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海がまもり、海がつないだ日本

 神奈川県立歴史博物館(以下、県博とする)で特別展「北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本」(担当は嶋村元宏主任学芸員)が開かれている(7月13日~9月1日)。この副題を借用して今回のブログの標題とした。

 訪れたのは台風10号が西日本を縦断、その外周に位置した関東地方も風の強い日であった。受付で嶋村さんを呼び出してもらう。事前連絡をしていなかったが、何年ぶりかの再会を果たすことができた。

 嶋村さんは在職27年のベテラン学芸員(歴史担当)で、長年の研究成果を展示を通じて魅せようとする。初めて彼に会ったのは私が青山学院大学に出講(非常勤)していた時で、はや30年も前になる。まずランチを共にしながら、久闊を叙した。

 嶋村さんは開国史に関する論考を着実に発表している。今回の展示はペリー来航以前の、幕府とロシアとの折衝についてであり、このテーマも大学で講義し始めてから10年になると言う。

 本展示の狙いを次のように言う。「ペリー来航から始まる開国史ではなく、それより60年以上前に北から開国通商を求めたロシアとの関係を示し、<鎖国>を維持するために幕府が構築した海岸防禦(海防)態勢の様相を紹介することで、新たな開国史像を提供しようとするものです」(図録「開催にあたって」)。

 つづけて言う。「四方が海に囲まれた海国日本は、海が自然の要害となったことから、容易に異国船が接近できなかったこともあり、海外における戦争や紛争の影響を受けることなく<鎖国>政策による平和を享受することができました。しかし、18世紀に入ると、航海術や造船技術の発達により、異国船が日本近海に頻繁にその姿を現すようになります。そのような危機的状況下において、幕府は全国的な海防態勢の強化をはかります。総延長約430キロの海岸線を有する神奈川県域においても、例外ではなく、こんにちまで多くの台場や陣屋跡が残るのはそのためです。」

 展示担当者から直接に展示内容や苦労話を聴きつつ会場を回る。なんとも幸せな時間である。展示は
 第Ⅰ章「北の海へのまなざし」
 第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」
 第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」
 第Ⅳ章「海を守る」
の4部構成である。

 それぞれの意図に従い、全国の所蔵先から借用した資料(国宝と重要文化財を含む)が配置してある。嶋村さんの説明に沿い、図録『北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本』(巻末の参考文献も貴重)を参照しつつ、展示の要点を見ていきたい。

 第Ⅰ章「北の海へのまなざし」は、まず【ロシアへの対応】と題して、林子平の『海国兵談』(宮内庁書陵部蔵)、『三国通覧図説』(県博蔵)、『蝦夷国全図』(東北大学附属図書館蔵)および工藤平助『赤蝦夷風説考』(天理大学附属天理図書館蔵)、山村才助『魯西亜国志』(国立公文書館蔵)を展示する。

 林子平『海国兵談』は天明7(1787)年から寛政3(1791)年にかけて自費出版されたもの。林は長崎在留オランダ商館長アーレント・ヘイトから得た情報(ロシアが南下するというデマ)に危機感を抱き、「…江戸は日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり、しかるに長崎のみ備ふるは何ぞや」と<海国>日本の不備を喝破、「…外寇を防ぐの術は<水戦>にあり、<水戦>の要は<大銃>にあり」と述べ、長崎のみにある台場を将軍の足元にも備え江戸湾防備を強化せよと主張する。同時に北方ロシアと蝦夷地(北海道)に関する知識の普及を目ざす。

 ついで【クナシリ・メナシの戦いと夷酋列像】では、アイヌの酋長を描く蠣﨑波響『夷酋列像伝粉本』(函館市中央図書館蔵)、松平定信の詞書のある『夷酋列像図』(国立民族学博物館蔵)、渡辺広輝『夷酋列像(稿本)』(個人蔵)を広く集めて展示している。いずれも写実的な絵である。

 『松前ヲロシヤ人記』(函館市中央図書館蔵)は1792(寛政4)年、ラクスマンがロシア女帝エカチェリーナ2世の命により、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、通商を求めたときの記録。ラクスマンに与えた長崎入港許可証『ラクスマン信牌写』(大黒屋光太夫記念館蔵)が展示されている。また『寛政五年癸丑六月松前侯ヨリ魯西亜人ヘ被諭候書』(函館市中央図書館蔵)は、その前半がラクスマン、後半が1806(文化元)年に長崎に来航したレザーノフへの対応を記している。

 関連して、根室港で越冬したラクスマン一行を描く『魯西亜之図写』(福山市蔵)や、南部藩・津軽藩・松前藩による警備の様子や人物を描く『漂流人帰国松前堅之図并異国人相形図』(大黒屋光太夫記念館蔵)がある。なおロシア、ヲロシヤ、露西亜、魯西亜の表記があるが意味は同じで、所蔵先の付した資料名を採っている。

