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タケの開花(その8)

 前回の「タケの開花(その7)」(2018年7月18日掲載)の末尾で、連絡をくれた羽田雄一郎主事(三溪園庭園担当)の言葉「…(花の)終焉という表現にふさわしい状態がいつ頃訪れるか予想は難しく、人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさを感じております」を引いて、それへの共感を表明、急ぎ中間報告とする旨を述べた。

 それから1ヶ月以上が経った。この間も三溪園のタケの花の観察をつづけてきたが、花はなくなったかと思えば、またあらわれ(発見でき)た。しかし見つけにくくなったため、「竹の花」と書いた案内板は、タイミンチクについては7月9日に取り外し、オロシマササについては8月6日に撤去した。
5月下旬に咲き始めた花菖蒲の花が散り、蓮の花を愛でる早朝観蓮会(7月14日~8月5日)も終わったが、タケの花はちらほらと残っている。8月22日、オロシマササは刈り込まれてさっぱりし、タイミンチクは先週と同じ所に密かに咲いていた。

 8月23日は、奇しくも原三溪の150年前の誕生日である(慶応四年八月二十三日=1868年10月8日)。ここで今回のタケの「一斉開花」は収束したと表明したい。「花の終焉」ではなく「一斉開花の収束」とする理由は後述する。そう判断するまでの前回(その7)以来の観察経緯、知人から寄せられたタケの目撃情報、いささか難しい理系論争の展開の一部を紹介し、議論の深化の過程も残しておきたい。

 7月19日、テニス仲間の正木泰裕さんが、アンケートのつづきとしてタケに関する話題を送ってくれた。その1つが目撃情報である。「岬巡りの歌で有名な丹後半島でバス巡りしていると 今までは根っ子が強いと理解していた竹林が 今回の豪雨で押し流されて倒壊していました。」

 また同じテニス仲間の三輪美子さんからも目撃情報が入った。「新幹線の車窓から竹を観察、…竹林は彦根あたり、三島あたりに多く観ました。3ヶ所ほど、30本ほどの塊で枯れていました」。旅のさなかに目の行く先に竹林があり、その目撃情報を送ってくれるのはアンケートの影響かもしれない。自然への愛着であろう。

 19日、市大テニス仲間の横山晴彦さん(横浜市大名誉教授 化学)からメールが入った。この間の「タケの開花」シリーズを読んで、いくつかのことが分かったとし、(1)タケの花は1年だけでなく複数年にわたって咲く場合がある、(2)咲いたからといってすぐ枯れるとは限らない、の2点を挙げ、化学者らしく「タケ・ササの花と枯れ死の問題の解明を難しくしているのは、タケ・ササの花はめったに咲かないこと、地味で目立たないため咲いていても気づきにくいこと、タケ・ササが枯れているのに気づいても前年に花が咲いたかどうか後からでは確認しにくいこと、地道な観測データが少ないことなどにあるようですね。」とデータ不足の背景を語る。

 これに関して翌20日、坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授 農学)から返信があった。坂さんはムギの専門家で、ムギもタケも同じイネ科に属するとは言え、タケについては「この自然現象を完全に再現できるに至っていない門外漢、この数十年のサイクルの中で出会った貴重な体験を楽しんでいます」と前置きして、次のように言う。

 「地球上の生物は地球の公転による1年の季節変化サイクルに適応進化し、生活環や環境反応を営んでおり、一方で過去の地球の歴史・地質年代において氷河期など長年にわたる気候変化が起こらない時代もあったはずで、必ずしも1年サイクルの体内時計で暮らしていない生物も存在します。作物でも二年生や多年生など、ある意味で複数の時計の歯車(遺伝子)が組み合わさり生活環を成しています。タケが氷河期以前の時代に進化して古くから姿を変えていない植物であることを前提にすると、その一生が60〜120年と長期に及び、その一生の最後に花を咲かせ実をつけるとなると、「1年限定で花を終わらせる」というスケールに嵌らないと考えます。一年草が1年のうち数日間の開花期だとすると、100年の生活環(ライフサイクル)ではそれが数百日に拡大するイメージです。」

