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イチョウ巡り

 今年は12月下旬になっても、横浜や東京では、多くのイチョウに黄色い葉が目立った。三溪園の紅葉(イチョウもモミジも)は通常12月上旬がピークだが、12月20日、内苑のイチョウの大樹2本のうち、春草廬そばの樹はまだ黄色い葉を半分も残していた。

 勤続30年を超えた三溪園の造園技士・鈴木正さんは、イチョウの葉が12月下旬にまで残るのは「今年が初めて。…ふだんなら掃き清めて地面が出ている頃…」と言う。改めて見上げると、幹に大きな空洞があった。

 この2本のイチョウを両腕で抱きかかえて測ってみた。約3周、すなわち3尋(ひろ)。私の場合、1尋が約180センチなので、概算で円周5メートル余であろうか。この「腕で抱える測定」を<腕測>(わんそく)と勝手に名づけた。目測、歩測からの思いつきである。

<腕測>はどこまで正確か。勤続60年の川幡留司参事と二人で三溪園の古いアルバムを見たが、樹齢の手がかりになる写真は見つからなかった。

 翌21日、庭園担当の羽田雄一郎主事からは、自身も鈴木さんも見当がつかないと返事が来る。イチョウは自生ではなく植樹であるため、<腕測>と文献資料を結合させて把握できるのではないか。

 文献と言えば、83年前の松永耳庵「三溪園茶会記」(昭和10年11月28日)を思い出した。本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園と大師会茶会」のなかで一部を抜粋したが、この茶会記にイチョウの記述があった。イチョウは蓮華院のそばのものである。ただし蓮華院はのちに別の場所に移され、跡地に上記の春草盧を移した。

 「…老銀杏樹の梢を振うたる黄金の葉は地に散り敷いて黄毛氈(きもうせん)を踏む心地がする。主人は誰にも踏ませずに今日の珍客に歩かせるのだとの事。誠に心嬉しく是が眞の茶といふもの、御馳走といふものと感心した。」

 亭主の気遣いを述べる一文だが、「老銀杏樹」と「黄毛氈」の記述から、このイチョウはかなりの大樹である。このとき樹齢50~60年と仮定して、現在の樹齢は約130年以上になる。この地を先々代の原善三郎が入手したのが明治20年(1890年)代で約130年前、その時にイチョウの苗木を植えた可能性が高い。

 蓮華院は、1917(大正6)年、三溪の設計で完成した。三溪はイチョウを守り神として、この樹下を建立場所に選んだのではないか。神社仏閣にイチョウを植える慣習が各地にあったからである。

 翌21日、イチョウを大学のシンボルとする東京大学の、正門から安田講堂へ至るイチョウ並木を通った。まだ葉が残っている。文学部図書室3号館に入り、今日の調べの主題を放り出して、まず『東京大学百年史』を見た。その通史二(昭和60年刊)に「関東大震災による被害、法経教室、八角講堂」や「法文経一号館より見た二号館」の写真があり、イチョウ並木らしきものが写っている。

 本文には、「…明治45(1912)年、正門を建設し、銀杏並木で中央の道路を飾る」(415ページ)とある。1912年に植えたイチョウであれば、苗木の樹齢を加算して100年ほどであろう。なお安田講堂や総合図書館は、関東大震災(1923年)後に建てられたものである。

 そこで並木の、いちばん太いとみられるイチョウを<腕測>した。約2尋。100年で2尋であれば、三溪園の老木の3尋の樹齢が130年以上とする推計の傍証にもなる。文献と<腕測>で樹齢が分かる。大きな発見をしたようで嬉しかった。

 少し離れた工学部建築学科の前の広場には、太い独立樹のイチョウがある。3尋はゆうにあった。樹齢は約150年以上、東京大学以前の加賀藩の屋敷の時代からあったものであろう。

 イチョウは成長が速い上に燃えにくく耐火性が強い。江戸時代には火除け地に植えられた(防火用)。剪定にも強く(管理しやすい)、街路樹(並木)として普及、いま全国で57万本が植えられ、樹種別では最多である。

 イチョウ並木の先駆けは、開港横浜の外国人居留地と日本人町を区切る日本大通りの並木ではないか。これは1871(明治4)年、R・H・ブラントンの、横浜公園(いまのスタジアムをふくむ一帯)、下水道工事、掘割の拡幅と護岸、日本大通りを一体とする設計案に従い、植えられた。

