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タケの開花(その10)

 「タケの開花(その1)」を掲載したのは2年前である。以来、9回にわたる観察記録を書いてきた。その掲載日とごく簡単な概要は以下の通りである。

(その1)=2017年5月19日 旧知の坂智広さん(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)が学会で木原均先生(1893~1986年、元京都大学教授、元国立遺伝学研究所長、遺伝学、コムギ研究の世界的権威)の弟子の村松幹夫先生(岡山大学名誉教授)から聞いた、タケの開花についてメールをくれたのが発端。

(その2)=2017年6月1日 5月25日、村松先生、木原ゆり子さん(木原先生の三女)、坂さんが来園。タケの花の現場観察と村松先生の解説を聞く。

(その3)=2017年6月8日 <一斉開花>(ほぼ<全面開花>と同義)と<部分開花>、<一斉開花>に<枯死>と<生存>の2タイプ、さらに<枯死>後に<タネで再生>と<地下茎で再生>の2タイプがある。

(その4)=2017年6月23日 三溪園のタケを取材し、「開花後に枯死する」とテレビで誤放送、のち記者が撤回。

(その5)=2018年4月17日 2年目の春、再びのタケの開花に歓喜。

(その6)=2018年7月9日 近藤倫明さん(北九州市立大学長)から岩松文代「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)-万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal No.30 2017)を貰い、タケへの広い関心を知る。

(その7)=2018年7月18日 坂さんと羽田雄一郎主事による観察記録。ブログに地図と写真を初掲載。私のテニス仲間約30名に開花枯死に関するアンケート調査を実施。

(その8)=2018年8月23日 開花終息とみて「タケの花」の案内板を撤去。

(その9)=2019年3月22日 観察開始から3年目の春にあたり、園内のタイミンチク分布図を作成、さらに関東地方にあるタイミンチクの調査開始。

以上の通り、「タケの開花」の掲載は2017年の春から夏にかけて計4回、2018年もほぼ同じ時期に計4回、そして今年3月の(その9)が3年目の最初の記録である。これらを受けて、今回の(その10)には、どのようなことを報告すべきかを考えてきた。植物学や遺伝育種学等について素人の私が、園内のタケの開花を追い続けてきたのには、幾つか理由がある。

(1)珍しいタケの開花が三溪園という継続観察が可能な場所で起きていること。そして事業課庭園担当のスタッフほか、ボランティアや警備員の方々が観察情報を羽田さんに伝えてくれること。

(2)木原生物学研究所の横浜市立大学附置研究所への移管に私も関与したこと、また学生時代から木原先生を隊長とするカラコルム・ヒンズークシュ学術探検隊(コムギの起原を求めて)に強い関心を抱いていたこと、さらに木原先生の思想と行動を継承する坂教授という研究者の協力があることである。なおタケもムギもイネ科に属し(後続の表を参照)、ともに坂さんの研究範囲に入る。

(3)村松先生は木原生物学研究所の元所員で、代々の木原研究所(京都の向日市物集女と横浜)関連の学者と広いネットワークを有し、いまなお研究に専念、その指導を得られることである。多くの栽培植物が1年単位で播種・生育・収穫の過程を踏み、その観察・分析も1年単位で反復できるのに対し、タケの開花の周期は60年、90年、120年等と言われ(確かなデータはきわめて少ない)、その長期性は個々の研究者の人生サイクル(大学や研究所での現役期間は40年前後)をはるかに超える。そのため、観察事例の収集・判断に、広いネットワークが有効性を持つ。

坂さんの日程調整のおかげで、5月14日(火曜)、村松先生が2年ぶりに来園。細いタケの杖を手に、「90歳の転ばぬ先の杖」と冗談めかして言われる。木原先生のご縁から、自由学園最高学部の大塚ちか子先生と松田梢先生が参加、さらに坂さんを訪ねて滞在中の、長い伝統を持つドイツの種苗会社KWSのビクター・コルツム博士(Victor Korzum)が加わった。

