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復興小唄「濱自慢」

 三溪園で中秋の名月を愛でる恒例の観月会を開催した。今年は9月21日(金曜)から25日(火曜)までの5日間、日没から午後9時まで、三重塔をはじめ主な建造物等をライトアップし、臨春閣(重要文化財)を舞台に音楽や舞踊が披露された。

 今年の演目は、9月21日(金曜)サックス&ピアノで奏でる日本の唄(シャンティドラゴン)、22日(土曜)雅楽(横浜雅楽会)、23日(日曜、秋分の日)箏曲(アトリエ箏こだま)、24日(月曜、振替休日)日本舞踊(七々扇流)、25日(火曜)薩摩琵琶(錦心流中谷派襄水会)である。ほかに23日(日曜、秋分の日)午後、蓮華院において三溪園ボランティアによる「中秋の一日庵 月待ちの茶会」が開かれた。

 今回初の企画は24日の七々扇流(ななおうぎりゅう)四代目家元・七々扇花瑞王(かずお)さんが率いる日本舞踊、復興小唄「濱自慢」である。徳川御三卿の一つ田安家(たやすけ)に勤めていた狂言師の市山里が、勝海舟から七扇(のち七々扇)の名を受けて流祖となった。

 この企画は公益財団法人三溪園(担当は吉川利一事業課長)、共催 Dance Dance Dance@YOKOHAMA 2018、音楽 太陽倶楽部レコーディングス、衣装・メイク 葵総合アート企画、写真 キヨフジスタジオ、演出・構成 七々扇流事務所である。

 復興小唄「濱自慢」の作詞は原三溪(本名・富太郎)。慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、岐阜県佐波(現在の岐阜市柳津町)の青木家に生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)で学び、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原姓となり、号を三溪とした(以下、三溪と略称する)。今年は三溪生誕150年である。

 三溪は国指定名勝三溪園(1906年~)の創設者であり、原合名会社を主宰して生糸輸出、地所開発、富岡製糸場等の経営(1902~36年)に当たった実業家であり、茶人であり、書画・漢詩を良くし多数の作品を残した芸術家でもある。彼の収集した数千点に及ぶ日本美術品は海外流出せず、日本各地に現存する。

 1923(大正12)年の関東大震災により、横浜は壊滅的打撃を受けた。絶望的惨状のなかで立ち上がった55歳の三溪は、その後半生をすべて横浜の復興に傾注する。財界、金融界、政界等の総力を結集する横浜市復興会等を結成、その先頭に立つとともに、復興小唄「濱自慢」を作った。明るく繰り返される「横浜よいところじゃ」が打ちひしがれた横浜市民を勇気づける。

 「濱自慢」は春夏秋冬を歌い、四番まである。ちなみに小唄(こうた)とは、端唄(はうた)から出た、粋でさらりとした短い三味線歌曲で、撥(ばち)を使わず爪弾く。震災後には最先端を行く歌曲であった。

 横浜よいところじゃ 太平洋の春霞
 わしが待つ舟 明日着くと 沖の鴎が来て知らす

 横浜よいところじゃ 青葉若葉の街続き
 屏風ヶ浦の朝凪に 富士が目覚めて化粧する

 横浜よいところじゃ 秋の青空時雨もしよが
 濱の男の雄心は 火にも水にも変わりゃせぬ

 横浜よいところじゃ 黄金の港に雪降れば
 白銀載せて積み載せて 千艘万艘の舟が寄る

 三溪が1925年4月、野澤屋呉服店の「濱自慢名士書画展覧会」に出品した掛軸「濱自慢」は残っている(三溪記念館にて9月26日まで展示)が、その音源は長らく不明であった。8、9年前、ようやくレコードが2種類見つかり(外部と三溪園内)、外部で発見されたものに作曲は二代目家元の七々扇小橘(ななおうぎ こきつ)とあった。

 それを今回、花瑞王さんが舞踊に仕立てて、臨春閣で舞う。他の舞と併せて2時間の上演である。「濱自慢」をどのように舞うのか、花瑞王さんから構成と振付の妙をお聞きし、興味津々で待った。七々扇流事務所作成の解説から抜粋する。

