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10月初旬の三溪園

 10月の声を聴くと暑さもやわらぐものだが、今年は観月会を終えても、最高気温が30℃前後の暑い日がつづく。それでも三溪園では、暦通り秋の行事が進んでいる。

 10月3日(木曜)から、三溪記念館の第一、第二展示室で、新しい所蔵品展「三溪の書画・牛田雞村・臨春閣の障壁画・漆芸品から」(11月6日まで)が始まった(担当は北泉剛史学芸員)。

 なかでも三溪の筆になる<旅の絵>に心惹かれる。《石山秋月》、《堅田》、《彦根城》、《大和路》、《白河関所》、《鳥海山》、《裾野》の7点。三溪の旅の絵は秋の景色が多いという。

 翌4日(金曜)午後、パシフィコ横浜内にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter University Center for Japanese Studies、略称は最初の3文字を採りIUC)の、2019年次生34名と職員9名が来園した。

 IUCとの付き合いは、私が横浜市立大学在任中の1987年、東京の紀尾井町にあったIUCを横浜へ誘致する企画に始まり、以来30年を超える。この貴重な上級日本語教育機関を継続維持する活動に頭が下がり、国際都市・横浜として、できるだけのお手伝いをしたいと思った。

 本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の111号(2013年12月16日)にある通り、IUCは2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、学生たちは来日前にそれぞれの大学で専門分野と日本語を学び、ここIUCで10カ月間にわたり750時間の集中訓練を受ける。

 ブルース・バートン現所長とは25年前、彼が所長として赴任した折(今回は2回目)にお会いしている。付合いが長かったのはケネス・バトラー元所長(1930~2009 年)で、1967~77 年、1995~2001年、2003~2008 年と3回、計22年にわたり所長をつとめた。

 いよいよ4日の午後、村田和義副園長、吉川利一事業課長、ガイドボランティア金曜班の大西功さん、山田博康さん、橋本幸夫さんとともにIUC一行を出迎える。

 短く歓迎の言葉を述べた後、20世紀初頭(明治末~大正期)の近代に創設された三溪園は、それ以前の近世(主に江戸時代)の庭園(枯山水、心字池等)が<象徴主義>であるのに対して、<自然主義>に基づき、地形の特徴(谷戸=谷と丘)を活かして造園された新しい思想に基づく日本庭園であり、この種のものは三溪園のみ、これを念頭に古建築の配置の妙も見て欲しいと述べた。

 学生諸君には三溪園の印象記を寄せてほしい、とも要請した。印象記はまとまり次第、本ブログに掲載したいと思う。

 鶴翔閣では「手仕事に遊ぶ錦秋」(10月4日(金曜)から6日(日曜)までの3日間)が開かれた。2006年に三溪園で始めた「日本の夏じたく」に端を発し、毎年すこしずつメンバーを変えて続けてきたという(事務局の米倉久美子さんによる)。

 その案内パンフ(A6版のハガキサイズ、A3サイズの8つ折り)が手仕事の見本のようで美しい。裏返して拡げるとA3サイズ、そこに鶴翔閣(290坪)の地図があり、出展作品25点の写真と作者・題名がある。静かな展示と思いきや、想像以上に展示品(木器、帯生地、ショール等)が多く、即売会も兼ねる盛況ぶりであった。

 夕刻には<三溪園和音(WAON)まつり2019~「音」故知新~>が始まる。会場は外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)。旧燈明寺三重塔(重要文化財)を見上げる位置にある。案内用のリーフレットは外国人を想定して、日本語と英語で書かれている。

 この催事は、ラグビーW杯日本大会2019の試合が行われる期間(9月20日~11月1日)のうち、主に週末の19日間、開園時間を19時まで延長し、日没からは灯りで彩られる幻想的な風情を楽しんでいただく趣向である。将来を嘱望される若いアーティストたちが重要文化財を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 三溪園職員の多忙な日々に配慮して横浜市文化観光局観光振興課の三溪園チーム(永井、關、菅野、廣瀨)が中心となり企画・実施している。その中心を担い、毎回の司会も務める廣瀨知理さんの斬新な発想と精力的な活動に脱帽。しかも16時半以降は入園料を無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配した。

