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三溪と天心(その1)

 原三溪(はら さんけい、富太郎)は、慶応4年8月23日(1868年10月8日)、美濃国厚見郡佐波村(現岐阜市)の青木久衛の長男として生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、1892(明治25)年、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚。実業家、茶人、造園家、新進画家の支援等、幾つもの顔をもつ偉人である。以下、号の三溪を使う。

 昨年は三溪生誕150年、今年が没後80年である。それを記念し、今年7月13日から横浜美術館で「原三溪の美術-伝説の大コレクション」が開かれる。案内文によれば、三溪の美術への関わりは大別して4つ。<コレクター>(5000点を超える至宝を集めた、驚異の目利き)、<アーティスト>(余技の域を超えた書画、理想美としての三溪園)、<茶人>(自由闊達な茶の境地を拓いた数寄者)、<パトロン>(敬意と慈愛に満ちた芸術家支援)。

 これに関連して5月10日、私のブログの論考「岡倉天心市民研究会」(2016年11月8日号掲載)にコメントが入っていることをブログ管理者が知らせてくれた。NHK[日曜美術館」を制作する(株)オフィス天野の大島洋子ディレクターからの照会で、「天心と三渓の関係」とある。

 「…7月から横浜美術館で開催される「三溪展」に関連した番組を現在企画しております。三溪が日本美術に傾倒し、コレクターとして、また三溪園造園に心血を注がれたのには、天心の影響が大きかったのでは・・・というご意見を、先日三溪研究者の猿渡様より伺いました。
 それを実証するような手紙とか、交流を表す資料などご存じでしたらお教えください。三渓さんが日本美術に心を砕いたモティベーションを深く知りたく思いまして質問いたしました。よろしくお願いいたします。」

 なぜ私にこのような照会が来るのか不思議に思ったが、上掲のブログ「岡倉天心市民研究会」から、私を天心に詳しい人物と思われたようである。私はその記事の冒頭に「研究会は、天心(1862~1913年)の生誕150年、没後100年を記念の茶会を、2013(平成25)年、三溪園で、さらに「天心フォーラム」を横浜市開港記念会館(天心の生誕地)で開催、これを受けて作家の新井恵美子さんを会長に、千葉信行さん(元神奈川新聞社)を事務局長として2014年6月に発足した団体である」と述べた。また同会機関誌『天心報』の創刊以来の講演録(第14号まで)一覧も付した。

 比較的詳しく書いたのは、研究会事務局長の千葉さんの情熱と継続的努力を第三者として外部に伝えたいと思ったからである。千葉さんとは彼が神奈川新聞社にいたころからの付き合いで、拙著『開国史話』(かなしん150選書、2008年、神奈川新聞に約1年4ヶ月連載の単行本)の謝辞に専務取締役として登場する。この関係から、天心研究者でもない私が同会で講演を行う機会をいただいた(「岡倉天心『日本の覚醒』を読む」(本ブログの2018年7月2日掲載)。その講演録は本ブログのリンクに付してある。

 大島さんの照会「三溪に及ぼした天心の影響」は、広範囲にわたる。大別すると、①日本美術への傾倒、②美術品蒐集、③三溪園の造園(築園)、の3点。①と②については多くの美術史家が扱っているが、③については論考がほとんどない。美術史、建築史に比べ、庭園史や造園史は少なく、その多くが江戸時代までで、明治から大正にかけて生まれた三溪園を庭園史のなかに位置づけたものは少ない。やむなく私も仮説を述べた(本ブログ2016年10月3日掲載「三溪と横浜-その活躍の舞台」)が、大島さんの要望に即答するのは難しい。

 岡倉天心(おかくら てんしん)の略歴。1863年2月14日(文久2年12月26日~1913(大正2)年9月2日)、開港横浜の石川屋(福井藩の出店、生糸輸出等)に生まれ、1880年、東京大学文学部卒業(一期生)後、文部官僚、ついで1890(明治23)年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の校長となり、数多の新進芸術家(日本画、彫刻等々)を輩出させた。1898(明治30)年、意見の対立から同校を追われ、日本美術院を創設(台東区谷中)、1906(明治39)年、日本美術院の拠点を茨城県五浦(いずら)へ移す。1904(明治37)年、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられ、1911年の帰国時に、若い画家たちの支援のため三溪と「観山会」を設立。1913(大正2)年9月2日、新潟県赤倉の別荘で死去。享年51。本名は岡倉覚三(かくぞう)。