 ついで横山さんが「門外漢としての素朴な考え・疑問等」として、「的外れな箇所や間違い」もあると思うが、お読みいただけると幸いです(ご回答いただかなくても結構)としつつ、知的好奇心を抑えきれない様子で、(1) 1本のタケの寿命とタケ枯れ、(2) タケ・ササ藪の寿命、タケの花と環境、(3) タケ・ササ藪の株の3点から、タケ藪全体が枯れるのと新陳代謝による1本のタケの寿命とは区別する必要がある、或いは異なる種であっても同一環境下にあるとき、同調するように花が咲くということがあるかもしれないと指摘した。

 これに関する坂さんの見解が示されたが、そのうち2点を再掲したい。「植物の場合、発芽⇒苗⇒栄養成長という植物の体を作るステージと、花を分化⇒開花⇒稔実という生殖成長のステージと質的に異なる生育相があり、日の長さや積算温度や加齢により栄養成長から生殖成長に切り替わります。人でいうなら、ある程度育つと思春期になり、環境条件により大人になるということです。そうした意味で、花を咲かせた場合、実をつける(つけなくても)、そしてその成長点は生を全うして枯れます(それが1年なのか、100年なのかの違いです)。幸い植物は「先端成長」といって成長点が芽や根の先端にあり、しかも分枝、分岐するので、長男坊が開花して枯れても、直下の分枝の成長点が生き続けたり脇芽や節から新たな成長点を形成して無限に生育を続けることもできます。一つの成長点は花を咲かせて一生を終えても次の成長点へ命をつないで、植物体としては数千年も生き続けることになります。」

 また「タケの種により、種子繁殖の有無(群落の遺伝的構成)や開花の同調性によって繁殖戦略に変異があるので、総論的に区分けするというより連続的な変異によって環境に適応していると考える方が妥当だと思います」とし先行研究の柴田 2003、井鷲 2010、陶山ほか2010等が添付されていた。

 7月26日、私から送信した。「議論がいよいよ深みに入ってきて、外野としては興味津々です。理系の議論の進め方を学んでいます。私なりに整理し、どれをどこまで外へ伝えるべきか(伝えることができるか)を考えています。昨日、ザっと園内を回りましたが、新しい開花は見つかりませんでした。…本日も会議後に、しっかり見てきます。12日ぶりに熱帯夜が明けたので、彼らも日常復帰しているかもしれません。…」

 8月3日、横山さんが来園、30年ぶりとか。坂さん、羽田さんと4人で園内を回って観察した。オロシマササもタイミンチクも新しい花を見つけることができなかった。これで「開花終焉」を宣言できるかを議論したが、2週間周期で新しい開花があったと思われるので、もう1週間、経過を見ることとした。

 8月9日、羽田さんから連絡が入った。「今週の観察を実施、オロシマササは1つだけですが、開花したての花を見つけました。…タイミンチクは、開花した状態のものは見つけられませんでしたが、今にも咲き出しそうな蕾を一つ見つけました。また咲き終わった花頴の先端に新芽のようなものがいくつか見られましたが、それが花芽になるのかどうか分かりません。…来週の観察(8月15日(水)予定)で再確認したいと思います」と。

 翌10日、私が独りで観察したが、羽田さんのいうオロシマササの開花は判別できず、タイミンチクの開花も見つけられなかったと述べ、「8月3日に、もう1週間待ってみようとしましたが、羽田さんの観察からすれば正解でしたね。私の観察は当てになりません。そこでやはり坂さんの出番、ここに最後の期待をかけます」とSOSを発した。