時おりの雨のなか、羽田さんの案内で、まず管理事務所前のオロシマザサを観察する。これまで花の少なかった南側の植込みに、ぽつぽつ花穂が見られ、北側の植込みには無数の花穂が風に揺れ、きらきらと反射している。一昨年から見てきたが、これほど広範囲に多くの花穂が揃う光景は初めてである。しゃがみ込んでカメラを向ける来園者の姿が絶えない。

村松先生も身を乗り出して、小一時間も観察しておられた。その解説をお聞きするのは後回しに、山上にある松風閣ちかくのタイミンチクを目ざして坂道を登る。村松先生の足どりは坂道で、いっそう速く軽やかになる。

この一帯にはタイミンチクのほかにカンザンチクとメダケが混生し、海に面した崖側にカンザンチクが多くあることを教えてもらった。よく目にするモウソウチクやマダケの竹林では、稈が一本ずつ発生する(これを<散生>と呼ぶ)。タイミンチクやカンザンチクは、比較的細い稈が何本も集まり、株立ちする<叢生>(そうせい)傾向が強い。

私も初めて松風閣から三重塔にかけての尾根道でタイミンチクを見たとき、百本もの稈が太さ3メートル超の株を成しているのに驚いた。小道にかかるタイミンチクのアーチも壮観である。

完全な<叢生>のタケは熱帯に分布する種に見られるが、日本産でもタイミンチクやカンザンチクなどは部分的な<叢生>と言える。遠くから見てタイミンチクとカンザンチクの区別がつく人は少ないとのこと。

両者を区別する簡単な方法を問うと、(1)カンザンチクの場合、稈が伸びて枝分かれする所が地上から4~5メートルにあるのに対し、タイミンチクは地上1メートル以下から複数、枝分かれする。(2)カンザンチクは上部の葉が細く真っすぐで、タイミンチクは葉がねじれるものがある。

これを念頭に、松風閣の海側(いまは石油精製コンビナートが並び、高速道路が走っている)に拡がるカンザンチクを実見した。両者の違いを確認したうえで次の問題である。

1970年前後、村松先生は、昭和初期に開花枯死したという、恐らくカンザンチクとされていたタケ・ササの、その後の状況調査のため三溪園を訪れた。海岸側から崖付近に栽培種一種を認め、それはカンザンチクと特定したが、その時は開花も枯死も見られなかった。

この2年間、タイミンチクの開花に注目して観察を進めて来たが、ここにきてタイミンチクとカンザンチクという、似て非なる2種のタケの存在を知ったのが、今回の現場検証の第1の成果である。

今後の問題は3年つづくタケの開花が、いつまで続くのか、そして開花と枯死の関係はどうか(開花が枯死と結びつくケースと無関係のケース等)、さまざまな観察を進めていくにあたり、タイミンチクとカンザンチク(それにメダケ)が混生する三溪園の特性をどう位置づけるかである。

今回はじめて来園されたお三方、それに村松先生も坂さんもタケの観察ばかりであったことに気づき、中島哲也総務課長に園内の案内を託した。みなさんには思わぬプレゼントと喜んでいただいた。

これまで観察してきた三溪園のタケは自生ではなく移植である。この地を明治初年(1870年ころ)に購入した原善三郎(埼玉県出身、開港横浜の第一世代、生糸売込商)がタイミンチクを植栽の一つとした。そして善三郎の孫娘屋寿(やす)と結ばれた原三溪(岐阜県出身の青木富太郎)も、1906年に開園する三溪園の庭造りにタケを活かした。その関連でもタケの観察には意義がある。また「松竹梅」が造園植栽の代表であることも考慮に入れたい。

その後の中華料理店での会食の間も、村松先生を質問攻めにした。この機会を逃してメールや手紙ではかえってご迷惑になると、無理を承知の失礼である。それでも嫌な顔ひとつせず、紙ナプキンに地図や分類表をサラサラと書き、淀みない説明をしてくださった。もっとも実際にはこれで完結せず、その後の数回に及ぶメール交換で判明したことが多い。そのうち3点を記しておきたい。

第1がタケの名称についてである。リンネ種によるタケの分類(形態にもとづく分類)によれば、上位から下位群へ、イネ科の中で連(亜科)、属、節、種と分けられ、下の表に見る通り、メダケ属にはメダケ節、リュウキュウチク節、ネザサ節の3つの節がある。リュウキュウチク節のなかの種にタイミンチクとカンザンチクが、またネザサ節のなかにアズマネザサやオロシマチク等多数が知られるが、それぞれは互いに極めて近い種で、どのササも剪定すると、外形(外部形態)では見分けがつけにくくなる。


イネ科 タケ連(タケ亜科)
属 節 種
メダケ属 メダケ節 メダケ、ヨコハマダケ など
リュウキュウチク節 リュウキュウチク、タイミンチク、
ネザサ節 アズマネザサ、ネザサ、ケネザサ、シブヤザサ、オロシマチク等



第2が、30年前に建てられた三溪記念館内の管理事務所前にあるオロシマザサは、上掲分類表にあるネザサ節アズマネザサ(静岡県から青森県にかけて分布)の矮性系統の一つの商品名ではないか、あるいは西日本のネザサの遺伝的な矮性系統を自然界から見つけ、商品として名前をつけたものと思われる。いまも広く売られている可能性があり、開花の周期や開花後の枯死・再生のメカニズムを知る手がかりを得やすい。

第3、1928年の三溪園のタケの開花枯死の伝聞を追って、坂さんと私で『横浜貿易新報』の1928年前後(数日分の欠号を除いて)を調べたことがある。関連記事は見つからなかったが、村松先生は以下のように言われた。

その開花枯死については、1970年頃、タケの専門家で、<日本竹笹の会>会長であった室井綽(むろい ひろし)先生と横浜在住の笠原基知治(かさはら きちじ)先生から聞いた。半世紀も前のことで、場所や月日の記憶は曖昧だが、著名なお二方の発言であったので鮮明に覚えている。

そして少し間をおき、「…分からないことばかりですね。…」と、ポツリと漏らされた。

3年目に入った「タケの開花」で分かったことはごくわずかだが、確実に前に進んできたと思う。ここで改めて<中期戦略>を立てる必要があろう。


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初代台湾巡撫・劉銘伝について

 劉銘伝(りゅう めいでん、1836年9月7日 - 1896年1月12日)は中国清末の軍人・政治家で、安徽省合肥西郷出身。内紛のため官を退いていたが、1884(光緒10=明治17)年、ベトナムの権益を巡り清仏戦争が勃発すると、再度任用されて台湾へ向かい、フランス軍の台湾上陸作戦を幾度となく阻止、滬尾(こび)の戦いで最終的にフランス軍を退けた。

 翌1885年、清仏戦争終結。中国南東部沿海地域における台湾の戦略的重要性と台湾統治の強化を痛感した清朝政府は、1885年10月、台湾を福建省より分離・独立させて台湾省を設置、劉を初代台湾巡撫(じゅんぶ)に任命した。元の福建省は新たに置いた閔浙総督(びんせつそうとく)が所管。

 巡撫とは、明の制度を踏襲した清代における省の長官である。総督(複数の省を管轄)とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有する。

 なお、同時期に広東省欽州出身の劉永福(1837~1917年)という軍人がいる。太平天国の敗退後、清朝政府に追われてトンキン(インドシナ半島)に逃れ、1867年、黒旗軍を組織、1873年以降、フランスのトンキン進出に対抗、その10年後の清仏戦争でも活躍するが、劉銘伝とは接点がない。

 劉銘伝について、原田繁さんからメールの取材要請が来た。「現在、中国安徽テレビ局が特別番組を制作しています。安徽省合肥西郷出身の劉銘伝という清末の軍人の特集です。先方は日本の専門家を取材したい意向があり、弊社社長の呉暁楽が安徽の出身なので、協力依頼を受けました」と。