 第一部は8つの踊りの最後に「濱自慢」が来る。①「関の小万」(踊りの入門曲で各流派がうけつぐ曲)、②「京の四季」(舞妓たちも踊る曲)、③「胡蝶の舞」(「鏡獅子」の間狂言でお馴染みの曲)、④「舞扇」(清盛の暴威を鶴姫が男舞を踊って後に諫言する)、⑤「黒髪」(嫉妬に身を焦がす幽艶な曲)、⑥「秋の色種」(お座敷で舞う長唄の一曲)、⑦「満月」(夏の夜の浜辺の逢瀬を歌う)、⑧「白扇」(お祝いの曲)。そして「濱自慢」。前半はテープを流し、後半の⑦、⑧、「濱自慢」の3つが生演奏である。

 第二部は7つの踊りの最後を「濱自慢」が飾る。①「菖蒲浴衣」(人気役者の好みの浴衣を宣伝しつつ川の情景を歌う)、②「俄獅子」(お座敷で芸者姿の廓風情を描く粋で華やかな曲)、③「玉兎」(満月の中の兎が餅をつき踊る)、④「団子売り」(夫婦の団子売り、途中でお月さまの童歌が入る)、⑤「扇の的」(平家物語の那須与一を題材にとった長唄の新曲)、⑥「お吉しぐれ」(新内<明鳥>から題材をとった新内調の小唄)、⑦「蝙蝠」(川辺の夕涼みでコウモリの飛ぶを眺める曲)、「濱自慢」。後半の⑥、⑦、「濱自慢」の3つが生演奏である。

 踊りが18名(第一部10名、第二部8名)、演奏は唄4名、三味線3名、笛1名、総勢26名。端唄永野流二代目の永野桃勢さんは伝統芸能の継承に尽力、昨年、横浜市南区蒔田に教室を開いた。また囃子笛の望月太喜若さんは邦楽や舞踊の会、映画、テレビ等で活躍、平成27年、日本民謡協会から女性初の笛師範教授に任命された。

 演奏開始は6時15分。私は臨春閣三屋の縁側前にある大きな踏石の端に座る。そこから真南の丘の上にライトアップされた三重塔が、左前方には臨春閣二屋の舞台が見える。雨の予報に反して、開演とほぼ同時に十五夜の月が丘の左手に姿を現し、徐々に三重塔へと近づいて行く。満月と三重塔と「濱自慢」の共演に魅きこまれた。
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丘のダヴィンチたち

 9月4日、台風21号が昼に四国・近畿に上陸との気象情報を気にしつつ、時おりの強風にあおられて帰宅すると、留守電が入っていた。都立武蔵丘(むさしがおか)高校の後輩で、同校元教員の佐藤秀子さん(昭和35年卒の12回生)という方からで、ファックスを送るとある。

 武蔵丘高校は1940(昭和15)年に東京府立第二十一中学校として発足、戦後1948(昭和23)年に都立武蔵丘高校となった。私は1952(昭和27)年に入学した7回生で、勉学と交友と放課後のラグビーもどきの遊びに専念、人気の野球部には入らず、町道場で柔道を習っていた。

 学校は中野区の練馬区寄りにあり、西武新宿線の鷺ノ宮駅や下井草駅から通学する友人が多かった。私は西武池袋線の中村橋駅から徒歩5分のところにある家から、徒歩通学をしていた。

 朴歯の高下駄、学生服に破れ学帽、腰に手拭いをぶら下げ、冬も素足で霜柱をザクザク踏んで登校、文学青年を気取った時期から哲学青年に変わる2~3年生にかけて、これが憧れた私の旧制高校生ファッションであった。「高歯の下駄では、喧嘩を売られても逃げられないぞ」と先生に言われたが、下駄は脱げば立派な武器になる、と密かに思っていた。

 柔道場のある練馬駅近くの古書店に入り浸り、仕入れた本をズックの肩かけ鞄に詰め込んで帰った。「新書100冊を読破」等を目標に掲げ、手当たり次第に読んだ。とくに体験や直感を重視するニーチェやショーペンハウエルの「生の哲学」にかぶれていた。

 木曜が休みで土曜が全日授業という学校だったので、木曜になると近場の奥多摩や秩父の山々を単独行した。事前に5万分の1地図の等高線を眺めて山の立体的な姿を脳裏に浮かべ、それが眼前に拡がるのが楽しみだった。山では、いやおうなく自己と向き合う。自分という存在をとても小さく感じた。

 さて、佐藤さんから届いたファックの用件名は<丘のダヴィンチたち>。2年前に中西進先生(旧制府立中学2回生)の発案で発足、それについて同窓会誌「銀杏」(2017)に六角鬼丈先生(12回生、建築家)が、ついで「銀杏」(2018)に三田村有純先生(20回生、漆芸作家)が書かれていると、添付してあった。