 しかし半世紀後の1923(大正12)年、関東大震災により消失したため、新たに植樹されている。現在もっとも太い木は、本町通りと日本大通りが交差する横浜情報文化センター(旧商工奨励館)の脇にあり、幹回りは約2尋(樹齢100年)であった。

 横浜市立大学瀬戸キャンパスにも、正門からイチョウ並木がつづく。道の脇に「銀杏並木の由来」の銘板があり、「昭和23年(1948)に横浜医科大学予科(医学部の前身)の学生達が植えた」と記されている。翌1949年、新制大学としての横浜市立大学がこの地に設置された。

 このイチョウについて坂智広教授(市大木原生物学研究所)に尋ねたところ、22日(土曜)、写真付きの返信が届いた。太いもので幹回りが1尋半、すなわち樹齢70年前後である。また体育館背後の4本のイチョウは、「胸高周(幹周り)は3m近く」あり、ネット検索から昭和16年(1941)に建てられた海軍航空技術廠支廠の官舎に植えたものではないか、と追伸をくれた。

 さらに松江正彦ほかの報告書「公園樹木管理の高度化に関する研究」(国土交通省国土技術政策研究所の研究資料)を添付、これは北海道から近畿の公園緑地に植栽された1年〜109年生の樹齢が明らかな157本の成長量を調査したものであるが、坂さんはこれを基に胸高の幹周「1尋≒樹齢63年」と算出した。

 私の算出法と2割ほどの差がある。これについては、気温差等を平均化した「データに基づく樹齢推計よりも、記録や歴史的言い伝えの情報を加味した加藤先生の1尋≒50年をベースにした樹齢推計は、個々の樹の歴史を辿るのに的を射ていると考えています」とあった。

 また羽田さんが送ってくれたメジャー計測では、三溪園の覆堂近くのイチョウは幹周412㎝(高さ120㎝あたりでの計測値)と402㎝(高さ140㎝あたりでの計測値)で、春草廬近くのものは幹周422㎝(高さ120㎝または140㎝あたりの計測値)。私の3尋=5メートルとは、これまた2割ほどの差がある。

 メジャーでは幹にぴったり密着させて測ることができるが、<腕測>では幹と腕の間に空間ができ、大きい木ほど密着が難しい。それを念頭に<腕測>を使えば、樹齢の推計にはとても便利である。

 23日(祝日)、小石川植物園(正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)を訪れた。門を入るとすぐ大きなイチョウが2本、いまだ黄金色に輝く葉を誇っている。幹の太さは2本とも約2尋。受付で聞くと、樹齢の記録はないとの返答で残念だったが、大きな副産物があった。

 奥の方に遠目にもそれと分かる大イチョウがあり、案内板には、1896(明治29)年、平瀬作五郎による「精子発見のイチョウ」とある。地表近くで根が盛り上がっているため、目測で3尋超か。ほかに地上2~3メートル上から10数本に枝分かれしたイチョウ、これも3尋(樹齢150年)超あった。

 ふだん使うテニスコートの脇にもイチョウ並木がある。いな、正確に言うと、並木を残してテニスコートを作った。芽をふく頃と落葉の時期に、その進行具合が木々ごとに異なる。北東にある一本がまっ先に葉を落とし始めるが、そうなると我々は積もった落ち葉を掃き出す作業に追われる。22日の<腕測>で約1尋半、戦後に植えたものと見た。この太さだと抱きかかえやすい。私の奇妙な行動の訳を話すと「イチョウの方が加藤先生より若い!」と仲間の声。

 イチョウの人気はかなり高い。東京大学がイチョウを大学のシンボルとしていることは前述したが、東京都・神奈川県・大阪府が、また横浜市、国立市等がイチョウを市の木と定めている。特別区では東京都文京区の木でもある。

 はるか太古まで辿ると、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて広く世界に分布したが、氷河期に絶滅し、イチョウだけが生き残ったため、生きている化石とも呼ばれる。イチョウの原産地・自生地は確認されていないが、日本には中国から伝来した。時期については諸説ある。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(神奈川県天然記念物)が著名で、樹齢800年とも言われたが、惜しくも2010年に強風で根元から倒れた。