 この<三溪園和音2(WAON)まつり>は、9月20日(金曜)から始まって3週目になる。その特別演奏会には、ハープの操美穂子、ボーカルグループJewel、津軽三味線の朝倉盛企、尺八の阿部大輔、アコースティックギターの松井祐貴(敬称略)が出演した。10月4日(金曜)からの演奏についてはリーフレットを更新、フルートの小川恵理紗、筝の古澤延隆、津軽三味線の朝倉盛企、アコースティックギター弾語りのRihwa、ヴァイオリンの森田綾乃(敬称略)が写真と解説とともに載る。

 日没が早まり、演奏開始6時の真っ暗がりに、旧燈明寺本堂の舞台が耿々と浮かび上がる。音響・照明を含む舞台造りは㈱tvkコミュニケーションズ。㈱マントルによる足元灯は、電線を使わない個別電池方式で、蓮の花弁型の行灯を単体・3連・5連で配置。ライトアップされた旧燈明寺三重塔に上弦の月が寄り添っていた。

 翌5日(土曜)、「第19回 三溪園フォトコンテスト・四季のおもいで」の表彰式が三溪記念館の応接室で行われた。419点の応募のなかから選ばれた入賞作品46点の表彰である。応募期間は2018年9月~2019年9月1日で、応募総数は419点。審査員は大河原雅彦(神奈川新聞社カメラマン・元写真部長)、山田信次(神奈川新聞社カメラマン)、森日出夫(カメラマン・公益社団法人日本写真家協会会員)の3氏。1990(平成2)年に始まり、審査員による厳正な審査を進めて現在にいたる。

 表彰式は11時から、中島哲也総務課長の進行、北泉剛史学芸員の賞状補助により始まった。私は挨拶のなかで、およそ次のように述べた。

 今年度は419点の応募がありました。私たち三溪園職員は日々園内の景色を見ていますが、応募作品から改めて三溪園の姿に気づかされることが多く、嬉しく思います。応募作品を前に審査員の先生方が意見を出し合い、厳しい審査を通過したのが、皆さまの46点です。良い作品が多く、選考が難しかったと聞いております。今回、<推薦>(一等賞)を受賞されたのは芹野ゆかり(せりの ゆかり)さんの「風光る」です。昨年も佳作に入賞され、2年連続の受賞です。これからもカメラで三溪園の魅力を捉えてください。…

 ついで賞状授与。銘々のお名前を読み上げ、私から賞状と賞品・記念品をお渡しした。

 そして山田審査員による講評。最優秀作品<推薦>を獲得した芹野さんの<風光る>について、大池わきに咲き誇る桜の遠景と大池を右方向に行く水鳥の航跡の<動>が見事、と話される。そして会場を見渡して、「自分の属する写真家団体で最多を占めるのが70代、ついで60代です。お互い、これからも元気で撮影をつづけましょう」とエールを送った。

 受賞者46名のうち40名が市内在住の方々。足繁く来園し、春夏秋冬、さまざまな時間帯のカメラアングルを探っておられるに違いない。フォトコンテストの受賞者と標題は、以下のとおり(五十音順、敬称略)。

推薦 芹野ゆかり<風光る>

特選 大竹博<子供の世界>、平山清<防火訓練>

入選 市坪信教<月見の飾り>、嶋村すみ<秋の夕べ>、中山博<猿まわし>

佳作 石井良明<名物 干し柿>、石川元章<月下の舞>、稲谷友良<二人の行く先は輝いている>、小田博文<大輪の蓮花>、斉藤精一< 仲秋の夕暮れ>、境記子<星に願いを>、宝田利則<祝い雪>、中山泰雄<亀と鷺の睨めっこ>、濱﨑敬子<ひざし>、福田勝美<もみじの下で>