 そして「昨日、中西進先生からご連絡があり、加藤祐三先生にもご賛同いただきたいとのことでした」とある。中西先生とはどなたか、すぐには思い出せない。以前に初対面で「武蔵丘高校のご出身でしょう」と言われて驚いたことがあった、その方か。

 中西さんは1929(昭和4)年生まれ、米寿(88歳)を迎えた国文学者(万葉学者)で文化勲章受章(2013年)の大家と分かった。多彩な職歴のなかに、2004年、京都市立芸術大学長があり、お会いしたのは公立大学協会(公立大学学長からなる社団法人)の総会であろう。それにしても15年前に一度会っただけの私を覚えておいでとは。

 佐藤さんからは「来週の9月14日、中西先生が講演のため京都から出てこられるのに合わせて、打合せを予定しています」とも。

 添付資料によれば、母校は2020年に創立80周年を迎える。それに向けて、あらゆる分野で活躍する卒業生が、「世代を超えて異分野を学ぶ会」として<丘のダヴィンチたち>を結成(三田村有純「銀杏」(2018))、それから2年が経つという。<丘のダヴィンチたち>の名前の由来は、ルネサンス期イタリアの芸術家レオナルド・ダヴィンチ、<丘>は言うまでもなく武蔵丘高校である。

 この2年前に発足した当会とは別に、2年前に解散した同校の同期会がある。本ブログ2016年10月26日の「高校同期会の解散」で述べたが、昭和30年卒の6クラスあったうちの2クラスを中心に、45年もつづいた<ぬぎの会>である。最初から最後まで牽引した名幹事の勝田賢の宣言、「80歳が会の終わり」で解散した。

 その代わりのように、<丘のダヴィンチたち>からのお誘いである。打合せの当日、せっかくなら65年前の通学路を歩いてみようと早めに家を出た。中村橋駅から旧居へ、そして母校へ。麦畑の拡がる風景が瀟洒な住宅街に一変したのは当然で、地付きの人のものであろう風情ある古い屋敷と椎の大樹が、過ぎ去った歳月を偲ばせる。

 母校は翌日の学園祭の準備中で、先生や生徒が忙しそうに行き来していた。許可を得て構内を一巡。建て替えにより校舎や校庭の位置が大きく変わって戸惑う。校歌にある櫟(くぬぎ)の樹は変わらず、同じ場所に髙く聳えていた。そこから記憶をたどりつつ鷺ノ宮駅まで歩き、バスでJR阿佐ヶ谷駅まで出た。

 <丘のダヴィンチたち>の会場は、予定の喫茶店では入りきれず、急遽、四ツ谷駅に近い槙枝一臣さん(16回生)の東京フレックス法律事務所となった。5時開始、参加者は32名中17名、挨拶と近況報告が一巡し、最後が中西さんで、情熱をこめて母校の若人を応援したいと結んだ。

 母校や同窓会等との連絡を密にするとともに、まずは<丘のダヴィンチたち>の想いを伝える文集を作ろうと提案があり、印刷物ではなく、ネット世代が近づきやすいデジタル版はどうかとの意見等も出た。2年後の創立80周年に向けた具体的な一歩である。

 司会をつとめた三田村さんが文集の範例を作ると言い残して所用のため早退、内山園子さん(10回生)が引き継ぎ、最後に次回の日程を決めた。中西さんは、これから京都へ帰宅の強行軍、その達者ぶりに驚かされる。

【35】幕末期のアヘン問題

 清朝中国とイギリスのアヘン戦争(1839~42年)、また敗戦国中国と戦勝国イギリスとの間で結ばれた南京条約(1842年)については、高校の世界史教科書に必ず出てくるが、幕末期日本とは無関係の、他国のこととして見過ごしがちである。今回は「幕末期のアヘン問題」をテーマに考えてみたい。

 きっかけは三つ。第一が本ブログにリンクを張った講演録「岡倉天心『日本の覚醒』を読む」の末尾にある質問に答えたこと、第二が寄贈を受けた明治維新史学会編『講座 明治維新』(有志舎 全12巻)の第12巻「明治維新史研究の諸潮流」所収の小風秀雅「<帝国>と明治維新」を拝読して感じたこと、そして第三に仲間うちの納涼会で出た質問に答えるなかで感じたこと。第一と第二は歴史学界ないし歴史に関心を持つ人たちの見解であり、第三は広く職種・専門・男女・年齢を包含する人たちからの質問である。

