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タケの開花(その7)

 三溪園のタケ・ササの花が終わりに近づいている、そう長くはあるまい、と想定しつつ書いたのが、本ブログの7月6日版「タケの開花(その6)」であった。

 これまでムギ研究(農学)の第一人者・坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授)に科学的分析と見解の大部分を依存し、庭園担当の羽田雄一郎主事による日々の観察に頼り、私は主に三溪園のタケの花の推移を記録・公開すると同時に、文化的・歴史的背景を追って、昨年からブログ「タケの開花」を書いてきた。今回が(その7)になる。

前回の(その6)の末尾で、坂さんによる第12回「観察報告」(6月28日現在)の総括に触れたが、紙幅の余裕がなく掲載できなかった。それを最初に紹介したい。今回は写真や地図がないと分かりにくいため、本ブログで初めて画像入りとした。


【タイミンチク】
▶ 6月28日の観察で三溪園内のタイミンチクの分布域を把握し直した。分布エリア内部には大きな株が散在しており、そこから地下茎により子株、孫株とクモの巣状ネットワーク(Web)のように分布を広げている様子が見て取れる。

▶ 私の考えでは、昨年は尾根筋を中心としたタイミンチク分布域の中央で、数十年の周期で竹林全体が同調して開花する「一斉開花」が見られ、その勢いからすると竹林の全面で開花のピークを迎えた。

▶ 今年は一斉開花が継続。そのピークは三重塔や旧東慶寺仏殿方面の北東から東側の辺縁部に広がり、また昨年の咲き残りが竹林内部の株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

▶ この場合、一斉開花は一年で終わらず、それが昨年のピークの前後で数年続いていると思います。

▶ 竹林全体でも開花のエリアが移動しており、面積的に昨年が全面的な一斉開花(全面開花)とすると、今年は辺縁部分での開花(部分開花)あるいは部分的な全面開花であると考えます。花穂の枯れた様子を見ると、旧東慶寺仏殿付近が昨年から開花はあったものの、やはり今年の方が花は増えていると思われます。辺縁部が3〜4年に亘る一斉開花の終盤に当たるのか否か、予見は難しいと思います。
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タイミンチクの2017年/2018年開花観測地点比較


【オロシマササ】
 今年のオロシマササの開花は、昨年同様に事務所から見て向かって左側の生垣がほぼ全体にわたって全面開花し、右側の垣根でも部分開花をして、昨年よりも花の数は減ったが5月に開花のピークを迎えた。来年も部分開花は期待されるが、数と場所は限られると予想している。今後の刈り込み施肥管理の状況により、地下茎や株の生育具合によって出穂・開花の様相が左右される可能性がある。(その総括に至った考察を以下に述べる)

考察①:これまで(一昨年以前)にオロシマササが開花していたかどうか判断できないが、昨年タイミンチク同様に「一斉開花」が見られ、今年は部分的に継続した「一斉開花」が昨年も多くの花を付けた株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

考察②:管理事務所から見て向かって右手の垣根では、昨年も開花していた特定の株で今年も出穂・開花が見られたが、昨年同様に全体的に開花はしていない。また、6月に入り栄養成長が盛んになるにつれ垣根全体を通して葉に二型が顕著になった。出穂していない稈は幅広で長い葉をつけ、出穂しているものは小さい葉をつけており、a)遺伝的に均一な集団ではないかもしれない、b)刈り込み等の管理による生育状況、栄養状態により出穂開花が制御されているかもしれないなどの仮説が立てられる。来年の開花が長期周期により減少傾向に進むのか?あるいはこれからの刈り込み作業などで夏場の生育が来年の開花に影響するかは、今後実験的思考も含め検討する必要がある。

なお参考として「ササの開花と結実」(2014年、名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要)、柴田昌三(京都大学地球環境学堂)「緑化植物としてのササ類」(2015年 『草と緑』7)、柴田昌三「緑化植物としてのササ類の特性とその利用」の添付あり。





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以上が坂さんによる2年間の観察の総括と見通しである。

 この間、私はタケ・ササの開花周期等に関して思いを巡らし、確かな記録が見つからない以上、他の方法で補正することができないかと、簡略なアンケート調査(主にメールによる)を実施した。お願いした対象はテニス仲間の3団体、構成員合計は約50名だが、よく参加する<常連>は30名~35名である。7月8日晩に次の質問事項をメールで発信した。