努力賞 青木克之<専門学校生による植木研修>、秋山文雄<平成最後の庖丁式>、飯島彰<早春の風情>、池田光夫<春の陽ざし>、井脇音文< 夜桜と三重塔>、乾ゆりゑ<屋根裏の窓>、今井千穂<壮観>、上野昌孝<夕暮れのシルエット>、加藤豁子<夕陽>、川口忠男<花々香る園>、川瀬閑人<虹をまとった蓮の葉シャワー>、北原實<3人画伯>、
木村佳子<観梅のおもてなし>、河野君江<見守ってます>、小林正雄<夕暮れ>、小梁川正芳<先人の足跡>、斎藤勝正<初冬の内苑>、鈴木計子<芽吹きの候>、鈴木克精<冬の光>、角弘<美の競演>、塚本紀夫<椿咲く頃>、戸澤昌之<風雅を楽しむ>、永島明<夏空>、中田達男<夏まっさかり>、中村はるみ<ママ!! ただいま~>、本田照子<ひっそり咲く>、間下光義<最終章開幕>、望月敏一<あじさいと新緑の小路>、吉川厚<春過ぎて>、米沢養躬<大きくなーれ>

 受賞作品は、三溪記念館第3展示室で10月5日から12月11日(水曜)まで観覧できる。解説には撮影月と場所も付されていて参考になる。
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中学校の同期会

 久しぶりに中学校の同期会に顔を出した。9月22日(日曜)午後、西武池袋線・大泉学園の駅ビルの一室が会場の、新制3期生の集まりである。

 参加は何年ぶりか、古い記録を見る。本ブログの2014年6月16日掲載「中学の同期会」が見つかった。5年前、有楽町の糖業会館で開催、約10年ぶりの出席と書いてある。この15年間にたった2回だけの出席である。

 呼びかけのメールには「毎年母校のホームカミングデーに併せて大泉近辺に集まりお喋りしようという趣旨です。今までの格調高い同期会ではなく気楽な集まりです」とあり、その末尾に「中西、山下両先生にはお声をかける予定です。永久世話役(いつまで続くかわかりませんが)を仰せつかった近藤 平野 藤原 山元」と、懐かしい名前が並ぶ。

 世話役諸氏への感謝、身罷った友への想い…。「出席します。あの頑強そうに見えた小西が逝き、このあたりでみなさんのお顔を拝む気になりました。…」と返信する。

 大泉学園駅は西武池袋線の始発池袋駅から9つ目の駅(後に1駅増設)で、そこから南へ徒歩5分のところにある東京学芸大学大泉附属中学校、ここが附属小学校から持ちあがりの、私の通った学校である。 

 大泉学園駅の3駅手前の中村橋駅から、当時は珍しい電車通学をしていた。駅の近くには木炭を燃料に走るバス(木炭バスと呼んでいた)の待機所があり、憧れの運転手さんにサツマイモを預けておくと、下校時にホカホカの焼きあがりを返してくれた。

 入学は1943(昭和18)年、当時の校名は、東京第三師範大泉附属国民学校。3年生になってすぐ群馬県勢多郡新里村の祥雲寺学寮へ集団疎開。戦後の学制改革で東京学芸大学附属小学校と改名されるが、私はすでに中学校へ進学していた。

 参加者は18名、配られた名簿によると、山下先生、飯倉、加藤、金子、近藤、田村、戸塚、室田、八木、山元、横山、岡野、大橋、永池、藤原、平野、本道、野中。男子は互いに呼びつけで、あだ名でも呼びあい、女子にはさん付けであった。

 欠席の返事は16名、中西先生、生野、持田、菅家、長畑、安岡、市川、今泉、宮下、西田、相良、白戸、松本、尾形、飯田、小藤田である。

 出欠を知らせてきた34名のうち15名がメールアドレスを持つ。82~83歳のグループでパソコンを駆使するデジタル人間が半数は悪くない。

 席順は籤で決める。運よく長テーブル中央の山下政太郎先生(国語、クラス担任)の隣を引き当てた。90歳とは思えぬ若々しい風貌と話しぶりである。

 まず幹事の山元の報告。「…昨年以来の物故者は2名です…。黙祷を捧げます。…」

 のち山元と藤原さんに問い合わせると、5年前、「物故者は27名…」と記した私のブログは誤りで、29名が正しいとのこと。したがって、この5年間の8名を加えると、物故者の総計は37名となる。なお卒業時の生徒数は2クラス合計で109名と山元は推定しているよし。