 8月15日、坂さんと羽田さんが観察結果を送ってくれた。「旧東慶寺仏殿横(立入禁止区域)の株では、数輪の花を再確認した」とあった。翌16日、私が単独で観察に出ると、同上の花の雄しべは一つを残して散っていたが、それとは別に坂道を登り尾根に出るすぐ手前右に開花直前と思われる花を見つけた。タイミンチクの親株と思われる株の直下と、もっとも遠い最末端と思われる旧東慶寺仏殿横で盛んに花をつけている姿がいじらしく見えた。

 17日、坂さんから「タケの花の終焉」という表現は誤解を与えかねないとして「一斉開花の収束」とする提案があった。そこで私は「一斉開花」と「部分開花」の区別がいまひとつ分かりにくいと、昨年の「タケの開花(その3)」以来の疑問を伝えた。坂さんの答えは、

 一斉開花:ある時(周期的あるいは不定期でも)に同一の植物が、あるいは同所に生育する多種多様な植物が、一斉にあるいは次々に開花する現象。時間的なタイミングの観点と説明があり、参考として下記の記事が付されていた。https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/081/research_2.html
全面開花:林全体が一時期に開花し、場合によっては枯死して行く現象。対峙するのが部分開花で、林の一部分や散発に、偶発あるいは突発して開花する現象。空間的な観点と、タイミングの同一性のニュアンスも含まれるとして下記の記事が添付されていた。
*https://tenki.jp/suppl/usagida/2017/05/16/22741.html 

 表現が時間と空間の物差しによりますが、後者(全面開花)には時間の同一性も含まれます。前者にはタケ・ササのようにおそらく体内時計が関与する周期性(年サイクルの1年生~1年を超えた長時間の周期)と、ボルネオ熱帯雨林のように環境の効果も大きいことによる局所的な空間範囲も含まれます。

 今回のタケ・ササの場合は、一年の季節変動の中でも開花が盛んになる時期(5~6月)とゆっくり少なくなるその他の月があり、周年の四季環境変化に左右される生理的な花の咲きやすさの振動が複数年に亘ってありました。それにより数十年周期の一斉開花が複数年にまたがり分断されたように見えました。昨年の2017年4月10日に観察を始めた時には、それ以前の早春か前年に出穂した花穂の痕跡が認められたため、その頃に部分的に数十年周期の一斉開花が始まっていたと考えます。昨年には全面的開花に転じて、5〜6月に一斉開花のピークを迎えました。今年は開花箇所のエリアが辺縁部に変遷しながら部分開花として観察でき、やがて収束していくという傾向が見られました。

 故に今回の「一斉開花の収束」はオロシマササ、タイミンチクの数十年に及ぶライフサイクルにおける一斉開花がここ複数年にわたって生じ、今年およそ収束したことを意味します。

以上が坂さんの見解である。

 これをめぐってふたたび横山さんが見解を述べた。私は坂さんに横山見解にかんする反応を求めると同時に、坂見解の分かりにくい点についてまた質問すると、次のように答えてくれた。

 一斉開花の考え方について植物生態学者の間でも議論が続いており、2010年の日本生態学会誌の「特集 Bamboo はなぜ一斉開花するのか?」では、仮説も踏まえ言葉の定義が提唱されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/seitai/60/1/_contents/-char/ja
今回の私たちの観察も、そうした学会の見識を踏まえつつ、タイミンチク・オロシマササを実際に見ながら落とし込んだ解釈だと考えています、と。

 こうした経過を経て、私は判断した。あの広域に展開するタイミンチクの花を個別ではなく、全体を一つとして見るべきであり、そうであれば「一斉開花の収束」という表現が最適である、と。

 なお今年がこの2~3年の「一斉開花の収束」である可能性は高いものの、なお断定はできない。来年、開花が見られるか否かにより最終的な判断ができると考えている。

 このブログ「タケの開花」も今回の(その8)をもって今年分の最後とし、三溪園のタケの花を気にかけておられる方々への報告に代えたい。今後も引きつづき身近な自然の営為に眼を向けていくつもりである。

