イチョウ巡り
今年は12月下旬になっても、横浜や東京では、多くのイチョウに黄色い葉が目立った。三溪園の紅葉(イチョウもモミジも)は通常12月上旬がピークだが、12月20日、内苑のイチョウの大樹2本のうち、春草廬そばの樹はまだ黄色い葉を半分も残していた。
勤続30年を超えた三溪園の造園技士・鈴木正さんは、イチョウの葉が12月下旬にまで残るのは「今年が初めて。…ふだんなら掃き清めて地面が出ている頃…」と言う。改めて見上げると、幹に大きな空洞があった。
この2本のイチョウを両腕で抱きかかえて測ってみた。約3周、すなわち3尋(ひろ)。私の場合、1尋が約180センチなので、概算で円周5メートル余であろうか。この「腕で抱える測定」を<腕測>(わんそく)と勝手に名づけた。目測、歩測からの思いつきである。
<腕測>はどこまで正確か。勤続60年の川幡留司参事と二人で三溪園の古いアルバムを見たが、樹齢の手がかりになる写真は見つからなかった。
翌21日、庭園担当の羽田雄一郎主事からは、自身も鈴木さんも見当がつかないと返事が来る。イチョウは自生ではなく植樹であるため、<腕測>と文献資料を結合させて把握できるのではないか。
文献と言えば、83年前の松永耳庵「三溪園茶会記」(昭和10年11月28日)を思い出した。本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園と大師会茶会」のなかで一部を抜粋したが、この茶会記にイチョウの記述があった。イチョウは蓮華院のそばのものである。ただし蓮華院はのちに別の場所に移され、跡地に上記の春草盧を移した。
「…老銀杏樹の梢を振うたる黄金の葉は地に散り敷いて黄毛氈(きもうせん)を踏む心地がする。主人は誰にも踏ませずに今日の珍客に歩かせるのだとの事。誠に心嬉しく是が眞の茶といふもの、御馳走といふものと感心した。」
亭主の気遣いを述べる一文だが、「老銀杏樹」と「黄毛氈」の記述から、このイチョウはかなりの大樹である。このとき樹齢50~60年と仮定して、現在の樹齢は約130年以上になる。この地を先々代の原善三郎が入手したのが明治20年(1890年)代で約130年前、その時にイチョウの苗木を植えた可能性が高い。
蓮華院は、1917(大正6)年、三溪の設計で完成した。三溪はイチョウを守り神として、この樹下を建立場所に選んだのではないか。神社仏閣にイチョウを植える慣習が各地にあったからである。
翌21日、イチョウを大学のシンボルとする東京大学の、正門から安田講堂へ至るイチョウ並木を通った。まだ葉が残っている。文学部図書室3号館に入り、今日の調べの主題を放り出して、まず『東京大学百年史』を見た。その通史二(昭和60年刊)に「関東大震災による被害、法経教室、八角講堂」や「法文経一号館より見た二号館」の写真があり、イチョウ並木らしきものが写っている。
本文には、「…明治45(1912)年、正門を建設し、銀杏並木で中央の道路を飾る」(415ページ)とある。1912年に植えたイチョウであれば、苗木の樹齢を加算して100年ほどであろう。なお安田講堂や総合図書館は、関東大震災(1923年)後に建てられたものである。
そこで並木の、いちばん太いとみられるイチョウを<腕測>した。約2尋。100年で2尋であれば、三溪園の老木の3尋の樹齢が130年以上とする推計の傍証にもなる。文献と<腕測>で樹齢が分かる。大きな発見をしたようで嬉しかった。
少し離れた工学部建築学科の前の広場には、太い独立樹のイチョウがある。3尋はゆうにあった。樹齢は約150年以上、東京大学以前の加賀藩の屋敷の時代からあったものであろう。
イチョウは成長が速い上に燃えにくく耐火性が強い。江戸時代には火除け地に植えられた(防火用)。剪定にも強く(管理しやすい)、街路樹(並木)として普及、いま全国で57万本が植えられ、樹種別では最多である。
イチョウ並木の先駆けは、開港横浜の外国人居留地と日本人町を区切る日本大通りの並木ではないか。これは1871(明治4)年、R・H・ブラントンの、横浜公園(いまのスタジアムをふくむ一帯)、下水道工事、掘割の拡幅と護岸、日本大通りを一体とする設計案に従い、植えられた。
しかし半世紀後の1923(大正12)年、関東大震災により消失したため、新たに植樹されている。現在もっとも太い木は、本町通りと日本大通りが交差する横浜情報文化センター(旧商工奨励館)の脇にあり、幹回りは約2尋(樹齢100年)であった。