 まずは三溪と天心との手紙を確認したいと思った。ところが、三溪には茶道つながりで益田鈍翁(孝)等との洒脱な書きぶりの書簡はあるものの、天心との往復書簡は見あたらない。三溪園の<生き字引>と呼ばれる川幡留司参事や元学芸員の清水緑さん(現松濤美術館学芸員)も見たことがないと言う。三溪に関する唯一の本格的伝記と言える藤本實也『原三溪翁伝』(稿本は1945年、刊本は三渓園保勝会,横浜市芸術文化振興財団編 思文閣出版 2003年、以下『翁伝』とする)にも書簡は入っていない。三溪からのアプローチでは難しそうである。

 一方、天心については『岡倉天心全集』に多くの書簡が収録されていた記憶があった。さっそく『岡倉天心全集』全9巻(平凡社、1979~81年、以下、『全集』とする)に当たり、第6巻の明治13(1880)年から明治42(1909)年までの415通、第7巻の明治43(1910)年から大正2(1913)年まででの281通を通読したが、天心から三溪への書簡は見当たらない。また『全集』別巻には天心が受けた書簡86通が収録されているが、ここにもない。下村観山の三男・下村英時編『天心とその書簡』(日研出版、1964年)にもない。

 しかし、天心創設の東京美術学校の一期生で日本画家の観山を経由した天心⇒観山⇒三溪の書簡があった。『全集』第7巻の書簡所収504号(明治42年9月26日付けの観山宛)は「横浜の原氏御面会致度」と三溪を挙げており、また584号(大正元年8月8日付けの観山宛)の横浜弁天通 原富太郎殿気付とある書簡は、天心が筆不精の観山の代筆をしている。天心の逝去1年前で、最晩年の筆である。

 ほかに三溪⇔天心の書簡はないか。横浜美術館の対談「三溪の古美術収集と美術家支援ー三溪史料研究の現在」(7月20日の予告案内)の副題を見て、6月2日、清水さんに改めてメールすると、上掲の天心代筆は三溪園「下村観山展」図録(2006年)で使ったが、三溪⇔天心の書簡はやはり見たことがないとのこと。

 この問題を解くには、天心の側から見つけるほかない。6月4日、上掲「岡倉天心市民研究会」事務局長の千葉さんにメールで問い合わせた。するとさっそく、8日に木下長宏さんの私塾「土曜午後のABC」に行くので訊いてみるとの返事である。木下さんは半世紀ほど前に『岡倉天心:事業の背理』(紀伊国屋書店、1973)を上梓、上掲平凡社の天心全集の一次校正をすべてされたと聞いている。8日、千葉さんから、木下さんもご存じないようで、「いい情報がなく、残念です」と付言してあった。

 三溪の筋からも、天心の筋からも、三溪⇔天心の書簡を確認できなかった。とりあえず大島さんへ、この間の経緯をまとめ、上掲の書簡ほかコピー6ページを郵送した。

 ただ、書簡がないから親交がないとは言えず、むしろ書簡が残るのは例外と考えて良いであろう。書簡以外に両者の「交流を表す資料」を示すには、まず三溪については上掲の『翁伝』、天心については『全集』(平凡社版)である。この2つを軸にして他の関連資料にも目配りする。

 2つの仮説を置いた。(1)三溪は5歳年長の天心の思想と東京美術学校校長(1890年)や日本美術院の創設(1898年)等の実践活動に敬意を払い、天心の豊富な著作を読みこんでいたのではないか、(2)天心たちの主導で1897年に成立した古社寺保存法(こしゃじほぞんほう、法律第49号)を受け、その具体的実践として三溪園への古建築移築を考えたのではないか。(1)を通じて三溪の天心への共鳴が読み取れ、(2)三溪園が、それを具現化したものである。
この作業は開始してまだ日が浅いが、二人の「交流を表す資料」について得た最初のヒントが、1889(明治22)年10月28日、28歳の天心が高橋健三(内閣局官報局長)とともに創刊した『国華』誌(日本東洋の古美術研究誌)の「創刊の詞」である。天心の「夫レ美術ハ国ノ精華ナリ」に始まる檄文が三溪に強い感銘を与えたと思われる。なお同年2月、大日本帝国憲法発布、天心はその祝賀行列に参加している。