 日比谷公園(1903年開園)には、とても見事なイチョウがある。移植が難しいと言われるなか、公園を設計した本多静六が近くの日比谷見附から自身の首を賭して移植を成功させたため、「首賭けイチョウ」と呼ばれる。

 神々しいほどの姿に合掌。近寄りがたく、目測により約6尋(≒樹齢300年)と推定した。江戸時代中期のものであろう。
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【36】連載(六)「上海居留地の形成」

 本稿「上海居留地の形成」は、1984年3月号の『思想』誌(岩波書店)連載「黒船前後の世界」の(六)である。前回の2018年5月7日「(五)香港植民地の形成」(『思想』誌掲載は1984年1月)では、英清南京条約(1842年)で英国が得た4つの権益、すなわち①香港の割譲(植民地化)、②賠償金2,100万ドルの4年分割払い、③旧来の公行体制(清朝の特許商人による交易体制)の廃止と貿易完全自由化を分析し、五港開港については次稿に譲るとした。

 ところが冬季は卒論指導と入試業務が重なり、2か月間で書き上げるのは困難をきわめた。現在のようにワープロ・パソコンは普及しておらず、400字づめ縦書き原稿用紙に4Bの鉛筆を使っても筆圧の強い私の右手は悲鳴をあげた。いま読み返すと論旨の流れに淀みが散見されるのは、手にも理由があったのか。

 以前から上海については関心を持っていた。1963年に訪ねた時の記憶も、少々の土地勘もあったが、私が書いたものといえば「上海略史」(1974年、松本重治『上海時代』 中公新書版 上巻所収)と「上海」(1982年、小池滋ほか『都市物語』 読売新聞社)の2点だけである。

 そこで開港初期の先行研究を本格的に調べ始めた。貿易統計に関しては「19世紀アジア三角貿易」の拠点の一つが上海であったため、イギリス議会文書で把握していた。問題は政治と経済を一体として把握することの難しさと、現在の大都会のイメージに惑わされないこと、この二つにあった。

 南京条約(1842年)の五港開港(広州、厦門、福州、寧波、上海)を受けて作られたsettlementの内実は、16年後の日米修好通商条約(1858年)の五港開港(箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)と大きく異なる、と直感的には把握していたが、それを理論的に展開できたのは少し後である。同じsettlementが、中国では租界と訳され、日本では(外国人)居留地と訳された。

 本稿は全11節からなる。1節は、五港の開港初期の状況を述べる。開港は英領事の着任日をもって始まると条約に規定しており、1843年7月、広州(カントン)にG・T・レイ、ついで11月に厦門にH・グリブル、上海にG・バルフォア―が着任した。広州はアヘン戦争の主戦場の一つで、以前から公行体制が存在、これを条約体制(外商が中国商人と自由に取引できる交易体制)へ移行させるのは反英感情が強く難しかった。厦門、福州、寧波は古く唐代以前からの貿易港で日本とも関係が深い。これら4港に比べ、外国人が上海に注目し始めるのはイギリス東インド会社のロード・アマースト号による沿海調査(1832年)以降の、きわめて新しい時期である。

 2節と3節は、この調査団の派遣と判断について論じる。派遣は地方貿易商と呼ばれる自由貿易派の攻勢により東インド会社広州事務所が解散(1834年)される前年のことであり、調査団は厦門、福州、上海、朝鮮、琉球に赴いた。これまで東インド会社が独占していた対中貿易は広州での茶輸入と、その近くの黄埔、伶仃、金星門の浅瀬に係留した躉船(とんせん、アヘンを貯蔵する箱型の船で、帆船で曳航)上で取引されるアヘン密輸が主であった。

 清朝が禁止しているアヘン(6節を参照)は、南京条約に記載のない「密輸」のため、海関(税関)を通すことができない。自由貿易派は早くも1823年にJ・マセソン商会とデント商会が福建省で新たなアヘン密輸に成功、これをテコに二大商社にのし上がる。

 4節では1839年6月、林則徐によるイギリス商人手持ちアヘンの没収・焼却事件と、その情報を受けた9月以降のイギリス国内の動きを述べる。ちょうど帰国していたJ・マセソンが独自情報を使い政府を説得、戦争の勝利を前提に獲得すべき7つの要求をパーマストン外相に提出した。その一つが港へ入る権利(admission)で、厦門、福州、寧波、揚子江(全長2500キロの長江の下流域を指す)、広州の5港を挙げる。これを受けた外相の条約草案(1840年2月20日)には、広域を示す揚子江に代えて初めて上海の名が登場する。