 【レザーノフの来航】には、文化元(1804)年に仙台出身の漂流民津太夫を送還するため長崎に来た『ロシア使節レザーノフ来航絵巻』(東京大学史料編纂所蔵)と、その様子を伝える大槻玄沢『魯西亜来貢記事』(宮城県図書館蔵)、『異国船漂着一件』(函館市中央図書館蔵)、『魯西亜船渡海実録』(同左蔵)、『レザーノフ関連資料貼交ぜ屏風』(守屋壽コレクション・広島県立歴史博物館寄託)が展示されており、緊張感より異国風俗への強い関心が窺われる。異人に寄りそう遊女らしき立ち姿も見える。

 【文化露寇】は、通商が認められなかったレザーノフが、文化3(1806)年、配下のフヴォストフに樺太や択捉を襲撃させた事件をめぐる文書4点が並ぶ。絵が含まれないため注目を引きにくいが、松平定信『蝦夷地一件御意見書草案』(北見市立中央図書館蔵)や『鷹見泉石関係資料』(古河歴史博物館蔵)は、幕府の対ロ政策の形成過程を語る重要資料である。『露西亜人加毘丹・下官図』(個人蔵 福山市寄託)は文化8(1811)年、千島列島を測量中のロシア艦ディアナ号ゴローニン艦長を松前藩士が国後島で拘束、二人の立像を描いたもの。

 第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」は、ロシア滞在の経験を持つ大黒屋や津太夫が(幕府の尋問聴取により)日本に伝えたモノと情報を、地図、日用品、衣服、ロシア文字等の面から見せる。

 【漂流民からのロシア情報】のうち蘭学者・医師の桂川甫周編『北槎聞略』(国立公文書館蔵)は、ロシア使節ラクスマンが日本に送り届けた大黒屋と磯吉に対する寛政5(1793)年の事情聴取とオランダ語文献とを照らし合わせたもの。ロシア服を着た大黒屋と磯吉を描く掛軸、彼らが使っていた青銅製の椀と真鍮製の匙、ロシア文字の一覧等(いずれも大黒屋光太夫記念館蔵)を展示している。

 大槻玄沢『環海異聞』(宮城県図書館蔵)は、津太夫から聴取した玄沢自筆のもの。津太夫は仙台港を出てアリューシャン列島に漂着、約8年の滞在後、世界周航を目ざすレザーノフの船で世界一周を果たした。

 【鷹見泉石のロシア考究】は、下総国の古河に生まれ、藩主・土井利厚に仕えた鷹見が、老中に就いた土井の下、外国事情と対外応接の専管となり、蘭学を通じてロシア語を学ぶ苦労の過程を展示する。

 【北方探検】は、『近藤重蔵関係資料』(東京大学史料編纂所蔵)から、ウルップ島、北蝦夷、間宮海峡、北太平洋、蝦夷地の地図を展示する。近藤が書き込んだメモも貴重な資料である。また『間宮林蔵北蝦夷地等見聞関係記録』(国立公文書館蔵)所収の村上貞助『東韃地方紀行』は、樺太が半島ではなく島であることを確認した間宮の口述を基に村上が編集した絵入りの見聞録。図録所収のものは字が小さいが、拡大コピーして一読の価値あり。刊本は洞富雄・谷澤尚一編注により平凡社の<東洋文庫>484(1988年)にある。

 第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」は、北からのロシアにとどまらず、江戸に近づこうとする異国船に対する江戸湾周辺の防備状況の巡見(実地調査)と、ロシアに接する蝦夷地の実地調査である。うち【北辺防備】は、前掲の近藤重蔵関係資料から幕府の対外政策に関する各種の上申書、建言書の草案やメモ等を収めたもの。

 【松代藩真田家伝来資料】(真田宝物館蔵)のうち『相房総台場略図』は、江戸湾岸の台場の絵に短く解説が付されたもの。時代は下って嘉永元(1848)年と推定される。なお松代藩八代藩主・真田幸貫は松平定信の次男で真田家に養子に出され、天保12(1841)年、天保の改革を進める水野忠邦により老中に抜擢、1842年の天保薪水令(アヘン戦争情報を収集・分析して異国船打払令に代わり薪水供与令に復す新たな対外令)以降の海防にさまざまに関わった。

 【福山藩阿部家伝来資料】では蝦夷地の各種地図を見せる。福山藩第七代藩主・阿部正弘は老中首座としてペリー来航に伴う外交の総指揮を執った。弘化2年(1845年)に海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ、さらに筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などの登用を大胆に行った。