 また同誌第2号に書いた天心の論説「狩野芳崖」は、「美術の事たる其範囲極て広く、家屋、庭園、衣服、机案の属より凡百の器具に至るまで、美術の意匠を要せざるものなく、…其意匠の集点に居り、凡百の模様を発するは絵画を以て最とす。…」と展開する。

 ここで言う<意匠>とは、この前年の1888年公布の勅令・意匠条例(のちの意匠法)にある「工業上ノ物品ニ応用スヘキ形状模様若クハ色彩ニ係ル新規ノ意匠ヲ按出シタル者ハ此条例ニ依リ其意匠ノ登録ヲ受ケ之ヲ専用スルコトヲ得」を受けていると同時に、広く「工夫をめぐらすこと」の意味と見て良い。絵画の意匠を基軸とし家屋庭園等へと拡がる天心の壮大な<美術観>を読んだはずの23歳の三溪、心に期すところがあったに違いない。

 三溪は日記を書かなかった(『翁伝』165ページ、長女春子の回想)ため、記録という物的確証はみつからないが、回を改めて述べてみたい。(続く)
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IUCの卒業発表会

 みなとみらいパシフィコ内にあるIUC(Inter-University Center for Japanese Language Studies アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター)の卒業発表会があった。6月3日(月曜)から5日(水曜)までの3日間、1名あたり15分の持ち時間(質疑を含む)で、計55名の発表である。

 見覚えのある顔と名前が並ぶ。と言うのも、来日してすぐの今期生を三溪園へ招待(本ブログ2018年10月4日掲載「台風一過のIUC学生来園」)、さらに三溪園訪問の印象記を依頼したところ14名が応じてくれ、それを本ブログ2018年10月22日「IUC学生の三溪園印象記(2018年)」に掲載した。いずれも斬新で素直な印象を見事な日本語で述べている。

 来日から10カ月、750時間に及ぶ日本語特訓の成果を発表する学生にとっては晴れ舞台であり、ブルース・L・バートン所長をはじめとする教員・スタッフの方々にとっては、学生たちの成長を見届ける場である。私も時間の許す限り、ほぼ毎年欠かさず出席してきた。

 配布されたプログラム(すべて日本語)にあるバートン所長「ご挨拶に代えて」は言う。「…どの発表をお聞きいただいても、その独創性や専門性の高さをお分かりいただけるのではないかと思います。…主に大学院生を対象に、40週間で、読む、聞く、話す、書くの4技能すべてにわたって上級レベルの技術を身につけさせ、専門分野の研究や業務が十分に行えるよう訓練しています。…国際理解の重要性が益々高まる中、日本語教育を通じ、世界における日本理解を深めることで世界に貢献できるよう、よりいっそう努力してまいります。…」

 私にはIUCが東京から横浜へ移転した1987年からの付き合いである。それは上掲の「…国際理解の重要性が益々高まる中、日本語教育を通じ、世界における日本理解を深めることで世界に貢献…」するIUCの精神に感銘を受けるからである。日本人や日本の団体が継続的になしえなかった「世界における日本理解を深めることで世界に貢献…」を55年にもわたり進めてきたIUCに心から感謝する。

 今回の発表会で私が聴いたのは、最終日の午後の5名だけであった。どの学生も高度な専門性(内容)と日本語の駆使能力(形式)を合わせもっている。配布されたプログラムに55名分の発表題名と約250字の概要が記されている。うち私が聞いた5名分を転載し、IUCの活動と学生たちの関心・能力の一端をお知らせしたい。