 冒頭の先生の挨拶が堂々としている。「…酒、タバコ、運転、いずれも止めておらず現役です。運転は一日に300キロは平気…」

 5年前の挨拶は次の通り。「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスはいまも楽しんでいます。寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本を…」とにっこり。

 5年前より過激?、あるいは一種の諦観? 「85歳くらいを境にガタっと弱る。…」とつぶやかれたが、それでも、この勢い!

 ついで、久しぶりの参加という理由で、突然、私に近況報告が振られた。先生の挨拶に圧倒されて、まとまりもないままに話し始める。

 「私はタバコを止めて14年、運転免許を返納して5年となりました。以前は時おり、夢のなかで細巻葉巻のキャプテンブラックを美味そうにくゆらす自分に会いましたが、今はそれもありません。ここは恩師と大違いです。…
しかしながら恩師の教えを守っていることが2つあります。第1が中学2年の夏休みの作文を褒められて書く喜びを知り、以来、70年にわたり書きつづけていること。
 第2がテニスです。先生に教えていただいた放課後の軟式テニスの面白さを忘れられず、硬式テニスを30代後半から始めて40余年が経ちました。いまも現役で、週に数時間はプレーしています。…」

 最後の一言にどよめきが湧いたので答えた。「…世に言う<好きこそものの上手なれ>、そして<下手の横好き>。…私がどちらかは想像に任せます。…」

 先生が話しかけてきた。「…君の作文のどこを褒めたか覚えていないなあ…」。それに私は答える。「私も教員生活が長かったので、学生のレポートや論文に書いたコメントを一つ一つは覚えていませんが、良い所を見つけて褒めてきました。内容に欠陥があるのは当然で、それだからこそ教育の役目がある…」

 先生は深く頷く。たった7歳違いであっても、14歳の生徒にとって21歳の先生は大きな存在であり、頼もしい兄貴であった。70年ほどを経てやっと教員として同じ目線に立てたような気がする。

 平野さんが書類を手に話し始めた。「…<終活>のつもりで身辺整理をしていたら、いわゆる<通信簿>が3年分まとまって出てきました。1年生の昭和24(1949)年度のものは何と書いてあるでしょう?」 答えは「…縦書きの<通告票>です」。

 <通告票>と言っていたのか! 誰も正確に覚えてはいなかったが、期末に手にした緊張の通信簿で盛り上がる。戦時中の<通告票>を承継して、新制中学の発足時に、そのまま使ったに違いない。国民学校3年生の集団疎開先で<玉音放送>(昭和20年8月15日、日本の敗戦を伝える昭和天皇のことば)を聞いた世代の共通の記憶が蘇る。

 昭和25(1950)年度から横書きの<通知表>となった。B5版二つ折りの真ん中に成績欄、裏面が<修業証書>。つづく昭和26(1951)年も同じ形式である。どうやら昭和25(1950)年度が現在につづく新制中学への実質的な転換期だったのではないか。

 最後に校歌斉唱。「-東京学芸大学附属大泉中学校-校歌 緑陰深き」の歌詞・楽譜が配られた。作詞:山下政太郎、作曲:笹谷栄一朗。

1 緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2 はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ 高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3 今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余 泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

 先生によれば、作ったときはまだ<校歌>ではなく、小学校では校歌を運動会等で歌っているのに中学にないのは寂しいと言われ、「…戯れに作詞して、…それが後に<校歌>と呼ばれるようになった。…」とのこと。