 【モリソン号事件】は、日本人漂流民送還のため1837年に江戸湾へ来航したアメリカ船モリソン号を打払った事件に関する資料を『韮山代官江川家関係資料』、『鷹見泉石関係資料』等から精選する。

 嘉永三(1850)年の『近海見分之図』(県博蔵)は全4巻、写実を重んじる絵柄111葉よりなる。双六のように東海道品川駅(宿)に始まり、神奈川(宿)、戸部、吉田新田、本牧と進み、金沢、横須賀、浦賀、鎌倉、真鶴、伊豆、熱海、下田……下総船橋駅(宿)を経て江戸両国橋之図で終わる。『嘉永四年彦根藩の海防巡見』は文書のみで地図はない。

 最後の第Ⅳ章「海を守る」は、主に江戸湾への入口近辺の防備態勢を主題とする。三浦半島(神奈川県)と伊豆相模(静岡県)の警備を譜代大名に担当させるとして、天保13(1843)年に川越と忍のニ藩体制を敷き、さらに弘化4(1848)年以降、彦根藩(三浦半島側)と会津藩(房総半島側)を加えた四藩体制としたのが、林子平『海国兵談』の出版開始から数えて60年後である。

 四藩体制を整えてからさらに5年後、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー艦隊4隻が浦賀沖に現れる。
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知の再武装の時代に向けて

 標題の「知の再武装の時代に向けて」とは、「丸善」創業150周年記念連続講演会第5回の寺島実郎さんの講演タイトルである。そのネーミングに惹かれて参加した。8月8日(木曜)の夕方6~8時、会場は日比谷図書文化館、3日つづきの猛暑日であった。

 同時に、「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年、岐阜県出身)の多方面にわたる活躍にも興味があった。明治2(1869)年に横浜で洋書及び薬品医療器の輸入販売の<丸善>(当初は<丸屋>または<丸屋善八>)を創業、元金社中(出資者)と働社中(従業員)の両者が構成する近代的会社組織の元祖と言われた。さらに明治4(1871)年、仮設の市民病院を現在の中区北仲通り六丁目付近で開業、これがのちに横浜共立病院、十全病院と名称を変え、私の勤務していた横浜市立大学の医学部(附属病院)の基礎となる。

 寺島さんは現在、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長、一般社団法人寺島文庫代表理事で、元三井物産社員の経験を活かし、経済の諸指標を的確に使い、世界の中の日本について、あるいは世界から見た日本について、鋭い社会評論を行うことで知られている。メディアへの登場も多い。

 本日の講演資料として、(1)世界のGDPシェアの推移(円グラフ)、(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)、(3)IМFの世界経済見通しの3つを挙げる。

 まず(1)では、世界のGDPシェアの推移を6つの年(①=1820年、②=1913年、③=1950年、④=1988年、⑤=2000年、⑥=2018年)に分け、推移を縦横に語りながら、日本のシェアを各国・地域と比較して分析する(資料はOEⅭDとIМFのデータ、江戸時代の①=1820(文政三)年は推計値)。

 そこから引き出す結論が興味深い。6つの年次のうち①~③までは日本のシェアが3%、④に16%と急増、⑤でも14%を堅持、それが⑥で6%に急減する。

 これは何を意味するか。戦後の高度成長以来、日本経済を主導してきた製造業が役割を終えつつあるということである。⑥の6%に急減した分を担うのが16%の中国と3%のインド。日本からこれら地域へ製造業が移転したと言える。

 これを受けて「(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)」では、デジタル・エコノミーへの構造変化を2019年6月現在の各社の株式時価総額を通じて分析する。

 アメリカのIT5社(GAFA+M)が約450兆円(ドル表示を円換算)、中国のIT3社(Baido.Alibaba,Tencent)が98兆円であるのに対し、日本の東証一部上位5社(トヨタ自動車、ソフトバンクG、NTTドコモ、キーエンス、ソニー)は57兆円であり、第四次産業革命=データリズム(データを支配するものがすべてを支配)のデジタル・エコノミー時代に完全に遅れをとっている、とする。

 関連して、日本の株価時価総額上位10社の推移を1960年から10年ごとに掲げる。このデータからも、製造業からデジタル・エコノミーへの大きな流れが読み取れる。

 最後の「(3)IМFの世界経済見通し」では、実質GDPの過去10年における対前年比%(購買力平価ベース)の統計表を使い、新興国の高い成長率に比して、最近5年間では日本が世界で最下位にあることを明らかにする。