(1) 助動詞ケリの意味論的不完全指定  ジョン・バンチュー(Ohio State
University)
 古文の助動詞「けり」の定義は現在も定まっておらず、多くの研究者は「けり」の意味を探る際、一つの定義に集約させようとする傾向がある。しかし、一つの形態素は通時的に意味が変化するだけでなく、共時的にも文脈に応じて意味が加えられ、彩られる。「けり」も文脈により、回想と結果相が含まれるパーフェクト、伝聞と論理的結果が含まれる間接的証拠性、または詠嘆と気づきが含まれる意外性を示すように使用されてきた。従って、一つの定義に絞るより、「けり」の意味論的不完全指定を理解し、上述の幾つかの定義の共通点を把握する必要がある。その共通点は時間的あるいは認識的に離れた既定事実が文法的に示されていることである。

(2)「若者言葉」はどのように見られているか  ウネー・ソー(Stanford University)
 本発表では人々の若者言葉に対する見方に注目する。若者言葉は若者コミュニティを維持する手段の一つであり、インターネットの発展に伴い若者言葉という概念が世間一般に広がっている。若者言葉自体は研究されてきたが、聞き手側がどのように捉えているかに関する研究は少ない。本発表では、若者言葉を使う話し手がどのように評価されているかについてのアンケート調査の結果をデータ化し、若者言葉が映すペルソナを聞き手側の見方から探る。更に言葉の選択によって無意識に他人に与える含意を探求し、日本語の若者言葉の指標性を論じる。

(3)「レンタル」によって「ニュースタート」へ -ひきこもり部屋からの脱出-  ラムジー・イズマイル(University of California, San Diego)
 「社会的ひきこもり」とは、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が6ヶ月以上持続しており、他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいものとして定義され、様々な学者によって研究されてきた。しかし、「ひきこもり」という人たちが、どのような方法を通じて部屋から抜け出すかは、まだ十分明らかにされていない。本発表では、ひきこもりの回復を支援する「ニュースタート」というNPOでの参与観察に基づき、ひきこもりが「ニュースタート」に来るきっかけや、「レンタル」という一つの脱ひきこもり支援の過程に着目する。

(4)伝説の島から現実の州へ -日本の古地図におけるカリフォルニア-  タミ・ヒオキ(Stanford University)
 19世紀、日本では大きな変化が起きた。江戸時代には海外からの情報が限られていたが、19世紀に入って世界に関する情報が増えたのである。世界地図は、その重要な資料の一つであった。外国からの情報の制限のため、初期の日本の世界地図は不正確な部分がいくつもあった。しかし、19世紀には、世界地理の情報が蓄積され、以降の世界地図は次第に正確になり始めた。本発表では、18世紀末および19世紀に作られた世界地図におけるカリフォルニアの描写を通して、日本の古い世界地図の変化を検討する。カリフォルニアは日本の古地図でどのように描かれたのか、そして、当時の日本とカリフォルニアの関係はこの地図からどのように解釈できるかについて分析する。

(5)米国訴訟における「ディスカバリー」とそのリスク  エバン・ターキントン (米国弁護士)
 日本企業がアメリカで訴訟に直面した場合、潜在するリスクが多々ある。日本と異なるアメリカの情報開示手続(「ディスカバリー」)に伴うリスクがその一つである。訴訟に関連しうる様々な情報や文書の開示が連邦民事訴訟規則により義務付けられ、裁判所がこれを厳しく取り締まる。一方、日本の民事訴訟法も文書提出義務を規定するも、例外を規定する条文や義務を否認する判例により、提出義務がかなり制限される。本発表では、両国の民事訴訟制度における証拠収集に対する基本的な考え方を紹介し、日本企業などの当事者がアメリカでのディスカバリー義務を軽視した場合のリスクを説明する。

 55名全体の発表傾向を示すために、昨年秋に三溪園訪問印象記を寄せてくれた14名(本ブログ2018年10月22日掲載「IUC学生の三溪園印象記(2018年の発表)」のうち、上掲のウネー・ソーとエバン・ターキントンを除き、了承を得た10名の発表題名と所属大学名を掲げておきたい。三溪園印象記と今回の卒業発表とは明示的な因果関係はないものの、なんらかの関係を示唆しているように思う。関心のある方は読み比べていただきたい。