横浜市立大学瀬戸キャンパスにも、正門からイチョウ並木がつづく。道の脇に「銀杏並木の由来」の銘板があり、「昭和23年(1948)に横浜医科大学予科(医学部の前身)の学生達が植えた」と記されている。翌1949年、新制大学としての横浜市立大学がこの地に設置された。
このイチョウについて坂智広教授(市大木原生物学研究所)に尋ねたところ、22日(土曜)、写真付きの返信が届いた。太いもので幹回りが1尋半、すなわち樹齢70年前後である。また体育館背後の4本のイチョウは、「胸高周(幹周り)は3m近く」あり、ネット検索から昭和16年(1941)に建てられた海軍航空技術廠支廠の官舎に植えたものではないか、と追伸をくれた。
さらに松江正彦ほかの報告書「公園樹木管理の高度化に関する研究」(国土交通省国土技術政策研究所の研究資料)を添付、これは北海道から近畿の公園緑地に植栽された1年〜109年生の樹齢が明らかな157本の成長量を調査したものであるが、坂さんはこれを基に胸高の幹周「1尋≒樹齢63年」と算出した。
私の算出法と2割ほどの差がある。これについては、気温差等を平均化した「データに基づく樹齢推計よりも、記録や歴史的言い伝えの情報を加味した加藤先生の1尋≒50年をベースにした樹齢推計は、個々の樹の歴史を辿るのに的を射ていると考えています」とあった。
また羽田さんが送ってくれたメジャー計測では、三溪園の覆堂近くのイチョウは幹周412㎝(高さ120㎝あたりでの計測値)と402㎝(高さ140㎝あたりでの計測値)で、春草廬近くのものは幹周422㎝(高さ120㎝または140㎝あたりの計測値)。私の3尋=5メートルとは、これまた2割ほどの差がある。
メジャーでは幹にぴったり密着させて測ることができるが、<腕測>では幹と腕の間に空間ができ、大きい木ほど密着が難しい。それを念頭に<腕測>を使えば、樹齢の推計にはとても便利である。
23日(祝日)、小石川植物園(正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)を訪れた。門を入るとすぐ大きなイチョウが2本、いまだ黄金色に輝く葉を誇っている。幹の太さは2本とも約2尋。受付で聞くと、樹齢の記録はないとの返答で残念だったが、大きな副産物があった。
奥の方に遠目にもそれと分かる大イチョウがあり、案内板には、1896(明治29)年、平瀬作五郎による「精子発見のイチョウ」とある。地表近くで根が盛り上がっているため、目測で3尋超か。ほかに地上2~3メートル上から10数本に枝分かれしたイチョウ、これも3尋(樹齢150年)超あった。
ふだん使うテニスコートの脇にもイチョウ並木がある。いな、正確に言うと、並木を残してテニスコートを作った。芽をふく頃と落葉の時期に、その進行具合が木々ごとに異なる。北東にある一本がまっ先に葉を落とし始めるが、そうなると我々は積もった落ち葉を掃き出す作業に追われる。22日の<腕測>で約1尋半、戦後に植えたものと見た。この太さだと抱きかかえやすい。私の奇妙な行動の訳を話すと「イチョウの方が加藤先生より若い!」と仲間の声。
イチョウの人気はかなり高い。東京大学がイチョウを大学のシンボルとしていることは前述したが、東京都・神奈川県・大阪府が、また横浜市、国立市等がイチョウを市の木と定めている。特別区では東京都文京区の木でもある。
はるか太古まで辿ると、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて広く世界に分布したが、氷河期に絶滅し、イチョウだけが生き残ったため、生きている化石とも呼ばれる。イチョウの原産地・自生地は確認されていないが、日本には中国から伝来した。時期については諸説ある。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(神奈川県天然記念物)が著名で、樹齢800年とも言われたが、惜しくも2010年に強風で根元から倒れた。
日比谷公園(1903年開園)には、とても見事なイチョウがある。移植が難しいと言われるなか、公園を設計した本多静六が近くの日比谷見附から自身の首を賭して移植を成功させたため、「首賭けイチョウ」と呼ばれる。