 呉さんは、『人民日報日本月刊』誌(日本語の月刊誌)・新華僑新報紙(中国語の新聞)の編集長を務める蒋豊さんのビジネスパートナーである。蒋さんは中国を代表する知日派ジャーナリストで、1989年、横浜市立大学の私のもとで研究生となり、拙著の中国語訳を4冊刊行、その後、九州大学大学院で学んだ。永らく連絡の取れない歳月がつづいたが、ある日、都留文科大学を訪ねてきた。本ブログのリンク「(都留文科大学)学長ブログ」の077「20年ぶりの再会」(2013年1月31日掲載)に、その記述がある。

 原田さんは、同社の副編集長兼副社長である。できる限りのことをしたいと考えた。取材項目は次の3点である。
1 清仏戦争を当時の日本はどうみていたか。
2 劉銘伝の軍事的才能をどう評価しますか。
3 劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか。

 まず私は34年前に刊行した著書『東アジアの近代』(『ビジュアル版世界の歴史』17巻 講談社 1985年)と同書の蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、2015年)を読み返した。20余年ぶりであろうか。その第4章「戦争と革命」の「4 清仏戦争と日本の朝鮮進出」のなかに「清朝のベトナム喪失」と「二つのヒント」の2節を設けて叙述している。

 「清朝のベトナム喪失」で述べたのは、インドシナの保護化・植民地化を進めるフランスと、ベトナムへの伝統的宋主権を主張する清朝との対立が清仏戦争(1884~85年)に発展、清朝が敗北して宋主権を失った経緯である。

 また「二つのヒント」では、明治政府の対応を中心に述べている。1884(明治17)年といえば、日本では自由民権運動の退潮期で、国権主義、対外膨張主義が強くなり、台湾等を射程に南へ進むべしと主張する<南進論>と、朝鮮から中国北部へ進めとする<北進論>の対立が明らかになる。明治政府が得た二つのヒントとは、第1がフランスをまねて、清朝の朝鮮に対する伝統的宋主権を奪い、日本の朝鮮に対する権益を主張すること、第2が清朝の敗北が福建海軍の敗北にありと見て、日本海軍の強化を図ることであった。

 これら2点は安徽テレビの質問項目には入っていないが、質問1「清仏戦争を当時の日本はどうみていたか」に答えるには、一定の回答になろう。しかし、これだけでは不十分である。そこで下記5点を見つけ、目を通した。

(1)坂本金次郎『絵本清仏戦争記』 明治17(1884)年  48ページ
(2)加藤寿編『清仏戦争記』 明治17(1884)年  30ページ
(3)小澤豁郎『清仏戦争見聞録』 明治24(1891)年  33ページ
(4)仁礼敬之『清仏海戦日記』 春陽堂 明治27(1894)年  92ページ
(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』 新高堂 明治38(1905)年 131ページ
ほかに曽根俊虎『法越康交兵記』、引田利章『仏安関係始末』、三代目歌川国貞作の錦絵「清仏戦争図」等あり。また豊富な挿絵類を含む雑誌として『風俗画報』東陽堂(1889(明治22)年~1916年)と『太陽』博文館(1895年1月~1928年)が有名であるが、いずれも清仏戦争時には未刊である。

 刊行年から分かる通り、(1)と(2)は清仏戦争直後の刊行。うち(1)は48ページにわたる絵入り本である。最初にフランス大統領シュールグレビと清国西太后の肖像を掲げ、ついで上空から見た地図に「台湾と福建が海峡を挟み、わずか40里…」、また「…仏兵はまず此島を奪い、清国を伐たんと謀り…」等と要点を正確に押さえた筆致である。最後は台湾から撤退するフランス軍の記述で終わる。そのまま設問2の回答にもなろう。

 なぜ正確な情報が入手できたのか。主な情報源は(3)の筆者・小澤豁郎であろう。彼は陸軍工兵中尉で1884年に福州へ派遣(『対支回顧録』1936年下巻310ページ~)され、清仏戦争中、福州に滞在して、かなり精度の高い情報を得ていた。なお(4)の筆者・仁礼敬之は、小沢の偽名とも言われる。

 そして(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』(新高堂 明治38(1905)年)は、設問3「劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか」に答える格好の書である。以下、その概要を記す。

