原三溪の生き方を考える
今年は原三溪が生誕して150年、三溪(青木富太郎)の生地岐阜市では10月6日(土曜)、「清流の国ぎふ列伝-原三溪を語る~香り高き音色とともに」が開かれ、尾関孝彦さん(三溪を大叔父にもつ)のトークと粥川愛さんのピアノ演奏が行われた。
横浜では三溪園において、10月23日(火曜)、公益財団法人大師会主催の原三溪八十回忌追善茶会が催された(本ブログ2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」を参照)。また三溪記念館では所蔵品展「生誕150周年 原三溪旧蔵品展」が11月8日から12月12日まで開かれている。
こうしたなか、11月10日(土曜)、原三溪市民研究会(以下、市民研とする)と三溪園の共催で、公益信託ヨコハマ中区まちづくり本牧基金助成のシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」が、三溪の居所(1902年~)であった園内の鶴翔閣で開かれた。開会前には三溪園ボランティアによる呈茶があった。
市民研は9年前に発足、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を理念として、毎月の例会やゆかりの地の歴訪等の活動をつづけ、これまで4回にわたるシンポジウムを開いた。そのテーマは下記の通り、会場は横浜美術館の円形フォーラム。
第1回「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年)
第2回「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年)
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年)
このうち第3回には私も参加する機会を得て、本ブログの2016年11月21日号に、第4回についても2017年11月20日号にそれぞれ掲載した。市民研の創立経緯と活動については、そちらを参照されたい。役員は昨年と同じく、廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、尾関孝彦副会長(岐阜県)、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問である。
今回は第5回目のシンポジウムであり、標題のとおり三溪の生き方と人間像に焦点をあてる。公益財団法人三溪園保勝会・内田弘保理事長の挨拶につづき、次の3つの発表(各30分)があった。
市川春雄(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)「岐阜と富太郎-
郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」
川幡留司(三溪園参事)「三溪園における三溪の生活」
廣島亨(市民研会長)「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」
市民研シンポジウムは、配布するレジメが充実している(テーマに即した関連年表も丁寧)のが特徴の一つであり、それを受けて各講演者が独自のレジメを追加することが多い。上掲の演題は各自作成のレジメによる。なお掛軸等の図像史料を含むレジメを所望される方は市民研へ。連絡先:080-8708-5985
三つの発表要旨を順に紹介したい。
第一の市川春雄さんの発表は、岐阜に残る4幅の掛軸を史料とし、写真や解題を付すレジメを作成、「…青木富太郎が原三溪となっていった節目の資料を紹介する…」と課題を提起し、<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定する。三溪は青木久衛(ひさもり)とこと(琴)の長男(9人兄弟)として、慶応四年=明治元年に生まれた。したがって下記の制作年は三溪の年齢(数え年)に該当する。
<予言>は、明治15年春、文人で画家の高橋杏村(寿山、1804~1868年、母の長兄)筆「萬松草廬之図」のなかに「…向学心旺盛な富太郎を見て、上に立ち重責を果たす逸材となるであろう…」とある点を取り上げる。二つ目の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる「乱牛図」で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品である。