 中学の校歌は暗記していない。<校歌>になりかけの時期で歌う機会が少な
く、記憶に刻まれなかったようだ。

 先生が誰にともなく「…90歳になった今年を最後の出席にしたい…」と言われる。私は聴こえないふりをして、代わりに「紅葉の三溪園へぜひお越しください。12月初旬が良いと思います。…」と、電話番号の入った名刺をお渡しした。

台風被害と三溪園観月会

 観月会の演奏会は、これまで内苑の臨春閣(重要文化財)の第二屋で行われてきた。人々は思い思いの場所で演奏を聴きつつ月を待つ。夜の始め、煌々たる月が東の空に現われ、ゆっくりと外苑の丘の上に建つ旧燈明寺三重塔に近づいていく(本ブログ2015年10月4日掲載「観月会」、2018年9月26日掲載「復興小唄「濱自慢」」等)。

 だが今年、30年ぶりに臨春閣屋根の補修工事が入り、現在、第一屋と第二屋の工事が進行中、ついで第三屋の工事に入る。そこで演奏会は300メートルほど離れた外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)で開催することとした。

 ところが観月会の1週間ほど前、超大型台風15号が関東に接近中との予報が出た。南東に池と芝生を持つ臨春閣は台風被害を受けやすい。とくに注意をしてほしい、と伝えると、すぐに雨戸の固定を確認したと報告が来た。

 9月8日(日曜)、台風は夜遅く関東地方に上陸。激しい風雨を耳に、浅い眠りに就く。一夜明けた9日(月曜)は、眩しい陽射しに嘘のような静けさ。急ぎテレビをつける。台風の中心は未明に横浜の東部を駆け抜けて北上、福島と岩手をかすめて海上へ向かっている。

 朝10時前、留守電に気づく。三溪園の中島哲也総務課長から、多数の倒木や折れ枝が散乱し来園者の安全確保が難しい、との伝言。すぐに電話する。

激しい交通渋滞にぶつかり、15分ほどの通勤時間が2時間にもなったという。その途上で、警戒待機した営業担当の滝田敦史主事や警備会社職員と連絡を取っていた。桜道の信号のある交差点から300メートル先の三溪園までの間で桜の木が3本も倒れており、傾斜地にも裂けた太い幹がぶら下がっていた。ようやく園に到着するも、激変・惨状に愕然としたという。

 昨年10月1日の深夜に北関東を通過した台風24号の被災記録があるが(本ブログ2018年10月4日掲載「台風一過のIUC学生来園」)、それとは比較にならない。

 勤続34年の中島さんは「…知る限り過去最悪…」と一瞬、立ちすくむも、すぐ各方面に臨時休園が必要か、関係者との連絡に動いた。私は「現場の判断を優先してほしい」と答える。

 朝からの状況は次のようであった。8時半頃、鈴木正技士が一番に到着し被害状況の確認にかかる。9時50分頃、庭園担当の羽田雄一郎主事と川島武技術員、柿澤幹夫さんが到着。

 10時15分から現場を見回ったメンバーで30分間の協議、その結果、障害物の除去には時間がかかり、来園者の安全確保を考えれば休園もやむなしの結論に至った。理事長名で<本日休園>を正門と南門に表示、ホームページにも掲載する。

 協議が終わるや、鈴木さんをチーフに川島さん、築地原真技術員、柿澤さんたちは、復旧作業の段取りを決めて行動開始、羽田さんはカメラを手に被害状況の記録に出る。

 11時頃、庭園ボランティア班から多くの人が駆けつけた。最高気温34℃という猛暑の中、各所で園路清掃や枝拾いに汗を流し、その後も、合掌造り班、ガイド班を含め、ボランティアさんの献身的作業がつづいた。報告がまとまるのを待ち、ここでお名前を挙げるのは控えたい。

 昼頃、完成目前の大池南岸修景整備工事を請け負っている小島造園の高下幸紀さんが到着、翌日からの高所作業車を使う復旧作業について協議した。

 夕方、再び協議。駐車場や主だった園路の安全を第一優先に、3日後に迫った観月会に向けて段取りの詳細を詰める。

 三重塔へ登る階段口から松風閣あたりは、倒木被害が大きいため通行止めに、また内苑は春草廬への2つの入口を通行止めにした。

 春草廬の脇に立つ大イチョウは樹齢130年~150年と推定され、原善三郎がこの地を入手した当時の記念樹ではないかと私は推測している(本ブログ2018年12月28日掲載「イチョウ巡り」)。その大樹の主軸先端の数カ所が折れて落下、あたり一面に太い枝が散乱していた。

 横浜市中区にある観測所の9月9日未明3~4時の最大瞬間風速は約40メートル、1時間あたり最多降水量は71ミリ。最大級の風雨が三溪園を襲ったのも、そのころと思われる。

 なお台風15号の被害は、中心の進路の東側に位置する千葉県の一部でとくに著しい。電柱2000本の倒壊による停電(9日朝に93万戸)、電話・テレビ・ネット通信の不通による情報孤立、物流の断絶による食料・飲料水不足、断水・空調切れによる生活環境の破壊、そして家屋倒壊・破損という物理的災害の復旧遅延等へと拡がっている。

 東電は10日の段階で11日中の全面復旧の見通しを示していたが、先延ばしを発表。14日段階で14万戸が、16日段階でなお8万戸が停電、完全復旧には2週間が必要とも言われる。

 三溪園では目視と写真撮影を基に被害状況の記録作成に取りかかる。羽田さんが9日13時段階で確認した主な被害状況、地図・写真・説明を付けた「名勝三溪園 令和元年9月9日 台風被害報告書」(A4×23ページ)を完成させ、関係者に配信できたのは、なんと21時40分であった。

 三溪園台風被害概報20190909_2p-地図-(1).jpg

 建築担当の原未織主事も建造物の被害状況を「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」にまとめ、関係者に配信した。重要文化財建造物被害として①内苑の天瑞寺寿塔覆堂の正面扉上欄間の裏板脱落、欄間彫刻一部の破損、②旧燈明寺三重塔の連子窓の脱落、軒支輪裏板の破損・欠失等があった。他に茶室・林洞庵(外苑)の倒木による瓦屋根および庇(銅板葺き)の破損が含まれる。

 被害を受けた上記の重要文化財のうち、天瑞寺寿塔覆堂は秀吉が母の長寿祈願のため大徳寺に建てた寿塔(生前墓)を収める建物であり、三溪園に現存するものの中で、もっとも早い1905(明治38)年の移築である。

 また旧燈明寺三重塔は、三溪園の景観のシンボルであるとともに、1914(大正3)年の移築を機に内苑の建造物移築を加速させた三溪の造園思想を窺い知るシンボルでもある。

 いずれも部分被害であるが、放置すれば被害は全構造に及ぶ。

 懸命の作業により主な園路の倒木等の除去が進み、休園は1日だけで済む見通しがついた。

 9月12日(木曜)、いよいよ観月会の初日を迎える。演奏等の催事に外苑が使われるのは初めてであり、吉川利一事業課長を中心に不測の事態に備える。今回の主役である旧燈明寺本堂は京都府木津川市から1987(昭和62)年に移築、その名から分かるように、もともと旧燈明寺三重塔とともに同じ寺にあった。二つの建物は、73年の歳月を経て巡り会い、以来、32年の時を刻んでいる。

 日常業務は、この間も欠かすことができない。村田和義副園長の下、中島総務課長、総務課の渡邊栄子主事、田中佐和子主事が協力して実施、さらに出演者への応対、ホームページの更新等々を行う。急増する問い合わせ電話には北泉剛史学芸員ほか、手の空いている人が当たる。また受付担当の岩本美津子主事は正門と南門の窓口対応に追われた。

 私は報告書を手に園内の被害状況を見回り、メモを書き込みつつ、ふと気づく。復旧作業の経緯は記録に取っているのか。初日(9月9日13時現在)の記録はまとめたものの、復旧作業の進捗状況との距離が拡がると前後関係さえ思い出せなくなる。次々と押し寄せる作業に紛れて記憶は曖昧になり、やがて消え去る。

