医療の近未来
これまでも本ブログで取り上げてきた<清談会>という名の、年2回の談笑の場がある。昨年12月28日開催の第27回清談会を記録したのが2019年1月7日掲載の「10年後の歴史学」で、私の報告とその後の議論をまとめた。
清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。
今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。
この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。
つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。
その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。
専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。
メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。
一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。
報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。
1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン
1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。
「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。
この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。
3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。
さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。
ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。
「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。
「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。
言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。
ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。
穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。
浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。
「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。
「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」
山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。
本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。
第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。
つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。
そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。
清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。
今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。
この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。
つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。
その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。
専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。
メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。
一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。
報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。
1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン
1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。
「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。
この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。
3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。
さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。
ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。
「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。
「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。
言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。
ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。
穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。
浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。
「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。
「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」
山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。
本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。
第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。
つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。
そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。
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