上記の重要文化財のうち、天瑞寺寿塔覆堂は秀吉が母の長寿祈願のため大徳寺に建てた寿塔(生前墓)を収める建物であり、三溪園に現存するものの中で、もっとも早い1905(明治38)年の移築である。

 また旧燈明寺三重塔は、三溪園の景観のシンボルであるとともに、1914(大正3)年の移築を機に内苑の建造物移築を加速させた三溪の造園思想を窺い知るシンボルでもある。

 いずれも部分被害であるが、放置すれば被害は全構造に及ぶ。

 懸命の作業により主な園路の倒木等の除去が進み、休園は1日だけで済む見通しがついた。

 9月12日(木曜)、いよいよ観月会の初日を迎える。演奏等の催事に外苑が使われるのは初めてであり、吉川利一事業課長を中心に不測の事態に備える。今回の主役である旧燈明寺本堂は京都府木津川市から1987(昭和62)年に移築、その名から分かるように、もともと旧燈明寺三重塔とともに同じ寺にあった。二つの建物は、73年の歳月を経て巡り会い、以来、32年の時を刻んでいる。

 日常業務は、この間も欠かすことができない。村田和義副園長の下、中島総務課長、総務課の渡邊栄子主事、田中佐和子主事が協力して実施、さらに出演者への応対、ホームページの更新等々を行う。急増する問い合わせ電話には北泉剛史学芸員ほか、手の空いている人が当たる。また受付担当の岩本美津子主事は正門と南門の窓口対応に追われた。

 私は報告書を手に園内の被害状況を見回り、メモを書き込みつつ、ふと気づく。復旧作業の経緯は記録に取っているのか。初日(9月9日13時現在)の記録はまとめたものの、復旧作業の進捗状況との距離が拡がると前後関係さえ思い出せなくなる。次々と押し寄せる作業に紛れて記憶は曖昧になり、やがて消え去る。

 当事者しか知り得ない小さなメモが、後に大きな役割を果たすことがある。これらを広く共有するには、<記憶から記録へ>の作業が欠かせない。最初の調査書をベースに、その後の変化を順次、書き込んでもらうことにした。

 羽田さんに伝えると、すぐ作業にかかり、アッという間に新しいバージョンを作った。例えば、正門から旧燈明寺本堂へは大池の左端を通るのが近道であるが、そこを塞ぐようにソメイヨシノの幹が折れている。これを10日に片づけ、11日は芝の復旧作業、観月会初日の朝には開通…と具体的である。

 「…<記憶は3日が限度>と言われますが、そのギリギリに間に合いました。…」と羽田さんの笑顔。

 原さんも「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」をベースに、その後の経過を書き入れた。

 日の入は17:54。黄昏とともに一斉にライトアップが始まる。数メートルおきに配置した園路<足元灯>の光で、園内全体がほのかに浮かびあがる。せせらぎ、虫の声、暗さに目が慣れて茶室・林洞庵がおぼろげに輪郭を見せる。

 観月会の初日は9月12日(木曜)、夕刻6時半から8時半まで
  出演:薩摩琵琶錦心流中谷派襄水会
  曲目:横笛、鵯越(ひよどりごえ)、友まつ雪ほか
音響協力は5日間を通して、太陽倶楽部レコーディングス。

 13日から16日(月・祝日)までの上演スケジュールと出演者は以下の通り。詳しくはチラシをご覧いただきたい。

 【サックスとピアノで奏でる日本の唄】9月13日(金) 中秋の名月
  出演:シャンティドラゴン/金剛督・林あけみ
  曲目:優しいあの子、パプリカ、Lemon、うさぎ、ホールニューワールド、
     愛燦燦、かぐや姫の物語ほか
 復旧状況(春草廬への立ち入り禁止を13時に解除)、曇のち晴。

 【雅 楽】9月14日(土) 満月
  出演:横浜雅楽会
  演目:[祭礼舞]豊栄(とよさか)の舞、[歌物]伊勢ノ海、[管弦]盤渉調音取
(ばんしきちょうねとり)・越天楽(えてんらく)・蘇莫者(そまくしゃ)
ほか、[舞楽] 「長保楽(ちょうぼうらく)」ほか。
 曇のち晴。開始3曲目、にわか雨。

 【筝 曲】9月15日(日)
  出演:琴美会(ことみかい)
  曲目:春の海、秋の初風、龍星群、ジブリメドレー、華紋、小さい秋見つけ
     た、月の砂漠ほか
 曇のち晴。開始3曲目、ぽつりぽつりと降るもすぐに回復。

 【竹ガムランとバリ舞踊】9月16日(月・祝)
  出演:櫻田素子(演奏)、小泉ちづこ(舞踊)
  演目:歓迎の舞、森の王者の踊り、宮廷舞踊レゴンより女官の踊り、ジョゲ
舞踊ほか
朝から断続的に降り続いた雨は16時に止む。19時半頃、月が静かに昇り、
5日間にわたる観月会を締めくくった。
三重塔への3つの登り口の立ち入り禁止はまだ解除できない。
なお千葉県内の停電は依然として8万戸、完全復旧は暗い見通しと伝えられる。また伊豆諸島の被害状況が初めてテレビ放映された。

観月会の5日間、三溪記念館は、展示室を21時まで、ミュージアムショップ
を20時半まで、望塔亭を20時まで開いた。

 以上が、台風が通過した9日から観月会最終日16日までの、8日間の大まかな記録である。多くの人は台風がこれほどの被害を及ぼすとは思いもしなかったであろう。

 大過なく観月会を終えられたのは、第1に三溪園職員を中心に各関係機関職員やボランティアの、迅速かつ的確な行動と互いの連携があったこと、第2に停電等のインフラ破壊が伴わなかったことで、復旧作業が滞りなく進んだためである。


プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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