★レーセン ハナ(Princeton University) 能の般若における人間と鬼の境界性
★アーロン スティール(University of Washington) 「日本を学ぶ」から「日本で学ぶ」へ
★サンピアス ウェスリー(University of Illinois Urbana Champaign) 明治初期の衛生観念普及事情
★マット ミックレラン(University of Victoria) 文字表記と音声表記 -日本アニメ翻訳に関する一考察-
★イアン ハッチクロフト(Occidental College) 持続可能な開発目標(SDGs)に対する日本の取り組み
★チョウ モウシ(Heidelberg University) 江戸時代の禁書政策 -『帝京景物略』を中心として-
★ファトゥマ ムハメッド(University of Washington) ライトノベルにおける「異世界」の台頭とその意義
★メーガン マッカーシー(University of San Francisco) 「武は愛なり」世界に広まった合気道
★リリアン ハート(DePaul University) 日米国際交流における官民パートナーシップの意義
★カサリン ジョプリン(Stanford University) 性別二元性への挑戦 -日本と西洋のドラァグシーンの比較-

 3日間にわたる卒業発表の終わりに、青木惣一副所長が挨拶に立ち次のような趣旨のことを述べた。「卒業発表を聞くとき、毎年のことだが、その発表内容と日本語表現(言語形式)の両面に関心が向く。日本語教師としては本来、日本語表現(言語形式)がどこまで進歩したかに集中して聞くべきだと思うが、その上達ぶりに押され、みなさんの発表内容についつい引き込まれました。本日で40週にわたる集中特訓を終えて、読む、聞く、話す、書くの4技能すべてにわたって上級レベルの技術を身につけたことを証明しました。明後日の卒業式を以てすべて終わりです。これを新たな第一歩として、さらに精進してください。」

 学生たちは、今日の達成感から次の一歩へ、それぞれに次の目標を心に刻んだに違いない。母国で、あるいは他の移動先で、さらに専門性を高め、未来に羽ばたいてほしい。

横浜散策(その1)

 5月16日(木曜)の午後3時半、横浜市営バスの山下町バス停で近藤倫明(前北九州市立大学長、専門は心理学)さんを迎えた。朝から暑かったが、この時間の風は清々しい。福岡は真夏日だったとのこと。

 近藤さんとは3年前の秋に「江戸散策」をしている(本ブログの2016年10月13日掲載「江戸散策」)。このなかで10年前の出会いや、公立大学協会(全公立大学学長を会員とする一般社団法人)での彼の活躍ぶりを書いた。

 そのなかの一文であるが、「歴史認識は時空を超えても、「世代差は超えられない?」。18歳で入学する学生と教職員との年齢差(最長で約50歳)・体験差による価値観の相違、教職員間の同じ問題に大学は追いついていないのでは」と言うと、近藤さんからは現役学長らしく心強い答えが返ってきた。「それを新しい社会人大学(学部)の構想として煮詰めているところです。…<多世代共学>による新たな<知の展開>…」と。

 その後、この社会人大学構想は、彼の粘り強い努力により徐々に実を結びつつあると聞いていたが、今年4月の新年度早々、「江戸散策の折、お話した北九大社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)のスタートです。30代から70代までのカレッジ生60人が入学しました。新たな大学文化へのささやかな挑戦を塾長として関わるつもりです。」と連絡をくれた。

 ついで4月18日掲載のブログ「FМ戸塚の対談余録」で彼のコメントを引用させてもらった。その「…日米和親条約について学問の専門領域、ディシプリンの違いが事実認識・解釈に及ぼす影響についてのご指摘は大変重要な研究者への戒めとして受け取りました。心理学でも、要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なります。学際研究の意味を肝に銘じることが肝要でしょう。」という個所、この続きを聞きたい。

 そこへ5月12日、近藤さんからメールが来た。大学改革支援・学位授与機構の会議で東京へ行くので、前日昼に羽田に着くように設定したが会えないか、と。あいにく私は横浜市立大学で、国際教養学部一期生の必修科目「国際文化論」の一こまを、ゲストスピーカーとして担当する約束があった。

 国際教養学部誕生までの24年間の経緯を簡単に要約すると、1995年に文理学部を国際文化学部と理学部に改組(この時の当事者の一人が私)、ついで私が学長となり(1998~2002年)、退任後の2005年、国際文化学部・商学部・理学部の3学部を「国際総合科学部」に統合した。それに反対する意見が現場に根強くあり、今年度から国際教養学部・国際商学部・理学部・医学部・データ科学部の5学部体制が発足した(本ブログ2019年4月11日掲載「横浜市立大学の入学式」)。

