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平成最後の年末年始

 この年末年始は、ふだんと少し違う感覚で日々を送った。平成が終わり、一世代=30年と言われる一つの時代が終わる。私にとっても働き盛りの50歳代から「消えゆく老兵」へと移る30年である。身辺の日常茶飯事の大切さにも想いが及ぶ。つれづれなるままに平成最後の年末年始を綴っておきたい。

 平成の30年間は、平成7(1995)年の阪神淡路大震災、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災に加え、各地の地震、水害、噴火等々、激甚災害の記憶を拭い去れない時代であった。「行く末」を見つめると同時に、「来し方」の整理もと、従前以上にせわしない。

 この数年、年末の28日に清談会を開いている。今回は第27回目で私が「10年後の歴史学」と題して話題提供した。それを本ブログに掲載したのは、開けて1月7日(月曜)。

 翌29日は横浜市立大学教職員テニス親睦会の打ち納めと忘年会を楽しんだ。現役では50歳代が中心で、私のようなOBも参加、雑談しつつ30年前の自分と重ねあわせ、不思議な気持ちに陥った。このテニス親睦会を立ち上げたのは1980年(昭和55年)ころで平成以前、そろそろ40年になる。

 30日、中学生から「戦争体験の取材」があり、終戦(1945年)前後に記憶を戻した。東京大空襲(3月10日)後、群馬県の寺へ集団疎開(国民学校と呼ばれた小学校3年生で6年生と一緒)、3歳上の6年生には何をしてもかなわず、悔しい思いをした。ホームシック、空腹のあまり田の畔に生えるノビルを食べた口中のヒリヒリ感、8月15日の「玉音放送」にワッと泣き伏した男の先生…。

 秋、無蓋車に乗せられて帰宅、痩せこけた私を見て姉が「ガンジーみたい!」と思わず声をあげた。東京練馬あたりは昭和初期の新興住宅地と竹藪や農地の拡がる農村とが同居していた。食糧難対策に父が農地を借りた。私も農作業を手伝い、山羊や鶏を飼った(小屋も手製)。

 いよいよ平成31(2019)年元日。日の出を拝んでから、勤務先の三溪園で初詣をした。三溪園は暮れの三日間のみが休みで、あとは362日、元日から開園。「三溪園で過ごすお正月―横浜市指定有形文化財 鶴翔閣公開」に職員はシフトを組んで対応する。元日恒例の箏と尺八の演奏(アトリエ筝こだま)、「ちどり」や「春の海」等の聴きなれた曲に時を忘れる。

 穏やかな陽ざしの下、三溪園天満宮に詣でた。近くの高梨家の祖先が本牧の丘の中腹に建てた間門天神を、1977年、園内に移築したもの。振り返れば丘の上に三重塔が聳える。飛騨白川郷から移築した合掌造り、旧東慶寺仏殿等を経由して石段を登り、三重塔に参る。坂を下って海岸門から内苑へ。

 蓮華院わきを通り、2本のイチョウの巨樹に挨拶。前回ブログ「イチョウ巡り」(2018年12月28日掲載)の出発点となった樹である。まだ黄色い葉がわずかに地表に残る。ついで内苑の最高所にある天授院(原家の持仏堂)に参拝。

 職員や来訪の元職員とゆっくり歓談。幸先の良い元日であった。今年から臨春閣(重要文化財)を皮切りに30年に一度の大規模改修工事が始まる。気が抜けない。また三溪記念館は、3つの展示室と収蔵庫、情報案内、望塔亭(呈茶)、土産売り場、応接室と管理事務所を持つセンター施設であるが、平成元年生まれの30歳、経年劣化で水回り等の修理が必要になってきている。

 秋にはラグビー・ワールドカップの決勝戦等が市内で行われるため、選手たちが三溪園で英気を養い、日本文化に触れてもらうための工夫も要る。来夏は2020東京オリンピック・パラリンピック。屋根を葺きなおしたばかりの臨春閣が選手や観客を迎えることになる。

 正月3日は、数人で「若い都市横浜」の歴史散歩を試みた。案内人は私。谷戸橋で堀川を渡り山手の丘を登り、外国人墓地を経て元町を抜け、中華街の馴染みの店でテーブルを囲む。その後、関帝廟に詣で、ホテル、ニューグランド旧館から山下公園に出て、氷川丸を見た。

 山下公園は1935年に開園した全国初の臨海公園で、関東大震災(1923年)で廃墟と化した市街地の瓦礫を埋め立てて造った。それまでは開港(1859年)以来、幕府が整地して番号を振り外国人に賃貸、外国商館が並んでいた。

