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医療の近未来

 これまでも本ブログで取り上げてきた<清談会>という名の、年2回の談笑の場がある。昨年12月28日開催の第27回清談会を記録したのが2019年1月7日掲載の「10年後の歴史学」で、私の報告とその後の議論をまとめた。

 清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。

 今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。

 この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。

 つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。

 その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。

 専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。

 メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。

 一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。

 報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。

1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン

 1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。

 「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。

 この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。

 3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。

 さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。

 ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。

 「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。

 「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。

 言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。

 ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。

 穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。

 浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。

 「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。

 「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」

 山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。

 本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
 
 第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。

 第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。

 つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。

 そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。
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三溪と天心(その3)

 前号「三溪と天心(その2)」では、天心の生誕から1880(明治13)年7月、19歳で東京大学を卒業して文部省入省、社会人としての活動を開始、その2年後の1882(明治15)年8月に初めての論説「書ハ美術ナラスノ論ヲを読ム」を文学士岡倉覚三の名前で公刊するまでの略歴と思想形成を見た。

 これを受けて今回は、社会人としての第一期を扱う。すなわち文部官僚として古社寺調査を重ね、文部省内の図画教育調査会委員に就き、またフェノロサとともに約1ヵ年にわたる欧州視察(1886(明治19)年9月~翌年10月)を行い、そこで得た経験と思考の深化を日本の美術教育制度作りに反映させる、天心21歳から26歳までの略歴と思想形成を見たい。

 天心21歳の1882(明治15)年5月、フェノロサが龍池会(りゅうちかい 日本美術の海外流出を防ぐため3年前の明治12年設立、会頭は佐野常民)において美術に関する講演を行い、その通訳を務める。天心も2年後に入会、同会録事(書記)となる。同年6月、ビゲロウ(William S. Bigelow、アメリカ人医師で美術蒐集家)が来日、天心の理解者となる。

 同年9月、文部小輔(現在の文科省事務次官相当)の九鬼隆一(福沢諭吉門下で旧綾部藩士、2年後に特命全権駐米公使、明治29年に男爵)の学事巡視に随行、新潟県と石川県を回り、文部省中枢との関係を築く。帰路に京畿地方の古社寺調査を行う(2度目)。10月、上野公園で農商務省主催の第1回内国絵画共進会開催。日本画家の作品の発表・販売を促進する契機となる。

 22歳の1883(明治16)年の冬、狩野芳崖を訪問するフェノロサの通訳として同行。これを機に、親子ほども年齢差のある著名な日本画家、狩野芳崖(1828~1888年)や橋本雅邦(1835~1908年)らと親交を深め、後には東京美術学校創設に協力を求めた。天心による二人への想いは、後の「狩野芳崖」(芳崖への追悼文、『国華』第2号に掲載)および「橋本雅邦」(『太陽』誌1巻号、明治28年3月)によく表れている。

 23歳の1884(明治17)年4月開催の第2回内国絵画共進会に芳崖や雅邦らが出品。同年6月、京阪地方の古社寺調査を文部省から命じられ(3度目)、フェノロサ等が顧問として参加、このとき法隆寺の夢殿を開扉し、秘仏救世観音を拝した。

 同年11月、文部省に図画教育調査会が置かれる。委員は天心ほか前述の小山正太郎をふくめ9名、のちフェノロサが加わる。翌年には、文部省学務一局に美術学校創立準備の図画取調掛が置かれ、天心、フェノロサ、狩野芳崖、狩野友信が委員となる。一方、図画教育調査会では毛筆画採用論者の天心らと鉛筆画採用論者の小山らの意見が対立、天心らの主張が通る。

 24歳の1885(明治18)年1月、観画会(かんがかい 前掲の龍池会から離脱し明治17年創設)が改組され九鬼隆一が名誉会長に就く。このころ天心は種梅鋤夫のペンネームで『大日本美術新報』(天心と今泉雄作の企画により1883年創刊、鴻盟社)に3本の論説を矢継ぎ早に発表する(いずれも『全集』第3巻所収)。(1)「美術ノ奨励ヲ論ス」(第15号、明治18年1月31日)、(2)「絵画ハ配色ノ原理講究セサルヘカラズ」(第19号、明治18年5月)、(3)「日本美術ノ滅亡座シテ俟ツベケンヤ」(第24号、明治18年10月)である。いずれもカタカナ表記の漢文訓読(読み下し)文体で、とくに強調したい所には傍点を付している。なお以下の引用は原文を活かしつつ私が意訳した。