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生命科学の行方

 清談会は夏と冬の年2回、定例の会合を重ねて13年目に入った。今回の8月9日が第26回目である(7月28日の開催予定が台風12号のため延期)。本ブログの「清談会の定例会」(2018年1月5日)で述べたが、横浜市立大学時代の教員仲間で今でも志を共有する6名。自他ともに認める幹事の小島謙一さん(以下、敬称略)のおかげで、長くつづいている。

 前回以来、小島の提案で新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」とし、言い出しっぺの小島が「自然界の4つの力」を、穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」を発表した。学界トップクラスの専門家が分かりやすく語る。知らない世界の扉が開く。初歩的な質問も含め談論風発、次第に共通問題としてAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 今回は浅島誠「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」である。浅島は発生生物学の研究で1988年、胚発生における分化誘導物質<アクチビン>を世界で初めて同定(ノーベル賞級の成果)、2001年に紫綬褒章を受けた。また大学運営・学務面でも積極的に活躍、東京大学教養学部長(2003~2005年)、東京大学副学長(2007~2008年)を務め、2017年に瑞宝重光章を受章した。市大在任中(1974~1993年)のニックネームは<青年将校>、いまも勢いはそのままの、我らが清談会の最年少である。

 パワーポイント用スライド計16枚を印刷・配布し、意見を開陳した。私が理解できた範囲では、(1)人口増と地球環境、(2)生命科学発展の経緯、(3)生命科学の行方、の3つに大括りできる。順に概要をまとめ、私見を述べたい。

人口増と地球環境
 生命(単細胞生物)の誕生から今日までを1日24時間とすると、人類の歴史はわずか30秒、ヒト(ホモサピエンス)の歴史は1秒に過ぎない。ヒトは地球上の新種である。19世紀以来の約200年、人口が幾何級数的に急増し、1950年の25億人が現在70億人を突破、2050年には91億人と推計され、炭酸ガスが平行して増加、地球の扶養力(自然の恵みであるエネルギー、資源、水、空気、食糧等の持続可能な水準)をすでに突破している。

 高齢化・少子化の進展も危険要因である。なかでも医療費の増大は財政負担を圧迫し経済発展を抑止している。日本の場合、国家予算98兆円(2017年)のうち半分の47兆円を医療費が占める。

生命科学の発展
 20世紀後半から21世紀にかけて、生命科学の発展は著しいとして、13の事例を挙げる。これが本論と思われる。すなわち、①遺伝子改変技術(1989、ノックアウトマウス)とゲノム編集技術、②タンパク質立体構造解析と医薬品設計、③哺乳類クローン胚作成技術と染色体工学、④脳高次機能解析技術の発達とAI(人工知能)、⑤ヒトゲノム解読完了(2003)と個別化医療、⑥バイオイメージングの進歩と可視化(学際的分野の進展)、⑦生体や特定の分子の可視化とシグナル伝達機構の解明、⑧RNA新機能発見と遺伝子制御、⑨再生医療と遺伝子治療技術、⑩次世代コンピュータによる多量な情報処理(バイオインフォマティクスの必要性とビッグデータとシミュレーション科学)、⑪遺伝子・細胞診断技術と生殖医療、⑫人工生命作成(2010、マイコプラズマ)、⑬炎症と免疫・アレルギーの新たな展開。下線部は最近約10年間の研究成果を指す。

 具体的な内容は私の理解を越えるが、門外漢には次の3分類が分かりやすいと思う。ア)基礎となる発明・発見が①、④、⑦等、イ)医療関係が②、⑤、⑨、⑪、⑬等であり、ウ)今後予想される多方面への展開がが④、⑩等である。