 5節は、アヘン戦争中に汽走軍艦ネメシス号(600トン)が近在の大都市・蘇州府城へ行けなかったことから、黄埔江河口の呉淞(ウースン)を約30キロ遡った上海県城(末端行政単位)周辺を「外国貿易の中心地」と位置づける過程を述べる。上海は、揚子江と大運河(1800キロ、北京近郊まで)の二大物流路(水運)に近く、海外貿易を結ぶ重要な戦略拠点に適すと考えられた。

 6節は、南京条約(1842年8月29日調印)のアヘン条項について述べる。密輸状態にあるアヘン貿易を合法化すべく清朝政府と交渉せよとパーマストン外相がⅭ・エリオット(在華軍司令官兼駐華全権大使)に命令するが、屈折した論理構成のため清朝全権・耆英を説得できず、南京条約にはアヘン条項がない結果となった。

 7節以降は、1843年11月の初代英国領事G・バルフォアの着任に始まる上海開港と居留地形成の分析である。これは本来なら別稿として展開すべき大きな課題であるが、ここに押し込めたため、叙述のテンポが速くなっている。そこで10年間の略年表を掲げ、①第2代英領事オールコック(在任は1846~58年、その後に駐日総領事に転任)の果たした役割、②1847年頃からの上海居留地の実質的形成、③1854年7月の第2回土地章程締結と居留地運営組織である工部局の設立、の3点を特記する。

 8節は1848年~52年のオールコックによる上海居留地の現状報告の分析に充てた。居留地にインフラ整備の<借地人会議>と<道路・嗎頭委員会>を置き、招集権者のオールコックが次の課題は灯台建設と蒸気郵船P&O社の航路を香港から上海まで延伸させることと総括する。また1852年段階の上海居留地(借地)面積は1071畝(ムー、約650ヘクタール)で、その1番(地)をJ・マセソン商会が占有した(1859年開港の横浜1番も同社)。

 9、10節は上海の貿易を分析する。上海でも外商の最大の輸入品は茶と生糸であり、最大の輸出品は密輸アヘンである。上海から黄埔江を下った河口の呉淞(ウースン)の浅瀬に躉船を浮かべ、小舟で陸揚げした。

 アヘン密輸を非難する英米の論調を4つ紹介した後、1848年のオールコック報告によるアヘン貿易への初の言及と、その実態を分析、①禁輸品アヘンの占める比率が高く、②上海は五港のうち英国輸出の過半を占め、③アヘン密輸により対価の銀が流出して銀と銅の比価が変動、上海の地代が銅銭で1ムーあたり1500文と固定されていたため、居留地の地代が安くなり、それが上海の都市開発投資を可能にした一因と述べる。

 最後の11節は、上海開発に占めるアヘン密輸の高い役割を述べる。アヘン禁輸を主張するオールコックの発言と行動が限界を迎えたのが第二次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約(1858年)で、その附則に「アヘン合法化」(1箱あたり30テールの関税を課す取り決め)が明記された。図12「インド産アヘンの140年」(拙著『イギリスとアジア』岩波新書 1980年所収)で天津条約を機にインドのアヘン生産額が急増することを示したが、これと見事に符号する。

 なお本稿で使用した史料と分析が中国史学界では未知であったため、中国語に翻訳、上海社会科学院の専門誌に掲載された。この縁で3年後の1987年夏から横浜開港資料館と上海社会科学院の共同研究「横浜と上海」が始まる。(続く)

原三溪-茶と美術へのまなざし

 10月6日(土曜)から12月16日(日曜)まで、畠山記念館(東京都港区白金台)において展示「生誕百五十年 原三溪-茶と美術へのまなざし」が開かれている。チラシには次のようにある。

 明治・大正そして戦前の日本美術コレクターであり、茶の湯も愛好した横浜の実業家・原三溪(1868~1939)。本年が生誕百五十年を迎えることを記念して、二十年ぶりに当館が所蔵する原三溪旧蔵の書画と工芸品約50点を一挙公開いたします。国宝「禅機図断簡 印陀羅筆 楚石梵琦賛」をはじめ重要文化財6件、重要美術品6件を含む三溪コレクションと関連資料を通して三溪のまなざしに迫ります。

