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原三溪の生き方を考える

 今年は原三溪が生誕して150年、三溪(青木富太郎)の生地岐阜市では10月6日(土曜)、「清流の国ぎふ列伝-原三溪を語る~香り高き音色とともに」が開かれ、尾関孝彦さん(三溪を大叔父にもつ)のトークと粥川愛さんのピアノ演奏が行われた。

 横浜では三溪園において、10月23日(火曜)、公益財団法人大師会主催の原三溪八十回忌追善茶会が催された(本ブログ2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」を参照)。また三溪記念館では所蔵品展「生誕150周年 原三溪旧蔵品展」が11月8日から12月12日まで開かれている。

 こうしたなか、11月10日(土曜)、原三溪市民研究会(以下、市民研とする)と三溪園の共催で、公益信託ヨコハマ中区まちづくり本牧基金助成のシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」が、三溪の居所(1902年~)であった園内の鶴翔閣で開かれた。開会前には三溪園ボランティアによる呈茶があった。

 市民研は9年前に発足、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を理念として、毎月の例会やゆかりの地の歴訪等の活動をつづけ、これまで4回にわたるシンポジウムを開いた。そのテーマは下記の通り、会場は横浜美術館の円形フォーラム。
 第1回「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年)
 第2回「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年)
 第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年)
 第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年)

 このうち第3回には私も参加する機会を得て、本ブログの2016年11月21日号に、第4回についても2017年11月20日号にそれぞれ掲載した。市民研の創立経緯と活動については、そちらを参照されたい。役員は昨年と同じく、廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、尾関孝彦副会長(岐阜県)、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問である。

 今回は第5回目のシンポジウムであり、標題のとおり三溪の生き方と人間像に焦点をあてる。公益財団法人三溪園保勝会・内田弘保理事長の挨拶につづき、次の3つの発表(各30分)があった。

 市川春雄(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)「岐阜と富太郎-
郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」
 川幡留司(三溪園参事)「三溪園における三溪の生活」
 廣島亨(市民研会長)「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」

 市民研シンポジウムは、配布するレジメが充実している(テーマに即した関連年表も丁寧)のが特徴の一つであり、それを受けて各講演者が独自のレジメを追加することが多い。上掲の演題は各自作成のレジメによる。なお掛軸等の図像史料を含むレジメを所望される方は市民研へ。連絡先:080-8708-5985

 三つの発表要旨を順に紹介したい。

 第一の市川春雄さんの発表は、岐阜に残る4幅の掛軸を史料とし、写真や解題を付すレジメを作成、「…青木富太郎が原三溪となっていった節目の資料を紹介する…」と課題を提起し、<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定する。三溪は青木久衛(ひさもり)とこと(琴)の長男(9人兄弟)として、慶応四年=明治元年に生まれた。したがって下記の制作年は三溪の年齢(数え年)に該当する。

 <予言>は、明治15年春、文人で画家の高橋杏村(寿山、1804~1868年、母の長兄)筆「萬松草廬之図」のなかに「…向学心旺盛な富太郎を見て、上に立ち重責を果たす逸材となるであろう…」とある点を取り上げる。二つ目の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる「乱牛図」で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品である。

 三つ目の<赤い糸>は明治19年の跡見花蹊筆「花蹊女史玉堂富貴図」で、花蹊が富太郎に跡見女学校の講師を委嘱した詩が付され、青木家の蔵に大切に収蔵されていたもの。のち花蹊を仲人として原善三郎の孫娘屋寿と結婚する重要な契機となる。四つ目の<決意>は、明治30年の原三溪筆「祥開黄道乾坤濶」で3メートル余の大きなもの。初めて原三溪と自署した掛軸である。この七言律詩の意味を庭園・三溪園を開くと解釈しており、これを先代善三郎に打ち明けたのか、密かに構想を練ったかについては不明と述べる。

 そして「…富太郎・三溪の根幹にあったものは、日本人を形成してきた日本の伝統文化(広義)の保存保護ではなかったか。在郷時から見聞きしてきた廃仏毀釈への憤りと、その裏返しの保存活動であった…」と結ぶ。

 第二の報告者の川幡留司さんは、三溪園勤務60年の「生き字引」であり、彼が蓄積した数多の聞書きや調査の宝庫から、30分の報告で何を引き出して伝えるかに苦労する様子が伝わってくる。A4×4ページのレジメに多彩な問題が詰めこまれており、その一つ一つが興味深い。

 私なりに分類すれば、(1)三溪と近しい矢代幸雄(美術評論)、村田徳治(執事)、西郷健一郎(三溪長女の長男、初孫)、小林古径・安田靫彦・前田青邨(いずれも日本画家)、益田鈍翁・松永耳庵(三溪とともに近代三茶人と呼ばれる)が語った三溪の人物像、(2)三溪自身の子どもの教育(多くが音楽)、(3)三溪園を舞台とした業績(三溪園の開放、美術品収集、日本画家の育成等)、(4)茶会の開催を通じた(近代)茶道の復興と女子教育への茶の湯の導入。

 このうち(1)から幾つか引用したい。①「…詩歌書画に至っては之を楽しむ事甚だしく、その高趣、素人離れの領域…」(矢代幸雄)、②「…徳富蘇峰と杯を酌み交わしながら歴史を語るのを楽しみにし…」(村田徳治)、③「…食事やお茶菓子を用意してお客様を招き、美術、歴史等を語り合うのを楽しみ、お客様が絶えず…」(西郷健一郎)、④「…三溪は美食が過ぎるのではと常々心配し、…美術についてなかなか偉いが、事業については美術以上に偉い…」(益田孝鈍翁)、⑤「…祖父は多才でしたが、歌を口ずさむのを一度も聞いたことがありませんでした。しかし子供の音楽等の教育には熱心でした…」(西郷健一郎)。

 廣島亨(市民研会長)さんの報告は、ご自身の会社勤務時代の苦労を背景に、三溪の事業主としての折々の<選択>を語る。(1)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(2)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、<家督>と<家業>の分離・統合を目ざし、自らは<家業>を継ぎ、それを本分としたこと、(3)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したこと。

 16枚のスライドを放映しつつ、複雑な側面を分かりやすく語るとともに、三溪57歳の作品の五言絶句「敗荷」(60歳に描いた絵とともに掛軸に仕立てた。レジメの裏面に写真あり。なお「敗荷」とは秋になり風に吹きやぶられたハスの葉や茎)を廣島さん自ら詩吟で詠い、三溪の内面の一端を披露した。そして最後を「…どの道を選んだかではなく、選んだ道をどう歩んだか」と結ぶ。

 三つの講演を受けて休憩、その後、同会の久保いくこさんが「みんなの想う原三溪」の報告を行い、「くいずで学ぶ三溪」や各種のアンケート調査700余件の結果をまとめて、人びとの認知度は順に、三溪園(これが過半数)、三溪の人物、美術、震災復興、生糸であったと述べた。貴重な記録である。

 ついで報告者三氏によるパネルディスカッション、コーディネーターは猿渡顧問。各人の報告で述べ切れなかったことの補足をお願いするとして進めた。三氏と猿渡さんは、市民研のみなさんとともに、三溪が横浜と岐阜を足しげく往来していたように、横浜と岐阜を行き来しておられる。

 私自身も4年前に尾関さんと市川さんの案内で、現岐阜市の柳津佐波(やないづさば)を訪れ(本ブログ2014年10月22日「原三溪の故郷」)、また2年前には廣島さん達と、お二人に三溪ゆかりの地を案内していただいた(本ブログ2016年10月3日「三溪と横浜―その活躍の舞台」)。

 おかげで高橋杏村の神戸町(ごうどちょう)にある旧宅跡地や日吉神社等にまで足を伸ばす機会に恵まれた。そのとき幼少時の三溪の目に焼き付いた日枝神社の三重塔が、のちに三溪園に移築した三重塔(京都府の燈明寺から)と酷似していることに驚いた。

 岐阜から毎月の市民研例会に出席される尾関副会長の挨拶で、4時半過ぎに閉会。日の入の4時38分を境に、雨模様の空が急に暗くなった。
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横浜市立大学 創立90周年記念式典

 秋晴れの11月3日(文化の日)、横浜市立大学創立90周年記念式典が体育館で挙行された。90年前の1928(昭和3)年に創立した横浜市立横浜商業専門学校(Y専)を横浜市立大学(以下、市大とする)の創立記念日としている。

 ちょうど大学祭(浜大祭)の最中で、構内は歩けないほどの人で埋め尽くされていた。正門を入ると右手に<いちょうの館>が見える。これは15年前の創立75周年記念事業として、私の学長在任時代(1998~2002年)に提案され、市大同窓会(馬場彰会長)が先導して募金に奔走し、2004年に竣工したものである。馬場さんの元気なお姿を控室で見つけ、しばし歓談することができた。

 10時、<横浜市歌>の斉唱から記念式典が始まる。入学式・卒業式等で必ず歌われる<横浜市歌>は、1909(明治42)年、横浜開港50周年・市政公布20周年の記念として制作された日本最初の市歌である。作詞は森林太郎(鴎外)、作曲は南能衛(よしえ)。開港に始まる若い都市横浜を描き、先人の苦労に想いを馳せる(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。

 最初に二見良之理事長が主催者挨拶に立つ。本日の創立90周年記念式典は、来たる創立100周年に向けた第一歩であり、同時に本年度発足したデータサイエンス学部、来年度から発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、並びに医学部を合わせた、5学部体制となる画期である、と述べた。

 この5学部(+大学院)体制は、学生・受験生にとって専門性の所在、学びの内容が分かりやすい。国際教養学部、国際商学部、理学部は、2005年の法人化に伴い国際総合科学部に統合された学部の再編である。1995年の文理学部改組で生まれた国際文化学部・理学部へと復帰しつつ、国際社会を生きる人材育成に向け、さらなる進化をとげるべく再生した。大学の礎石である新しい5学部・大学院体制という箱を先行して作り上げたことを、心から祝福したい。

 2つの附属病院(福浦と浦舟)、木原生物学研究所(舞岡)、先端医科学研究センター(福浦)、理化学研究所横浜と生命科学系の連携大学院を組む鶴見キャンパスとともに、新たな総合力を発揮してほしい。

 ついで来賓の挨拶。林文子横浜市長は、1928年から90年を迎えた市大の、さらに前史・沿革から語る。実に148年前の1873(明治4)年、早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年)が開設した<仮病院>と<十全病院>、また136年前の1882(明治15)年設立の横浜商法学校(Y校)に言及し、1859年の開港に始まる都市横浜とともに歩んできた市大の前身を忘れないとした。さらにiPS細胞により肝臓を再生させた市大の若き教授の功績や、初めて横浜市が人口減の局面に入った社会変化等を挙げ、大学は10年先を見据えてしっかり対応してほしい、と結ぶ。

 つづく松本研市会議長、古屋文雄進交会理事長、遠山慎一俱進会会長の来賓挨拶は、いずれも励ましの言葉に溢れる内容であった。

 次が重田諭吉副学長による「90年の歩み」。小冊子「伝統と革新の、その先へ 1928-2028」(YCU100 Concept Book 2018)にある「ヨコハマとともに歩むー受け継がれる伝統 国際性・進取性に富む学風」を参照しつつ説明。その年表の起点を1859年横浜開港とし、これに「1853年 ペリー来航」と記し、ペリー提督及び黒船の絵を添えて、世界史のなかに横浜の歴史160年と市大の歩み90年を位置づけようとしている。

 補足すれば、以下の二点を背景として持っておきたい。第一が都市横浜の起源である。幕府全権の林大学頭とアメリカ全権ペリーとの交渉が対等な日米和親条約(1854年、横浜村にて調印)を生み出し、それに基づいて来日したハリス総領事と日米修好通商条約(1858年)を結び、「神奈川開港」を決める。ハリスは神奈川宿を主張するが、台地に伸びる街道沿いに空地はほとんどない。幕府は、神奈川宿から直線で約4キロ離れた横浜村(現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁の一帯)を主張して実行に移す。広い後背地を有し海に開かれた関内地区は、都市横浜の飛躍的成長を支える中核となった。拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫、2012年)や本ブログのリンクにある拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)等を参照されたい。

 第二は、1928年のY専創立に始まる市大90年の直接的な起源についてである。現在につながる国立・公立・私立という3つの設置形態の大学制度、その大きな流れのなかで公立大学たる市大が発足した。横浜にとどまらず、日本の高等教育制度の発展と世界の動向との関連を視野に入れることが、今後を展望するうえで大切であろう。

 ついで窪田吉信学長が4つの重点事業「100周年に向けて」を小冊子「YCU Vision 100」の「90周年から100周年までのロードマップ」に基づき語る。すなわち(1)教育=ヨコハマから世界へ羽ばたくグローバル人材の育成、(2)研究=世界をリードする研究成果の創出と市民への還元、(3)医療=医療の知の創生・発信、附属病院の機能強化・再整備、(4)拠点=国際交流と知的資源を還元する拠点形成である。(1)~(4)にそれぞれ2億円以上の募金を呼びかける。

 この工程表のなかで気になったのは、5年後(2023年)に市大『100年史』編纂に着手とある点である。歴史学者の老婆心から言えば、編纂事業は史料収集(文書、聞書き、映像、デジタルデータ等を含む)に始まる。本年度中に編纂委員会を置き、編集方針を立てることが望まれる。

 ついで新しい5学部代表によるパネルディスカッションに入る。司会は重田副学長で、石川義弘医学部長、叶谷由佳看護学科長、岩崎学データサイエンス学部長、佐藤響子国際教養学部長(予定者)、大澤正俊国際商学部長(予定者)、篠崎一英理学部長(予定者)が壇上に並び、それぞれの学部の内容と目標を語った。なかでも新しく発足したデータサイエンス学部の入試状況(昨年度と進行形の今年度)と学生の動向に関する報告が注目を引いた。

 こうして2時間にわたる挨拶、説明、意見交換が終わった。休憩後、チアダンスと応援団(OBもはっぴ姿で参加)の演舞があり、最後は全員起立、学生合唱団のリードと管弦楽団の伴奏に力をもらい、大音量の校歌斉唱となった。私も負けずに声を張る。「…ああ 浜大の俊英 われら…」。

 本日を起点に5学部体制という5つの箱が礎石となって動き出す。それぞれの箱にどのような魂を入れるか、これこそ10年後に向けた最大の課題であろう。

 大学とは教員・職員・学生の三者からなる稀有の組織であり、構成員の年齢差・役割差等を越えて、知(知識+知恵)の発展を担う唯一の組織である。教育・研究・社会貢献の現場を担う三者の自由闊達な意見交換を通じて、しなやかで強い真のアカデミアを目ざしてほしい。市大着任の1973(昭和48)年から45年、「消え行く老兵」の一人として、遠くから願うばかりである。

三溪園の大師会茶会

 三溪園を創始した原三溪(青木富太郎)は、慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、岐阜県佐波(現在の岐阜市柳津町)の青木家に誕生。東京専門学校(現早稲田大学)で学び、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚。原姓となり、号を三溪とした(以下、三溪と略称する)。昭和14(1939)年8月16日、横浜で逝去。

 三溪は、善三郎から引き継いだ生糸売込原商店を原合名会社と改め、生糸輸出にとどまらず富岡製糸場等の経営を引き受け(1902~38年)、さらに金融・福祉等の分野でも活躍する実業家となった。その多忙な日々のなかで自らも書画の筆をとり、新進日本画家の育成や三溪園の造園(古建築の移築、茶室の設計等を含む)を進めた。三溪の伝記については、藤本實也『原三溪翁伝』(1945年擱筆、2009年に思文閣より刊行)、齋藤清『原三溪 偉大な茶人の知られざる真相』(淡交社 2014年)等を参照されたい。

 三溪を茶道に導いたのが益田孝(鈍翁、1848~1938年)である。鈍翁は三溪より20歳年長で、幕末期に新潟の佐渡から江戸に出て麻布にあったアメリカ公使館に勤務、ハリス公使から英語を学んだ。茶道をたしなむようになったのは明治中頃からとされる(『自叙益田孝翁伝』)。そして明治29(1896)年に大師会を創設、大名の庇護を失い衰退する茶道の復興を期した。

 公益財団法人大師会ホームページには、「大師会は(122年前の)明治29(1896)年、三井物産の創始者で茶人としても著名な益田孝(鈍翁)により開かれた歴史ある茶会で、弘法大師筆『崔子玉座右銘』の披露に、大師の縁日にあたる3月21日、各界の名士たちが集った」とある。

 ここに開催場所の記載がないが、三溪園事務局の川幡留司参事提供の野崎廣太(幻庵、げんあん、1859~1941年)「大師会茶会 於横浜郊外三溪園」(大正12年4月24日記)によれば、長く鈍翁の品川御殿山の碧雲台で晩春四月の年中行事として営まれた。幻庵は「日本経済新聞」の前身「内外物価新報」(のち「内外商業新報」と改題)や三越を経営した実業家で、鈍翁、松永安左エ門(耳庵)とともに「小田原三茶人」に数えられる。

 三溪の初茶会は、101年前の大正6(1917)年12月23日正午、三溪49歳の時。彼の「一槌庵茶会記」(三溪記念館の展示「秋の雅趣」に出品、会期は11月6日まで)に、三溪園内の蓮華院寄付き一槌庵(いっついあん)に、益田鈍翁、高橋箒庵、岩原謙庵、梅澤鶴叟を招いたことが記されている。

 そして三溪園で初の大師会茶会が開かれたのが、95年前の大正12(1923)年4月21日(土曜)と22日(日曜)の2日間である。幻庵によれば、鈍翁が「やうやく取る年浪に其行末を慮り」、弘法大師筆『崔子玉座右銘』を寄付して財団法人を創設、篤志家に順次預けることとした。これを引き受けたのが55歳の三溪で、聴秋閣移築をもって全園完成とした祝いを込めた。

 三溪園の大師会茶会では、広大な園内に実に18席が設けられた(「大師会会記」=会場で配る案内、色刷りの三溪園平面図付き=本稿末尾に掲載。三溪記念館展示中には「第十八席 食堂」とある)。その様子を詳しく記録したのが幻庵「大師会」(『茶会漫録』第11集、大正14年12月刊。内外商業新報社版では1923年の干支を冠し「癸亥大師会」、7~39ページ)である。

 もう一つ、高橋箒庵(そうあん、1861~1937年)が、箒庵高橋義雄の名で刊行した「三溪大師会」(『大正茶道記癸亥』大正13年、廣文堂書店所収、55~73ページ)がある。箒庵は、三井銀行、三井呉服店(三越)等、三井家の重役として活躍、50歳で引退して茶道三昧の生活に入り、護国寺の檀徒総代も務めた。

 箒庵は、三溪園における大師会茶会は財団法人として以降第二回目のものであり、第一回目は前例通り品川御殿山掃雲台で開催、今回「…場所・建物・庭園三拍子打揃った天下の名園が出来上がり、大師会は無比の好会場を得た…」と述べ、題名を<三溪大師会>とした。幻庵と箒庵の二つの記述をもとに、三溪園大師会茶会の模様を見たい。

 幻庵の記述は詳細である。なお茶席の位置と名称は現在と異なる所があるため、(括弧)内に注を付して再現した。本稿末尾に再掲した「三溪園平面図 大正十二年大師会茶会」の会記附図を参照されたい。

 第一席の展観室(桃山史料)と第二席の古美術展観室は、いまの臨春閣で三溪が出品、幻庵は「…満室燦然と宝物を陳列、整然と厳かに飾り、見るから我国仏教美術の精華生々活躍し…」と述べ、東寺、金剛峯寺からの出品に加え、鈍翁出品の「普賢菩薩画像」「金銅観世音立像」等を一覧する。第二席は「…大師の親筆にかかれる和州益田池の碑文」にとくに感嘆している。

 第三席が清風居(いまの白雲邸)で催主は服部集翠庵。第四席が白雲邸に接してあった春草廬で催主は鈍翁。第五席が聚楽遺構(いまの臨春閣)で三溪が雪舟「虎溪三笑」の大幅を床の間に飾り、番茶と水菓子を供す。第六席が天楽の間(いまの臨春閣三屋)で催主は鈍翁。第七席の桃山遺構月華殿は三溪が催主。第八席が楽只庵(いまの金毛窟)で、催主は戸田露朝(大阪の道具商)である。

 金毛窟の隣の天授院で初日の21日午前11時に大師の祭典が行われた。末尾に添付の地図の最初に号外として掲げる「卍天授院」である。この庭前に立った箒庵は、「目を東方に放てば(実際は南方で、天授庵とする誤記もある)、桃山遺構の前面には洋洋として紺碧の地水を湛え、谷を隔つる磯山には三重の髙塔兀立して三溪全園の中心標的となり、宛然雪舟筆山水図を目前に見るが如きは真に海内無比の勝地たるに背かず、更に此丘上よりダラダラ下りに山径を伝い行けば、泉石の結構布置、悉く園主の苦心惨憺を語りて感興盡る所を知らなかった。…」と述べ、眼前に拡がる自然の「山水画」と泉石を特筆して、三溪園の庭の姿を称賛する。

 第九席が聴秋閣で催主は根津青山(嘉一郎、1860~1940年、政治家、産業投資家で東武鉄道等を経営する<鉄道王>と呼ばれた。現大師会会長の祖父)、第十席が聴秋閣の脇を上った所にあった神代茶屋で催主は仰木魯堂(1863~1941年、数寄屋造りで知られる建築家)と伊丹秀水。

 第十一席は聴秋閣の下にあった山吹の茶屋で、催主は三溪である。ここで「…支那蕎麦店を開かれたのは大受けであったが、汁はなくて薬味だけ…」(これが<三溪そば>)と箒庵は記す。

 第十二席が春草廬の位置にあった蓮華院で、催主は森川如春(1887~1980年)である。如春は36歳と若く、三溪の{親友}(幻庵の表現)にして、愛知県一宮の茶人・美術品収集家であり、「…その状貌もまた大兵肥満にして、蕎麦の十杯や十五杯を平ぐるの敢えて不思議はなささうなる男なり」(幻庵)と記し、また「床の間に西行法師の詠草を掛け、光悦作赤楽乙御前茶碗…道具組は如春一代の傑作と謂ふべく、而して斯く言はるべく予期した如春の鼻は、向山の三重の塔をも凌ぐばかりであった」(箒庵)とある。

 ここから幻庵は「…三溪が園林の半ばを開放して、社会公衆の遊園に充つる丘陵(いまの外苑)」に向かう。第十三席が寒月庵で催主は吉田梅露(茶道具商、東京美術倶楽部社長)、第十四席が寒月庵広間で催主は梅澤松庵(古美術商)、第十五席が横笛庵(催主は第十席とおなじ仰木魯堂、伊丹秀水)、第十六席が合掌造りあたりにあった田舎家である。一方、箒庵は別ルートを取り、昼食後「…桃山遺構(いまの臨春閣)谷を隔てて相対する磯山に攀じ登り、最後の十七席となっている松風閣より逆に観覧…」したと記す。

 第十七席の松風閣について幻庵は「…此処は三溪旧住居、高爽奪塵の境にして満松参差の中にあり、…いながらにして湘山湘水は双眸の裡に集まり…景勝まことに称すべし」と称え、会記から茶碗・水注・火箸等21点を引用、「…あいにく之れが品質を試むるの眼識なきを奈何せむ」と嘆き、展観席の硯・筆・机、竹田筆の松溪聴泉の図等にも触れるが、中央アジア発掘の陶器を含む品々を漏らさず挙げることに専念する。

 十八席を一巡するだけでも数時間を要する広い庭園に展開される茶会。展観室の三溪愛蔵品の数々、鈍翁ほかが催主をつとめる個々の席の由来、掛軸、香合・釜・火箸、炉辺の水指・茶碗、菓子・菓子器等々を、幻庵は記述しつつ、「…三溪が趣味嗜好の多岐様に渉れるを知り…」と述べ、箒庵も「…これを細評するの勇気がでない」と、いささか諦め気味である。

 箒庵は末尾で「…本来大師会は一部茶人間の遊戯でなく好古家・歴史家・工芸家等に対して研究上無限の便益を与え…、今度の如く規模雄大になっては…世界各国に檄を飛ばし…本会の事業を世界的にすべし…それが実現するようならば園主には迷惑ながら今一回三溪園を拝借したい」とするが、この提案は現在まで日の目を見ていない。そして「…古建築物を保存して折々に之を公共用に供し、…奮って之を提供せられた其盛意に対しては、大師会会員のみならず国家もまた相当の敬意を払って然るべき…」と結ぶ。

 この茶会から約半年後の9月1日、関東大震災が発生。横浜全域が壊滅的打撃を受けた。三溪園は煉瓦造の松風閣が崩壊したものの、幸いに甚大な被害は免れる。三溪は横浜市復興会、横浜貿易復興会等の会長を務め、すべてを横浜の震災復興に捧げた。

 三溪自身が開いた茶会(大正6~昭和14年)についての記録「一槌庵茶会記」を分析した川幡参事「三溪主催茶会について」によれば、23年間にわたる計71回の茶会のうち、蓮華院や春草廬を主に一席だけの使用が多いという。

 川幡参事は「一槌庵茶会記」を3期に分けて分析、初期には鈍翁が10回中9回出席と筆頭、最晩年まで含めると合計14回にのぼる。昭和に入ると小田原住まいの鈍翁の健康を気づかい、三溪は箱根強羅の白雲堂で開いている。中期からは小林古径、速水御舟、前田青邨ほか院展系の若い画家や和辻哲郎、夏目漱石、阿部次郎、安倍能成たちが登場する。