 市大ホームページには、国際教養学部について次のようにある。「深い思考、柔軟な発想、理論に裏打ちされた実践力で、グローバル時代の未来を切り開く国際人に。…英語をはじめとする外国語の運用能力、文化的背景に基づいた多様性への理解、理論を実践に応用する能力、そして共感を獲得し課題を解決するためのコミュニケーション能力を身に付けます。また、確かな専門性に裏打ちされた理論的思考力を身に付ける<教養学系>と、世界と日本の都市や地域の課題に実践的に取り組む<都市学系>という2つの学系での学びを通して、真のグローバル人材を育てます」。

 「国際文化論」という科目は、各教員が自身の研究・教育等を中心に自己紹介する場として設定したという。その一こまをゲストスピーカーに当て、これまでの経緯を知る私に柿崎一郎教授から要請が来た。入学後1カ月半、向学心と希望を胸に幾つもの授業を受け、友人も作り、一方で、いささかの不安や戸惑いで悩むこともあろう。

 私は「歴史を通じて国際文化を学ぶ」楽しさを伝えたいと考えた。定員460席の大教室で、聴講届の提出もほぼ同数だと言う。小教室のゼミのようにはいかない。A4×1枚の配布レジメに工夫をこらし、事例1、事例2、三訓の3つの柱を建て、話すテーマ、資料、ヒント等を書き、よりよく理解できるよう、そしてその先を調べる手がかりを得られるよう工夫した。

 私自身の経験や苦労話、失敗談も加え、短時間では話し尽くせない続きを知る参考にと参考文献も多めに入れた。のちになっても質問できるよう、私のメールアドレスも付す。その上でパワーポイントを放映し、図像等を示しながらの75分であった。

 知識を得る楽しさはもとより、それ以上に自身の関心にそって調べていく楽しさを覚えてほしい。デジタル世代は、ともすると溢れる情報の受信に振り回されやすい。感性を磨き、データを駆使して自分の課題を構築する「発信型」の楽しさを知らずに成長しかねない。配布したA4×1枚のレジメを再掲する。

事例1:アジア近代史 参考文献(1)~(4)
(1)中国近代史、(2)「19世紀東アジアにおけるイギリスの存在」で英国へ、(3)緑茶、ウーロン茶、紅茶、(4)19世紀アジア三角貿易、(5)英植民地インドのアヘン生産、(6)アヘン戦争(1839~42年)=<敗戦条約>

事例2 日本開国史と横浜学 参考文献(1)、(5)~(7)
(1)ペリー来航と<避戦策>、(2)”I can speak Dutch”、(3)日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)、(4)横浜開港(1859年)と都市横浜の誕生、(5)和製漢語の創出-民主・革命・文明・権利・哲学…

学生への三訓: 参考文献(1)-エ)
(1)アシコシ ツカエ(足腰使え)
(2)ツキイチ コテン(月一古典)
(3)セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見すえ 持ち場で動かむ)

参考文献:
(1) 加藤祐三ブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/
ア)リンク欄「FМ戸塚 第24回シビックプライドダイアローグ」(対談)
イ)リンク欄「横浜の夜明け」(『横濱』誌10回連載)
ウ)リンク欄「(都留文科大学)学長ブログ」122号「黒船来航と洋学」(2014年3月17日掲載)
エ)本文2019年4月26日掲載「<三訓>をめぐって」
オ)カテゴリ「我が歴史研究の歩み」(連載) 計37回
(2)加藤祐三『イギリスとアジア』1980年 岩波新書
(3) 加藤祐三『黒船前後の世界』1985年 岩波書店
(4) 加藤祐三『東アジアの近代』(『世界の歴史』第17巻)1985年、講談社
(5) 加藤祐三 ”Yokohama Past and Present”、1990年 横浜市立大学
(6) 加藤祐三編著『横浜学事始』1994年、横浜市立大学一般教育委員会
(7)加藤祐三『幕末外交と開国』2012年 講談社学術文庫