 編著者の伊能嘉矩(いのう かのり、1867年6月11日(慶応3年5月9日)~1925(大正14)年9月30日)は、岩手県遠野の生まれの人類学者・民俗学者。台湾原住民の研究で多くの業績を残した。祖父から漢学・国学・国史などを学び、1885(明治18)年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動に参加、岩手県に戻り、岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経て、1893(明治26)年、東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学び、同門の鳥居龍蔵とともに週一回の人類学講習会を開催した。

 1895(明治28)年、日清戦争で日本に割譲された台湾に渡り、台湾総督府雇員として、全土にわたる人類学調査を行い、『台湾蕃人事情』(粟野伝之丞と共著)を刊行。1906(明治39)年、帰国。その後は郷里遠野を中心とした歴史・民俗・方言の調査・研究を行い、『岩手県史』『遠野夜話』等を刊行、遠野民俗学の先駆者と言われる。柳田國男と交流を持ち、『遠野物語』に影響を与え、柳田は伊能の遺稿『台湾文化志』(1928年)を刊行した。

 伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』の刊行年は1905(明治38)年。序文には「明治三十八年紀元節の日臺北客寓に於て 梅陰生識」とある。約10年にわたる台湾での調査研究の合間にまとめたことが分かる。全12章。第一章では、清仏戦争後に清朝政府が官制を改め、福建巡撫の所管を二分して台湾巡撫を設けた経過を述べる。

 第四章「交通機関の拡進」では、第1節「鉄道」、第2節「内外航通」、第3節「築港」、第4節「道路」、第5節「郵便及電信」等のインフラ整備に関する劉銘伝の功績を述べる。その第1節「鉄道」の冒頭で、「電信と鉄道とは、近き過去に於ける、物質文明を代表する二大動力たり、而して清国に於て、此動力を国家の経営に利用せし主導者は、電信に在りては李鴻章とし、鉄道に在りては、劉銘傳とす。…」と、劉を高く評価している。

 つづけて「劉銘傳は光緒6(1981)年の上奏において、<自強>(近代化を主張する洋務官僚のスローガン)のために中国大陸に南路と北路の2本の鉄道を開設すべしと提案し、ついで台湾巡撫に着任するやすぐ、光緒12(1886)年の上疏で台湾西部平原を南北に走る鉄道敷設を提案した。…」と記す。

 6年間の在任中、劉は他にも各種防衛設備を整備、軍備再編、台湾初の鉄道建設、台湾・福建間の電信ケーブル敷設、電報局、煤務局、鉄路局等のインフラ管理機構の整備等、後の台湾発展の基礎を築いた。一方、改革による財政負担増、汚職の蔓延が民衆の反発を呼び、1889(光緒15)年には彰化で施九緞の叛乱が起きている。1891(光緒17)年に退任して帰郷、1896(光緒22)年、病没。享年60。

 最終の第12章「余評」では「…(劉は)世界文明の模範を、此孤島(台湾)のなかに集めんと企てた。…」と述べ、ついで某氏の手記を引き、「…性行活発、痩せ形にして、普通清国官吏の肥満なるに似ず、眼光人を射るの趣ありて、目睫の周囲に黒色を帯び、頗る熱心家の相を有せり」と結ぶ。

10連休中の三溪園

 本邦初の10連休中も三溪園は開園、「新緑の古建築公開と修復展」等の特別催事を組んだ(閉園するのは年末の3日間のみ)。連休前半の天気は不安定であったが、雨に濡れた新緑の風情もまた格別。後半は晴れが多く、まさに風薫る五月、かぐわしい風が木々の間を吹き抜ける。

 今年は例年の古建築の公開に加えて、旧燈明寺本堂を会場に「修復展―時を超えて伝える」が4月27日(土)から5月6日(月・振)まで開かれた。事業課(吉川利一課長)の企画・広報をうけて、職員がボランティアのみなさんとともに総力を挙げて取り組んだ。

