タケの開花(その10)
「タケの開花(その1)」を掲載したのは2年前である。以来、9回にわたる観察記録を書いてきた。その掲載日とごく簡単な概要は以下の通りである。
(その1)=2017年5月19日 旧知の坂智広さん(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)が学会で木原均先生(1893~1986年、元京都大学教授、元国立遺伝学研究所長、遺伝学、コムギ研究の世界的権威)の弟子の村松幹夫先生(岡山大学名誉教授)から聞いた、タケの開花についてメールをくれたのが発端。
(その2)=2017年6月1日 5月25日、村松先生、木原ゆり子さん(木原先生の三女)、坂さんが来園。タケの花の現場観察と村松先生の解説を聞く。
(その3)=2017年6月8日 <一斉開花>(ほぼ<全面開花>と同義)と<部分開花>、<一斉開花>に<枯死>と<生存>の2タイプ、さらに<枯死>後に<タネで再生>と<地下茎で再生>の2タイプがある。
(その4)=2017年6月23日 三溪園のタケを取材し、「開花後に枯死する」とテレビで誤放送、のち記者が撤回。
(その5)=2018年4月17日 2年目の春、再びのタケの開花に歓喜。
(その6)=2018年7月9日 近藤倫明さん(北九州市立大学長)から岩松文代「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)-万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal No.30 2017)を貰い、タケへの広い関心を知る。
(その7)=2018年7月18日 坂さんと羽田雄一郎主事による観察記録。ブログに地図と写真を初掲載。私のテニス仲間約30名に開花枯死に関するアンケート調査を実施。
(その8)=2018年8月23日 開花終息とみて「タケの花」の案内板を撤去。
(その9)=2019年3月22日 観察開始から3年目の春にあたり、園内のタイミンチク分布図を作成、さらに関東地方にあるタイミンチクの調査開始。
以上の通り、「タケの開花」の掲載は2017年の春から夏にかけて計4回、2018年もほぼ同じ時期に計4回、そして今年3月の(その9)が3年目の最初の記録である。これらを受けて、今回の(その10)には、どのようなことを報告すべきかを考えてきた。植物学や遺伝育種学等について素人の私が、園内のタケの開花を追い続けてきたのには、幾つか理由がある。
(1)珍しいタケの開花が三溪園という継続観察が可能な場所で起きていること。そして事業課庭園担当のスタッフほか、ボランティアや警備員の方々が観察情報を羽田さんに伝えてくれること。
(2)木原生物学研究所の横浜市立大学附置研究所への移管に私も関与したこと、また学生時代から木原先生を隊長とするカラコルム・ヒンズークシュ学術探検隊(コムギの起原を求めて)に強い関心を抱いていたこと、さらに木原先生の思想と行動を継承する坂教授という研究者の協力があることである。なおタケもムギもイネ科に属し(後続の表を参照)、ともに坂さんの研究範囲に入る。
(3)村松先生は木原生物学研究所の元所員で、代々の木原研究所(京都の向日市物集女と横浜)関連の学者と広いネットワークを有し、いまなお研究に専念、その指導を得られることである。多くの栽培植物が1年単位で播種・生育・収穫の過程を踏み、その観察・分析も1年単位で反復できるのに対し、タケの開花の周期は60年、90年、120年等と言われ(確かなデータはきわめて少ない)、その長期性は個々の研究者の人生サイクル(大学や研究所での現役期間は40年前後)をはるかに超える。そのため、観察事例の収集・判断に、広いネットワークが有効性を持つ。
坂さんの日程調整のおかげで、5月14日(火曜)、村松先生が2年ぶりに来園。細いタケの杖を手に、「90歳の転ばぬ先の杖」と冗談めかして言われる。木原先生のご縁から、自由学園最高学部の大塚ちか子先生と松田梢先生が参加、さらに坂さんを訪ねて滞在中の、長い伝統を持つドイツの種苗会社KWSのビクター・コルツム博士(Victor Korzum)が加わった。
時おりの雨のなか、羽田さんの案内で、まず管理事務所前のオロシマザサを観察する。これまで花の少なかった南側の植込みに、ぽつぽつ花穂が見られ、北側の植込みには無数の花穂が風に揺れ、きらきらと反射している。一昨年から見てきたが、これほど広範囲に多くの花穂が揃う光景は初めてである。しゃがみ込んでカメラを向ける来園者の姿が絶えない。
村松先生も身を乗り出して、小一時間も観察しておられた。その解説をお聞きするのは後回しに、山上にある松風閣ちかくのタイミンチクを目ざして坂道を登る。村松先生の足どりは坂道で、いっそう速く軽やかになる。
この一帯にはタイミンチクのほかにカンザンチクとメダケが混生し、海に面した崖側にカンザンチクが多くあることを教えてもらった。よく目にするモウソウチクやマダケの竹林では、稈が一本ずつ発生する(これを<散生>と呼ぶ)。タイミンチクやカンザンチクは、比較的細い稈が何本も集まり、株立ちする<叢生>(そうせい)傾向が強い。
私も初めて松風閣から三重塔にかけての尾根道でタイミンチクを見たとき、百本もの稈が太さ3メートル超の株を成しているのに驚いた。小道にかかるタイミンチクのアーチも壮観である。
完全な<叢生>のタケは熱帯に分布する種に見られるが、日本産でもタイミンチクやカンザンチクなどは部分的な<叢生>と言える。遠くから見てタイミンチクとカンザンチクの区別がつく人は少ないとのこと。
両者を区別する簡単な方法を問うと、(1)カンザンチクの場合、稈が伸びて枝分かれする所が地上から4~5メートルにあるのに対し、タイミンチクは地上1メートル以下から複数、枝分かれする。(2)カンザンチクは上部の葉が細く真っすぐで、タイミンチクは葉がねじれるものがある。
これを念頭に、松風閣の海側(いまは石油精製コンビナートが並び、高速道路が走っている)に拡がるカンザンチクを実見した。両者の違いを確認したうえで次の問題である。
1970年前後、村松先生は、昭和初期に開花枯死したという、恐らくカンザンチクとされていたタケ・ササの、その後の状況調査のため三溪園を訪れた。海岸側から崖付近に栽培種一種を認め、それはカンザンチクと特定したが、その時は開花も枯死も見られなかった。
この2年間、タイミンチクの開花に注目して観察を進めて来たが、ここにきてタイミンチクとカンザンチクという、似て非なる2種のタケの存在を知ったのが、今回の現場検証の第1の成果である。
今後の問題は3年つづくタケの開花が、いつまで続くのか、そして開花と枯死の関係はどうか(開花が枯死と結びつくケースと無関係のケース等)、さまざまな観察を進めていくにあたり、タイミンチクとカンザンチク(それにメダケ)が混生する三溪園の特性をどう位置づけるかである。
今回はじめて来園されたお三方、それに村松先生も坂さんもタケの観察ばかりであったことに気づき、中島哲也総務課長に園内の案内を託した。みなさんには思わぬプレゼントと喜んでいただいた。
これまで観察してきた三溪園のタケは自生ではなく移植である。この地を明治初年(1870年ころ)に購入した原善三郎(埼玉県出身、開港横浜の第一世代、生糸売込商)がタイミンチクを植栽の一つとした。そして善三郎の孫娘屋寿(やす)と結ばれた原三溪(岐阜県出身の青木富太郎)も、1906年に開園する三溪園の庭造りにタケを活かした。その関連でもタケの観察には意義がある。また「松竹梅」が造園植栽の代表であることも考慮に入れたい。
その後の中華料理店での会食の間も、村松先生を質問攻めにした。この機会を逃してメールや手紙ではかえってご迷惑になると、無理を承知の失礼である。それでも嫌な顔ひとつせず、紙ナプキンに地図や分類表をサラサラと書き、淀みない説明をしてくださった。もっとも実際にはこれで完結せず、その後の数回に及ぶメール交換で判明したことが多い。そのうち3点を記しておきたい。
第1がタケの名称についてである。リンネ種によるタケの分類(形態にもとづく分類)によれば、上位から下位群へ、イネ科の中で連(亜科)、属、節、種と分けられ、下の表に見る通り、メダケ属にはメダケ節、リュウキュウチク節、ネザサ節の3つの節がある。リュウキュウチク節のなかの種にタイミンチクとカンザンチクが、またネザサ節のなかにアズマネザサやオロシマチク等多数が知られるが、それぞれは互いに極めて近い種で、どのササも剪定すると、外形(外部形態)では見分けがつけにくくなる。
第2が、30年前に建てられた三溪記念館内の管理事務所前にあるオロシマザサは、上掲分類表にあるネザサ節アズマネザサ(静岡県から青森県にかけて分布)の矮性系統の一つの商品名ではないか、あるいは西日本のネザサの遺伝的な矮性系統を自然界から見つけ、商品として名前をつけたものと思われる。いまも広く売られている可能性があり、開花の周期や開花後の枯死・再生のメカニズムを知る手がかりを得やすい。
第3、1928年の三溪園のタケの開花枯死の伝聞を追って、坂さんと私で『横浜貿易新報』の1928年前後(数日分の欠号を除いて)を調べたことがある。関連記事は見つからなかったが、村松先生は以下のように言われた。
その開花枯死については、1970年頃、タケの専門家で、<日本竹笹の会>会長であった室井綽(むろい ひろし)先生と横浜在住の笠原基知治(かさはら きちじ)先生から聞いた。半世紀も前のことで、場所や月日の記憶は曖昧だが、著名なお二方の発言であったので鮮明に覚えている。
そして少し間をおき、「…分からないことばかりですね。…」と、ポツリと漏らされた。
3年目に入った「タケの開花」で分かったことはごくわずかだが、確実に前に進んできたと思う。ここで改めて<中期戦略>を立てる必要があろう。
(その1)=2017年5月19日 旧知の坂智広さん(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)が学会で木原均先生(1893~1986年、元京都大学教授、元国立遺伝学研究所長、遺伝学、コムギ研究の世界的権威)の弟子の村松幹夫先生(岡山大学名誉教授)から聞いた、タケの開花についてメールをくれたのが発端。
(その2)=2017年6月1日 5月25日、村松先生、木原ゆり子さん(木原先生の三女)、坂さんが来園。タケの花の現場観察と村松先生の解説を聞く。
(その3)=2017年6月8日 <一斉開花>(ほぼ<全面開花>と同義)と<部分開花>、<一斉開花>に<枯死>と<生存>の2タイプ、さらに<枯死>後に<タネで再生>と<地下茎で再生>の2タイプがある。
(その4)=2017年6月23日 三溪園のタケを取材し、「開花後に枯死する」とテレビで誤放送、のち記者が撤回。
(その5)=2018年4月17日 2年目の春、再びのタケの開花に歓喜。
(その6)=2018年7月9日 近藤倫明さん(北九州市立大学長)から岩松文代「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)-万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal No.30 2017)を貰い、タケへの広い関心を知る。
(その7)=2018年7月18日 坂さんと羽田雄一郎主事による観察記録。ブログに地図と写真を初掲載。私のテニス仲間約30名に開花枯死に関するアンケート調査を実施。
(その8)=2018年8月23日 開花終息とみて「タケの花」の案内板を撤去。
(その9)=2019年3月22日 観察開始から3年目の春にあたり、園内のタイミンチク分布図を作成、さらに関東地方にあるタイミンチクの調査開始。
以上の通り、「タケの開花」の掲載は2017年の春から夏にかけて計4回、2018年もほぼ同じ時期に計4回、そして今年3月の(その9)が3年目の最初の記録である。これらを受けて、今回の(その10)には、どのようなことを報告すべきかを考えてきた。植物学や遺伝育種学等について素人の私が、園内のタケの開花を追い続けてきたのには、幾つか理由がある。
(1)珍しいタケの開花が三溪園という継続観察が可能な場所で起きていること。そして事業課庭園担当のスタッフほか、ボランティアや警備員の方々が観察情報を羽田さんに伝えてくれること。
(2)木原生物学研究所の横浜市立大学附置研究所への移管に私も関与したこと、また学生時代から木原先生を隊長とするカラコルム・ヒンズークシュ学術探検隊(コムギの起原を求めて)に強い関心を抱いていたこと、さらに木原先生の思想と行動を継承する坂教授という研究者の協力があることである。なおタケもムギもイネ科に属し(後続の表を参照)、ともに坂さんの研究範囲に入る。
(3)村松先生は木原生物学研究所の元所員で、代々の木原研究所(京都の向日市物集女と横浜)関連の学者と広いネットワークを有し、いまなお研究に専念、その指導を得られることである。多くの栽培植物が1年単位で播種・生育・収穫の過程を踏み、その観察・分析も1年単位で反復できるのに対し、タケの開花の周期は60年、90年、120年等と言われ(確かなデータはきわめて少ない)、その長期性は個々の研究者の人生サイクル(大学や研究所での現役期間は40年前後)をはるかに超える。そのため、観察事例の収集・判断に、広いネットワークが有効性を持つ。
坂さんの日程調整のおかげで、5月14日(火曜)、村松先生が2年ぶりに来園。細いタケの杖を手に、「90歳の転ばぬ先の杖」と冗談めかして言われる。木原先生のご縁から、自由学園最高学部の大塚ちか子先生と松田梢先生が参加、さらに坂さんを訪ねて滞在中の、長い伝統を持つドイツの種苗会社KWSのビクター・コルツム博士(Victor Korzum)が加わった。
時おりの雨のなか、羽田さんの案内で、まず管理事務所前のオロシマザサを観察する。これまで花の少なかった南側の植込みに、ぽつぽつ花穂が見られ、北側の植込みには無数の花穂が風に揺れ、きらきらと反射している。一昨年から見てきたが、これほど広範囲に多くの花穂が揃う光景は初めてである。しゃがみ込んでカメラを向ける来園者の姿が絶えない。
村松先生も身を乗り出して、小一時間も観察しておられた。その解説をお聞きするのは後回しに、山上にある松風閣ちかくのタイミンチクを目ざして坂道を登る。村松先生の足どりは坂道で、いっそう速く軽やかになる。
この一帯にはタイミンチクのほかにカンザンチクとメダケが混生し、海に面した崖側にカンザンチクが多くあることを教えてもらった。よく目にするモウソウチクやマダケの竹林では、稈が一本ずつ発生する(これを<散生>と呼ぶ)。タイミンチクやカンザンチクは、比較的細い稈が何本も集まり、株立ちする<叢生>(そうせい)傾向が強い。
私も初めて松風閣から三重塔にかけての尾根道でタイミンチクを見たとき、百本もの稈が太さ3メートル超の株を成しているのに驚いた。小道にかかるタイミンチクのアーチも壮観である。
完全な<叢生>のタケは熱帯に分布する種に見られるが、日本産でもタイミンチクやカンザンチクなどは部分的な<叢生>と言える。遠くから見てタイミンチクとカンザンチクの区別がつく人は少ないとのこと。
両者を区別する簡単な方法を問うと、(1)カンザンチクの場合、稈が伸びて枝分かれする所が地上から4~5メートルにあるのに対し、タイミンチクは地上1メートル以下から複数、枝分かれする。(2)カンザンチクは上部の葉が細く真っすぐで、タイミンチクは葉がねじれるものがある。
これを念頭に、松風閣の海側(いまは石油精製コンビナートが並び、高速道路が走っている)に拡がるカンザンチクを実見した。両者の違いを確認したうえで次の問題である。
1970年前後、村松先生は、昭和初期に開花枯死したという、恐らくカンザンチクとされていたタケ・ササの、その後の状況調査のため三溪園を訪れた。海岸側から崖付近に栽培種一種を認め、それはカンザンチクと特定したが、その時は開花も枯死も見られなかった。
この2年間、タイミンチクの開花に注目して観察を進めて来たが、ここにきてタイミンチクとカンザンチクという、似て非なる2種のタケの存在を知ったのが、今回の現場検証の第1の成果である。
今後の問題は3年つづくタケの開花が、いつまで続くのか、そして開花と枯死の関係はどうか(開花が枯死と結びつくケースと無関係のケース等)、さまざまな観察を進めていくにあたり、タイミンチクとカンザンチク(それにメダケ)が混生する三溪園の特性をどう位置づけるかである。
今回はじめて来園されたお三方、それに村松先生も坂さんもタケの観察ばかりであったことに気づき、中島哲也総務課長に園内の案内を託した。みなさんには思わぬプレゼントと喜んでいただいた。
これまで観察してきた三溪園のタケは自生ではなく移植である。この地を明治初年(1870年ころ)に購入した原善三郎(埼玉県出身、開港横浜の第一世代、生糸売込商)がタイミンチクを植栽の一つとした。そして善三郎の孫娘屋寿(やす)と結ばれた原三溪(岐阜県出身の青木富太郎)も、1906年に開園する三溪園の庭造りにタケを活かした。その関連でもタケの観察には意義がある。また「松竹梅」が造園植栽の代表であることも考慮に入れたい。
その後の中華料理店での会食の間も、村松先生を質問攻めにした。この機会を逃してメールや手紙ではかえってご迷惑になると、無理を承知の失礼である。それでも嫌な顔ひとつせず、紙ナプキンに地図や分類表をサラサラと書き、淀みない説明をしてくださった。もっとも実際にはこれで完結せず、その後の数回に及ぶメール交換で判明したことが多い。そのうち3点を記しておきたい。
第1がタケの名称についてである。リンネ種によるタケの分類(形態にもとづく分類)によれば、上位から下位群へ、イネ科の中で連(亜科)、属、節、種と分けられ、下の表に見る通り、メダケ属にはメダケ節、リュウキュウチク節、ネザサ節の3つの節がある。リュウキュウチク節のなかの種にタイミンチクとカンザンチクが、またネザサ節のなかにアズマネザサやオロシマチク等多数が知られるが、それぞれは互いに極めて近い種で、どのササも剪定すると、外形(外部形態)では見分けがつけにくくなる。
イネ科 | タケ連(タケ亜科) | |
属 | 節 | 種 |
メダケ属 | メダケ節 | メダケ、ヨコハマダケ など |
リュウキュウチク節 | リュウキュウチク、タイミンチク、 | |
ネザサ節 | アズマネザサ、ネザサ、ケネザサ、シブヤザサ、オロシマチク等 |
第2が、30年前に建てられた三溪記念館内の管理事務所前にあるオロシマザサは、上掲分類表にあるネザサ節アズマネザサ(静岡県から青森県にかけて分布)の矮性系統の一つの商品名ではないか、あるいは西日本のネザサの遺伝的な矮性系統を自然界から見つけ、商品として名前をつけたものと思われる。いまも広く売られている可能性があり、開花の周期や開花後の枯死・再生のメカニズムを知る手がかりを得やすい。
第3、1928年の三溪園のタケの開花枯死の伝聞を追って、坂さんと私で『横浜貿易新報』の1928年前後(数日分の欠号を除いて)を調べたことがある。関連記事は見つからなかったが、村松先生は以下のように言われた。
その開花枯死については、1970年頃、タケの専門家で、<日本竹笹の会>会長であった室井綽(むろい ひろし)先生と横浜在住の笠原基知治(かさはら きちじ)先生から聞いた。半世紀も前のことで、場所や月日の記憶は曖昧だが、著名なお二方の発言であったので鮮明に覚えている。
そして少し間をおき、「…分からないことばかりですね。…」と、ポツリと漏らされた。
3年目に入った「タケの開花」で分かったことはごくわずかだが、確実に前に進んできたと思う。ここで改めて<中期戦略>を立てる必要があろう。
スポンサーサイト