 論説(1)は、前年の1884(明治17)年のうちに絵画共進会、観古美術会、東洋画会、私立絵画共進会が誕生、観画会も組織改定があり、これを美術思想の一般社会への伝播の結果として歓迎するとした上で、日本では美術関係者を下等集団と見下しており、画家も自らを卑下して生気のない作品を作っていると嘆く。その上で美術の奨励は、①公平であるべき、②領域が広大であるべき、③真正であるべき、と大綱を掲げ、美術界各派の功罪を述べる。

 論説(2)は、冒頭に「美麗な彩色を好むのは人の天性」と掲げた上で、「絵画技術のなかで彩色が最も難しい」とし、それを線、濃淡、遠近、明暗、清濁等と比較し、「近世本邦の絵画で十分の着色をしたものはない」と述べる。その上で①「画道のうち水墨を上とする」伝統的思考に縛られている現状を批判、②その社会的背景として禅家・茶家・武家の影響により<黒服>が主流となり、彩色の原理究明がおろそかになったと指摘する。彩色は光線の分割により生まれるもので、その結合分配の法則は理学により証明できる。近年、欧州では<音律>の原理を追究して音楽教育に役立てており、この理学理論を美術にも応用している。したがって「…その粋を摘み、その精を採り、我が天賦の美術精神に加えるは畏れるに足りない」と、積極的採用を主張する。

 論説(3)は、1873(明治6)年のウィーン万博(1851年のロンドン万博から数えて6回目)で高い評価を獲得した日本美術が、以来10年で著しく下落したことを受け、「日本美術の滅亡は眼前にあり…」とする強い危機感を前提に対応策を展開する。「時勢に適合する者は生き残り、時勢に離反するものは滅びる、この自然淘汰の原則はみな知っており、…攘夷鎖港論や竹やり戦法は通じない。…国内の需求と外国の市場に向けて美術の販路を求めるべきである。…西洋美学の真理を適用し、真正着実に奨励するほかない。…これは西洋美術の輸入を指すのではなく、真理に依拠して本邦固有の性質を発達させるという意味である。行政、教育、法律等もっぱら泰西の方法を適用しても、皇国の皇国たることに影響がないとの同じである。美術家よ、美学明鏡を懸けて天魔の醜態を照らし出そう。真理の宝剣を掃いて美術の逆賊を誅戮しよう。躊躇することなかれ。」

 同年2月、学務一局(浜尾新局長)詰めの準判任官となり、地位・権限と責任が強まる。

 25歳の1886(明治19)年1月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に置かれ、天心が同掛主幹に任命される。このころ職務以外で重要なのは、同年5月、桜井敬徳(天台宗法明院)より受戒、<雪信>の戒号を授与されたことであろう。7月、古美術取調のため京阪へ出張(4度目)、古社寺調査の延長と思われる。

 同年9月、美術取調委員としてフェノロサとともにアメリカ経由で欧州へ出張、サンフランシスコ、ニューヨーク、リヨン、ジュネーブ、リバプール等をめぐり、再びアメリカを経由して翌年10月に横浜帰着。1年間にわたる欧州出張は、多くの示唆を得る貴重な体験となった。

 それを記した天心の「欧州視察日誌」(明治20年)が『全集』の第5巻にあり(初めての翻刻)、英文で書かれた箇所には高階秀爾が適宜訳註を付している。分厚い表紙(背と上下の角は布貼り)、縦23センチ、横18センチの横罫ノート。ペンで書き込み、題名はない。

 解題(「本巻の校訂および解題の執筆は木下長宏が当り…」とある)によれば、視察目的は「…日本における美術の教育を喚起し美術の発達を誘導するため…」とあり、その調査事項として次の9つを挙げる。(第一)美術学校の組織管理及学科教授法等、(第二)美術学会其他美術者公会の組織管理、(第三)美術博物館の組織管理及館中標品の陳列保存に関する方法、(第四)美術博物館建築の模様、(第五)公設美術博覧会の処置法、(第六)工芸美術の改良に関する諸要点、(第七)外国営造装飾術の特に日本美術を需要する件、(第八)美術作品を模製する方法、(第九)欧州美術発達の沿革及名作の評説。なお欧州滞在中は浜尾新(上掲学務一局長)を委員長とする、とある。