 このうちア)について次のように言う。ゲノム解読に7年かかり(1997年~2003年まで)、約800億円の経費がかかったが、現在は一人のゲノム解読が1時間、10万円で可能となった。その速度と費用の両面で500億倍以上の進化を遂げたことになる。それだけ安価に誰でも使えるようになったことの弊害、あるいはその悪用による被害をどう防止できるか(すべきか)。言い換えれば、生命科学の急激な進歩自体が生命倫理を忘れた<暴走>の結果という部分もあり、その延長上に生命科学の膨大な蓄積が生命(人類を含む)に対して牙を剥いている可能性がある。科学と倫理観の関係をどう再構築するか。

 つぎのイ)医療関係の②、⑤、⑨、⑪、⑬等については、AIが補助的ないし主体的に作動する、ないし活躍する。少子高齢化に突入して極端な人手不足が見込まれる日本では<救世主>とも見られる。生産過程や流通、司法や医者の分野では従来の仕事をAIが代替すると述べる。

 なかでも医療分野では<先制医療>(発症前の診断技術により、発症を遅延・防止すると同時に、発症前介入を行う医療)が癌治療の分野で進む可能性が高い。遺伝子と環境の与える影響、それが子孫に伝わる可能性を分析するエピジェネティックス解析が進んでいる。

 最期のウ)多方面への展開が今後予想される④、⑩等の分野では、科学の<独走><暴走>を抑止する現代の<倫理観>をいかに構築するかである。高速演算能力を高める量子コンピュータの発展により、生命科学はさらに進歩し、AIが自己創造力を発揮すればするほど<倫理観>の置き去りが危惧される。

生命科学の行方 
 浅島は「生命科学の発達が…人類の脅威になることは英智を持って避けなくてはならない。その英智とは何か。今こそ生命科学に問われている」と悲鳴をあげつつ、生命科学者としての一つの回答を、「生物がもつナチュラルヒストリーと多種多様性から学ぶことが必要」として次の4点を提起する。

 それぞれ数行の文章で述べられているが、私なりに整理すると、①地球上に存在する1000万種もの多様な生物の「美しい姿(構造と機能)」、②遺伝子等のように精緻な機械に似た「芸術品」、③4つの文字で表現される遺伝子から作られるアミノ酸は20種類だが、それで構成される蛋白質は数百万~数千万であり、生物は単純で複雑、④現代の科学技術は生物の形態や機能から得た生物モデル(ロボット、飛行機、創薬、AI等)の4つである。いずれも生き物(とくに彼の研究素材であるイモリ)への根源的な感動と畏敬の念を呼び起こす。

 ここまできて、演題「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」の意味が鮮明になった。この根源的な感動と畏敬の念を共有する若手研究者を増やす活動こそ、これからの浅島に期待してやまない。

加藤勝弥めぐり

 日本海を西に見て走る羽越本線の勝木(がつぎ)駅、そこから東へ約4キロ遡ったところに板屋沢という集落がある。新潟県岩船郡山北町板屋沢、いまは村上市板屋沢である。勝木駅は無人駅で、その次の府屋(ふや)には駅長がおり、その次の駅は山形県になる。越後の最北に位置する。

 板屋沢、この名前の由来は定かでないが、板葺きの家屋のある沢とすれば、風景の通りである。この清麗な沢は勝木川という。中学2年のとき、5歳年長の従姉妹、代々子さん(故人)に連れられて初めて訪れ、本家の<山守り>で親戚同様の加藤二蔵さんの巧みなアユ取りを見て感動した。

 勝木駅近くの浜は<碁石>と呼ばれ、白と黒の丸い石はまさに囲碁の石の如し。その暑い夏の日、<碁石>の海の素潜りを教えてもらった。ウニを取り、天草(トコロテンの原料となる海藻)を集めた。素足で岩の上を歩く。足の裏が痛いので、腰を引いて膝を曲げた奇妙な歩き方をした。忘れ得ぬ思い出である。

