【37】連載(七)経験と風説
本稿は、『思想』誌(岩波書店)1984年5月号掲載の「連載 黒船前後の世界」(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」を整理し、新たに私見を付したものである。これまで(四)「東アジアにおける英米の存在」、(五)「香港植民地の形成」、(六)「上海居留地の形成」を通じて東アジア情勢を中心に分析してきたが、それを受けて本稿は日本開国の導入として位置づける。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけた。それにより強硬な文政(異国船無二念打払)令から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更する経緯を解明した。
この変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。
1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖、(2)1840年11月~41年8月の広東戦争、(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防、(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。つづく3節では、イギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。
4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみを含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。
すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭②、(2)②1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢判断に努める幕閣の動きが窺い知れる。
上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。
6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳した。
うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師のE・C・ブリッジマン、S・W・ウィリアムズ。モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、”A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、ウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。
これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の風説書解読の前提となる。
7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。
そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏(1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(二万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えない、と判断した可能性が高い。
8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、オランダ風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。イギリス派遣軍が植民地インドのセポイを率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。
第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)、第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中、第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江)と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。
第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。
第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はともに貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。
9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。
制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。これは裏を返すと、幕府の鎖国政策への批判でもある。
10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理、その上で、1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。
11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。老中水野の諮問に、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。
13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。
水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令である。南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけた。それにより強硬な文政(異国船無二念打払)令から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更する経緯を解明した。
この変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。
1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖、(2)1840年11月~41年8月の広東戦争、(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防、(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。つづく3節では、イギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。
4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみを含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。
すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭②、(2)②1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢判断に努める幕閣の動きが窺い知れる。
上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。
6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳した。
うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師のE・C・ブリッジマン、S・W・ウィリアムズ。モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、”A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、ウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。
これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の風説書解読の前提となる。
7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。
そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏(1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(二万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えない、と判断した可能性が高い。
8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、オランダ風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。イギリス派遣軍が植民地インドのセポイを率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。
第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)、第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中、第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江)と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。
第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。
第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はともに貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。
9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。
制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。これは裏を返すと、幕府の鎖国政策への批判でもある。
10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理、その上で、1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。
11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。老中水野の諮問に、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。
13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。
水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令である。南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
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