 文部省派遣の初の欧州視察旅行のため、広く網羅した9項目であるが、分類すると(第一)美術学校、(第二)美術学会、(第三)美術博物館(美術館という日本語はまだない)等の組織管理を学ぶこと、言い換えれば外形的な組織管理の把握が第一で、それに伴う学科教授法や標品の陳列保存法がつづき、さらに(第六)工芸美術の改良、(第七)日本美術の活用法、(第八)作品の模製法、そして(第九)が欧州美術発達史である。

 日誌は1886年3月2日のリヨン(フランス)での記述(281ページ~)に始まる。横浜を出てすでに半年を経過しているためか、初めての外国旅行の気負いは見られない。なぜリヨンの記述から始まるのか、それまでの日誌はないのか、現段階では不明である。

 リヨンは絹織物の集積地で養蚕地帯を背後に持ち、かつ日本産生糸の輸入港でもある。まず美術学校を訪問、工業デザインを中心として①絵画、②彫刻、③版画、④花の装飾的意匠のコースや必修科目等の記載がある。これに続けてフランスは絹織物の最大のライバルであるとし、その対抗策に関する政治経済的分析を含め、日本産生糸の改良や日本独自のデザイン強化等に言及する。

 翌日、リヨンを発ち、ヴォアロン等の職業学校や小学校等を訪れ、画家は二次元(平面)で彫刻家は三次元(立体)で捉えるため、両者の差異をしっかり教えるべしと批判する。ジュネーブでは時計工場や美術館を訪れ、ついでヴェニス、ヴァチカン、ナポリ、マドリード以降の記載はごく簡潔。次がイギリスのサウスケンジントンに飛び、8月7日のリバプールで美術に関する諸施設を一覧する記述(325ページ)で終わる。計44ページ。

 その3倍ちかくの119ページ(326~445ページ)分がプライベートな心覚えや断片であり、後に書き込んだもの(日付入りもある)。美術教育機構の構想、26歳の天心の煩悩の独白、出発時の漢詩、欧州画家の分類表、家の見取り図までを含み、広く旅行中の日記を基に後に加筆された備忘録と言える。

 帰国寸前の1887(明治20)年10月、文部省告示で図画取調掛(掛長が天心)を東京美術学校と改称、また2年前に準判任官になったばかりの天心が奏任官四等に昇進、これにより東京美術学校創設にむけて天心の役割と権限・責任が一挙に高まる。

 欧州視察成果に関する正式の報告書は不明であり(上掲の解題による)、わずかに天心の講演「観画会に於て」(『全集』第3巻、原載は1887(明治20)年11月6日の「大日本美術新報」終刊号の第50号)に一部が見られるのみである。それは帰国報告の形で<観画会>の主義を定めるべしとして、次のように言う。

 「…美術のことようやく世人の注意を惹起するにいたった今日、…世人の関心は東西両様の美術のうちどれを取るべきかにある。…」と述べ、現状の考え方を①純粋の西洋論者、②純粋の日本論者、③東西併設論者即ち折衷論者、④自然発達論者の4つに分け、それぞれの特徴を示して批判した後、観画会が実践する④に依拠せざるを得ないとし、「自然発達とは東西の区別を問わず美術の大道に基づき、理のある所は取り、美のある所は究め、過去の沿革に拠り現在の情勢に伴って開達するものである。…日本の美術家諸君よ、美術は天地の共有である。東西の区別をすべきではない。…上は皇国の光栄に関し、下は貿易の消長に係り、諸君の責任は重い。泰西理学の結果を軽視せず、勉めて精神を存養し、他日の大成を期していただきたい。自から信じ、疑うことなかれ」と結ぶ。

 欧州視察前の3本の論説を補強する2年後の論述であるが、天心26歳の意気込みが感じられる。表現にいささか力みもあるが、観画会という仲間への呼びかけであれば当然とも言えよう。(続く)

ペリー応接と万次郎

 江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可)の総会が5月19日(日)に開かれた。会場の近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が一時住んでいたことに因み、15年前に落合静男さん(当時、北砂小学校長)が立ち上げた「ジョン万次郎・江東の会」を2014年に「中浜万次郎の会」とし、さらに改組して今回の記念総会である。代表の北代淳二(きただい じゅんじ)さんから講演の要請をいただいた。