 私が「幕末期のアヘン問題」に、あるいは広く幕末の日本開国・開港に関心を持ったのは、拙稿「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」(『横浜市立大学論叢』1979年)を書き(本ブログ「【24】19世紀のアジア三角貿易」を参照)、これを受けて刊行した『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年 以下、本書とする)を書き終えようとしていたときで、そろそろ40年になる。

 私の歴史テーマの展開は、本ブログ2015年6月30日号掲載「【1】新たな回顧(「我が歴史研究の歩み」1)」の中で5つに分けて記した。(1)中国近現代史、(2)近代アジア史、(3)日本開国史、(4)文明史、(5)横浜の歴史である。

 その研究を振り返り、今後の展望を描こうと、本ブログに連載「我が歴史研究の歩み」を企画、3年ほど書き進めてきた(最新号が2018年5月7日掲載の「【34】連載(五)香港植民地の形成」)。5分野のうち、(2)近代アジア史から(3)日本開国史へと展開する最初の著書が本書である。その概要は、「【25】『イギリスとアジア』刊行」(2017年6月19日号)を参照されたい。

 本書はイギリス近代の風景と人々の生活を横糸に、そして精度の高い貿易統計(英国議会文書所収)を縦糸に3つの商品、すなわち①英国が輸入する中国産紅茶、②中国等へ輸出(密輸)される英国植民地インド産のアヘン、③インドへ輸出される産業革命の産物である英国製綿製品からなる「19世紀アジア三角貿易」をまとめ、副題の「近代史の原画」に意図をこめた。

 最強の鎮痛剤として現在も使われる薬物のアヘン(主成分はモルヒネ)は、野放しにすれば麻薬と化す。野放しのアヘンは、中国ではタバコのように吸い、産地のインドでは小さく丸めて飲み、イギリスではイラン・トルコ産アヘンをアルコールに溶かした「アヘン・チンキ」が流行した。

 本書所収の図12「インド産アヘンの140年」(1813~1914年)は広く高校世界史Bの教科書に引用されたが、これだけで「幕末期のアヘン問題」に関連づけるのは難しい。

 本書の第9章1節で「日本のアヘン問題」に言及、日米修好通商条約(調印は1858年7月)の交渉段階で、米総領事ハリスが大統領の意向としてアヘン禁輸を条約に入れたいと述べたこと、条約第4条に「阿片の輸入厳禁たり。若し亜米利加商船三斤(約2キロ)以上を持渡らば、その過量の品は日本役人、之を取上べし」と決めたことを記した。

 ついでインド産アヘンについて、「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『東洋文化研究所紀要』 1981年)を書いた(本ブログ2017年7月28日掲載の【27】を参照)。専売制のベンガル・アヘンとその税収が植民地財政を支えるとともに、余剰を送金してイギリス本国の「安い政府」を支えたこと、中央インド産のマルワ・アヘンには港への搬出陸路で通過税を課したこと等を明らかにした。アヘンが売れれば売れるほど財政が潤う仕組みであり、販売市場(主に中国)で麻薬患者が増え、アヘン禍が蔓延する状況への配慮はなかった。

 インド産アヘンの輸出先である東南アジアの植民地と中国は、イギリス帝国を支える命綱であり、とくに広大な中国市場は本国財政と経済(世界初の産業革命)の存亡に関わるほど重要な役目を担っていた。換言すれば、アヘン戦争はイギリスにとって不退転の覚悟で臨んだ戦争であった。

 イギリスの勝利で戦争が終わり、1842年に南京条約が結ばれる。ところが条約には戦争の原因であり最大の争点であったアヘンに関する条項はない。つまり70余年にわたる「公然たる密輸」状態がつづく。ちなみにアヘン貿易の合法化を明示する条約は、1858年に締結される天津条約である。

 南京条約に対して他の列強が「最恵国待遇(条項)」を求めて介入した。初発の条約と同等以下の権益を求める国際政治の外交的武器が「最恵国待遇」であり、成文法や取り決めはない。平たく言えば権益の山分けを求める列強間の法的表現である。こうして2年後の1844年、アメリカが清朝中国と望廈条約を、フランスが黄埔条約を結ぶ。