 古建築公開は春草廬と聴秋閣(いずれも重要文化財)の2棟で、内苑の奥まった所にあり、モミジ、カエデ、イチョウの柔らかな緑がとり囲む。

 春草廬は9つの窓をもつ江戸時代初期の茶室で、織田信長の弟・有楽の作と伝えられ、かつては九窓亭とよばれた。三溪園の創設者・原三溪が京都から移築した当時は、隠居所であった白雲邸に隣接していたが、戦後に現在の位置に再建された。

 聴秋閣は江戸時代初期の楼閣建築で、非対称の外観や斜めに切られた付書院など、デザイン性に富む。三溪は大正11年(1922)、この建物の移築完了をもって三溪園を完成させ、それを祝う大師会茶会を開いた(本ブログ2018年11月1日「三溪園の大師会茶会」参照)。

 なお2棟とも小規模で繊細な建物のため、内部には入れないが、ガイド・ボランティアが丁寧な説明をしていた。

 聴秋閣の西背後に伸びる渓谷遊歩道も公開された。ここは年に2回、新緑と紅葉の時期にのみ公開される。渓谷を挟んで左側の道を登り、右側の道を下りてくると、聴秋閣越しに三重塔を望む絶景が拡がる。撮影ポイントは2か所ほどか。一幅の山水画を見る趣がある。

 一方、外苑では三重塔と同じく京都・燈明寺から移築された室町時代の重要文化財建造物である旧燈明寺本堂を会場に、NPO法人美術保存修復センター横浜との共催による「修復展―時を超えて伝える」を開催した。同センターが近年修復に携わった美術品の実物展示のほか、海外の修復事例、三溪園の歴史的建造物の移築や維持保存の取組みなどを紹介した。

 おもな展示作品は、(1)同センターによる文化財保存修復の紹介(油彩画、掛軸、仏像、羊皮紙等)、(2)旧燈明寺本堂(会場の建物)移築時に作成された縮尺模型、(3)昨年度から着手した臨春閣屋根葺替え工事の概要パネル。

 同センターのジェネラルマネジャー内藤朝子さんにNPO法人の活動状況を伺っているうちに、共通の知人、大滝正雄さんの名前が挙がり、FМ戸塚の話題(本ブログ本年4月18日「FМ戸塚の対談余録」)に至った。世間は狭いというべきか、横浜の文化活動にかかわる人びとが自然に結びつくというべきか。

 午後から若き彫刻家・中村恒克さん(<中村彫刻>主宰、中区山手在住)を迎える。大学で彫刻を学び、古代以来の日本の彫刻の9割以上が木彫、それも仏像が圧倒的に多いことに気づき、寺に納める仏像を彫るとともに、古仏の修復にも取り組んでいる。

 修復の実演は、高さ80センチほどの木彫の獅子の、腐食・虫食いの防止と破損の修理。もとの収蔵社寺は不明だが、ヒノキ材を組み合わせた鎌倉時代の作品。修復からヒントを得ることが多いと語る。

 会場の片隅に「未来へ、伝統の美を護る。三溪園の保存に向けた寄付のお願い」と大書したA4サイズ両面のチラシを置いた。村田和義副園長らが中心となり、令和元年五月の日付入りで作成した。頂いた寄付金は三溪園の各種の修理・保護等に充てられる。

 ついで三溪記念館の所蔵品展「万緑の景」(会期:4月19日~5月29日)を鑑賞した。三溪の書画9点を展示、シャガの花を背景に真っ白な母猫が子猫に乳を与えている《白猫》(昭和7(1932)年)。輪郭に線を用いず色面だけで表現する「没骨」という水墨画の技法(江戸時代に俵屋宗達や尾形光琳など琳派の画家が彩色画に用いた)で描く《白桃》(大正14(1925)年)等。

 また三溪園ゆかりの画家の作品、雄大な滝を描く下村観山《新緑》(大正12(1923)年頃)と牛田雞村《若葉》等、目を惹くものばかり。
 
 第2展示室には、臨春閣第一屋「瀟湘の間」に嵌められていた襖の障壁画、狩野常信筆《瀟湘八景図》(江戸時代前期)、「山市晴嵐」「漁村夕照」「遠浦帰帆」「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「洞庭秋月」「平沙落雁」「江天暮雪」の8点。瀟湘は中国湖南省洞庭湖の南にあり、多くの文人墨客が訪れた景勝地。<八景>は日本では鎌倉時代から室町時代にかけて水墨画の流行とともに広まり、<近江八景>や横浜の<金沢八景>等を生んだ。