 北代さんと初めてお会いしたのは2年前の5月20日、横須賀開国史研究会の総会後で、幅泰治さん(はば たいじ、中浜万次郎の会事務局)と青野博さん(土佐史談会理事)がご一緒だった。

 また一昨年6月、新発見の芝居の台本、王笑止著「泰平新話(たいへいしんわ)・巻之一 亜墨利加(あめりか)舶来航、兼土佐萬次郎(とさまんじろう)説話」(表紙込みで81ページ)について、メールで意見交換した(2017年6月14日の朝日新聞夕刊を参照)。

 そして昨年末、ジョン万次郎述 河田小龍記 谷村鯛夢訳 北代淳二監修『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく 全現代語訳』(講談社学術文庫 2018年)が刊行され、さっそく入手。講演要請は同じ文庫に拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年、以下 拙著とする)があり、2冊でペリー来航時の万次郎の役割がよく分かるとの、北代さんの配慮であったかもしれない。

 万次郎の帰国とそれに続くペリー来航という時期に、幕府と日本はどのような状況にあったかという背景に触れてもらえればとのこと、考えた末に演題を「ペリー応接と万次郎」とお伝えした。

 当日の参加者は約30名。北代会長は、事前に拙著を読んで参加するよう要請されたという。もともと万次郎に様々な角度から関心を抱いている方々ばかりである。熱心に耳を傾けてくださった。

 配布レジメには年表や地図・表等を付し、目次に3点を掲げ、これに沿ってパワーポイントを放映して話を進めた。

1 1850年ころの環太平洋-東漸する英国、米国西海岸、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
2 日米双方が得た情報、万次郎の伝えたもの
3 ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳

 目次1に関しては、レジメに載せた地図「1850年前後の環太平洋」(拙著59ページ)を放映し、次の2点を説明した。①環太平洋の左(西)に東アジア(日本・朝鮮・中国)や東南アジアがあり、右側(東)にはアメリカがある。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争 1846~48年)に勝利し、広大なカリフォルニアを割譲させ、初めて太平洋の先の東アジアを展望する位置に立った。②難破した日本人漂流民(大半が海上運搬を担う廻船の乗組員と漁民)は北太平洋海流と偏西風によりアメリカ西海岸方面へと流され、一方で難破したアメリカ捕鯨船は千島海流により北海道に漂着した。

 ついで地図「ペリー提督旗艦の航路」(拙著22・23ページ)を使い、次の3点を述べた。

① ペリーの旗艦ミシシッピー号は、アメリカ東部の軍港ノーフォークを発ち大西洋を横断、アフリカ南端をまわり、インド洋を経由、地球を約4分の3周して中国海域に到着、1853年7月8日、江戸湾の浦賀沖に姿を現すまで実に7カ月半を要した。②中国海域に到着するや広州駐在の宣教師S・W・ウィリアムズを訪ね、日本語の通訳を要請するも固辞される。③アメリカは独自の補給線(シーレーン)を持たないため、蒸気軍艦に必要な石炭や食糧・水等をイギリスの蒸気郵船会社P&O社のデポ(貯炭所)から購入せざるを得なかった。

 さらに略年表(拙著35ページ)を参照して下記の3点を述べた。

① 左欄の日本には戦争の文字がなく、右欄の世界には戦争、植民地化等の文字が多数ある。②幕府による4回の対外政策、すなわち1791年の寛政令(薪水供与令)、1806年の文化令(寛政令のいっそうの緩和)、1825年の文政令(無二念打払令の強硬策)、そして1842年の天保薪水令(文化令の穏健策に復帰)。うち最後の天保薪水令の公布は、アヘン戦争を収束させる南京条約締結(1842年8月29日)の一日前であった。
② これは偶然ではなく、幕府が長崎に入港するオランダ商船と中国商船に提出させたアヘン戦争情報を周到に分析、イギリス海軍が揚子江を遡航して大運河の交差する地点(鎮江と揚州)を越えると読み、この物流の大動脈(揚子江と大運河)を制覇されれば清朝政府は降伏すると判断した。
③ この中国戦線の動きを「他山の石」、「自国の戒」とし、外洋船を一隻も持たない「鎖国の祖法」の下、文政令(無二念打払令の強硬策)の固持は敗戦を意味するとして穏健策の文化令に復し、あらゆる面で「避戦策」に徹する政策に転換した。