 畠山記念館は旧薩摩藩主島津家の別邸で、明治に外務卿・寺島宗則の所有に移った崖地を、1937(昭和12)年、荏原製作所創業者の畠山一清(即翁、実業家で機械工学者、1881~1971年)が買い入れ、1964(昭和39)年、みずからの設計による美術館を建立、財団法人として設立したもの。庭園には沙那庵、翠庵等、複数の茶室が点在する。

 紅葉を始めた露地を抜けると美術館、その1階で、11月23日(祝日)、清水緑氏(松濤美術館学芸員、元三溪園学芸員)と水田(すいた)至摩子氏(畠山記念館学芸課長)のトークイベント「三溪のまなざしに迫る-三溪旧蔵の古美術から」が開かれた。聴講者(抽選)が熱心に耳を傾け、2時から3時半まで、またたく間に時が過ぎた。

 「三溪のまなざしに迫る」を大きく3つに分け、パワーポイントのスライドで図像や表・地図を放映して話を進める。(1)三溪の履歴と美術品購入歴から見るバックボーンを清水さん、(2)三溪が蒐集した古美術の絵画と書跡を清水さん、畠山記念館所蔵の三溪旧蔵の書画や茶道具について水田さんが語り、(3)近代数寄者の研究と鑑識眼についてはお二人の息の合ったトークが繰り広げられた。

 聞き入ってメモを取りそこなったものが多く、復元を試みるも、これが至難の業。とくに美術や音楽等を言葉で表現することは難しく、それでも敢えて記すのは、三溪生誕150年の種々の行事のうち、このお二人こそ、今、三溪の美術へのまなざしを語れる最適者と観たからである。

 清水さんは2003年から昨年までの15年にわたり、三溪園の学芸員として三溪蒐集の美術品を研究し、展示に活かして素晴らしい図録を残してきた。渋谷区の松濤美術館に移り、新しい経験を重ねて約一年、「…三溪および三溪園を外から見る余裕がでてきました」と話す。

 三溪の生い立ち、略歴をおさらいしてから、三溪の「美術品買入覚」(全5冊、三溪園蔵)を史料として、買入れた美術作品(点数と金額)に年代別の特徴が見られると述べる。①明治30年代後半(三溪の30歳代後半)は主に古美術や庭石等、②明治40年代から新進画家の作品(同40歳代)、③大正初年には墨跡(50歳代)、大正7・8年が購入金額最高潮、大正9(1920)年に生糸暴落、大正12(1923)年の関東大震災により購入中止、④昭和(60歳代)に入り茶道具となる。なお鹿島美術財団賞を受賞した清水緑「原三溪にみる作家と支援者の関係」(『鹿島美術研究』別冊15号 2007年)等では、より詳細に8期に分けて論じている。買入れた美術品は5000~8000件と言われる。

 多彩な買入品に古建築の移築を重ね合わせると、三溪の美術品の概念は書画等にとどまらず、庭作りや茶会をも含めたスケールの大きな<総合芸術>と言えるのではないかと指摘する。これこそ清水さんの三溪の美へのまなざしを理解するためのキーワードのようである。

 一方、私自身は歴史家が記録を使う(消費)ばかりでなく記録を残す(生産)ことも大きな仕事であると気づいて約10年、三溪園に関わるようになってからは、三溪園の種々の行事やボランティア活動の実態・役割等を私的ブログに掲載してきた。

 清水さんの三溪園時代の仕事を私が初めて本格的に紹介したのは、本ブログ2015年9月13日掲載の「白きものを描く」であったか。「三溪園の所蔵品展示が入れ替わった。書画を主とする所蔵品は、日本庭園・古建築(重要文化財)にならぶ三溪園の<三種の神器>…」と書き出し、初めて三溪園所蔵の書画に触れた。紹介するには一定の知識が必要で、分からないことは担当者に教えを乞う。清水さんは快く、細部にわたり点検してくれた。

 私は美術についてほとんど無知であるが、庭園にはひそかに関心を抱いている。清水さんが「総合芸術」の用語を使って「三溪のまなざし」を語ったとき、ふと掲載したばかりの2018年11月1日「三溪園と大師会茶会」を思い出した。私が歴史家の役割の一環(=記録の生産)として、また三溪園を庭造りの視点から書いたことが、清水さんの美術史からのアプローチと似ていると感じた。