三つ目の<赤い糸>は明治19年の跡見花蹊筆「花蹊女史玉堂富貴図」で、花蹊が富太郎に跡見女学校の講師を委嘱した詩が付され、青木家の蔵に大切に収蔵されていたもの。のち花蹊を仲人として原善三郎の孫娘屋寿と結婚する重要な契機となる。四つ目の<決意>は、明治30年の原三溪筆「祥開黄道乾坤濶」で3メートル余の大きなもの。初めて原三溪と自署した掛軸である。この七言律詩の意味を庭園・三溪園を開くと解釈しており、これを先代善三郎に打ち明けたのか、密かに構想を練ったかについては不明と述べる。
そして「…富太郎・三溪の根幹にあったものは、日本人を形成してきた日本の伝統文化(広義)の保存保護ではなかったか。在郷時から見聞きしてきた廃仏毀釈への憤りと、その裏返しの保存活動であった…」と結ぶ。
第二の報告者の川幡留司さんは、三溪園勤務60年の「生き字引」であり、彼が蓄積した数多の聞書きや調査の宝庫から、30分の報告で何を引き出して伝えるかに苦労する様子が伝わってくる。A4×4ページのレジメに多彩な問題が詰めこまれており、その一つ一つが興味深い。
私なりに分類すれば、(1)三溪と近しい矢代幸雄(美術評論)、村田徳治(執事)、西郷健一郎(三溪長女の長男、初孫)、小林古径・安田靫彦・前田青邨(いずれも日本画家)、益田鈍翁・松永耳庵(三溪とともに近代三茶人と呼ばれる)が語った三溪の人物像、(2)三溪自身の子どもの教育(多くが音楽)、(3)三溪園を舞台とした業績(三溪園の開放、美術品収集、日本画家の育成等)、(4)茶会の開催を通じた(近代)茶道の復興と女子教育への茶の湯の導入。
このうち(1)から幾つか引用したい。①「…詩歌書画に至っては之を楽しむ事甚だしく、その高趣、素人離れの領域…」(矢代幸雄)、②「…徳富蘇峰と杯を酌み交わしながら歴史を語るのを楽しみにし…」(村田徳治)、③「…食事やお茶菓子を用意してお客様を招き、美術、歴史等を語り合うのを楽しみ、お客様が絶えず…」(西郷健一郎)、④「…三溪は美食が過ぎるのではと常々心配し、…美術についてなかなか偉いが、事業については美術以上に偉い…」(益田孝鈍翁)、⑤「…祖父は多才でしたが、歌を口ずさむのを一度も聞いたことがありませんでした。しかし子供の音楽等の教育には熱心でした…」(西郷健一郎)。
廣島亨(市民研会長)さんの報告は、ご自身の会社勤務時代の苦労を背景に、三溪の事業主としての折々の<選択>を語る。(1)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(2)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、<家督>と<家業>の分離・統合を目ざし、自らは<家業>を継ぎ、それを本分としたこと、(3)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したこと。
16枚のスライドを放映しつつ、複雑な側面を分かりやすく語るとともに、三溪57歳の作品の五言絶句「敗荷」(60歳に描いた絵とともに掛軸に仕立てた。レジメの裏面に写真あり。なお「敗荷」とは秋になり風に吹きやぶられたハスの葉や茎)を廣島さん自ら詩吟で詠い、三溪の内面の一端を披露した。そして最後を「…どの道を選んだかではなく、選んだ道をどう歩んだか」と結ぶ。
三つの講演を受けて休憩、その後、同会の久保いくこさんが「みんなの想う原三溪」の報告を行い、「くいずで学ぶ三溪」や各種のアンケート調査700余件の結果をまとめて、人びとの認知度は順に、三溪園(これが過半数)、三溪の人物、美術、震災復興、生糸であったと述べた。貴重な記録である。
ついで報告者三氏によるパネルディスカッション、コーディネーターは猿渡顧問。各人の報告で述べ切れなかったことの補足をお願いするとして進めた。三氏と猿渡さんは、市民研のみなさんとともに、三溪が横浜と岐阜を足しげく往来していたように、横浜と岐阜を行き来しておられる。
私自身も4年前に尾関さんと市川さんの案内で、現岐阜市の柳津佐波(やないづさば)を訪れ(本ブログ2014年10月22日「原三溪の故郷」)、また2年前には廣島さん達と、お二人に三溪ゆかりの地を案内していただいた(本ブログ2016年10月3日「三溪と横浜―その活躍の舞台」)。
おかげで高橋杏村の神戸町(ごうどちょう)にある旧宅跡地や日吉神社等にまで足を伸ばす機会に恵まれた。そのとき幼少時の三溪の目に焼き付いた日枝神社の三重塔が、のちに三溪園に移築した三重塔(京都府の燈明寺から)と酷似していることに驚いた。
岐阜から毎月の市民研例会に出席される尾関副会長の挨拶で、4時半過ぎに閉会。日の入の4時38分を境に、雨模様の空が急に暗くなった。
横浜では三溪園において、10月23日(火曜)、公益財団法人大師会主催の原三溪八十回忌追善茶会が催された(本ブログ2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」を参照)。また三溪記念館では所蔵品展「生誕150周年 原三溪旧蔵品展」が11月8日から12月12日まで開かれている。
こうしたなか、11月10日(土曜)、原三溪市民研究会(以下、市民研とする)と三溪園の共催で、公益信託ヨコハマ中区まちづくり本牧基金助成のシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」が、三溪の居所(1902年~)であった園内の鶴翔閣で開かれた。開会前には三溪園ボランティアによる呈茶があった。
市民研は9年前に発足、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を理念として、毎月の例会やゆかりの地の歴訪等の活動をつづけ、これまで4回にわたるシンポジウムを開いた。そのテーマは下記の通り、会場は横浜美術館の円形フォーラム。
第1回「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年)
第2回「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年)
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年)
このうち第3回には私も参加する機会を得て、本ブログの2016年11月21日号に、第4回についても2017年11月20日号にそれぞれ掲載した。市民研の創立経緯と活動については、そちらを参照されたい。役員は昨年と同じく、廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、尾関孝彦副会長(岐阜県)、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問である。
今回は第5回目のシンポジウムであり、標題のとおり三溪の生き方と人間像に焦点をあてる。公益財団法人三溪園保勝会・内田弘保理事長の挨拶につづき、次の3つの発表(各30分)があった。
市川春雄(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)「岐阜と富太郎-
郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」
川幡留司(三溪園参事)「三溪園における三溪の生活」
廣島亨(市民研会長)「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」
市民研シンポジウムは、配布するレジメが充実している(テーマに即した関連年表も丁寧)のが特徴の一つであり、それを受けて各講演者が独自のレジメを追加することが多い。上掲の演題は各自作成のレジメによる。なお掛軸等の図像史料を含むレジメを所望される方は市民研へ。連絡先:080-8708-5985
三つの発表要旨を順に紹介したい。
第一の市川春雄さんの発表は、岐阜に残る4幅の掛軸を史料とし、写真や解題を付すレジメを作成、「…青木富太郎が原三溪となっていった節目の資料を紹介する…」と課題を提起し、<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定する。三溪は青木久衛(ひさもり)とこと(琴)の長男(9人兄弟)として、慶応四年=明治元年に生まれた。したがって下記の制作年は三溪の年齢(数え年)に該当する。
<予言>は、明治15年春、文人で画家の高橋杏村(寿山、1804~1868年、母の長兄)筆「萬松草廬之図」のなかに「…向学心旺盛な富太郎を見て、上に立ち重責を果たす逸材となるであろう…」とある点を取り上げる。二つ目の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる「乱牛図」で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品である。