以上が日米初の交渉の前提となる政治状況である。

 これに次ぐ目次2「日米双方の得た情報、万次郎の伝えたもの」は、本講演の中心課題である。相手がどのような国で、何を目的に、どのような布陣で臨むか。情報の多寡と綿密な解析、そして高度な戦略が交渉の決め手になる。

 まず幕府が得たアメリカの「直接情報」(日米の直接の接触により得た情報)として、次の3つを挙げた。
① 1845年、アメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流民22名を救出し、送還のため浦賀に来航。初めて漂流民の帰国(引取り)を認める。
② 1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの浦賀来航。国交樹立を求めるも、メキシコとの戦争(米墨戦争)勃発のため急ぎ帰国。交渉には至らなかった。
③ 1849年、アメリカ東インド艦隊のグリン艦長がアメリカ人漂流民救出に長崎へ来航。話し合いで解決し、漂流民を引き取って帰帆した。

 もう一つの「間接情報」とは、①文書で頻繁に入るオランダ情報(オランダ別段風説書等)、②強硬帰国した万次郎からの聞書きである。①のうちペリー来航の1年以上も前の1852年4月、長崎在住のオランダ商館長クルチウスが提出した別段風説書はペリー艦隊来航を予告していた。

 ② 万次郎が語った江戸の評判。「江戸は世界でもっとも繁盛の所と諸国で評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」の一言が、幕閣に自信を与えたのではないか。その3カ国のうち日本だけ国交がない。アメリカ側が江戸見物を期待するようであれば戦争にはなるまいとの解釈もできた。

 一方、ペリーの得た情報はなにか。間接情報には①シーボルト『日本 Nippon』、②Chinese Repository誌と宣教師仲間の情報、なかでも①シーボルト『日本 Nippon』がペリーに及ぼした影響は甚大である。冒頭にある一文、「…日本は1543年、ポルトガル人により偶然発見されたが、その時すでに2203年の歴史を持ち106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた。…」 これを受けてペリーは、「世界最古の国・日本に、もっとも若い国の自分が挑戦する」と述べている。

 直接情報としては、①送還を待つ日本人漂流民からの日本語学習、② 帰国中の“Chinese Repository”誌の記者や捕鯨船船主からの聞き取り等があるが、いずれも幕府の対応や動向についての基本情報は含まない。

 比較すると、幕府のアメリカ情報の方が多く、質的にも多様で、政治外交上の判断に役立つものが多い。とりわけ万次郎の体験談は幕閣に強い影響を与えた。

 1853年7月8日、いよいよペリー艦隊4隻が姿を現した。浦賀沖に停泊すると、浦賀奉行所の二人の役人を乗せた番船が旗艦サスケハナ号に近づき、甲板に並ぶ水兵に向かって大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!” 甲板上の水兵たちが理解できりように、与力の中島三郎助の指示でオランダ通詞の堀達之助が英語を使った。これが奏功し、二人は艦上でペリーの副官コンティとの話し合いに入った。この最初の接触が数日後の幕府によるアメリカ大統領国書受理につながる。ペリー艦隊は、当面の目的を果たしたとして、9日間の滞在後、来春の再来を告げて去った。

 ペリーが去った直後、老中首座阿部正弘は受理した大統領国書を各界に回覧して意見を求めた。この諮問の直前に林大学頭に出された仙台藩士・大槻平次(盤渓)の意見書がある。「我が国は自国の戦いだが、彼らには補給線がないから戦争にはならない…」の指摘は大局をよく把握しており、<避戦策>(=外交を基本方針とすること)への傾斜を深めたと思われる。また大槻の言う譲歩の限界(薪水施待所を承認)や万次郎の通訳登用案も当を得ている。

 目次の3「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」。1854年2月、前年の4隻から9隻に艦隊規模を拡大してペリーが再来する。そして3月8日、横浜応接所で林とペリーの初の日米トップ会談が開かれる。ここで条約内容の骨格が決まる。その後は土産の交換や招待宴を通じて親交を深め、条約の詰めを行い、会談から3週間後、日米和親条約の締結にいたる。この模様は拙著の第5、6章に詳しく書いた。またNHK「歴史秘話ヒストリア 日本人ペリーと闘う」(2019年5月22日放映)でも触れる予定だったので省き、今回は何語で交渉したか、双方の通訳及び交わされた条約文を中心に話した。