神々しいほどの姿に合掌。近寄りがたく、目測により約6尋(≒樹齢300年)と推定した。江戸時代中期のものであろう。
勤続30年を超えた三溪園の造園技士・鈴木正さんは、イチョウの葉が12月下旬にまで残るのは「今年が初めて。…ふだんなら掃き清めて地面が出ている頃…」と言う。改めて見上げると、幹に大きな空洞があった。
この2本のイチョウを両腕で抱きかかえて測ってみた。約3周、すなわち3尋(ひろ)。私の場合、1尋が約180センチなので、概算で円周5メートル余であろうか。この「腕で抱える測定」を<腕測>(わんそく)と勝手に名づけた。目測、歩測からの思いつきである。
<腕測>はどこまで正確か。勤続60年の川幡留司参事と二人で三溪園の古いアルバムを見たが、樹齢の手がかりになる写真は見つからなかった。
翌21日、庭園担当の羽田雄一郎主事からは、自身も鈴木さんも見当がつかないと返事が来る。イチョウは自生ではなく植樹であるため、<腕測>と文献資料を結合させて把握できるのではないか。
文献と言えば、83年前の松永耳庵「三溪園茶会記」(昭和10年11月28日)を思い出した。本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園と大師会茶会」のなかで一部を抜粋したが、この茶会記にイチョウの記述があった。イチョウは蓮華院のそばのものである。ただし蓮華院はのちに別の場所に移され、跡地に上記の春草盧を移した。
「…老銀杏樹の梢を振うたる黄金の葉は地に散り敷いて黄毛氈(きもうせん)を踏む心地がする。主人は誰にも踏ませずに今日の珍客に歩かせるのだとの事。誠に心嬉しく是が眞の茶といふもの、御馳走といふものと感心した。」
亭主の気遣いを述べる一文だが、「老銀杏樹」と「黄毛氈」の記述から、このイチョウはかなりの大樹である。このとき樹齢50~60年と仮定して、現在の樹齢は約130年以上になる。この地を先々代の原善三郎が入手したのが明治20年(1890年)代で約130年前、その時にイチョウの苗木を植えた可能性が高い。
蓮華院は、1917(大正6)年、三溪の設計で完成した。三溪はイチョウを守り神として、この樹下を建立場所に選んだのではないか。神社仏閣にイチョウを植える慣習が各地にあったからである。
翌21日、イチョウを大学のシンボルとする東京大学の、正門から安田講堂へ至るイチョウ並木を通った。まだ葉が残っている。文学部図書室3号館に入り、今日の調べの主題を放り出して、まず『東京大学百年史』を見た。その通史二(昭和60年刊)に「関東大震災による被害、法経教室、八角講堂」や「法文経一号館より見た二号館」の写真があり、イチョウ並木らしきものが写っている。
本文には、「…明治45(1912)年、正門を建設し、銀杏並木で中央の道路を飾る」(415ページ)とある。1912年に植えたイチョウであれば、苗木の樹齢を加算して100年ほどであろう。なお安田講堂や総合図書館は、関東大震災(1923年)後に建てられたものである。
そこで並木の、いちばん太いとみられるイチョウを<腕測>した。約2尋。100年で2尋であれば、三溪園の老木の3尋の樹齢が130年以上とする推計の傍証にもなる。文献と<腕測>で樹齢が分かる。大きな発見をしたようで嬉しかった。
少し離れた工学部建築学科の前の広場には、太い独立樹のイチョウがある。3尋はゆうにあった。樹齢は約150年以上、東京大学以前の加賀藩の屋敷の時代からあったものであろう。
イチョウは成長が速い上に燃えにくく耐火性が強い。江戸時代には火除け地に植えられた(防火用)。剪定にも強く(管理しやすい)、街路樹(並木)として普及、いま全国で57万本が植えられ、樹種別では最多である。
イチョウ並木の先駆けは、開港横浜の外国人居留地と日本人町を区切る日本大通りの並木ではないか。これは1871(明治4)年、R・H・ブラントンの、横浜公園(いまのスタジアムをふくむ一帯)、下水道工事、掘割の拡幅と護岸、日本大通りを一体とする設計案に従い、植えられた。
しかし半世紀後の1923(大正12)年、関東大震災により消失したため、新たに植樹されている。現在もっとも太い木は、本町通りと日本大通りが交差する横浜情報文化センター(旧商工奨励館)の脇にあり、幹回りは約2尋(樹齢100年)であった。