 三溪園ゆかりの画家-塩出英雄-の描く2点の屏風絵は、今回の新緑古建築公開に合わせ、ひっそりと佇む春草廬を描く《浄廬》(昭和63(1988)年)と聴秋閣を描く《園閣》(昭和61(1986)年)。

 また臨春閣の替え襖、中島千波筆《不二に桃花図》(昭和63(1988)年)が異彩を放つ。屋根葺き替え修理工事中の臨春閣第二屋「住之江の間」の西側床壁貼付の狩野山楽筆《浜松図》は複製で、収蔵庫に保管している原本を順に記念館で展示している。昭和50 年代、三溪園が日本画家・中島清之(1899 ~ 1989)に制作を依頼し、清之没後、三男の千波(1945 ~)があとを継いだ。

 第3展示室の第43回俳句展を見た後、呈茶の望塔亭へ行く通路では原三溪市民研究会(以下、市民研)による「原三溪没後80年 クイズで学ぶ三溪園 原富太郎と横浜」(5月3日(金曜)~5日(日曜))に関するアンケート収集と説明会が開かれていた。今年が6回目。クイズ用紙3000枚を市内各所で配り、その半数が来園するとして3日間で1500人の計算となる。クイズに関する丁寧で簡潔な解説版(A4両面)も配られていた。

 クイズは計8問、すべての漢字にかなが振ってあり、小中学生を意識した活動である。市民研の廣島亨会長、猿渡紀代子顧問、久保いくこさん達が先頭に立って応対していた。市民研の最近の活動については本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」をご覧いただきたい。

 クイズに合わせて「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートを取っていた。壁に張った大きなアンケート用紙(AからEまで以下の6項目)のどれかに赤丸のシールを張ってもらう形式。項目は「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。集計結果は秋の原三溪市民研究会例会等で発表の予定という。

 中央広場のテント内では和服を帽子やバッグ等に再生する工房<和布瑠>が「着物と帯のリメイク展」を開いていた。2年前にチャンチャンコを買い、自宅でくつろぐときに重宝している。

 <和布瑠>の担い手で、ガイド・ボランティアでもある渡辺悦子さんと話しているうちに、何点かの作品に目が留まった。片面に富士山と大名行列(箱根の関あたりか)、反面は京都の三条大橋(東海道53次の西の起点)らしき図柄を縫い付けたウォーキング・ポシェットを購入。A4サイズ半裁の書類がゆうに入る。

 10連休最終日の5月6日、恒例のボランティアによる一日庵(いちじつあん)茶会が午前と午後の計8回、臨春閣の第三屋、天楽の間で開かれた。臨春閣は紀州徳川家初代藩主の頼宣(よりのぶ1602-1671年)が、和歌山・紀ノ川沿いに建てた別荘「巌出御殿(いわでごてん)」と伝えられる。

 その天楽の間は奥方の居室と伝えられ、名称は欄間に見られる笙(しょう)や篳篥(ひちりき)など雅楽の楽器に由来する。掛軸は、上原古年(うえはらこねん1877-1940年、東京浅草生まれの日本画家)の「兜図」(かぶとず)である。

10連休が明けると、次のイベントが始まる。

5月10日(金曜)、新緑の自然観察会(毎月10日定例開催)
5月11日(土曜)、臨春閣の檜皮葺屋根葺き替え工事の公開見学会
5月17日(金曜)~26日(日曜)、「蛍の夕べ」(日没から21時まで)
5月19日(日曜)~6月2日(日曜)、「さつき盆栽展」
6月10日(月曜)~16日(日曜)、「花しょうぶ展」。10日、自然観察会。
7月13日(土曜)~8月4日(日曜)までの土日祝日、「早朝観蓮会」(朝6時~8時)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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