 ペリーは日本語で交渉する考えで在華宣教師S.W.ウィリアムズに的を絞り、通訳は連れずに出国、中国海域に到着した翌日、広州にウィリアムズを訪ねて要請する。ところがウィリアムズは、日本語は10年も前に送還を待つ日本人漂流民から習ったもので、書き言葉も知らないと答えてペリーを困惑させる。結局、ウィリアムズは中国語の読み書き(=漢文)ができる人員として随行を受諾、ただ書には自信がなかったのか、文人の羅森を同伴した。

 話し言葉の通訳がいない。文書だけの沈黙の交渉はできない。ペリーは上海でポートマンという21歳のオランダ系アメリカ人を雇用する。しかし彼には交渉に必要な政治・法律の知識はほとんどなかった。

 交渉言語は、口頭ではオランダ語、文書では漢文となった。いうまでもなく言葉には<四技法>(聴く・話す・読む・書く)があるが、漢文は<読む>と<書く>だけである。ペリー側の漢文人員は2名、対する幕府側は約20数名、その大半が旗本養成機関の昌平黌(唯一の国立大学に相当)出身で、四書五経等の漢文に通じ、政治・法律・歴史・論争術等を修めた、奉行またはそれ以上の役職・経験を持つ優れ者揃いである。

 オランダ語通訳は、ペリー側にポートマン1名、幕府側は少なくとも3名以上、長崎から選りすぐりのオランダ通詞を呼び寄せていた。”I can speak Dutch!”と呼びかけた堀も、横浜応接で首席通訳を務め、オランダ語版の条約文に署名する森山栄之助も、その一員である。

 林とペリーのトップ会談から3週間後の1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、双方が別々に署名した日米和親条約が交換された。4か国語の条約文が残っており(アメリカ公文書館所蔵)、日本語版には林大学頭、英語版にはペリー、漢文版には松崎満太郎、オランダ語版には森山栄之助の署名がある。一方、日本側が受け取ったものは火災で焼失、現存しない。

 条約文は交換したが、同じ文面に双方全権が署名した版はない。<正文>(条約において条文解釈の基準となる特定言語)に関する話し合いをしないままに調印に至ったためである。翌4月1日、これに気づいたペリーが書簡を出す。幕府はペリーが箱館(函館)を訪ね、下田に戻った時に再度協議すると伝えた。6月8日から林とペリーの下田協議が始まり、日本語と英語を<正文>としオランダ語の訳文を付すことを決めた。この「下田追加条約」で初めて両全権の署名が入った(拙著第七章に詳しい)。

 約2時間にわたる講演をここで終えた。7名もの方から質問があり、その質問の鋭さに驚きつつ答え、最後に日米初の交渉時、万次郎の果たした役割について次のようにまとめた。

 万次郎のアメリカ情報は幕閣の親米論を強化し、<避戦策>に徹した交渉に大きく寄与したのではないか。徳川斉昭(御三家の一つ、水戸藩主)の強い反対があり、万次郎は通訳として登用されなかったが、それは結果的に正解だったと思うと述べた。

 日米双方がそれぞれ通訳をつける(近代以降、これが慣例となる)のであれば、日本側の人材は万次郎をおいて他にない。しかしペリー側に日本語通訳がいない状況下で、もし幕府側だけが相手国の言語(英語)の通訳を立てたとすれば、通訳は双方から二重の責務を負わされ、客観的かつ正確な通訳ができなくなる。

 万次郎の果たすべき役割は通訳ではなく、彼の得難い経験とそれに基づく説得力ある情報を伝えることにあった。通訳としては、6年後の1860年、咸臨丸に乗り、日米修好通商条約(1858年調印)の批准書を携えて訪米するさいに、その能力を遺憾なく発揮する。

三溪と天心(その2)

 前回(本ブログ2019年6月25日掲載の「三溪と天心(その1)」)は、三溪⇔天心の書簡の存在を各方面に問い合わせたが、見つからなかった経緯を書いた。その末尾で、書簡がないから親交がないとは言えず、書簡以外に両者の「交流を表す資料」として、三溪については『翁伝』、天心については『全集』(平凡社版)、この2つを軸にして他の関連資料にも当たると述べた。