 つかぬことをお尋ねします(アンケート調査のお願い)。以下の6問にお答えください。
 Q1 タケ・ササの花を見たことがありますか? はい いいえ
 Q2 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q3 タケ・ササが枯れた姿を見たことがありますか? はい いいえ
 Q4 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q5 タケ・ササの花について話を聞いたことがありますか? はい いいえ
 Q6 どのような話ですか?
 実は私の関係する国指定名勝三溪園(横浜)でタケ・ササが咲いており、この何年に一度と言われる現象に関して調べている最中です。みなさんからの貴重な情報が役立ちます。サンプル数が多ければ多いほど確率が高くなりますので、ぜひご協力ください。よろしくお願いします。   加藤祐三

 その晩から回答が来始めて翌日に集中、コートで直接に訊いたものを含めると計26通。それを材料に集計、そこから得られた主な論点は以下の通りである。

 Q1とQ3については、「いいえ」が多かった。メール返答がない方々に口頭で尋ねると、Q1、Q3、Q5の全問に「いいえ」なので返信しなかったとのこと、これを加えると圧倒的多数派である。なお全問に「はい」は一人のみ。

 Q1に「はい」と答えた人も三溪園へ観に行った、テレビで観た等であり、唯一の例外が花を2度観たとの回答1件と「子どもころ周辺に多くの竹林があり、いつも花を観ていた」の1件である。

 Q3の枯れ死を見たとする回答は、花を見たとするものよりすこし多い。タケの花は小さく目立たないが、竹林の枯れ死は外からも異様な風景として印象が強いのであろう。静岡、成田等、見た場所を覚えているもの、曖昧とするものもあった。

 Q5については「はい」が意外に多かった(全体の約3分の1)。Q6の記述は2種に分けられる。第1のタイプが花の周期に関するもので、「100年周期で咲く」、「数10年に一度」、「めったに咲かない」等々である。なお「(戦禍を免れた)庭のマダケに白い花が咲くと母親から聞いていたが、自分はまだ観たことがない」と答えた83歳の仲間、タケの花の長い周期を知る実例の一つとなる。

 Q6の第2のタイプは、開花と枯れ死を関連づけた話である。「昔からよく聞いています。100年に一回、花が咲くとその竹藪は全体が枯れるというように」、「花が咲くと枯れ、数十年に一度ぐらい起こると聞いています」、「咲くことは咲くが、極めてまれである。花が咲いたタケ・ササは枯れてしまう」等である。

 花が咲くと枯れるとする説(噂、伝承、風説)は少なくないが、こう答えた人のうち「タケの花と枯れ死を見た」は、今回の調査では一人だけであり、それも同じ竹林ではない。「花が咲くと枯れる」とする説の根拠は、依然として不明のままである。

 またアンケート調査の波及効果も想定以上に大きく、「人生100歳時代」を唱えるテニス仲間の最長老(85歳)は、そのモットーに「<竹の花を観た>と加えたい」として、アンケートを見た翌日に即断即決、夫妻で三溪園へ行き、ギリギリの時期にタケの花に会えたと感激の報告をくれた。

 さらに坂さんがフェイスブックを使ってアンケートを10日に開始、対象は彼の授業を受けている学生で、20名の回答があった。回答の分布等は上掲のものと似ているが、Q6の内容に物語性(劇画性)が強い印象を抱く。

 Q1については「はい」が4名だが、ネットのニュースの写真で見たがふくまれ、実物を見たのは2名。Q3については「はい」と「いいえ」が半々で、「子どものころ通学路にあった竹やぶで」、「明確な記憶はないが、見たことがあるような気が…」とある。

 Q5についても「はい」と「いいえ」が半々で、Q6では「120年ぶりに咲いた笹の花のニュース。余りにも珍しいためか、大地震の予兆というはなしもあるらしい」、「なかなか咲くことはなく、100年に一度と言った周期で咲く。ただし、当たり年はピッタリ1年ではなくブレがあることも分かっている」と自信たっぷりの回答もある。また「咲くのは珍しく、咲くときは一斉に咲き、その後すべて枯れる」や「咲いたら枯れる」ともある。

 しかしタケの開花とその枯れ死を同じ竹林で見たとの回答はない。

 これらのアンケートから得たものが一般的に妥当するかどうかは定かでないが、一つの試みとしては有益だったと思う。

 昨年は、三溪園のタケの花がいつ終わったかの確認を迂闊にも行わなかったため、今年はしっかり見張ることとしている。羽田さんに頼むと同時に、彼に種々の連絡をくれる巡回警備の天野英士さんや清掃担当の鳥澤雅志さんにもお願いした。