 こうした日本経済の現実を、日本も「まあまあ良くやっている」と流し、「不満は少ないが、不安はある」のが日本人の平均的な心情ではないかと指摘する。

 日本経済の<後退>と今後の見通しを予想する別の指標が、8月12日(月曜)の日本経済新聞(朝刊)の1面に載った。見出しは「ESG×収益力 欧米が先行 人材・投資呼び込む 企業の持続性重視へ新指標」。添付の棒グラフによれば地域別で欧州、北米、アジアが高く、日本がその約半分、ついで中国がその3分の1で、世界平均を大きく割り込む。

 「持続的に高収益を上げられると評価できる企業」として、株式時価総額300億ドル(約3・2兆円)以上、自己資本利益率(ROE=return on equity)が20%以上の263社を対象とし、資本効率を示すROEに企業価値の拡大を目指すESG(Environment=環境、Social=社会、Governance=企業統治)を乗じたものが、新たなROESG指標である。

 なお「企業のブランド力に寄与する」ESGとは、同紙<きょうのことば>によれば、以下の要素からなる。Eが二酸化炭素排出量の削減、再生可能エネルギーの利用、生産過程での廃棄物低減等、Sは供給網での人権問題の配慮、個人情報の保護や管理、製品の安全性の確保等、そしてGは取締役会の多様性確保、適切な納税、贈収賄等の汚職防止等を意味する。企業の質の評価を含み、説得力がある。

 経済面から見た世界と日本、あるいは世界の中の日本の行方を考えれば、このまま放置はできない。投資が逃げ、優秀な人材が流出すれば、将来への期待も後退する。

 ここから寺島さんの「知の再武装の時代に向けて」の提案が始まる。講演を補う詳細は、無料で配布された著書、寺島実郎『ジェロントロジー宣言 「知の再武装」で100歳人生を生き抜く』(2018年 NHK出版新書 560)の中にある。

 新刊本に付す帯には版元と筆者の狙いを要約して示すことが多い。著書の表紙側には「100年をどう生きるか。自分の生き方を見つめ直し教養をアップデートせよ!「ジェロントロジー」という新・学問のすすめ」とある。

 「ジェロントロジー」と括弧を付しているのは日本語にまだ馴染んでいないことを意識してのことであろう。英和辞典にGerontologyは老人学とある。寺島さんは、「健全で幸福な高齢化社会を創造するためには、より広範で体系的英知を結集する必要がある」という点から<高齢化社会工学>と訳すべきとする。

 ついで裏表紙のキャッチには、「体系的な学びを通して、個人と社会システムを変革する。私は<高齢化によって劣化する人間>という見方を共有しない。もちろん、老化による身体能力の衰えを直視する必要はある。だが、人間の知能の潜在能力は高い。心の底を見つめ、全体知に立ってこそ、美しい世界のあり方を見抜く力は進化しうる。<知の再武装>を志向する理由はここにある」と記す。

 高齢者が人口の7%以上を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼ばれる。日本は1935年に4.7%で最低であったが、2007年に21.5%の超高齢社会となり、2050年代までは世界1位を堅持すると予測される。こうした時代だからこそ、日本人が<知の再武装>を提起することに大きな意義がある。

 講演の終了時間が迫るなかで、寺島さんは最大の課題が<都市郊外型の高齢化>にあるとし、国道16号線(都心の周囲を環状に結ぶ首都圏の道路、総延長は約250キロ)沿いに造られた団地群とその住民に触れる。この人びとは団塊世代を代表し、<金のたまご>として上京、製造業主導の戦後経済を牽引してきた。いま古稀を過ぎて70代に入った。

 「ニュータウンの問題は、将来の発展の前提となる世代の交代という図式が壊れていること」であり、「…団地やニュータウンというコンクリートのブロック空間に独居老人を閉じ込めたまま地域社会全体が高齢化しているのが、都市郊外型の高齢化の特質…」と指摘する(第2章)。

 最後が演題の本題である「知の再武装の時代に向けて」だが、時間切れで十分には語られなかったため、著書から論点を抜粋しておきたい。誰にも<中年の危機>は訪れる。「…自分は本当にこのような生き方でよいのだろうか」と自問自答を繰り返すうちに、深い心の闇に迷い込む人もいる。

 そうした危機から脱する方法として、一つは人生の使命に気づくこと、もう一つは人との出会い、と述べる。その後に展開する<江戸時代における知の基盤>、<戦前まで生きていた和漢洋の教養>、<戦後社会科学教育の欠落部分とは何か>、<生命科学がもたらす新しい人間観>等の記述は興味深い。そして最後の第5章「高齢者の社会参画への構想力 食と農、高度観光人材、NPO・NGO」には、多くの具体的な示唆が記されている。

三溪園と日本画の作家たち

 三溪園の創設者・原三溪(1868~1939年)の没後80年を記念して、三溪園では横浜美術大学と連携し、「三溪園と日本画の作家たち」を開いている。大別して次の3部構成である。