 こうした経験を夏休みの宿題の作文に書いた。担任は5歳ほどしか離れていない若い国語の山下政太郎先生、いまもお元気である。女子生徒に絶大な人気があり、軟式テニス部の顧問で、部活が楽しみだった。

山下先生がその作文を驚くほど褒めて下さった。何度も読み返し、どこが良いのか分からないものの、褒められたことが嬉しかった。そして先生が褒めてくれたのなら本当かもしれない、と少し自信がつき、文章を書くのが大好きになった。

 この板屋沢が私の祖父、加藤勝弥の生地である。嘉永七年正月五日(1854年2月5日)生まれで大正10(1921)年11月5日に68歳で没した。子宝にめぐまれた勝弥・久子の末っ子が七郎、そのまた末っ子が私である。写真で見る勝弥の顔には、ある種の風格がある。明治の人らしく髭をはやし、和服姿で子どもを膝に抱く姿が多いが、モーニング姿もある。

 勝弥は大庄屋(享保年間に任命)で造り酒屋の長男に生まれた。ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航の年に当たる。生誕の約2か月後、横浜村の応接所で日米和親条約が結ばれた。この日米交渉については拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照されたい。また最近、岡倉天心市民研究会でペリー来航と老中首座、阿部正弘の果たした役割について講演、その概要を本ブログのリンクに「講演録 岡倉天心『日本の覚醒』を読む」として掲載したばかりである。勝弥の誕生日がペリー来航と一致するのは偶然だが、これを期に勝弥が私の中で再浮上した。

 私が板屋沢を初めて訪れたのが67年前の夏であった。そして今年、7月31日から2日間、孫と二人で訪れた。彼は奇しくも中学2年、私の初めての板屋沢と同じ年齢である。高祖父・勝弥は、どのような姿として孫に宿るのか。

 勝弥の一つ目の顔は、明治12年に始まる新潟県会議員に25歳の最年少で当選、その後の自由民権運動の若き闘士、そして新潟県議を8期、明治23年の第1期衆院議員に当選、3期つとめた政治家である。二つ目の顔は新潟の北越学館や東京の明治学院等の教育機関の創設や経営、三つ目が日本キリスト教会の長老としての活躍で、村上教会や東京市ヶ谷教会等に足跡が残る。

 私の勝弥への想いは第一の政治家としての顔にあり、祖父という関係を離れて、歴史家として彼の小伝をまとめたいとの思いはあったが、多忙に紛れ、そのままになっていた。

 羽越本線の府屋駅まで加藤優さんが迎えに来てくれる。優さんは上掲の二蔵さんの長男である。勝木川の清流は往時のままだが、板屋沢は田んぼが工場や駐車場になっており、時代の変化を思い知らされた。

 優さんの案内で山手側をすこし登ると、勝弥の洋風の屋敷があった平地に出る。草木に覆われ、かつての面影はまったくない。集落の墓地のいちばん奥に勝弥・久子の墓がある。

 その後、新潟市へ向かいホテルに一泊、翌朝、観光循環バスに乗り、白山神社前で下車、新潟憲政記念館を訪れた。勝弥の政治活動の場であった新潟県政の議事堂である。

 明治13(1880)年の大火で県庁舎内の議事堂も類焼、3代県令(1875~85年)の永山盛輝(1826~1902年)の発議により3万7000円の巨費を投じて明治16(1883)年に完成した2階建て。左右に透かし彫りの大破風の屋根、中央に八角の塔屋を持つ、堂々とした雄姿である。

 永山は薩摩藩士から明治政府に入り、戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。設計は、新橋駅舎や大阪駅舎を手がけた、県出身の大工の棟梁で新進建築家の星野総四郎(1845~1915年)である。

 立地場所は、信濃川と2本の堀(現在は暗渠)で三方を囲まれた、火災(類焼)の危険が小さい所が選ばれ、昭和7(1932)年、新設の県庁舎内に議場が移されるまで50年にわたり使われた。戦後の昭和44(1969)年、重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経て、昭和50(1975)年から「新潟憲政記念館」として公開されている。