 南京条約にアヘン条項がないため、アメリカは米シャム条約(1833年)以来の外交政策の一つである「アヘン禁輸」を承継し、望廈条約に加えた。「アメリカはアヘン生産基地を持っていない」が表面上の理由だが、イギリスから独立(1776年)して68年目、1815年の英米戦争終結から29年目、反英感情が消えていないアメリカの、東アジアにおける一つの法的表現でもあった。

 この「アヘン禁輸」条項のある条約の存在は、イギリスの狙う「公然たる密輸」状態を危うくする。イギリスは高いコストを払って最初に南京条約を締結したことの権限を駆使し、後続の望廈条約等に明示されたアヘン禁輸条項は外国にとって特権ではない、したがってイギリスはこれに拘束されない、とした。

 私が「幕末期のアヘン問題」への疑問から日本の開国・開港史の研究に踏み込んだころ、開国・開港史の研究は主に日本史(と日米関係史)の領域で扱われていた。東アジア史や英米の世界戦略上の対抗等を含めた研究はごく稀であり、「幕末期のアヘン問題」については先行研究がなかった。

 そこで私は「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号、1983年)を書き、「幕末期のアヘン問題」を切り口として日本の対外政策と開国・開港史に踏み込んだ。この論考の概要は本ブログ「【28】幕末開国考」(2017年8月8日掲載)に述べたが、そこから国際的な問題と日本国内の問題の二点について再掲したい。

 国際的問題としては、前掲のハリス提案以前にアヘン禁輸問題がどう扱われたかであり(1)ペリーもアヘン禁輸を考えたが、日米和親条約が通商問題を含まないため条約に記載がないこと、(2)ハリス提案より一年ほど早い「日蘭追加条約」第14条にアヘン禁輸が初出すること、(3)ハリスが来日途上にシャムに寄り、直前の1855年4月に英国バウリング香港総督が締結した英=シャム通商条約(アヘン貿易の合法化)と同じ内容の通商条約にやむなく調印、対日通商条約に一番乗りする自分はアヘン禁輸を貫く覚悟を固めたこと等を示した。

 日本国内の問題としては、鎖国中の日本では「三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年のアヘン使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しい輸入統制を敷いていた」と述べた。

 一方、幕府はアヘン戦争の当事国双方の情報を積極的に収集した。中国商船が舶来する「唐風説書」と、英文の新聞雑誌情報を基にバタビアで編集、オランダ船が舶来する「オランダ風説書」とを対比して戦況を分析、1839年に小競り合いで始まったアヘン戦争は清朝中国が敗北すると断定、南京条約締結の一日前の1842年8月28日、穏健な対外政策の天保薪水令へ切り替えた。この過程の詳細は後続のブログ「【37】連載(七)経験と風説」にゆずる。

 この海外情報の収集・分析・政策化を通じて、アヘンは民心と経済の根幹を揺るがす対外的危機の象徴として把握された。これは民衆レベルにも浸透したようで、『海外餘話』等の読本が流布し、返り点つきの魏源『海国図誌』が広く読まれた(拙著『紀行随想 東洋の近代』朝日新聞社 1977年)。

 さらに岡倉天心が英文著作『日本の覚醒』で強調する儒教のなかの行動主義的な陽明学が、幕藩体制の中核たる武士の間に「危機に直面して平静、事を計るに機知縦横、事態の変化に機敏に対応」する力を育んでいたという思想的背景も忘れてはなるまい(本ブログのリンクにある講演録「岡倉天心『日本の覚醒』を読む」参照)。

 こうした経緯の上に、ハリスがアメリカ外交の継承性からアヘン禁輸を主張、これを受けて日米修好通商条約に「アヘン禁輸」が定められ、日本はアヘン禍を未然に阻止することができたのである。

 ふたたび上掲の図12「インド産アヘンの140年」(1813~1914年)に戻ると、この140年のなかに、日本の元号で文政・天保から幕末を経て明治・大正までがすっぽり収まる。この長きにわたるイギリス植民地インドのアヘン生産と中国への輸出(密輸から合法化へ)という事実、これを日本史の「幕末期のアヘン問題」と関連させて理解したい。

 前掲の明治維新史学会編『講座 明治維新』(全12巻)の筆者の多くは研究の最前線に立つ重鎮たちである。私がポスト団塊世代と呼ぶ世代で、大学勤務の定年も近い。私との年齢差は15歳以上あるが、彼らと意見交換の場が開かれたのを幸いに思う。真摯に交流を進めたい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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