 (1)「三溪園 原三溪が支援した作家たち」(三溪園内の三溪記念館第1、第2展示室で開催中、担当は三溪園学芸員の北泉剛史)。会期は7月12日(金曜)から8月18日(日曜)まで。
 (2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香)ほか。三溪園記念館第3展示室。会期は7月12日(金曜)から10月1日(火曜)まで。
 (3)「景聴園+越智波留香」、恒例の夏の公開に合わせて三溪園内の鶴翔閣にて。会期は8月3日(土曜)~18日(日曜)。

 今回の企画意図について、三溪園と横浜美術大学の連名のあいさつの中で、次のように述べている。

 「今年は三溪園の創設者・原三溪の没後80年を迎えます。これを記念し横浜美術大学との連携による企画展「三溪園と日本画の作家たち」を開催します。
 三溪は明治期末から昭和期にかけて生糸貿易・製糸業で財をなし、日本・東洋の古美術品を蒐集する一方で、岡倉天心の依頼を受け、日本美術院を中心とした若い日本画家たちを支援しました。画家たちは制作に専念できるよう資金を援助されただけでなく、毎月行われたという古美術の鑑賞会で、三溪が蒐集した美術品から古典絵画の表現技法を深く学ぶことができました。なかでも下村観山は、狩野派の古典的素養に近代の新しい感覚を兼ね備えた高い画技を持っていたことから、三溪が最も愛し厚く支援した画家です。
 横浜美術大学で絵画研究室助手を務める越智波留香氏は、関東大震災で失われてしまった松風閣に観山が描いた障壁画《四季草花図》を綿密に研究し、このたび復元制作を行いました。本展では、当園が所蔵する観山の下図とあわせて、その成果を展示します。
 三溪園を舞台に新しい時代の日本画の表現を模索した作家たちの作品を通して、原三溪という芸術のパトロンが、その発展に来した歴史的意義をあらためて見直していただく機会となれば幸いです。」

 今回、横浜美術館で「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(会期は9月1日まで)が開かれるのを機に、三溪園の吉川利一事業課長を軸として、横浜美術大学、横浜美術館の三者を結ぶ大きな輪に拡げられないかとの協議が昨年夏から一挙に進み、このような企画が実現する運びとなった。

 2つの会場のうち三溪記念館は1989(平成元)年の建設、築30年で3つの展示室を持つ。もう一つの(3)の会場の鶴翔閣は1902(明治35)年建造で築117年の由緒ある建物で、横浜市指定有形文化財である。

 (1)の第1、第2展示室では、明治30年代以降の、日本美術院(岡倉天心たちが明治31(1898)年7月に創設)の伝説的な日本画家、すなわち下村観山、横山大観、今村紫紅、荒井寛方、速水御舟等の作品約30点を展示している。

 彼らは、生年から概ね10年ごとに三世代に分類できる。第一世代が横山大観、西郷孤月、下村観山、荒井寛方。第二世代は今村紫紅、小林古径(本展では出品なし)、安田靫彦、前田青邨。第三世代は牛田雞村、小茂田青樹、速水御舟。このうち荒井寛方(1878~1945年)は三溪が初めて支援した日本画家で、明治36(1903)年、寛方が美術雑誌『国華』(28歳の岡倉天心が1889(明治22)年に創刊)に掲載する《孔雀明王像》(国宝、東京国立博物館、三溪旧蔵)を模写するため三溪園に滞在したことが機縁となった。

 第2展示室の12点はすべて下村観山(1873~1930年)の、明治末から大正12(1923)年までの作品である。三溪は、明治41(1908)年の第1回国画玉成会展覧会に出品した観山筆《大原御幸》(東京国立近代美術館)を見て、その卓抜した画才に感じ入り、明治44(1911)年、天心を通じて観山に支援を働きかけ、大正元(1912)年には本牧和田山(現、本牧山頂公園)に屋敷を提供した。今回の展示品は絹本着色、絹本淡彩、紙本淡彩、紙本墨画から成る。大型紙本墨画の《老松》(192.6㎝×143.3㎝)がとりわけ目を惹く。

 一方、第2会場の鶴翔閣では、かつて倉の奥の<客間棟>で伝説の大画家たちが制作に打ち込み、また<楽室棟>では1910年代から第二世代を中心に三溪所蔵の名画をめぐる古美術鑑賞会が頻繁に開かれた。議論し、切磋琢磨する芸術家たちの熱気と気概あふれる場所であった。

 その同じ場所で、約百年を隔てた今日、次代を担う若き作家たち、すなわち「景聴園」(けいちょうえん、京都市立芸術大学で日本画を学んだ作家5名と企画者2名からなる)が、新たな日本画を模索する。