 開花は気づきやすく、日にちも特定しやすいが、花の終わりとなるとまた別である。タケ・ササの花は花弁がなく(露出せず)、小さい黄色の雄しべが3個、雌しべの周囲についていて、風にゆれるのを頼りに判別する。終わりに近づくと黄色の雄しべが退色するが、どの段階が花の終焉なのか判別するのは難しく、おおよその判断しかできない。

 「本日7月9日、タケ・ササの花が少なくなり、花の所在を示す案内板を撤去しました。なお新しい開花も見られます」と羽田さんからメールが入った。撤去したのは丘の上のタイミンチクの案内板で、内苑入口のオロシマササの案内板は残してある。

 7月12日、羽田さんと一緒に園内を見て回った。オロシマササには新しい花がいくつか見られた。広域に繁茂するタイミンチクは、これまで咲いていた場所とその周辺を重点的に観察、いくつかの新しい花を見つけた。さらに周辺部と外延部も見て回ったが、こちらには新たな開花は見られなかった。

 15日、蓮の花を愛でる早朝観蓮会が始まって二日目、猛暑のなか坂さんと羽田さんが観察を行い、羽田さんが観察結果と見通しを送ってくれた。オロシマササもタイミンチクも12日の観察より花の数が増えているとあり、驚かされる。「…全体としては両種とも全面開花の盛期は終わり、栄養成長期(枝葉が伸長する時期)に入ったとことから一つの区切りをつけてもいい時期かと思いますが…、花の終焉という表現にふさわしい状態がいつ頃訪れるか予想は難しく、人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさを感じております」とあった。

 「人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさ」に、私も強く共感する。とりあえず、以上をもって急ぎ中間報告としたい。
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タケの開花(その6)

 「今年も三溪園のタケの花が咲いた」と書いたのが4月17日のブログ「タケの花(その5)」である。その末尾で4月11日に坂智広さん(横浜市立大学木原研究所教授)から届いた論考「三溪園の竹の花 観察記録(1)」の一部を引いた。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマササとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのかは全く分かっていません。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…」

 これから約2か月半になる。内苑の事務所前にある植え込みのオロシマササと三重塔近くに繁茂するタイミンチク、いずれも静かに咲いている。オロシマササは丈が低いためか、しゃがんでカメラを構える人の絶えることがない。

 昨年より1か月以上も早く開花した後の展開は、ゆっくりで目立たないが、終わってはいない。最近の記録から抜粋すると、「…オロシマササは開花株と開花穂が増えてきたという印象。出穂の仕方について、多くは根元の分げつから1本だけ出穂するタイプだが、昨年開花した株では高いところの節から分枝して出穂開花しているタイプも見られる。 地際から生える新枝についた穂も、昨年より大きめで色が濃いように感じた」(4月26日、坂)。

 「園内を一巡、タイミンチクの新たな開花は認められなかったがオロシマササの開花は見つけた」(5月1日、私)、「坂さんが来園、羽田雄一郎主事(庭園担当)と一緒にオロシマササ及びタイミンチクの観察を行う。印象では開花が進んだようには見えないが、一部に新しい花も発見した」(5月10日、私)、「今日はすこし蒸し暑い。オロシマササの開花が増えた印象あり」(5月17日、坂+私)とある。

 5月21日、斎藤淳一さんからメールが入った。本ブログの2018年3月26日「善四郎とペリー饗応の膳」で紹介した方で、2年連続で咲いたタイミンチクとオロシマササの写真を撮ってきた。「昨年(6月9日)も<一生に一度しかないチャンス>と蚊に刺されながら撮影してきましたが、その経験を活かして今年は準備万端、長袖シャツに虫よけスプレー、虫刺されのかゆみ止め、…去る16日に開園の午前9時を待って入園、撮影してきました」とある。

 これにつづく一文が、多くの人の気持ちを代弁しているのではないか。「生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を2年連続で、しかも同じ場所の同じ株(地下茎)で観られる<幸運>を喜んでいいのやら、<その分、宝くじ高額当選運が遠ざかった>と嘆くべきか、はたまた、何か(天変地異でも?)が起こる予兆なのか…と、この珍現象にひとりで興奮しています。」

 5月31日、三重塔の近くでタイミンチクを観察しつつ談笑している二人連れのご婦人に声をかけた。「…タケの花には花弁がないのが特徴、イネ科の植物で雄しべ・雌しべともにイネやムギに似ている。イネやムギは受粉して実をつけ、それを人が食べるが、タケは開花後に必ずしも結実しないこともあり、結実しても不稔のこともある。そもそも開花の目的が子孫を残すためか、あるいは地下茎による個体の再生産(クローンの形成)が何らかの要因で困難を来たし、死滅を回避する一つの方法として開花・受粉して実をつけるのか…いずれも分かっていません。」等々、これまで得た知識をすこしばかり披露した。

