FC2ブログ

岡倉天心『日本の覚醒』を読む

 岡倉天心市民研究会(新井恵美子会長、千葉信行事務局長)の2018年6月30日の定例会で、上掲のテーマをいただき講演した。岡倉天心市民研究会(岡倉天心横浜顕彰会)は、岡倉天心(1862~1913年)の生誕150年没後100年を記念して、2013(平成25)年に開かれた三溪園茶会、横浜市開港記念会館(天心の生誕地)の「天心フォーラム」を基に2014年6月に発足、8月に会報『天心報』を創刊、定期的に活動をつづけ、5年目に入る。以下に講演の概要を記す。

 岡倉天心『日本の覚醒』の底本として英和両文を収録した講談社学術文庫版(“THE AWAKENING OF JAPAN”, by OKAKURA KAKUZO、1904.夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部は私の責任で変更した。

 本書は次の10章からなる。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 じつは本ブログの2016年9月20日号で「20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』」を掲載、「…天心の英文3部作のうち、本書は美術論ではなく、江戸時代以降の日本人の根底に流れる<精神>に関する史論」と述べた。第4章「内からの声」で天心は、行動主義的な陽明学が「危機に直面して平静、事を計るに機知縦横、事態の変化に機敏に対応」する力を育んだと強調する。

 6章「幕閣と大奥」においては、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策について「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価する。つづけて「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」と述べ、明治政府による前政権(幕府)批判の代名詞である「不平等条約説」を、見事に否定している。

 この天心の史論はどのように導き出されたのか、阿部正弘への髙い評価はどこから生まれたのか。天心はホークス編『ペリー艦隊日本遠征記』(1856年に米上院に提出)は読んでいたと思われるが、日本側史料は入手できておらず、史実から導き出したというより、独特の鋭い歴史観により構築したのではないか。

 天心の歴史観は、彼の講義録や講演録からも窺い知れる。とくに『日本美術史』(1891(明治24)年秋から東京美術学校の講義録)と『泰東巧藝史』(1910(明治43)年4月からの東京帝国大学文科大学の講義録)(筑摩書房『明治文学全集』38『岡倉天心集』1968年所収)に見られる。(旧漢字⇒新漢字)。

 (1)「世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす、是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑いたる所は、即ち今人の泣き或ひは笑ふの源をなす。…」(『日本美術史』)。

(2)『泰東巧藝史』では、日本美術史を広く巧藝史と捉え、地理的に東アジアからインド・中東にわたる東西交流史に注目、美術史研究の方針として5ヵ条を掲げる。①傑作に就きて意匠とテクニックとを明らかにすること、②前後の時代を研究すべきこと、③類似せる巧藝品の相互関係を研究すべきこと、④巧藝の文明史的研究及びその時代に於ける巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係をも比較攻究すべきこと、⑤作品の優劣を批判し、其の妙味を玩味すること、及び之を現在に応用すること。うち④「巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係」にヒントがあると思われる。 

 今回の講演では、天心の史論の背景を紹介した上で、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)や拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)等を使い、(パワーポイント放映はパソコンの不具合のため断念)、配布資料(計4ページ)のみを通じて、次の順で日米交渉の経過と成果を説明した。①1850年頃の環太平洋、②ペリー派遣の目的、③幕府の得た海外情報と対外政策の変遷、④<避戦>に徹した老中・阿部正弘の決断、⑤交渉の使用言語(口頭ではオランダ語を通じた二重通訳)、⑥<避戦>に徹した阿部正弘の基本政策が、林大学頭復斎ら交渉陣の奮闘により、世界初の<交渉条約>を生みだした。その結果、「近代国際政治-4つの政体」(列強、植民地、「懲罰」を伴う<敗戦条約>、「懲罰」のない<交渉条約>)が誕生する。

 日米交渉の最大の転機となったのが、1854年3月8日、横浜村における幕府全権の林大学頭とペリーとの会談である。その冒頭でペリーは艦隊員の死去に伴う埋葬を要請、林が「…はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。…」と応え、了承する。

 ペリーが本題を切り出した。「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、近海の難破船の救助もせず、海岸近くに寄れば発砲し、また漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国民を我が国民が救助して送還しようにも受け取らない。自国民をも見捨てるなど明らかに道義に反する。…我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対しており、往来する船はいっそう増える。貴国の国政がこのままであれば、多くの人命にかかわることで、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する用意がある。我が国は隣国のメキシコと戦争し、国都まで攻め取った。事と次第によっては、貴国も同じようなことになりかねない。」

 ついで林が反論の口火を切る。「戦争もあり得るやもしれぬ。しかし、貴官の言は事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思い込んでおられるようである。…我が国の人命尊重は世界に誇るべきものであり、この300年にわたり太平の時代がつづいたのも人命尊重のゆえである。…近海で難破した他国の船には、薪水や食料を十分に供してきた。…貴国の漂流民も、すでに必要な措置を講じて送還済みである。…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくとお考えあれ。」

 ペリーは幕府の政策転換を十分に把握しておらず、異国船を強硬排除する無二念打払令(1825年の文政令)と穏健な天保薪水令(1842年)の混同を林に突かれて反論ができなかった。交渉はこれでほぼ決着がつく。

 数日後、ペリーは土産の陸揚げを要請、レールを2キロメートル敷設し、4分の1モデルの蒸気機関車と客車・貨車を走らせ、技術力の高さを見せつけた。

 条約の細かい詰めは滞りなく進み、3週間後の1954年3月31日(嘉永七年三月三日)、12か条からなる日米和親条約は調印に至る。

スポンサーサイト
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR