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メルビル『白鯨』の世界

 標題の短文を発表したのは、2004年6月2日、神奈川新聞の連載「開国史話」の第二章「首都ワシントン」の6回目であった。月水金の週3回連載で、挿絵は滝とも子さん(故人、二紀会同人)、論説主幹の福江裕幸さんが割付から諸般の連絡までを担当してくれた。

 1854年3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村において幕府とペリーの間で日米和親条約が調印されてから150周年を迎えるのを機に、正しい歴史を伝えたいと地元の神奈川新聞社から要請を受け、「開国史話」を2004(平成十六)年3月から約1年半にわたり連載した。小説以外で歴史の挿絵入り新聞連載は珍しいと言う。

 第二章は「首都ワシントン」とあるように、主に1776年の独立からの略史が主題である。「首都問題」、「大統領と連邦議会」、「米墨戦争」、「フィルモア大統領の誕生」、「アメリカ捕鯨船の日本漂着」、その次に「メルビル『白鯨』の世界」が来る。ついで「ペリー始動」、「太平洋航路の開設構想」、「日本近海の状況」、「クーパー船長の見解」、「オーリック派遣」、「堂々たる艦隊」とつづく。政治・外交史の流れのなかに、一つだけ小説を取り上げている。

 全200回にわたる新聞連載は、2008年4月、神奈川新聞社の「かなしん150選書」第1号、『開国史話』として出版された(そのさい第二章「首都ワシントン」を「新興国アメリカ」と改題)。

 その50、51ページ(1回分が見開き2ページ)に、顎髭を蓄えたメルビル(Herman Melville、1819~1891年、以降メルヴィルと表記)の挿絵を入れた。本稿では(1)メルヴィルが1850年秋、『白鯨』の執筆に専念すべくマサテュ―セッツ州の捕鯨基地近くの農地に移住すると、隣人が15歳年長のホーソン(『緋文字』等の作家)で、絶えず励ましてくれたこと、(2)メルヴィルの作品歴と体験(捕鯨船員および海軍フリゲート船の水夫)、(3)白鯨を「目に見えて人格化された、じっさいに攻撃可能な、世界中のすべての悪」としたが、「白鯨の報復により、船長も乗組員も破滅し、ただ一人、語り手のイシュメルだけが生き残る」と粗筋を述べ、最後を(4)「捕鯨業の隆盛期、領土拡張、ゴールドラッシュ、貿易志向などの荒々しい時代を反映した作品」と結んだ。

 ここでは『白鯨』の作品そのものに深く踏み込んではいない。米墨戦争(1846~48年)の勝利によりカリフォルニアという広大な領土をメキシコから獲得したアメリカが、太平洋の対岸にある日本を意識し、その近辺にアメリカ捕鯨船がしばしば漂着することから日本との国交樹立を考える、そうした時代を象徴する作品として取り上げた。
メルヴィルは10代の初めに父親の破産と死亡により生活が一変、学校を中退、借金に追われ、21歳の1840年、捕鯨船の乗組員となる。きびしい環境に1842年、マルケサス諸島のヌクヒバ島で仲間と脱走、先住民タイピー族に遭遇する。オーストラリア捕鯨船に救出されるも、タヒチ島で乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕され、またも脱走しエイメオ島(現在のモーレア島)に隠れた。やがてアメリカ捕鯨船に救われ、ハワイへ帰着する。
こうした波乱の体験を基に小説家デビューするが、作品は評価されず、文筆で身を立てることは出来なかった。ほかに職を求めてもうまくいかず、身内の不幸も重なり、不遇のうちに生涯を終える。20世紀に入って作品は高い評価を受け、世界文学の巨匠の一人となる。
 拙稿「メルビル『白鯨』の世界」の執筆から15年後の今年、不思議な縁が訪れる。今年5月19日(日)、「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可)の総会に、私が記念講演「ペリー応接と万次郎」の機会をいただいた(講演の概要は本ブログ2019年7月10日「ペリー応接と万次郎」に掲載)。

 講演後、多くの質問に応えるうちに時間切れで、つづきは居酒屋での懇親会となり、そこで真正面におられたのが牧野有通さん(元明治大学文学部教授)であった。見事な日焼け肌にテニス好きと分かり意気投合、のちテニスに誘われ、そこでも新しい友人ができた。

 日本メルヴィル学会会長とある牧野さんの名刺を思い出し、年次大会は9月と聞いていた。直前になってお願いすると、「第7回 日本メルヴィル学会 年次大会」と「会場の地図」が送られてきた。