 入口受付で所蔵資料等について尋ね、展示室を回った。一階左手の旧傍聴人室と研修室が現在は展示室で、種々の地図や写真が新潟市と県会議事堂の歴史を伝える。

 副館長の山崎雄さんが議場に案内してくださった。天井が高く、議員定数の54番まで立て札がある議席が長方形に並び、2階は傍聴席で500名ほどが入れる。年に1ヶ月開催される県議会には議員の10倍もの傍聴人が訪れ、ヤジも飛ばす熱気あふれる場であったという。

 今回の勝弥めぐりはここまで。当時の議場の議論や勝弥の演説を再現したいと思うが、十分な史料を得られるかは、これからである。

コックスの鎌倉・京都観光

 イギリス平戸商館長コックスの江戸参府は、1616年9月1日、二代将軍秀忠の拝謁を得て順調だった(本ブログ「コックス商館長が将軍秀忠に拝謁」2018年2月14日)。ところが特許状(朱印状)はなかなか得られず、手にしたのはやっと9月23日であった。それが従前のものではない不利な内容であることに気づいたのは約1ヶ月後の浦賀で、コックスは急ぎ江戸へ取って返す。

 そして10月3日、土井利勝(老中)には面会できず、本多正純(老中)も不在、4日にはアダムズを本多のもとへ派遣するも確たる返事は得られず、5日にも返事がない。6日、土井は多忙とのことで面会さえできない。苛立ちながら無為に過ごす。

 7日、板倉勝重(伊賀守、京都所司代)のもとへ、数種の羅紗(輸入品の毛織物)やロシア産の赤色の獣皮を持って出向いた。コックスは「この方は日本の首席裁判官であり、いまミアコ(京都)から帰着したばかりである」と記す。板倉は後に、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行…と評価された人物である。

 コックスは記す。「私が江戸に戻ったのはミアコで我々の商品を売ってはならぬとの布告を受取ったためと言うと、板倉は皇帝が平戸以外での販売を禁じたのは事実だと語った。これに対して私は、この3年間、平戸では何も売ることができなかったため、新たな命令は我々を国外追放するのと同じと述べた」。

 板倉の言として「皇帝の意向には逆らえず、現在はすべてのことが老皇帝の時代とは別のやり方で行われている。大方のことは秘書たち(年寄、のちに老中と呼ばれる)の権限下にあり、自分もあまり役に立つことはできない。時が経てば、最善を尽くす」。本多正純については、「我々に姿を見せないようにしている…」と記す。翌8日、土井を訪ねたが、自分には権限がないので本多に頼むようにと、体よく断られた。

 さまざまな試みも効果なく、「…ひとたび決まったことは一日や二日で廃止できず、しばらく辛抱するよう」と言われる。江戸参府の所期の目的が達成できないまま、10月17日朝9時、コックスは江戸を発つ。

 Caningawa(神奈川)に一泊、18日にCamacora(鎌倉)に入る。「鎌倉は500年前、日本最大の都市であって、現在のミアコや江戸より四倍も大きかったと言われる。頼朝と名乗るこの地の将軍(皇帝)は釈迦の末裔である内裏から王権を奪った。だが今は都市ではなく、山々の間にある心地よい谷に家屋が散在、壮麗な堂塔や、剃髪した女性たちの住む尼寺(というより魔窟)が一つある」。

 この尼寺は東慶寺を指し、日記欄外の注に「フィディア(秀頼)様の幼い娘(天秀尼)は、救命のため髪を切って尼となり、この寺に住んでいる。ここは聖域でいかなる法官も連れ出すことができない…」とある。

 もっとも強い関心を示したのが大仏である。「…他の何ものにもまして私が感歎したのはDibotes(大仏)と呼ばれる、谷間にある巨大な黄銅の偶像で、480年以前に造られた。仏殿は完全に朽ち果てている」。

 実際の鋳造は1252年(建長4)に始まるので「360年以前」とするのが正しい。高さ11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121トン、高徳院の本尊の銅造阿弥陀如来坐像で、ほぼ造立当初の像容を保つ。古記録によると1334(建武元) 年と1369( 応安二) 年の大風、1498(明応七) 年の大地震で仏殿は損壊、露坐となる。なおコックスは鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺等には言及していない。

 東慶寺(1285年建立)は明治に至るまで尼寺、江戸幕府寺社奉行も承認する縁切寺として女性の離婚に関する家庭裁判所の役割を果たしたことで有名、その仏殿(1634年建造)は1907年に三溪園へ移築。また大仏は江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天・養国(増上寺第36 世法主)の手で復興。現在は国宝。また最近の「健康診断」(2016~18年、「昭和の大修理」以来半世紀ぶり)の結果、「深刻な劣化はなく、状態は良好」と発表された(2018年4月23日、日本経済新聞)。大仏の胎内に入ることができるため、胎内各所に100個ほどガムがこびりつき…。佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので、過酷な環境に座している(大仏の)温度を手のひらで感じてほしいとも思う」と言う。

 鎌倉見物を終えたコックスは、10月18日、藤沢で一泊、翌19日は大磯で昼食、この後も昼食の地名と宿泊地を記すが、残念ながら街の様子は書いていない。江戸や京都についても同様。20日は箱根で昼食、沼津泊。21日は蒲原で昼食、由比でアダムズが落馬(飛んできた鳥に馬が驚いて立ちあがったため)、右肩の関節をはずす怪我を負い、江尻泊。22日に駿河の宿に彼を残して先発、23日は掛川で昼食、見附泊。24日は新居で昼食。25日は藤川で昼食、鳴海泊。26日に桑名、27日に庄野で昼食、関泊。28日は石部で昼食。29日、鎌倉を発し11日目に京都着、ウィッカムと再会し平戸からの手紙を受け取る。

 11月2日、京都の史跡巡りにくりだす。まずは方広寺の大仏。豊臣秀吉の発願により1591(天正17)年に完成した木造を、1612(慶兆17)年、家康の薦めで秀頼が金銅仏としたもの(なお1625年には鋳潰)をコックスは見ており、「…驚くばかりの大きさで、仏像は足を組んで座るも、頭は聖堂の天頂に届き、全身に鍍金、…聖堂(大仏殿)は私の見た建物のうち最大…」と記す。

 この聖堂は二条城、江戸城、名古屋城等を築城し、日光東照宮等の家康関連の建造物を建てた大工棟梁の中井藤右衛門正清の手になり、石垣のみが残る。

 ついで三十三間堂(蓮華王院の本堂)を訪れ、「中央の黄銅の大仏と両脇に3333体の像」(実際は木造の本尊千手千眼観音坐像と1001体の千手観音)と記し、「…人間そっくりの優れた形、…純金で鍍金された絢爛たる姿…風神雷神…」と具体例を挙げた後、「この聖堂は私が見たなかでもっとも嘆賞すべきもの…著名な世界の七不思議のいずれにもひけを取らない」と結ぶ。

 最後に訪れたのが豊国廟(豊臣秀吉の墓)。「…ただ感嘆させられるばかりで、言葉で言い表せない。…まことに巨大な建物で、内部も外部も見事な細工…他のいずれより優れている。…」と、豊臣家滅亡後に徳川家の命により廃絶される寸前の姿を描く。現在は明治天皇の勅命により再興された豊国神社。

 11月25日、大坂を出帆、瀬戸内海を通り12月2日に下関、翌3日に平戸に無事帰着。わずか9日ときわめて速い。2年後の1618年2月には倍の18日を要した事例を挙げている。季節風の関係であろう。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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