横浜市立大学瀬戸キャンパスにも、正門からイチョウ並木がつづく。道の脇に「銀杏並木の由来」の銘板があり、「昭和23年(1948)に横浜医科大学予科(医学部の前身)の学生達が植えた」と記されている。翌1949年、新制大学としての横浜市立大学がこの地に設置された。
このイチョウについて坂智広教授(市大木原生物学研究所)に尋ねたところ、22日(土曜)、写真付きの返信が届いた。太いもので幹回りが1尋半、すなわち樹齢70年前後である。また体育館背後の4本のイチョウは、「胸高周(幹周り)は3m近く」あり、ネット検索から昭和16年(1941)に建てられた海軍航空技術廠支廠の官舎に植えたものではないか、と追伸をくれた。
さらに松江正彦ほかの報告書「公園樹木管理の高度化に関する研究」(国土交通省国土技術政策研究所の研究資料)を添付、これは北海道から近畿の公園緑地に植栽された1年〜109年生の樹齢が明らかな157本の成長量を調査したものであるが、坂さんはこれを基に胸高の幹周「1尋≒樹齢63年」と算出した。
私の算出法と2割ほどの差がある。これについては、気温差等を平均化した「データに基づく樹齢推計よりも、記録や歴史的言い伝えの情報を加味した加藤先生の1尋≒50年をベースにした樹齢推計は、個々の樹の歴史を辿るのに的を射ていると考えています」とあった。
また羽田さんが送ってくれたメジャー計測では、三溪園の覆堂近くのイチョウは幹周412㎝(高さ120㎝あたりでの計測値)と402㎝(高さ140㎝あたりでの計測値)で、春草廬近くのものは幹周422㎝(高さ120㎝または140㎝あたりの計測値)。私の3尋=5メートルとは、これまた2割ほどの差がある。
メジャーでは幹にぴったり密着させて測ることができるが、<腕測>では幹と腕の間に空間ができ、大きい木ほど密着が難しい。それを念頭に<腕測>を使えば、樹齢の推計にはとても便利である。
23日(祝日)、小石川植物園(正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)を訪れた。門を入るとすぐ大きなイチョウが2本、いまだ黄金色に輝く葉を誇っている。幹の太さは2本とも約2尋。受付で聞くと、樹齢の記録はないとの返答で残念だったが、大きな副産物があった。
奥の方に遠目にもそれと分かる大イチョウがあり、案内板には、1896(明治29)年、平瀬作五郎による「精子発見のイチョウ」とある。地表近くで根が盛り上がっているため、目測で3尋超か。ほかに地上2~3メートル上から10数本に枝分かれしたイチョウ、これも3尋(樹齢150年)超あった。
ふだん使うテニスコートの脇にもイチョウ並木がある。いな、正確に言うと、並木を残してテニスコートを作った。芽をふく頃と落葉の時期に、その進行具合が木々ごとに異なる。北東にある一本がまっ先に葉を落とし始めるが、そうなると我々は積もった落ち葉を掃き出す作業に追われる。22日の<腕測>で約1尋半、戦後に植えたものと見た。この太さだと抱きかかえやすい。私の奇妙な行動の訳を話すと「イチョウの方が加藤先生より若い!」と仲間の声。
イチョウの人気はかなり高い。東京大学がイチョウを大学のシンボルとしていることは前述したが、東京都・神奈川県・大阪府が、また横浜市、国立市等がイチョウを市の木と定めている。特別区では東京都文京区の木でもある。
はるか太古まで辿ると、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて広く世界に分布したが、氷河期に絶滅し、イチョウだけが生き残ったため、生きている化石とも呼ばれる。イチョウの原産地・自生地は確認されていないが、日本には中国から伝来した。時期については諸説ある。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(神奈川県天然記念物)が著名で、樹齢800年とも言われたが、惜しくも2010年に強風で根元から倒れた。
日比谷公園(1903年開園)には、とても見事なイチョウがある。移植が難しいと言われるなか、公園を設計した本多静六が近くの日比谷見附から自身の首を賭して移植を成功させたため、「首賭けイチョウ」と呼ばれる。
神々しいほどの姿に合掌。近寄りがたく、目測により約6尋(≒樹齢300年)と推定した。江戸時代中期のものであろう。
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