 この(1)と(3)を結ぶのが、記念館第3展示室の(2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香、横浜美術大学絵画研究室助手)である。原画は三溪園山上の松風閣にあった京間十畳和室の障壁画(1912年)であるが、関東大震災(1923年)で建物は倒壊、作品も消失した。残された小下図(下絵)や古写真等を手がかりに、観山の他の作品も参照し、可能な限りの推考を重ねて作り上げた大型(264.9㎝×781.5㎝)の作品である。

 どのように復元したかを示す数葉のパネルがある。下図や観山筆《白狐図屏風》の他、俵屋宗達たち琳派の作品を研究し、金銀泥に銅粉や墨で陰影を作る、また<たらし込み>という墨や絵の具の滲みや混ざり合いを活かす画法を取り入れる、さらに和紙を3回裏打ちする技法を再現等々、ひたむきな苦闘の結実は後につづく人の参考と励みになるにちがいない。

 ここには観山の下図のほか、実際に使っていた絵筆、スケッチブック等も展示している。

 8月3日(土曜)、第2会場の鶴翔閣において(3)「景聴園+越智波留香」が始まり、若き現代の作家たち「景聴園」の作品28点と越智さんの作品2点が披露された。

 大広間を小さく仕切り、ふだんの鶴翔閣を知る人には、あたかも異空間かと思わせるレイアウトである。柱や鴨居に傷をつけぬよう、三溪園建築担当の原未織が立ち会い、慎重に作業を進めた。

 見事にできあがった展示空間に込めた思いが、A3両面×1枚の配布リーフレット(文:乃村拓郎/景聴園)に書いてあった(裏面は作品の配置図と作者・作品名一覧)。その一部を引用したい。

 「…明治から大正にかけて日本画家達は、…西洋画法の導入を試み、かたや伝統的な線描や古典への回帰があり、奥行きを求める画面へ、または平面的な画面構成へと融合と回帰を繰り返し日本画の輪郭を探っていきます。…時代が進むと新しい画材の開発も行われ、作品のあり方も床の間に飾る作品から、展覧会で見る作品へと変化していきます。…今回の展示は、大学で日本画を学んだ現代の作家達によります。日本画が生まれて約百年が経った今、現代の作家はかつての日本画達が見た景色の中に立っているのでしょうか。そして彼らが鶴翔閣に集まった日本画家を振り返ったとき、どのような景色を描けるのでしょうか。
…今も昔も作家達の眼差しには、新たな地平を拓くという強い意思があります。…近代において日本画の興隆の舞台となった鶴翔閣で、時代の視線が交差する時、どのような景色が現れるのか、どうぞご高覧ください。」

 この日、越智さんを講師に迎え、11時、1時、3時からの3回、各回の定員15名程度で、ワークショップ「三溪園の画帖をつくろう!」が行われた。<茶の間棟>に机と画材等をならべ、「三溪園の風景をあしらった古い本の形式の一種である<画帖>を作り、今日の思い出を描きこんでみましょう」と呼びかける。猛暑日にもかかわらず、若いカップルや家族連れで賑わった。その奥の<書斎>にも越智さんの作品が2点。

 この前日、日本経済新聞の8月2日朝刊1面<春秋>欄の、埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」についての記事が目に留まった。この美術館は画家の丸木位里・俊夫妻が1967年に設立したもので、共同制作<原爆の図>を展示している。1980年代は広島・長崎の修学旅行前に学習に来る団体が急増するが、やがて<原爆の図>は残酷だとして教科書への掲載が減り、美術館は活気を失う。しかし東日本大震災(2011年)後、社会問題と向き合う美術家を招くと、彼らが<原爆の図>に刺激されて新作を生み、その作品目当ての若い観客が丸木夫妻の<原爆の図>に共感するという。

 後世に残すべき作品を大切に保存・管理し、新しい発想で今に生きる人々に伝えていくことがいかに重要かを改めて心に刻む。

 それとともに、「下村観山《四季草花図》復元画」のように、失われた作品の復元も劣らず重要である。それはまた美術研究を深め、創作活動の可能性を拡げる。「景聴園」の作品群が及ぼすにちがいない今後の影響を見守りたい。

 三溪園という国指定名勝が、若い世代に活動の場や、他に類をみない収蔵品を提供して彼らの後押しができれば、そして彼らの作品をきっかけに若い観客や仲間が増えてくれればと思う。

 今後の予定は以下の通り。

 8月10日(土曜) 11~12時、越智波留香講演「<観山の間 四季草花図>の復元-三溪と観山が描いた理想空間」。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月10日(土曜) 13~14時半、出展作家によるギャラリートーク。越智波留香、景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓)。聞き手:森山貴之(本展企画、横浜美術大学美術・デザイン学部准教授)。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月11日(日曜) 10~16時の間に随時受付(一人30分程度) ワークショップ「みんなで大作に挑戦!~孔雀明王ぬり~」 講師:景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈)。「岩絵具を使って大作ぬりえに挑戦! 岩絵具に親しんでもらうとともに、三溪園で大作に挑んだ横山大観らの制作を体感してもらいます」と呼びかけている。