 中華街は、「中華街ガイドマップ」(無料)では整然とした碁盤目に描かれているが、いざJRの関内駅や石川町駅へ出ようとすると方向感覚を失う。ここは田んぼの高低(水の流れ)にそって整地され、海岸線に対して45度ほど斜めの街区だからである。

 ついで日米和親条約交渉(1854年)の応接所が設けられた大桟橋の付け根、開港広場、開港資料館から日本大通りを挟んで神奈川県庁にまたがる一帯を確認した。老中首座・阿部正弘が見事な外交で「避戦策」に徹し、近代日本への扉を開いた記念すべき場所である。

 日本大通りの右手、本町1丁目に開港記念会館の塔が見える。ここから西の本町6丁目へかけて、開港以来、日本人商人(売込商、引取商)の店が並ぶ<日本人町>が五筋造られた。この<日本人町>と外国人居留地を内外の商人が行き来して商取引をする、日本独特の<居留地貿易>が展開された。

 掘割で外部と遮断して作られた横浜居留地、要所に関所を設けて警備したため、関所の内側(海側)という意味で<関内>(かんない)と呼んだ。関内一帯が横浜開港以来の旧都心で、今年160周年を迎える。

 ついで<開港の道>と名づけた高架の散歩道に戻り、<象の鼻公園>から<赤レンガ倉庫>まで歩く。この新港埠頭一帯は、1909年の横浜開港50周年を機に造成された旧都心の第二世代である。

 さらに進んでパシフィコ、クイーンズ、ランドマークタワー、JR桜木町とつづく高層ビル一帯に至るが、ここは1989(平成元)年の<横浜博覧会>(市政100周年、開港130周年を記念する行事)後に生まれた新都心<みなとみらい地区>である。ここも誕生から30年になる。

 旧都心と新都心の交わるあたり、北仲通南地区、大岡川下流に架かる弁天橋からも近い中区本町6丁目に横浜の新市庁舎(31階建て)が2020年に完成する。明治22(1889)年の市政公布時から数えて8代目の建物。最寄り駅はみなとみらい線の馬車道駅とJR・市営地下鉄の桜木町駅。桜木町駅は横浜=新橋間の日本最初の鉄道(明治5、1872年)の初代横浜駅である。

 開港から急成長して160年、いま横浜は人口373万人の日本最大の政令市となった。他の都市と比べて、横浜はとても若い。それを示すために私がよく使う比喩が「都市年齢」である。平安京の成立が約1200年前、これを人間の80歳とすれば、鎌倉が53歳、東京が29歳、そして横浜はわずか10歳である。

 4日(金曜)、証券取引所の大発会。株価が急落し、金融市場は円高・ドル安に振れ、波乱の幕開けとなった。

 夜は、偶然見つけた「神々の木に会う~にっぽん巨樹の旅」(BSプレミアム)を観た。書いたばかりの「イチョウ巡り」(本ブログ2018年12月28日掲載)を補う番組で、そのタイミングに驚く。

 山梨県北杜市の桜(エドヒカン、樹齢2000年)に始まり、クス、日本一高齢のイチョウ(青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」)、縄文スギ(樹齢2000年超)、さらにカツラ、スダジイ等が映し出された。

 青森のイチョウは樹高31メートル、幹周22メートル、樹齢1000年超、国の天然記念物である。すぐ傍に住み、これを見守ってきた人が、30年ほど前に樹のすぐ横にアスファルト道路ができて以来、「イチョウの葉が小さく少なくなった、人間にとって良い環境は木にとっては大変な変化…本当に申し訳ない」と語る。

 6日(日曜)、麻布山善福寺(港区元麻布)を訪れた。日米修好通商条約に基づき安政5年(1859年)、当寺がハリス一行の宿舎となり、その一室は初代アメリカ合衆国公使館として使われたこと、また1861年にハリスの通訳ヒュースケンが襲撃され、ここに運ばれて死去したことから、現場を確かめるため、以前、来たことがある。

 門をくぐると、目視で1尋半ほどのイチョウの樹下にハリスを記念する石碑がある。そして墓地には親鸞像の近くに「逆さイチョウ」(「杖イチョウ」)と呼ばれる巨樹(雄)。
昭和20年(1945年)5月29日の空襲で被災、背丈は低くなったものの、都内最大で、国の天然記念物に指定されている。推定樹齢750年。根を広く張り、コブのような凹凸を持つ巨大な幹。孤高、圧倒的な存在感。

 そして7日(月曜)、この日までが松の内(松飾りのある期間)。今年は7日を仕事始めとした所が多いと聞く。年賀状を整理。今年で最後にする、と書いてきた方々に思いを馳せる。

 遡れば30年前の今日(昭和64年1月7日)、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた紙を示し、新元号を発表した(翌8日から平成)。巨樹を見たせいもあろう、30年という歳月が<瞬時>のようにも思える。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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