 お一人が、子どものころ川崎で、青桐の花は咲くと死滅する、開花が不吉の代名詞とされていた、また蓮の花は咲くときにポンと音がすると言われ、早朝に寺へ聴きに行ったが、和尚さんから「そんなことはありません」と教えられたと話してくれた。私が「ポンという音の噂に誘われて、お寺参りや早朝の観蓮会に人が集まるのでは?…」と言うと、「…あら。黙っている方が良いかしらね」の返事。たわいない、楽しい会話だった。

 この日の夕方、坂さんが固定カメラ3台を設置、タイミンチクの定点観測を開始した。

 6月14日、所用で来園できない坂さんに、私から「観察では一昨日及び先週と似ていて、新しい花もあれば、そのままの穂先が残ってもいる印象。全体として増えても減ってもいない。」と送った。羽田さんの観察は、「花数としては、先週よりもやや少ないと感じ…雄しべが垂れた状態の花数は、先週と同じくらいにも思えたが、開花したての花や先週の観察で…注目の新たなつぼみは減少しているようでした。出世観音の手前で新しいつぼみが見られた程度です。鈴なりの穂は新たに見つけられず…」と詳しい。

 19日、北九州市立大学の近藤倫明前学長がメールで、「竹の花は60年に一度枯れる前にとの説有。遠く離れても呼応して咲くと竹学者から聞いたことがあります。」と報せてくれた。開花周期説も開花後の枯れ死説も、全国規模で言われているようである。確かな記録に基づく説明が欲しい。

 後日、近藤さんから同僚の岩松文代さんの研究資料「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal no.30 2017)を受けとった。「万葉集で「たけ」は皇族を象徴する高貴な概念を持つ言葉で、人の美しい姿、さびしさ、苦しい恋などの比喩であり、「ささ」は人をおもう切なさの比喩…」とある。古代人の抱くイメージに、目前の花が重なる。

 <竹酔日>(ちくすいじつ)という言葉を思い出した。去年6月1日掲載の「タケの開花(その2)」に「…<竹酔日>の言葉が村松さんから出た。この日にタケを植えるとよく育つという中国の言い伝えで、陰暦5月13日、新暦で6月23日頃を指す。この頃がタケの個体更新や世代交代の最適期なのか。まずは竹酔日までの変化をしっかり観察していきたい。」と書いた。

 その<竹酔日>の6月23日が昨年の「タケの開花(その4)」の掲載日で、テレビ朝日の報道の顛末等を引用して終わっている。

 今年の<竹酔日>はとうに過ぎた。坂さんが地図を作り、6月28日、「…去年より開花地域がり…三重塔西側斜面から東慶寺お堂と滝の方向に向かった北東側でタイミンチクに多くの開花が見られる。…」と送ってくれた。今年初めて開花域が拡がったのか、あるいは今年初めてそれに気づいたのか。

 6月29日、気象庁はついに関東甲信の梅雨明けを宣言、6月中の梅雨明けは観測史上初とのことである。<異常気象>か<温暖化>か。

 4月4日にオロシマササが咲いたとの第一報が入ってから3か月も経過してしまった。7月4日、昨年と今年の開花地点を示した新しい地図と観察結果に関する壮大な仮説が坂さんから届いたが、今回は7月5日までの近況を急ぎお届けする。

 タイミンチクもオロシマササもまだ咲いている。

岡倉天心『日本の覚醒』を読む

 岡倉天心市民研究会(新井恵美子会長、千葉信行事務局長)の2018年6月30日の定例会で、上掲のテーマをいただき講演した。岡倉天心市民研究会(岡倉天心横浜顕彰会)は、岡倉天心(1862~1913年)の生誕150年没後100年を記念して、2013(平成25)年に開かれた三溪園茶会、横浜市開港記念会館(天心の生誕地)の「天心フォーラム」を基に2014年6月に発足、8月に会報『天心報』を創刊、定期的に活動をつづけ、5年目に入る。以下に講演の概要を記す。

 岡倉天心『日本の覚醒』の底本として英和両文を収録した講談社学術文庫版(“THE AWAKENING OF JAPAN”, by OKAKURA KAKUZO、1904.夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部は私の責任で変更した。