 一見すると無関係でバラバラに見える諸事象(それを文字で残した記録=史料)を統合することで見えてくるものがある。これは歴史学には当然であるが、ふだんの歴史研究では存在さえ分からない史料群から宝を探すのが常である。今回は幸運なことに眼前に大きな宝の山がある。

 前回述べた私の仮説は次の2点。(1)三溪は5歳年長の天心の思想と東京美術学校校長就任(1890年)や日本美術院の創設(1898年)等の実践活動に敬意を払い、天心の豊富な著作を読みこんでいたのではないか、(2)天心たちの主導で1897(明治30)年に成立した古社寺保存法(こしゃじほぞんほう、法律第49号)を受け、その具体的実践として三溪園への古建築移築を考えたのではないか。

 天心が21歳で公刊した最初の論説が「書ハ美術ナラスノ論ヲを読む」であり(後述)、この頃までを<思春期>として彼の思想形成を見たい。それが7年後の『国華』誌創刊(1889(明治22)年、天心28歳)につながる。

 幸い天心の年譜(個人一代の履歴を年代順に記した資料)が『全集』別巻にあり(「山口静一氏、木下長宏氏、吉田千鶴子氏、石橋智慧氏のご協力を得て編集部が作成」とある)、これを天心の中核的な伝記資料として活用する。

 生誕からの足どりを大まかに辿ろう。文久2(1862)年12月26日、福井藩下級武士の岡倉覚右衛門の次男として、横浜居留地内の日本人町の一角(本町1丁目、現横浜市開港記念会館=ジャックの塔)にあった、福井藩の商館・石川屋で誕生。

 幼少時の記録は少ない。8歳(数え年、以下同じ)の1869(明治2)年頃からジェームス・バラ(James Ballagh、1832~1920年、アメリカ人宣教師)の私塾に通い英語を習い始めた。

 だが天心の英語センスと外国(人)観の基本は、それ以前、外国人居留民の子弟と遊ぶなかで培われたと考えられる。天心の幼少時、<関内>(かんない)と呼ばれた横浜開港場は日本人町と外国人居留地で構成され、その間を行き来して日本商人(売込商と引取商)と外国商人が取引を進めた。これが居留地貿易(輸出入)の実態である。

 両地区間は往来自由で、子どもも内外人が混じって遊んでいた。当時の外国人居留民数は英米仏等、約20カ国の約1000人、うち小児は約100人、イギリス人が最多である(『神奈川県史』資料編)。

 この前提として<居留地貿易>を決めた日米修好通商条約(1858年)と横浜開港に至る経緯および横浜居留地の実態を述べる必要があるが、詳細は『横浜市史』第2、3巻等に譲る。

 ついで10歳で神奈川の長延寺にあずけられ、住職の玄導和尚から漢籍を学ぶ(おそらく伝統的な四書五経の素読)。ちょうど時代は外来語を意訳する新造漢語の生成期にあたっており、天心はまさにその渦中に生きた。

 新造漢語を収録する最初の体系的辞書が柴田昌吉・子安峻『附音挿図英和字彙』(明治6、1873年)で、その15年後の島田豊纂訳『和訳英字彙』(明治21、1888年)が新造漢語の大半を収録している。

 この新造漢語は3種に分かれる。ア)江戸時代から使われている漢語として大本営、復習、武士道等、イ)中国古典の漢語に新しい意味を付与したものとして民主、革命、文化、階級、社会等、ウ)まったく新しい漢字の組合せとして美学、物質、化学、生物学、政府、哲学等(とりあえず本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の拙稿122「黒船来航と洋学」を参照)。

 後に天心は、「ビゲロー氏の演説」(1888(明治21)年)やフェノロサの講義「美学 フェノロサ講述」(1890(明治23)年)の通訳にあたるなかで、苦闘しつつ才能を開花させる(これらの口訳は『全集』第8巻所収)。

 12歳の1873(明治6)年、石川屋は閉店を命じられ江戸の日本橋蠣殻町の福井藩下屋敷へ転居。天心は東京外国語学校下等第一級に入学、14歳で東京開成学校(浜尾信校長)高等普通科に給費生として入学、寄宿舎に入る。