 後期には、昭和10(1935)年6月、三溪より7歳若い松永安左エ門(耳庵、1875~1971年、当時東邦電力社長)が初めて顔を出し、以来、17回を重ねた。耳庵は鈍翁・三溪と並び、近代三茶人と称される。昭和10年11月28日、三溪園の茶会に招かれた耳庵は、銀杏の落葉の黄色い絨毯、各所に置かれた礎石、伽藍石、手洗石、石棺等に触れ、その「造庭術には一驚の他なく…」と感嘆、「…庵室の前の伽藍石、三溪先生、是れが道楽の端緒…」と述べた(「三溪園茶会記」(『茶道三年』(1938年、飯泉甚兵衛刊行)と書き残している。

 昭和11(1936)年8月6日、三溪の長男善一郎が45歳で急逝。「…善一郎突然他界す。十五日月華殿にて浄土飯の茶会を催す」と「一搥庵茶会記」は淡々と記すが、この種の理由を付すのは全編を通じてこの一つのみである。悲しみは、いかばかりであったか。

 8月15日、朝5時から寒月庵と金毛窟で善一郎の追善供養茶会が行われ、それは16日、18日、19日、22日、9月1日、4日と7日間にわたり続けられた。8月18日は朝5時に88歳の鈍翁と61歳の耳庵が駆けつけている。

 昭和14(1939)年4月14日、71歳の三溪は臨春閣広間で南京料理会食の茶会を開く。招待されたのが耳庵のほか、小林古径、安田靫彦、前田青邨らの日本画家や中村富次郎(好古堂)など古道具商たち11名。これが最後の茶会となった。その4カ月後の8月16日、三溪永眠。耳庵や画家たちへ最後の願いを託したとも読みとれる。

 そして戦後、大師会茶会は三溪園、畠山記念館、護国寺と会場を移しながら、昭和49(1974)年、根津美術館に引き継がれ、現在は公益財団法人大師会により毎春に開催されている(公益財団法人大師会ホームページ)。

 今年は三溪生誕150年、没後79年にあたり、三溪園では種々の記念行事を行っている。10月23日(火曜日)、公益財団法人大師会(根津公一会長)主催の「原三溪八十回忌追善茶会」が催された。その案内状に、大略つぎのようにある。

 …本年は当会にとって大恩人である原三溪翁の八十回忌にあたります。明治29年より益田鈍翁が始めた大師会を、原三溪翁が二代目会長として引継ぎ、財団法人組織として大正12年に初めて三溪園で大師会が開催されました。園内十七席を使用し二日間で六百人が出席した大盛況となりました。三溪園での大師会は昭和48年を最後に根津美術館に移りました。
この度、原三溪翁の遺徳を忍び久しぶりに三溪園にて大師会主催の「原三溪八十回忌追善茶会」を開催する運びとなりました。…

 法要は臨春閣(重要文化財)住之江間において10時より、真言宗豊山派僧侶により執り行われた。施主は大師会会長(根津美術館館長)の根津公一夫妻、原家当主信造夫妻、岡崎輝和夫妻、三溪園保勝会理事長・園長である。根津会長が挨拶に立ち、財団法人化という鈍翁の英断がなかったなら大師会は途絶えていたかもしれないと述懐された。

 臨春閣では、公益財団法人五島美術館が琴棋書画の間で展観「原三溪ゆかりの品々」をそろえ、とくに「鈍翁の一日」という巻物が鈍翁への想いをよく伝えていた。天楽の間には濃茶席を置いた。

 月華殿(重要文化財、大正7年に移築)と金毛窟(三溪構想の一畳台目の茶室)は、東京世話人瀬津勲氏の濃茶席で、月華殿には「断渓妙用墨跡 送別の偈」、金毛窟には「源実朝筆 日課観音」の軸が掛けられた。天授院では、やさしく微笑む阿弥陀如来坐像(平安時代)を開帳した。

 白雲邸(三溪の元隠居所、横浜市指定有形文化財)には点心席を設け、隣花苑製の折詰、三溪考案の三溪そば、善一郎ゆかりの浄土飯(蓮の実入りの汁飯)、清酒をふるまった。

 122年前の大師会創設、101年前に始まる三溪の一槌庵茶会、95年前の三溪園大師会茶会、80年前の三溪逝去、そして戦後の三溪園。数多の思いを偲ぶ原三溪八十回忌追善茶会であった。


附図【三溪園平面図 大正十二年大師会茶会】
三渓園平面図



プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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