 なお、この展示「三溪園と日本画の作家たち」の会期は8月18日(日曜)までの予定であったが、三溪記念館の第3展示室(「下村観山(四季草花図)復元画」のある部屋)に限り、展示物を一部入れ替えて、10月1日(火曜)まで延期する。

横浜散策(その2)

 近藤さんと尽きぬ話をしながらの横浜散策は、「横浜山手テニス発祥記念館」の立寄りで第1ラウンドを終えた(本ブログ2019年6月4日掲載「横浜散策(その1)」を参照)が、夕方5時半を過ぎてもまだ明るい。カフェの屋外ベンチでコーヒーを手に話がつづいた。

 ここからは第2ラウンド「横浜散策(その2)」であるが、私がたまたま超過密スケジュールに追われて起稿できず、近藤さんに記憶の復元と記録化をお願いしたものである。すぐ届いた文章を基に草稿を作ったのが5月29日、それから2か月以上も経ってしまった。近藤さん、ご免なさい!

 急ぎ本題の「心理学で要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なる」とする論点に入りたい。私の問いかけに近藤さんが答える。

 「…実験心理学の創成期19世紀後半、こころの機能や行動を構成要素に分析しその総和でこころの世界を理解しようとする立場、つまり要素主義がありました。当時の科学的方法論としては自然な流れでしょう。これに対して20世紀初頭、要素主義の考え方を否定するゲシュタルト理論が提唱されました。<ひとつの全体は要素に還元できない体制化された構造>であるとする立場です。」

 「…その<まとまり>、あるいは<全体性>、<形態>をゲシュタルトと呼び、英・仏・そして日本語でもうまく訳せない概念なので独語オリジンのゲシュタルト(Gestalt)が用いられています。例えば、仮現運動という現象があります。知覚心理学の分野での視覚による運動の知覚です。線路沿いに置かれた警報機の光の点滅をイメージしてください。2つの光が左右に離れて交互に点滅します。これを見ると2つの光が別の場所で交互に光っているという“正しい”知覚が生じます。この状況で2つの光が点滅する時間間隔(あるいは距離間隔)をうまく調整すると、1つの点が左右に運動するように見える知覚を生み出すことができます。視覚のイリュージョン、錯視が生じます。…」

 近藤さんは専門の<知覚心理学>の事例を挙げ、楽しげに話す。「…これは誰にでも体験できる現象であり、デモンストレーション、つまり証明可能です。この現象は、要素主義が主張する刺激要素と感覚要素の1対1対応の総和では理解できない心理現象です。つまりどんなに要素に分解して分析し、加算しても、この状況で私たちが実際に経験するひとつの点が左右に運動して見えることは予測できないのです。」

 異分野を専門とする私に対して、別の事例を挙げて迫ってきた。「…実証可能な科学とは違い、歴史学では実証的証明に限界がありそうなので、分野の枠を超えることは難しいのでしょうか。学際研究を可能とする知的プラットホームは学問を進める上で必然といえると思うのですが。…」

 「…先ほど公園で講義いただいた三角貿易に話を例えて見ますと、英国と中国、英国と印度、中国と印度をそれぞれ1本の線の両端に置きます。これが要素主義による三角形を構成要素の3本の直線に分解したものです。分解された要素1本ずつをいくら分析して加算しても三角貿易の真の意味は理解できないのではないでしょうか。」

 「…これに対してゲシュタルト理論では、ひとつの全体である体制化された構造として三角形の頂点に英国・中国・印度があるとすると、その場、つまり<まとまりのある構造>によって加藤理論の歴史学的意味が浮き上がる。ゲシュタルト思考の賜物かも知れませんね。少し強引ですが知的パズル遊びと思って笑ってください。三角形はグーテ・ゲシュタルト、<よいかたち>です。…」

 「…う~ん!?」と私は反応し、ゲシュタルト心理学により私の歴史理論を解明してくれたことに感謝しつつ、すぐ対応するまでにはいかず、歩きましょうと促した。来た道を戻るなかで、近藤さんが若い頃、スコットランドのダンディー大学客員研究員をしていた頃の(家族を連れて1年間)話をしてくれた。