 この授業が、近藤さんが上京する日とぶつかった。そこで三溪園の中島哲也総務課長に近藤さんの案内を託し、近藤さんには羽田空港からまっすぐ三溪園へ行ってもらい、私は市大の授業を終えて山下町バス停で落ち合った。

 さっそく横浜駅の観光案内所で貰ってきた「はまっぷ」というA3版の地図を渡し、現在地、三溪園からここまでの経路、そして掘割で囲まれた一帯で形成された開港横浜の姿と、以来160年の歴史の概要を話す。

 やがて谷戸橋を渡り、みなとみらい線の終点、元町・中華街駅の脇にあるエスカレーターでアメリカ山公園に上がる。街を一望し、地図と照合しつつ旧横浜居留地を確認。視界を妨げる首都高速道路は東海道新幹線と並び、1964年の東京オリンピックに向けた都市インフラの双璧である。

 それから半世紀余、来年には2020年の東京オリンピックを迎える。急激な成長をとげた巨大都市横浜、そこには一般道、港湾、河川、地下鉄、地下埋設の多種多様なケーブルや管等々が集積している。50歳を超える都市インフラには本格的な補修が不可欠であり、巨額の資金と年次計画が必要になる。

 バラの咲きほこる一角に来て、ベンチに座った。私は一期生相手の授業の興奮が残り、配布したレジメ「国際文化を学ぶ」を近藤さんに渡して、ついつい饒舌になる。

 目を通した近藤さんが言った。「確か、都留文科大学学長を退任のとき、3年間の『学長ブログ』の製本冊子をいただきました。その裏表紙にあったのが、この学生への三訓でした。カタカナ文字で見たのはそのときがはじめてだったと思います。…今日の授業で、果たして新入生がこの三訓どう受け取ったか? これはいくつになっても生きる姿勢として意味があります。
(1)は、課題を解決するための現場主義。フィールドへ行くために朝トレ(とテニス?)でいつも動けるように。(2)は、学びの原点、温故知新。ニュートンの巨人に通じる学びの姿勢。(3)は、グローバル、多様性の地球に生きること。“Think globally, Act locally”。人生100年時代を生き抜く姿勢として、何度も反芻して欲しいですね。」

 これを受けて私は、160年前の1859年横浜開港をめぐる話題や岩瀬忠震(いわせ ただなり)など幕臣とアメリカ総領事ハリス(のち公使となり初の公使館を江戸の善福寺へ移す)との間で交わされた種々の事柄、例えば(1)アヘン禁輸が日米修好通商条約(1858年)に明記された理由、(2)五港開港の一つ<神奈川>とは神奈川宿か横浜村(日米和親条約調印の場)かのせめぎあい、(3)開港場の場所をめぐり合意に至らないままに幕府が進めた神奈川宿と横浜開港場を結ぶ<横浜道>の造成、さらに(4)開港場の区画造成、土地賃貸の準備、そして1859年7月1日(安政六年六月二日)の開港…。

 近藤さんは辛抱強く聴いてくれた。横浜開港165周年の今年、「横浜の夜明け」(本ブログのリンクに『横濱』誌に10回連載した同名の論考がある)に因む一帯も案内したい、とくに<横浜道>は外せないと思っていたが、時間がなく断念する。「またの楽しみに〈横浜道〉は取っておきましょう。季節を変えて次の上京の折に、ぜひ続きを…」と近藤さん。

 そこで外国人墓地を右に見て山手中央通りを進み、カトリック山手教会の脇を左折し、山手公園とYITC(横浜インタナショナル・テニス・クラブ)の脇にある「横浜山手テニス発祥記念館」を訪れた。ラケットの語源がアラビア語の<手>の意味であること、それがフランスのご婦人方に新生テニスの道具として取り入れられ、グローブのようになり、さらに棒がつき、材質と形態を進化させて現在のラケットに至ったことを知る。

 テニス好きの私が興奮していると、近藤さんは「エピソード記憶は人生を豊かにしますね。その記憶を、時を経て思い出し、巡るのは特に…。そして新たな発見があると、もうひとつエピソードが加わります…」と心理学者らしく語る。 (続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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