 9月8日(日曜)午後1時、中央大学駿河台記念館430号室。会長挨拶は総会の冒頭にあるはずと、会員でもないのに総会から参加させてもらった。牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告した、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、(5)両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 つづけて2つの研究発表があった。(1)斎木郁乃(東京学芸大学)「太平洋を想像する-『白鯨』における島と漂流」、(2)辻祥子(松山大学)「Mob(y)-Dick? -アスター・ブレイス劇場の動乱とメルヴィルの想像力」。司会は大島由紀子さん(福岡大学)。

 2つの発表は、いきなり私を知らない世界へ引き込んだ。丁寧に作られたレジメを目で追いつつ、論理展開に聞き入る。

 第1の斎木郁乃「太平洋を想像する-『白鯨』における島と漂流」は、A4×3ページのレジメに英語資料(主に『白鯨』とその研究)と日本語資料(今福龍太『群島-世界論』と『漂巽紀畧』)から計14点を引用(各5行程度)、それに沿って2つのテーマ(1)「『白鯨』における海と島」、(2)「漂流の地政学―『白鯨』と太平洋」を緻密に追う。

 第2の辻祥子「Mob(y)-Dick? -アスター・ブレイス劇場の動乱とメルヴィルの想像力」のレジメは、A4×15ページ。写真を含む膨大なものだが、冒頭に次の仮説と発表要旨を掲げる。「アスター・プレイス劇場の暴動に想像力を刺激されたメルヴィルは、『白鯨』の中に、労働者階級による暴動の恐怖を表現しているのではないか。Moby Dickとは、mob=暴徒の象徴ではないか」。

 最後が夢枕獏さん(作家)による特別講演「白鯨とジョン万次郎」である。司会の巽孝之さん(慶応義塾大学、日本メルヴィル学会副会長)が、以下のように夢枕さんを紹介した(概要)。

 夢枕獏さん(本名は米山 峰夫)は、1951(昭和26)年、神奈川県小田原で生まれ、10歳のころから小説家を志すと同時に、格闘技を愛し、冒険旅行を好む写真家でもあります。1988年、『陰陽師』シリーズの第一作『陰陽師』を文藝春秋から刊行、2001年には東宝から映画化。1998年に『神々の山嶺』(集英社、1997年刊)で第11回柴田錬三郎賞を受賞。いま獏さんは高知新聞(ほか地方紙連合)に「白鯨-モビーディック」を連載中です。メルヴィル生誕200年に当たる今年、特別講演をお願いし、ご快諾いただきました。

 いよいよ夢枕さんが黒のTシャツ姿で登場、人なつっこい笑顔に引き締まった体躯、軽やかな話しぶり。釣りが大好きで、考古学者シノトーの釣針の研究を追いかけている。タヒチに近いマルケサス諸島とタイピー族のヌクヒバ島を訪ねたので、その写真を見て欲しいとスライドを放映した。上掲の通り、メルヴィルが1842年ころ捕鯨船で訪れた島々である。

 連載12本を抱える超多忙のなか、連載中の「白鯨」の構想を練るにはメルヴィルの足どりを自ら辿る必要があり、同時に釣りも楽しみ、釣針の研究にも役立てたい、と行動派作家の面目躍如たる語りぶり。

 そして「みなさんが違うと言われないかぎり、私の夢の展開が誤りではないと断定できる」として、捕鯨船の内部構造を白板に描き、船員たちはハンモックで寝ていたのではないか、と疑問を差し向けた。

 この特別講演会には「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(代表:北代淳二さん)からの参加者も多い。北代さんが手を挙げた。寝台車のように何段かの棚で寝ていた。アメリカ東部の捕鯨博物館等には復元模型や現物保存船もあるから、ネット検索だけでも分かると思うが…と。

 夢枕さんは『白鯨』のなかにハンモックで寝る記述があったと言う。日本メルヴィル学会の方がスマホで「白鯨/ハンモック」を検索、確かに1つヒットしたと答えた。そこで、ふだんは寝台で寝て、ハンモックは休憩用か昼寝用ではないかという結論(?)に至った。

 後日、牧野さんに問い合わせて、当学会の歴史が分かった。日本メルヴィル学会の始まりは2013年、日本メルヴィル研究センター(牧野さんの勤務先の明治大学で1985年に発足)が発展した学会であり、国際メルヴィル・コンフェランスは、Melville Society of America の国際部会大会で、1997年に始まり隔年開催、東京大会は2015年…。牧野さんによる日本発の狼煙が起爆剤となって現在に至ることを知る。

 このほか牧野有通『世界を覆う白い幻影ーメルヴィルとアメリカ・アイディオロジー』(南雲堂、1996年)と論文「日本人イシュメイル-1850年を横断する万次郎」(『ユリイカ』誌 2002年4月号)のコピーも頂戴した。『白鯨』のなかで日本および日本沖への言及が十数回に及ぶこと、作品に込められた種々の隠喩の解釈等々、私の知らない世界が拡がる。

 この「あとがき」に、牧野さんは述べている。「<アメリカとは何か>、これは20数年前、大橋健三郎(1919~2014年、1962年から東京大学文学部英文学科教授)のゼミ生であったころ、先生から提示された課題である。アメリカが地理的、歴史的現実の制約下にある国家でありながら、奇妙にも現実遊離する国民を創造し続け、その一方で大義のないヴェトナム戦争を延々と継続している中での課題であった。本書はメルヴィル研究を介して、その課題に対する私個人のささやかな回答をまとめてみたものである。…」と。

 思いがけなくジョン万次郎とテニスが結びつけてくれた交友の産物である。これを機に文学と文学研究の支援を得つつ、歴史の学びを深めていきたい。
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展示「もっと知ろう! 原三溪」

 横浜美術館の開館30周年と原三溪生誕150年・没後80年を記念して、横浜美術館で特別展「原三溪の美術」が開かれた(2019年7月13日~9月1日)。その趣旨を次のように述べている(ホームページより)。

 原三溪(はら・さんけい)は、横浜において生糸貿易や製糸業などで財をなした実業家です。明治初年に生まれ、昭和戦前期にいたる近代日本の黎明・発展期に経済界を牽引しました。
 一方で三溪は、独自の歴史観にもとづき古美術品を精力的に収集したコレクターであり、自由闊達(かったつ)な茶の境地を拓いた数寄者(すきしゃ)、古建築を移築して三溪園を作庭・無料公開して自らも書画・漢詩をよくしたアーティスト、そして、同時代の有望な美術家を積極的に支援し育んだパトロンでもありました。三溪のこうした文化的な営みは、財界人としての活動や人的交流、社会貢献活動家(フィランソロピスト)としての無私の精神にもとづきつつ、近代日本における美術界・美術市場の確立の過程と軌を一にしながら展開したと言えるでしょう。
 本展は、原三溪の四つの側面、すなわち「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」としての業績に焦点を当てます。それらの相互関連を時代背景も視野に入れて探りながら、今日、国宝や重要文化財に指定される名品30件以上を含む三溪旧蔵の美術品や茶道具約150件と、関連資料を展観することによって、原三溪の文化人としての全体像を描きだします。三溪自身も一堂に観ることが適わなかった旧蔵の名品を、過去最大規模で展観する貴重な機会となります。

 この特別展と並行して、8月3日(土)~9月1日(日)の11時~16時、同館のアートギャラリー1において原三溪市民研究会・横浜美術館共催の展示「もっと知ろう! 原三溪-原三溪市民研究会10年の足跡-」が開かれた(無料)。副題にあるように、原三溪市民研究会(以下、市民研)の10年の歩みを踏まえ、<実業の人>、<文芸の人>、<愛市の人>をトライアングルの各頂点に置き、三溪の全体像に迫ろうとするパネル全28枚の展示である。

 特別展「原三溪の美術」は7月12日に鑑賞したが、市民研の展示には最終日の9月1日夕方ギリギリに駆け込み、廣島亨市民研会長の熱い解説を聴くことができた。岐阜の尾関孝彦さん(本ブログ2014年10月22日掲載「原三溪の故郷」、2016年10月3日掲載「三溪と横浜-その活躍の舞台」を参照)や市民研の速水美智子さん、久保いくこさんにも嬉しい再会ができた。

 市民研の展示はプロローグで4枚のパネル(『原三溪翁伝』について、生い立ち、《乱牛図》、結婚)を並べる。藤本實也が1945年8月16日(三溪の命日)に完成させた稿本『原三溪翁伝』を広く知らせたいと刊行作業に取り組む団体として生まれたのが市民研である。本書の解題を冒頭に置くことにより、展示の副題「原三溪市民研究会10年の足跡」が生きてくる。

 3つ目のパネルで岐阜時代の三溪の成長、とくに三溪が17歳(満16歳)で描いた《乱牛図》を取
り上げて詳述する。私がこの絵を初めて観たのは、岐阜市歴史博物館の特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)だったと思う(本ブログ2014年10月22日掲載「原三溪の故郷」)。

 また昨年秋、市民研と三溪園の共催で開かれたシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」での市川春雄さん(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)の発表「岐阜と富太郎-郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」があった。その中で<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定、「第2の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる《乱牛図》で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品」と言われた点に強い印象を受けた(本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」)。

 今回の特別展「原三溪の美術」にも《乱牛図》が出品されており、この大好きな絵をじっくり眺め、「なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれ、子牛や牧童たちの戯れる姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい」、とブログに書いた(本ブログ2019年7月29日掲載「医療の近未来」)。

 《乱牛図》の賛に「嗚呼太平盛乎 縦馬華山之陽 牛放桃林之野」(ああ太平盛んなるかな、馬を華山の陽(みなみ)に縦(はな)ち、牛を桃林の野に放つ)とある。

 展示図録は、これが中国の古典『書経』(『尚書』)の故事成語「帰馬放牛」から取り、「泰平を寿ぎ不戦を誓い学問を重んじる境地を放牧された群牛と牧童の長閑な情景に託している」とある。

 市民研の解説は、「武を伏せ 文を修め 馬を華山の南に帰し、牛を桃林の野に放ち、天下に服せざるを示す」から取ったとし、戦の象徴の<馬>と、太平の世の象徴の<牛>の対比を際立たせる。

 以上のプロローグの次に来るのがパネル「もっと知ろう! 原三溪」であり、このパネル1枚に全体像を示す重要なキーワードを凝縮して入れている。トライアングルの上角に<実業の人>を置き、原合名会社(生糸売込商・輸出業、製糸業)、近代的経営(技術・品質・人事)、安定・継続の方針(目先の利益に左右されない、林業・地所部、新会社設立)の3つのキーワードを入れる。

 なお展示パネルには明示してないが、廣島さんがぽつりと述べたことが心に残る。「…生糸輸出は日本最大の外貨獲得源であり、その大半が横浜港から出て、これが日本経済を支える根幹という自負を三溪は持っていたのではないでしょうか…」。同感である。

 トライアングルの左角は<愛市の人>で4枚のパネル、ここには三溪園の造園(一般公開)、横浜経済を救済(第一・二次帝国蚕糸株式会社の設立・責任者、七十四銀行破綻~横浜興信銀行設立)、震災復興(横浜貿易復興会・横浜市復興会の会長)、社会救済(寄付、横浜発展に尽力)の4つのキーワードを入れる。

 トライアングル右角<文芸の人>には11枚のパネルを充て、古美術の収集家、若手日本画家の後援・育成、文化財保護に尽力、茶人、漢詩・日本画の趣味の5つのキーワードを入れる。

 キーワードは総計12。近代的経営(技術・品質・人事)、若手日本画家の支援・育成、三溪園の造園、震災復興等々、どれ一つをとっても常人には成しえず、それが12とは尋常ならざる偉業である。

 トライアングルの下方には、<公人>と<私人>の2面から描く「三溪像の側面」の図があり、別の視点から三溪の姿を照らし出す。

 <公人>のなかには、蚕糸業界の長、政財界との交流、現実社会の中で、関内(横浜の中心部)で、出張先で、横浜愛・使命感、実業の人、愛市の人、無心の心・唯有義耳(ただ義あるのみ)の9つのキーワード、一方の<私人>の側には、自然・田園風景への憧憬、故郷への思慕、三溪園で、別荘・旅先で、自然美・安らぎ、文芸の人、歴史・文化の見識、白雲の心の8つのキーワードを入れる。

 <公人>の枠に<実業の人>と<愛市の人>の2つを入れ、<私人>の枠には<文芸の人>が入っている。<文芸の人>のから<美術の人>、<芸術の人>、<造園の人>へと想像を膨らませる人もおられよう。

 ついで<実業の人>に6枚のパネル、<愛市の人>に4枚のパネル、そして<文芸の人>に11枚のパネルを充て、各論の説明に入る構成である。

 今回は<文芸の人>のなかで三溪の漢詩を強調している。市民研のなかの漢詩の会(講師は関東学院大学の鄧捷教授)を主導してきたのが廣島さんに他ならない。三溪の長女・春子さんの願いを受けて円覚寺住職・朝比奈宗源が編纂刊行した『三溪集』(13回忌の1951年刊)には、漢詩135首、和歌20首、小唄1首が収められているが、今回そこから漢詩16首を取り上げた。

 漢詩に見る原三溪の心とも言うべき、市民研の研究成果は刊行予定と聞くので、それを待ちたい。 

 今回の市民研展示は、昨年の第5回市民研シンポジウム「原三溪の生き方を考える」の3つの報告の
うち、廣島亨「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」を敷衍・深化させたものと見られる。このとき廣島さんは、ご自身の会社勤務時代の苦労を踏まえ、三溪の事業主としての折々の<選択>について、(ア)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(イ)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、(ウ)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したと語った(本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」)。

 特別展「原三溪の美術」も市民研展示も、ともに予想をはるかに超える入場者があったと聞く。2つの展示は、異なる観点から三溪に近づこうとしており、相互補完的で分かりやすい。

 次の市民研シンポジウム(第6回)は12月14日(土曜)を予定している。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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