 本書は次の10章からなる。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 じつは本ブログの2016年9月20日号で「20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』」を掲載、「…天心の英文3部作のうち、本書は美術論ではなく、江戸時代以降の日本人の根底に流れる<精神>に関する史論」と述べた。第4章「内からの声」で天心は、行動主義的な陽明学が「危機に直面して平静、事を計るに機知縦横、事態の変化に機敏に対応」する力を育んだと強調する。

 6章「幕閣と大奥」においては、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策について「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価する。つづけて「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」と述べ、明治政府による前政権(幕府)批判の代名詞である「不平等条約説」を、見事に否定している。

 この天心の史論はどのように導き出されたのか、阿部正弘への髙い評価はどこから生まれたのか。天心はホークス編『ペリー艦隊日本遠征記』(1856年に米上院に提出)は読んでいたと思われるが、日本側史料は入手できておらず、史実から導き出したというより、独特の鋭い歴史観により構築したのではないか。

 天心の歴史観は、彼の講義録や講演録からも窺い知れる。とくに『日本美術史』(1891(明治24)年秋から東京美術学校の講義録)と『泰東巧藝史』(1910(明治43)年4月からの東京帝国大学文科大学の講義録)(筑摩書房『明治文学全集』38『岡倉天心集』1968年所収)に見られる。(旧漢字⇒新漢字)。

 (1)「世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす、是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑いたる所は、即ち今人の泣き或ひは笑ふの源をなす。…」(『日本美術史』)。

(2)『泰東巧藝史』では、日本美術史を広く巧藝史と捉え、地理的に東アジアからインド・中東にわたる東西交流史に注目、美術史研究の方針として5ヵ条を掲げる。①傑作に就きて意匠とテクニックとを明らかにすること、②前後の時代を研究すべきこと、③類似せる巧藝品の相互関係を研究すべきこと、④巧藝の文明史的研究及びその時代に於ける巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係をも比較攻究すべきこと、⑤作品の優劣を批判し、其の妙味を玩味すること、及び之を現在に応用すること。うち④「巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係」にヒントがあると思われる。 

 今回の講演では、天心の史論の背景を紹介した上で、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)や拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)等を使い、(パワーポイント放映はパソコンの不具合のため断念)、配布資料(計4ページ)のみを通じて、次の順で日米交渉の経過と成果を説明した。①1850年頃の環太平洋、②ペリー派遣の目的、③幕府の得た海外情報と対外政策の変遷、④<避戦>に徹した老中・阿部正弘の決断、⑤交渉の使用言語(口頭ではオランダ語を通じた二重通訳)、⑥<避戦>に徹した阿部正弘の基本政策が、林大学頭復斎ら交渉陣の奮闘により、世界初の<交渉条約>を生みだした。その結果、「近代国際政治-4つの政体」(列強、植民地、「懲罰」を伴う<敗戦条約>、「懲罰」のない<交渉条約>)が誕生する。

 日米交渉の最大の転機となったのが、1854年3月8日、横浜村における幕府全権の林大学頭とペリーとの会談である。その冒頭でペリーは艦隊員の死去に伴う埋葬を要請、林が「…はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。…」と応え、了承する。

 ペリーが本題を切り出した。「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、近海の難破船の救助もせず、海岸近くに寄れば発砲し、また漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国民を我が国民が救助して送還しようにも受け取らない。自国民をも見捨てるなど明らかに道義に反する。…我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対しており、往来する船はいっそう増える。貴国の国政がこのままであれば、多くの人命にかかわることで、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する用意がある。我が国は隣国のメキシコと戦争し、国都まで攻め取った。事と次第によっては、貴国も同じようなことになりかねない。」

 ついで林が反論の口火を切る。「戦争もあり得るやもしれぬ。しかし、貴官の言は事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思い込んでおられるようである。…我が国の人命尊重は世界に誇るべきものであり、この300年にわたり太平の時代がつづいたのも人命尊重のゆえである。…近海で難破した他国の船には、薪水や食料を十分に供してきた。…貴国の漂流民も、すでに必要な措置を講じて送還済みである。…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくとお考えあれ。」

 ペリーは幕府の政策転換を十分に把握しておらず、異国船を強硬排除する無二念打払令(1825年の文政令)と穏健な天保薪水令(1842年)の混同を林に突かれて反論ができなかった。交渉はこれでほぼ決着がつく。

 数日後、ペリーは土産の陸揚げを要請、レールを2キロメートル敷設し、4分の1モデルの蒸気機関車と客車・貨車を走らせ、技術力の高さを見せつけた。

 条約の細かい詰めは滞りなく進み、3週間後の1954年3月31日(嘉永七年三月三日)、12か条からなる日米和親条約は調印に至る。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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