 「…ゴルフで有名なセントアンドリュースの近く、ダンディー市から湾のような川幅をもつテイ川を挟んだ対岸の町、ニューポート・オン・テイの19世紀の石作りの頑強な建物。その1階に住む大家さんに2階を借り、家族の住まいとしていました。その門扉にあったのがFern Brae14(フェルン ブレイ)。フェルンは植物のシダ、ブレイはスコットランドの用語で「川岸に沿った丘の下りこう配」を意味します。確かにテイ川の川岸のシダが覆う斜面にその家は川を見おろすように建っていました。横浜の外国人居留地跡で見た看板は西洋文化に共通する匂いとして30年前の回想を惹き起こしたようです。」

 我々は港の見える丘公園から新緑の中を下り、谷戸橋を渡って山下公園へ向かう。関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受けた横浜は、原三溪を筆頭に震災復興に全力を尽くした。その結晶の一つが、倒壊した建物の瓦礫等を埋め立てて造った山下公園(1935年開園)である。ニューグランド(正式には<ホテル、ニューグランド>と表記)の旧館入口に「横浜開港160周年」の看板。その先の、イチョウの枝に架かる天空の月を写真に収める。

 道を渡って横浜港に接する山下公園へ。係留してある氷川丸は1925(昭和5)年、横浜船渠(ドック)で建造された。戦時には病院船として、戦後は客船・貨客船として役目を果たした。従兄弟の加藤敬二が船長を務めた時期があり、船内を案内してもらった懐かしい船である。

 山下公園を後にして、朝陽門から中華街に入る。関帝廟に参拝し、夕食。2人だけの中華料理には小皿料理が一番である。ここで近藤さんが北九州市立大学で塾長を務める社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)の話になった。近藤さんによる再現は、ほぼ以下の通りである。

 「…日本の大学における教養教育改革が声高に叫ばれて久しい。伝統的に科学教養・人文教養・社会教養が学士課程の3本立ての教養教育の内容としてカリキュラムに含まれています。教養科目は社会人となる学生にとって専攻する専門分野に関わらず身につけておくべき<生きる力となる基盤>です。当然大学では、初等・中等教育を経た二十歳前後の学生を受講者としての立て付けになっています。果たしてそれで十分か?…」

 「…人生100年時代、それぞれのステージで必要とする教養のあり方は変化するものでしょう。50代には50代の、60代には60代の。また人生経験の違いによっても変化するはずです。社会人大学は、自分の意思で学び、その教養を身につけます。そのためには設置の科目は個々の社会人学生の社会経験や要求に対応できるものが準備される必要があります。」

 「…事前のニーズ調査による科目の設定や教員側からの社会人の経験に応じた科目の提案など多様性をもった対応が新たな教育の可能性を拡げるものとして必要です。また、授業内容においても二十歳前後の学生とまったく違う反応があります。例えば、心理学で記憶の話をすると特に年齢の高い方は記憶術に高い関心を示します。社会経験が豊富で、年を重ねるごとに豊かなエピソード記憶をもつ方は、若者より有利に記憶術を使う可能性があります。」

 「また、この社会人大学は新任の教員にとっても、よい学びの場となる可能性があります。新任教員にとって通常受講学生は自分よりも若く、年齢差があまりありません。過去の自分が学生のころの経験、それが授業に役立ちます。しかし、自分より年齢の高い、しかも異なる社会経験を積む社会人学生を前に授業をする場合、同じ科目であっても理解を促し、伝えるためには、話す内容、取り上げ方を工夫する必要があります。創造性を持った授業準備の必要性です。ここに教員としての質の向上が期待できると思います。…」

 驚くべきは、これが単なる企画や計画ではなく、今年度から実施段階に入ったことである。近藤塾長の熱が伝わってくる。一方、私は書いたばかりの「大学教員の仕事」(本ブログ2019年3月5日)を思い出し、大学教員の多くが今、<気概>を失いつつあるのではないかと危惧していた。

 この点を近藤さんに伝えると、上掲の「大学教員の仕事」には、「後輩教員への温かな眼差しとバトンを託す思いとしての強い意志が感じられます。とりわけ最後の3点目は、大学を担う教員一人ひとりが自らの心得として軸にすべきものでしょう」と返ってきた。

 その<最後の3点目>を再掲する。「教員個々人の領域に引きこもらず、分野・職種・年齢等の異なる大学構成員(教員・職員・学生)との自由闊達な意見交換により、大学本来の役割である知(知識+知恵)の創造・継承・普及に寄与すること」。

 今回の横浜散策は予定していたコースの何分の一かに過ぎない。加えて、近藤さんから催促が来ている。「7、8年前の宿題、覚えていますか? 孔子の言葉をまとめた『論語』のことです。そこには人生訓として70歳(従心)まではありますが、80歳、90歳についての言はありません。先生に考えてもらう約束ですが…」

 難しい宿題を抱えつつ、いずれ「横浜散策(その3)」をお届けするつもりである。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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