海がまもり、海がつないだ日本
神奈川県立歴史博物館(以下、県博とする)で特別展「北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本」(担当は嶋村元宏主任学芸員)が開かれている(7月13日~9月1日)。この副題を借用して今回のブログの標題とした。
訪れたのは台風10号が西日本を縦断、その外周に位置した関東地方も風の強い日であった。受付で嶋村さんを呼び出してもらう。事前連絡をしていなかったが、何年ぶりかの再会を果たすことができた。
嶋村さんは在職27年のベテラン学芸員(歴史担当)で、長年の研究成果を展示を通じて魅せようとする。初めて彼に会ったのは私が青山学院大学に出講(非常勤)していた時で、はや30年も前になる。まずランチを共にしながら、久闊を叙した。
嶋村さんは開国史に関する論考を着実に発表している。今回の展示はペリー来航以前の、幕府とロシアとの折衝についてであり、このテーマも大学で講義し始めてから10年になると言う。
本展示の狙いを次のように言う。「ペリー来航から始まる開国史ではなく、それより60年以上前に北から開国通商を求めたロシアとの関係を示し、<鎖国>を維持するために幕府が構築した海岸防禦(海防)態勢の様相を紹介することで、新たな開国史像を提供しようとするものです」(図録「開催にあたって」)。
つづけて言う。「四方が海に囲まれた海国日本は、海が自然の要害となったことから、容易に異国船が接近できなかったこともあり、海外における戦争や紛争の影響を受けることなく<鎖国>政策による平和を享受することができました。しかし、18世紀に入ると、航海術や造船技術の発達により、異国船が日本近海に頻繁にその姿を現すようになります。そのような危機的状況下において、幕府は全国的な海防態勢の強化をはかります。総延長約430キロの海岸線を有する神奈川県域においても、例外ではなく、こんにちまで多くの台場や陣屋跡が残るのはそのためです。」
展示担当者から直接に展示内容や苦労話を聴きつつ会場を回る。なんとも幸せな時間である。展示は
第Ⅰ章「北の海へのまなざし」
第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」
第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」
第Ⅳ章「海を守る」
の4部構成である。
それぞれの意図に従い、全国の所蔵先から借用した資料(国宝と重要文化財を含む)が配置してある。嶋村さんの説明に沿い、図録『北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本』(巻末の参考文献も貴重)を参照しつつ、展示の要点を見ていきたい。
第Ⅰ章「北の海へのまなざし」は、まず【ロシアへの対応】と題して、林子平の『海国兵談』(宮内庁書陵部蔵)、『三国通覧図説』(県博蔵)、『蝦夷国全図』(東北大学附属図書館蔵)および工藤平助『赤蝦夷風説考』(天理大学附属天理図書館蔵)、山村才助『魯西亜国志』(国立公文書館蔵)を展示する。
林子平『海国兵談』は天明7(1787)年から寛政3(1791)年にかけて自費出版されたもの。林は長崎在留オランダ商館長アーレント・ヘイトから得た情報(ロシアが南下するというデマ)に危機感を抱き、「…江戸は日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり、しかるに長崎のみ備ふるは何ぞや」と<海国>日本の不備を喝破、「…外寇を防ぐの術は<水戦>にあり、<水戦>の要は<大銃>にあり」と述べ、長崎のみにある台場を将軍の足元にも備え江戸湾防備を強化せよと主張する。同時に北方ロシアと蝦夷地(北海道)に関する知識の普及を目ざす。
ついで【クナシリ・メナシの戦いと夷酋列像】では、アイヌの酋長を描く蠣﨑波響『夷酋列像伝粉本』(函館市中央図書館蔵)、松平定信の詞書のある『夷酋列像図』(国立民族学博物館蔵)、渡辺広輝『夷酋列像(稿本)』(個人蔵)を広く集めて展示している。いずれも写実的な絵である。
『松前ヲロシヤ人記』(函館市中央図書館蔵)は1792(寛政4)年、ラクスマンがロシア女帝エカチェリーナ2世の命により、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、通商を求めたときの記録。ラクスマンに与えた長崎入港許可証『ラクスマン信牌写』(大黒屋光太夫記念館蔵)が展示されている。また『寛政五年癸丑六月松前侯ヨリ魯西亜人ヘ被諭候書』(函館市中央図書館蔵)は、その前半がラクスマン、後半が1806(文化元)年に長崎に来航したレザーノフへの対応を記している。
関連して、根室港で越冬したラクスマン一行を描く『魯西亜之図写』(福山市蔵)や、南部藩・津軽藩・松前藩による警備の様子や人物を描く『漂流人帰国松前堅之図并異国人相形図』(大黒屋光太夫記念館蔵)がある。なおロシア、ヲロシヤ、露西亜、魯西亜の表記があるが意味は同じで、所蔵先の付した資料名を採っている。
【レザーノフの来航】には、文化元(1804)年に仙台出身の漂流民津太夫を送還するため長崎に来た『ロシア使節レザーノフ来航絵巻』(東京大学史料編纂所蔵)と、その様子を伝える大槻玄沢『魯西亜来貢記事』(宮城県図書館蔵)、『異国船漂着一件』(函館市中央図書館蔵)、『魯西亜船渡海実録』(同左蔵)、『レザーノフ関連資料貼交ぜ屏風』(守屋壽コレクション・広島県立歴史博物館寄託)が展示されており、緊張感より異国風俗への強い関心が窺われる。異人に寄りそう遊女らしき立ち姿も見える。
【文化露寇】は、通商が認められなかったレザーノフが、文化3(1806)年、配下のフヴォストフに樺太や択捉を襲撃させた事件をめぐる文書4点が並ぶ。絵が含まれないため注目を引きにくいが、松平定信『蝦夷地一件御意見書草案』(北見市立中央図書館蔵)や『鷹見泉石関係資料』(古河歴史博物館蔵)は、幕府の対ロ政策の形成過程を語る重要資料である。『露西亜人加毘丹・下官図』(個人蔵 福山市寄託)は文化8(1811)年、千島列島を測量中のロシア艦ディアナ号ゴローニン艦長を松前藩士が国後島で拘束、二人の立像を描いたもの。
第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」は、ロシア滞在の経験を持つ大黒屋や津太夫が(幕府の尋問聴取により)日本に伝えたモノと情報を、地図、日用品、衣服、ロシア文字等の面から見せる。
【漂流民からのロシア情報】のうち蘭学者・医師の桂川甫周編『北槎聞略』(国立公文書館蔵)は、ロシア使節ラクスマンが日本に送り届けた大黒屋と磯吉に対する寛政5(1793)年の事情聴取とオランダ語文献とを照らし合わせたもの。ロシア服を着た大黒屋と磯吉を描く掛軸、彼らが使っていた青銅製の椀と真鍮製の匙、ロシア文字の一覧等(いずれも大黒屋光太夫記念館蔵)を展示している。
大槻玄沢『環海異聞』(宮城県図書館蔵)は、津太夫から聴取した玄沢自筆のもの。津太夫は仙台港を出てアリューシャン列島に漂着、約8年の滞在後、世界周航を目ざすレザーノフの船で世界一周を果たした。
【鷹見泉石のロシア考究】は、下総国の古河に生まれ、藩主・土井利厚に仕えた鷹見が、老中に就いた土井の下、外国事情と対外応接の専管となり、蘭学を通じてロシア語を学ぶ苦労の過程を展示する。
【北方探検】は、『近藤重蔵関係資料』(東京大学史料編纂所蔵)から、ウルップ島、北蝦夷、間宮海峡、北太平洋、蝦夷地の地図を展示する。近藤が書き込んだメモも貴重な資料である。また『間宮林蔵北蝦夷地等見聞関係記録』(国立公文書館蔵)所収の村上貞助『東韃地方紀行』は、樺太が半島ではなく島であることを確認した間宮の口述を基に村上が編集した絵入りの見聞録。図録所収のものは字が小さいが、拡大コピーして一読の価値あり。刊本は洞富雄・谷澤尚一編注により平凡社の<東洋文庫>484(1988年)にある。
第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」は、北からのロシアにとどまらず、江戸に近づこうとする異国船に対する江戸湾周辺の防備状況の巡見(実地調査)と、ロシアに接する蝦夷地の実地調査である。うち【北辺防備】は、前掲の近藤重蔵関係資料から幕府の対外政策に関する各種の上申書、建言書の草案やメモ等を収めたもの。
【松代藩真田家伝来資料】(真田宝物館蔵)のうち『相房総台場略図』は、江戸湾岸の台場の絵に短く解説が付されたもの。時代は下って嘉永元(1848)年と推定される。なお松代藩八代藩主・真田幸貫は松平定信の次男で真田家に養子に出され、天保12(1841)年、天保の改革を進める水野忠邦により老中に抜擢、1842年の天保薪水令(アヘン戦争情報を収集・分析して異国船打払令に代わり薪水供与令に復す新たな対外令)以降の海防にさまざまに関わった。
【福山藩阿部家伝来資料】では蝦夷地の各種地図を見せる。福山藩第七代藩主・阿部正弘は老中首座としてペリー来航に伴う外交の総指揮を執った。弘化2年(1845年)に海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ、さらに筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などの登用を大胆に行った。
【モリソン号事件】は、日本人漂流民送還のため1837年に江戸湾へ来航したアメリカ船モリソン号を打払った事件に関する資料を『韮山代官江川家関係資料』、『鷹見泉石関係資料』等から精選する。
嘉永三(1850)年の『近海見分之図』(県博蔵)は全4巻、写実を重んじる絵柄111葉よりなる。双六のように東海道品川駅(宿)に始まり、神奈川(宿)、戸部、吉田新田、本牧と進み、金沢、横須賀、浦賀、鎌倉、真鶴、伊豆、熱海、下田……下総船橋駅(宿)を経て江戸両国橋之図で終わる。『嘉永四年彦根藩の海防巡見』は文書のみで地図はない。
最後の第Ⅳ章「海を守る」は、主に江戸湾への入口近辺の防備態勢を主題とする。三浦半島(神奈川県)と伊豆相模(静岡県)の警備を譜代大名に担当させるとして、天保13(1843)年に川越と忍のニ藩体制を敷き、さらに弘化4(1848)年以降、彦根藩(三浦半島側)と会津藩(房総半島側)を加えた四藩体制としたのが、林子平『海国兵談』の出版開始から数えて60年後である。
四藩体制を整えてからさらに5年後、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー艦隊4隻が浦賀沖に現れる。
訪れたのは台風10号が西日本を縦断、その外周に位置した関東地方も風の強い日であった。受付で嶋村さんを呼び出してもらう。事前連絡をしていなかったが、何年ぶりかの再会を果たすことができた。
嶋村さんは在職27年のベテラン学芸員(歴史担当)で、長年の研究成果を展示を通じて魅せようとする。初めて彼に会ったのは私が青山学院大学に出講(非常勤)していた時で、はや30年も前になる。まずランチを共にしながら、久闊を叙した。
嶋村さんは開国史に関する論考を着実に発表している。今回の展示はペリー来航以前の、幕府とロシアとの折衝についてであり、このテーマも大学で講義し始めてから10年になると言う。
本展示の狙いを次のように言う。「ペリー来航から始まる開国史ではなく、それより60年以上前に北から開国通商を求めたロシアとの関係を示し、<鎖国>を維持するために幕府が構築した海岸防禦(海防)態勢の様相を紹介することで、新たな開国史像を提供しようとするものです」(図録「開催にあたって」)。
つづけて言う。「四方が海に囲まれた海国日本は、海が自然の要害となったことから、容易に異国船が接近できなかったこともあり、海外における戦争や紛争の影響を受けることなく<鎖国>政策による平和を享受することができました。しかし、18世紀に入ると、航海術や造船技術の発達により、異国船が日本近海に頻繁にその姿を現すようになります。そのような危機的状況下において、幕府は全国的な海防態勢の強化をはかります。総延長約430キロの海岸線を有する神奈川県域においても、例外ではなく、こんにちまで多くの台場や陣屋跡が残るのはそのためです。」
展示担当者から直接に展示内容や苦労話を聴きつつ会場を回る。なんとも幸せな時間である。展示は
第Ⅰ章「北の海へのまなざし」
第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」
第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」
第Ⅳ章「海を守る」
の4部構成である。
それぞれの意図に従い、全国の所蔵先から借用した資料(国宝と重要文化財を含む)が配置してある。嶋村さんの説明に沿い、図録『北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本』(巻末の参考文献も貴重)を参照しつつ、展示の要点を見ていきたい。
第Ⅰ章「北の海へのまなざし」は、まず【ロシアへの対応】と題して、林子平の『海国兵談』(宮内庁書陵部蔵)、『三国通覧図説』(県博蔵)、『蝦夷国全図』(東北大学附属図書館蔵)および工藤平助『赤蝦夷風説考』(天理大学附属天理図書館蔵)、山村才助『魯西亜国志』(国立公文書館蔵)を展示する。
林子平『海国兵談』は天明7(1787)年から寛政3(1791)年にかけて自費出版されたもの。林は長崎在留オランダ商館長アーレント・ヘイトから得た情報(ロシアが南下するというデマ)に危機感を抱き、「…江戸は日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり、しかるに長崎のみ備ふるは何ぞや」と<海国>日本の不備を喝破、「…外寇を防ぐの術は<水戦>にあり、<水戦>の要は<大銃>にあり」と述べ、長崎のみにある台場を将軍の足元にも備え江戸湾防備を強化せよと主張する。同時に北方ロシアと蝦夷地(北海道)に関する知識の普及を目ざす。
ついで【クナシリ・メナシの戦いと夷酋列像】では、アイヌの酋長を描く蠣﨑波響『夷酋列像伝粉本』(函館市中央図書館蔵)、松平定信の詞書のある『夷酋列像図』(国立民族学博物館蔵)、渡辺広輝『夷酋列像(稿本)』(個人蔵)を広く集めて展示している。いずれも写実的な絵である。
『松前ヲロシヤ人記』(函館市中央図書館蔵)は1792(寛政4)年、ラクスマンがロシア女帝エカチェリーナ2世の命により、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、通商を求めたときの記録。ラクスマンに与えた長崎入港許可証『ラクスマン信牌写』(大黒屋光太夫記念館蔵)が展示されている。また『寛政五年癸丑六月松前侯ヨリ魯西亜人ヘ被諭候書』(函館市中央図書館蔵)は、その前半がラクスマン、後半が1806(文化元)年に長崎に来航したレザーノフへの対応を記している。
関連して、根室港で越冬したラクスマン一行を描く『魯西亜之図写』(福山市蔵)や、南部藩・津軽藩・松前藩による警備の様子や人物を描く『漂流人帰国松前堅之図并異国人相形図』(大黒屋光太夫記念館蔵)がある。なおロシア、ヲロシヤ、露西亜、魯西亜の表記があるが意味は同じで、所蔵先の付した資料名を採っている。
【レザーノフの来航】には、文化元(1804)年に仙台出身の漂流民津太夫を送還するため長崎に来た『ロシア使節レザーノフ来航絵巻』(東京大学史料編纂所蔵)と、その様子を伝える大槻玄沢『魯西亜来貢記事』(宮城県図書館蔵)、『異国船漂着一件』(函館市中央図書館蔵)、『魯西亜船渡海実録』(同左蔵)、『レザーノフ関連資料貼交ぜ屏風』(守屋壽コレクション・広島県立歴史博物館寄託)が展示されており、緊張感より異国風俗への強い関心が窺われる。異人に寄りそう遊女らしき立ち姿も見える。
【文化露寇】は、通商が認められなかったレザーノフが、文化3(1806)年、配下のフヴォストフに樺太や択捉を襲撃させた事件をめぐる文書4点が並ぶ。絵が含まれないため注目を引きにくいが、松平定信『蝦夷地一件御意見書草案』(北見市立中央図書館蔵)や『鷹見泉石関係資料』(古河歴史博物館蔵)は、幕府の対ロ政策の形成過程を語る重要資料である。『露西亜人加毘丹・下官図』(個人蔵 福山市寄託)は文化8(1811)年、千島列島を測量中のロシア艦ディアナ号ゴローニン艦長を松前藩士が国後島で拘束、二人の立像を描いたもの。
第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」は、ロシア滞在の経験を持つ大黒屋や津太夫が(幕府の尋問聴取により)日本に伝えたモノと情報を、地図、日用品、衣服、ロシア文字等の面から見せる。
【漂流民からのロシア情報】のうち蘭学者・医師の桂川甫周編『北槎聞略』(国立公文書館蔵)は、ロシア使節ラクスマンが日本に送り届けた大黒屋と磯吉に対する寛政5(1793)年の事情聴取とオランダ語文献とを照らし合わせたもの。ロシア服を着た大黒屋と磯吉を描く掛軸、彼らが使っていた青銅製の椀と真鍮製の匙、ロシア文字の一覧等(いずれも大黒屋光太夫記念館蔵)を展示している。
大槻玄沢『環海異聞』(宮城県図書館蔵)は、津太夫から聴取した玄沢自筆のもの。津太夫は仙台港を出てアリューシャン列島に漂着、約8年の滞在後、世界周航を目ざすレザーノフの船で世界一周を果たした。
【鷹見泉石のロシア考究】は、下総国の古河に生まれ、藩主・土井利厚に仕えた鷹見が、老中に就いた土井の下、外国事情と対外応接の専管となり、蘭学を通じてロシア語を学ぶ苦労の過程を展示する。
【北方探検】は、『近藤重蔵関係資料』(東京大学史料編纂所蔵)から、ウルップ島、北蝦夷、間宮海峡、北太平洋、蝦夷地の地図を展示する。近藤が書き込んだメモも貴重な資料である。また『間宮林蔵北蝦夷地等見聞関係記録』(国立公文書館蔵)所収の村上貞助『東韃地方紀行』は、樺太が半島ではなく島であることを確認した間宮の口述を基に村上が編集した絵入りの見聞録。図録所収のものは字が小さいが、拡大コピーして一読の価値あり。刊本は洞富雄・谷澤尚一編注により平凡社の<東洋文庫>484(1988年)にある。
第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」は、北からのロシアにとどまらず、江戸に近づこうとする異国船に対する江戸湾周辺の防備状況の巡見(実地調査)と、ロシアに接する蝦夷地の実地調査である。うち【北辺防備】は、前掲の近藤重蔵関係資料から幕府の対外政策に関する各種の上申書、建言書の草案やメモ等を収めたもの。
【松代藩真田家伝来資料】(真田宝物館蔵)のうち『相房総台場略図』は、江戸湾岸の台場の絵に短く解説が付されたもの。時代は下って嘉永元(1848)年と推定される。なお松代藩八代藩主・真田幸貫は松平定信の次男で真田家に養子に出され、天保12(1841)年、天保の改革を進める水野忠邦により老中に抜擢、1842年の天保薪水令(アヘン戦争情報を収集・分析して異国船打払令に代わり薪水供与令に復す新たな対外令)以降の海防にさまざまに関わった。
【福山藩阿部家伝来資料】では蝦夷地の各種地図を見せる。福山藩第七代藩主・阿部正弘は老中首座としてペリー来航に伴う外交の総指揮を執った。弘化2年(1845年)に海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ、さらに筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などの登用を大胆に行った。
【モリソン号事件】は、日本人漂流民送還のため1837年に江戸湾へ来航したアメリカ船モリソン号を打払った事件に関する資料を『韮山代官江川家関係資料』、『鷹見泉石関係資料』等から精選する。
嘉永三(1850)年の『近海見分之図』(県博蔵)は全4巻、写実を重んじる絵柄111葉よりなる。双六のように東海道品川駅(宿)に始まり、神奈川(宿)、戸部、吉田新田、本牧と進み、金沢、横須賀、浦賀、鎌倉、真鶴、伊豆、熱海、下田……下総船橋駅(宿)を経て江戸両国橋之図で終わる。『嘉永四年彦根藩の海防巡見』は文書のみで地図はない。
最後の第Ⅳ章「海を守る」は、主に江戸湾への入口近辺の防備態勢を主題とする。三浦半島(神奈川県)と伊豆相模(静岡県)の警備を譜代大名に担当させるとして、天保13(1843)年に川越と忍のニ藩体制を敷き、さらに弘化4(1848)年以降、彦根藩(三浦半島側)と会津藩(房総半島側)を加えた四藩体制としたのが、林子平『海国兵談』の出版開始から数えて60年後である。
四藩体制を整えてからさらに5年後、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー艦隊4隻が浦賀沖に現れる。
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