 ついで三溪が蒐集した古美術品を絵画と書跡に分けて清水さんが語る。絵画は①孔雀明王図、②四季山水図(伝雪舟)、③老子出関図(三溪29歳で購入)、④花籠図、⑤光琳「浪に燕」を模した三溪の飛燕図。なお評価の定まっていなかった尾形光琳を三溪は早くから評価していたという。

 三溪は自らの蒐集美術品に解題を付した『三溪帖』(全7冊)を準備したが、刊行直前に関東大震災で被災、幻に終わる。残された草稿の一部によれば、歴史画の好きな三溪が、今村紫紅、前田青邨ら新進画家と鶴翔閣に集まり、長老の書家、田中親美(古筆家、画家、料紙装飾家)をまじえた「楽園的会合」(のちに安田靫彦が記した表現)を開いたという。

 水田さんは主に関東大震災後に三溪が蒐集した茶道具の、茶碗、釜、茶杓、茶入、水指、香合等について語る。畠山記念館が引継いだ三溪蒐集品の多くは重要文化財指定の貴重な作品群であり、2階の展示室で開陳されている。

 最後が(3)近代数寄者の研究と鑑識眼。清水さんは三溪の研究と高い鑑識眼に触れた後、三溪園の外苑は秋草生い茂る「野趣あふれる公園」がテーマではないか、内苑は桃山時代で統一しようとしていたのではないかとし、三溪の桃山美術、建築に関する言葉「鮮麗彩華でありながら、瀟洒閑寂の趣を忘れず」を挙げる。そして庭園も美術作品も、自然と同じように、みなが享受すべきもの、すなわち公共性と共有性を併せもつという強い思いがあったのではないかと結ぶ。

 これを受けて水田さんは、三溪が愛した桃山文化を代表する豊臣秀吉画像(伝狩野山楽、桃山時代、重要文化財)や「四季花木図屏風(渡辺始興筆、六曲一双、江戸時代、重要美術品)」等を示して解説したうえで、三溪旧蔵の名品50点を今回一挙公開する意味は大きいのではないかと結んだ。

 トークイベントが終わり、興奮さめやらぬまま2階の展示室へ行き、国宝「禅機図断簡 印陀羅筆 楚石梵琦賛」をはじめ重要文化財「雪村周継筆 竹林七賢人屏風」、それに三溪が購入するも一度も使わず即翁に渡った「古瀬戸肩衡茶入 銘 畠山(室町時代)」等、綺羅星のごとき列品に見入った。

 期間中に展示替えがあるため、ぜひとも観たかったものを求めて11月29日(木曜)に再訪、学芸員による列品解説も聴くことができた。挙げれば限りがないが、なかでもトークで水田さんが触れた豊臣秀吉画像の不思議な魅力が心に残った。

 また渡辺始興筆「四季花木図屏風」は、両端に太い幹を配し、右から左へと四季の花木45種を緻密に写生、本草学にも役立てようとしたのか、柔らかな輪郭線と金泥の葉脈を丹念に描いている。最後にもう一点。三溪38歳で入手した酒井抱一筆「月波草花図」(江戸時代)は、3幅の掛け軸からなり、自然の持つ勢いを感じさせ、私は浮世絵を連想した。

 そのほか【参考】として何点かの書簡の展示がある。三溪が鈍翁(三溪を茶の道に導いた20歳年長の恩人)に宛てたものは、うなぎを食べ過ぎて体をこわし、せっかくお招きの茶会に参れませんと述べ、病床に付す自分と目の上にうなぎの姿を描く。

 また森川如春への三溪書簡は、20歳も若い「親友」(前掲「三溪園の大師会茶会」参照)で、大師会茶会(1923年開催)の第十二席・蓮華院(三溪設計の茶室)の催主を任せた如春に宛てたもの。「如春老兄」と呼び、冒頭には「此手紙の事は小田原(鈍翁のこと)には絶対秘密に願度候」と冗談半分に大書している。

 これら三溪を軸に書簡でつなぐ【参考】出品は、展示「原三溪-茶と美術へのまなざし」の背後にある、生身の人間模様を垣間見せて面白い。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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