三つ目の<赤い糸>は明治19年の跡見花蹊筆「花蹊女史玉堂富貴図」で、花蹊が富太郎に跡見女学校の講師を委嘱した詩が付され、青木家の蔵に大切に収蔵されていたもの。のち花蹊を仲人として原善三郎の孫娘屋寿と結婚する重要な契機となる。四つ目の<決意>は、明治30年の原三溪筆「祥開黄道乾坤濶」で3メートル余の大きなもの。初めて原三溪と自署した掛軸である。この七言律詩の意味を庭園・三溪園を開くと解釈しており、これを先代善三郎に打ち明けたのか、密かに構想を練ったかについては不明と述べる。
そして「…富太郎・三溪の根幹にあったものは、日本人を形成してきた日本の伝統文化(広義)の保存保護ではなかったか。在郷時から見聞きしてきた廃仏毀釈への憤りと、その裏返しの保存活動であった…」と結ぶ。
第二の報告者の川幡留司さんは、三溪園勤務60年の「生き字引」であり、彼が蓄積した数多の聞書きや調査の宝庫から、30分の報告で何を引き出して伝えるかに苦労する様子が伝わってくる。A4×4ページのレジメに多彩な問題が詰めこまれており、その一つ一つが興味深い。
私なりに分類すれば、(1)三溪と近しい矢代幸雄(美術評論)、村田徳治(執事)、西郷健一郎(三溪長女の長男、初孫)、小林古径・安田靫彦・前田青邨(いずれも日本画家)、益田鈍翁・松永耳庵(三溪とともに近代三茶人と呼ばれる)が語った三溪の人物像、(2)三溪自身の子どもの教育(多くが音楽)、(3)三溪園を舞台とした業績(三溪園の開放、美術品収集、日本画家の育成等)、(4)茶会の開催を通じた(近代)茶道の復興と女子教育への茶の湯の導入。
このうち(1)から幾つか引用したい。①「…詩歌書画に至っては之を楽しむ事甚だしく、その高趣、素人離れの領域…」(矢代幸雄)、②「…徳富蘇峰と杯を酌み交わしながら歴史を語るのを楽しみにし…」(村田徳治)、③「…食事やお茶菓子を用意してお客様を招き、美術、歴史等を語り合うのを楽しみ、お客様が絶えず…」(西郷健一郎)、④「…三溪は美食が過ぎるのではと常々心配し、…美術についてなかなか偉いが、事業については美術以上に偉い…」(益田孝鈍翁)、⑤「…祖父は多才でしたが、歌を口ずさむのを一度も聞いたことがありませんでした。しかし子供の音楽等の教育には熱心でした…」(西郷健一郎)。
廣島亨(市民研会長)さんの報告は、ご自身の会社勤務時代の苦労を背景に、三溪の事業主としての折々の<選択>を語る。(1)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(2)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、<家督>と<家業>の分離・統合を目ざし、自らは<家業>を継ぎ、それを本分としたこと、(3)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したこと。
16枚のスライドを放映しつつ、複雑な側面を分かりやすく語るとともに、三溪57歳の作品の五言絶句「敗荷」(60歳に描いた絵とともに掛軸に仕立てた。レジメの裏面に写真あり。なお「敗荷」とは秋になり風に吹きやぶられたハスの葉や茎)を廣島さん自ら詩吟で詠い、三溪の内面の一端を披露した。そして最後を「…どの道を選んだかではなく、選んだ道をどう歩んだか」と結ぶ。
三つの講演を受けて休憩、その後、同会の久保いくこさんが「みんなの想う原三溪」の報告を行い、「くいずで学ぶ三溪」や各種のアンケート調査700余件の結果をまとめて、人びとの認知度は順に、三溪園(これが過半数)、三溪の人物、美術、震災復興、生糸であったと述べた。貴重な記録である。
ついで報告者三氏によるパネルディスカッション、コーディネーターは猿渡顧問。各人の報告で述べ切れなかったことの補足をお願いするとして進めた。三氏と猿渡さんは、市民研のみなさんとともに、三溪が横浜と岐阜を足しげく往来していたように、横浜と岐阜を行き来しておられる。
私自身も4年前に尾関さんと市川さんの案内で、現岐阜市の柳津佐波(やないづさば)を訪れ(本ブログ2014年10月22日「原三溪の故郷」)、また2年前には廣島さん達と、お二人に三溪ゆかりの地を案内していただいた(本ブログ2016年10月3日「三溪と横浜―その活躍の舞台」)。
おかげで高橋杏村の神戸町(ごうどちょう)にある旧宅跡地や日吉神社等にまで足を伸ばす機会に恵まれた。そのとき幼少時の三溪の目に焼き付いた日枝神社の三重塔が、のちに三溪園に移築した三重塔(京都府の燈明寺から)と酷似していることに驚いた。
岐阜から毎月の市民研例会に出席される尾関副会長の挨拶で、4時半過ぎに閉会。日の入の4時38分を境に、雨模様の空が急に暗くなった。
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