 15歳、女流南画家奥原晴湖の門に入り、絵画を習う。学校制度も急速に変わり、16歳の時、東京開成学校と東京医学校が合併し東京大学と改称。

 このころ多方面へ関心を拡げ、17歳で森春濤に漢詩、加藤桜老に琴、正阿弥に茶道を習う。18歳、大岡もと(13歳)と結婚、この年、自筆漢詩集『三匝堂詩草』(さんそうどうしそう)をまとめる。

 19歳の1880(明治13)年7月、東京大学文学部を卒業(一期生)、卒業論文は2か月かけて書いた「国家論」だったが、痴話喧嘩の際に焼かれてしまい、代わりに2週間で「美術論」を仕上げ提出したという。なお当時の文学部は理財学及哲学、哲学及政治学等の複合履修制で、政治学及理財学の3名のなかに岡倉覚三の名前がある。

 卒業後すぐの9月、フェノロサ(Ernest F. Fenollosa、1853~1908年、アメリカ人美術史家、東京大学のお雇い外国人教師として前年から政治学・理財学・哲学担当)の通訳として京都・奈良の古社寺を訪問、以来、古社寺調査を頻繁に行う。

 同年10月、文部省入りした天心は、前年に設置された音楽取調掛(掛長は伊沢修二)に勤務、同掛のお雇い外国人メーソン(Luther W.Mason、1818~1896年、アメリカ人教育者)の通訳や事務等を担当、翌年、専門学務局に移り、音楽取調掛を次年度まで兼務する。以来、天心は2つの仕事を同時にこなす。

 その第1が文部官僚としての美術政策の追究とその制度化であり、これはやがて図画取調掛(1884年)から東京美術学校の校長就任(1890年)へとつながる。第2が主に古社寺にある伝統美術の調査を通じて日本美術の歴史的蓄積を掌握(日本美術史の研究)、明治初期の過度の神仏分離(廃仏毀釈)政策により滅亡の危機にあった古社寺やその美術品を保護する文化財保護政策(古社寺保存法)の立案・公布に漕ぎつける。

 他の若手官僚のなかに英語力の高い者が少なかったこともあるが、天心の英語はそれにとどまらない。美術への感性とそれを政策に活かす文化行政の多様性(万国博覧会や農商務省主催の内国絵画共進会等の殖産興業への活用等)を、国際的な視野で判断する力が天心にはあった。この点で天心は唯一の逸材であり、フェノロサ達と子弟関係を越えた親交を結ぶ。

 20歳の1881(明治14)年、長男・一雄誕生。このころ天心は現在の台東区・文京区・豊島区あたりをひんぱんに転居、この転居癖は生涯変わらなかった。

 21歳の1882(明治15)年8月、『東洋学芸雑誌』(前年創刊)の12、13、15号に文学士岡倉覚三の名で「書ハ美術ナラスノ論ヲを読む」を掲載(『全集』第3巻所収)、前号の小山正太郎「書ハは美術ナラス」に異を唱えた。これが天心の公刊した最初の論説である。

 書に関して小山論説は、①美術となすべき部分を持たない、②美術の作用をなさない、③美術として奨励する必要がないとし、「西洋において書を美術としないことを理由に日本の書も美術ではない(西洋中心説)」としたが、天心は「美術の領域はきわめて広く、高きは音楽、詩歌、彫像、図面、建築より、低きは彫刻、陶器、指物にいたる。…」と真っ向から相反する見解を展開する(以下もカタカナをひらがなに換えて引用する)。

 また小山の「書は高価を以て海外へ輸出できない」の見解についても「ああ、西洋開化は利欲の開化なり、利欲の開化は道徳の心を損し、風雅の情を破り、人身をして唯だ一箇の射利機械たらしむ。…美術を論するに金銭の得失を以てせば大いに其方向を誤り、品位を卑しくし、美術の美術たる所以を失わしめる者なり。豈戒めさるべけんや。…」と悲憤慷慨する。

 生硬な<正論>に過ぎたと思うところもあったか、論を結ぶにあたり「悪詩一詩を以て妄評の罪を謝す」と記し、自作の漢詩を添えている。

 天心の世界的視野に立つ美術観、日本美術の評価基準を西洋にではなく独自の美術探求のなかに求めようとする姿勢、伝統美術への敬愛。これこそ後の天心の活動の中核を成すものであろう。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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