 当事者しか知り得ない小さなメモが、後に大きな役割を果たすことがある。これらを広く共有するには、<記憶から記録へ>の作業が欠かせない。最初の調査書をベースに、その後の変化を順次、書き込んでもらうことにした。

 羽田さんに伝えると、すぐ作業にかかり、アッという間に新しいバージョンを作った。例えば、正門から旧燈明寺本堂へは大池の左端を通るのが近道であるが、そこを塞ぐようにソメイヨシノの幹が折れている。これを10日に片づけ、11日は芝の復旧作業、観月会初日の朝には開通…と具体的である。

 「…<記憶は3日が限度>と言われますが、そのギリギリに間に合いました。…」と羽田さんの笑顔。

 原さんも「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」をベースに、その後の経過を書き入れた。

 日の入は17:54。黄昏とともに一斉にライトアップが始まる。数メートルおきに配置した園路<足元灯>の光で、園内全体がほのかに浮かびあがる。せせらぎ、虫の声、暗さに目が慣れて茶室・林洞庵がおぼろげに輪郭を見せる。

 観月会の初日は9月12日(木曜)、夕刻6時半から8時半まで
  出演:薩摩琵琶錦心流中谷派襄水会
  曲目:横笛、鵯越(ひよどりごえ)、友まつ雪ほか
音響協力は5日間を通して、太陽倶楽部レコーディングス。

 13日から16日(月・祝日)までの上演スケジュールと出演者は以下の通り。詳しくはチラシをご覧いただきたい。

 【サックスとピアノで奏でる日本の唄】9月13日(金) 中秋の名月
  出演:シャンティドラゴン/金剛督・林あけみ
  曲目:優しいあの子、パプリカ、Lemon、うさぎ、ホールニューワールド、
     愛燦燦、かぐや姫の物語ほか
 復旧状況(春草廬への立ち入り禁止を13時に解除)、曇のち晴。

 【雅 楽】9月14日(土) 満月
  出演:横浜雅楽会
  演目:[祭礼舞]豊栄(とよさか)の舞、[歌物]伊勢ノ海、[管弦]盤渉調音取
(ばんしきちょうねとり)・越天楽(えてんらく)・蘇莫者(そまくしゃ)
ほか、[舞楽] 「長保楽(ちょうぼうらく)」ほか。
 曇のち晴。開始3曲目、にわか雨。

 【筝 曲】9月15日(日)
  出演:琴美会(ことみかい)
  曲目:春の海、秋の初風、龍星群、ジブリメドレー、華紋、小さい秋見つけ
     た、月の砂漠ほか
 曇のち晴。開始3曲目、ぽつりぽつりと降るもすぐに回復。

 【竹ガムランとバリ舞踊】9月16日(月・祝)
  出演:櫻田素子(演奏)、小泉ちづこ(舞踊)
  演目:歓迎の舞、森の王者の踊り、宮廷舞踊レゴンより女官の踊り、ジョゲ
舞踊ほか
朝から断続的に降り続いた雨は16時に止む。19時半頃、月が静かに昇り、
5日間にわたる観月会を締めくくった。
三重塔への3つの登り口の立ち入り禁止はまだ解除できない。
なお千葉県内の停電は依然として8万戸、完全復旧は暗い見通しと伝えられる。また伊豆諸島の被害状況が初めてテレビ放映された。

観月会の5日間、三溪記念館は、展示室を21時まで、ミュージアムショップ
を20時半まで、望塔亭を20時まで開いた。

 以上が、台風が通過した9日から観月会最終日16日までの、8日間の大まかな記録である。多くの人は台風がこれほどの被害を及ぼすとは思いもしなかったであろう。

 大過なく観月会を終えられたのは、第1に三溪園職員を中心に各関係機関職員やボランティアの、迅速かつ的確な行動と互いの連携があったこと、第2に停電等のインフラ破壊が伴わなかったことで、復旧作業が滞りなく進んだためである。


プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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