原範行さんのお別れ会
2018(平成30)年4月23日(月曜)早朝、原範行(はら のりゆき)さんが肺炎で亡くなられた。享年89。四十九日に当たる6月18日(月曜)の「故 原範行 お別れの会」案内が、ご子息(女婿)の原信造「ホテル、ニューグランド」会長(正式名はホテルの後に点を付す。以下ニューグランドと略称)と濱田賢治社長名で届いた。ニューグランド2階のフェニックスホールには、優しい笑顔の遺影が掲げられ、数えきれない白い花が捧げられた。
原範行さん(以下、範行さん)は1929(昭和4)年、外交官の吉岡範武の次男として任地のフランス・パリに生まれ、1953(昭和28)年、東京工業大学金属工学科卒業、日産自動車株式会社に入社し1967(昭和42)年に退社。1971(昭和46)年、原地所株式会社(原合名会社地所部を承継した会社)の代表取締役社長。1983(昭和58)年、ニューグランド代表取締役社長、2003(平成15)年、同代表取締役会長。また横浜商工会議所副会頭、社団法人日本ホテル協会会長、三溪園保勝会理事等の公職を歴任した。
たどれば、範行さんは原富太郎(原三溪)から数えて3代目の原家当主(女婿)であられる。富太郎は岐阜県生まれ、開港横浜の第一世代で埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿の女婿であり、1906(明治39)年、三溪園(外苑)を一般公開した。
戦後の1953年、三溪園は横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人三溪園保勝会(理事長は歴代市長、2004年より内田弘保)が管理に当たり、2007年に国指定名勝、2012(平成24)年に公益財団法人三溪園保勝会となる。園内に国指定重要文化財の建造物10棟を有す。
亡くなられた後の6月12日に開かれた三溪園理事会では、議事に先立ち、一同、範行さんへの深い謝意を表し、黙祷を捧げた。「原様には昭和41(1966)年4月本財団理事にご就任いただき、平成24(2012)年の公益認定後は評議員として、実に50年にわたり多大なご支援とご協力をいただきました。原三溪の業績や人となりを伝える「三溪記念館」の建設や「鶴翔閣」の整備も原様のご尽力なくしては成しえませんでした。…三溪記念館のオープン(平成元(1989)年)にあたってご寄贈いただいた貴重な美術品や資料は、今日展示や研究において欠くことのできないものであり…国内外からの賓客おもてなしについては、特に昭和59(1984)年の皇太子殿下ご夫妻ご来園において大変なお骨折りをいただいたと伺っております。…」
ニューグランドは、山下公園の真向かい、横浜中華街へ通じる横道沿い1区画を占め、横浜における主要なランドマークの一つである。関東大震災(1923=大正12年)後、官民一体の震災復興計画の一環として(今日の第三セクター)、旧フランス海軍病院跡地に設立、倒壊廃業の外国ホテル「グランドホテル」(明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に開業)の後継館として、1927年(昭和2年)12月に開業した(『ホテル、ニューグランド八十年史』2008年等を参照)。今年で91年になる。
現在の本館は渡辺仁の設計になるクラシックホテル。渡辺は上野の東京国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、有楽町の旧日劇(日本劇場)やGHQが置かれた東京丸の内の第一生命ビルを設計している。
ニューグランドの初代会長・井坂孝は東洋汽船出身。ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘、新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」を旗印にレストランに力を注ぎ、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を生み出した。ここからホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉をはじめ数々の名店の料理長を輩出、日本の食文化に大きく貢献する。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリンなど著名人も多数来訪し、1937年に新婚旅行で宿泊したD・マッカーサーは、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、315号室に宿泊した。
範行さんの社長時代の1991(平成3)年、18階建て(高さ73m)のタワーが開業、その3階に <ペリー来航の間>(250~400名収容可の広間) が設けられた。山下公園と港を一望するこの大広間に、原家所蔵の仮ハイネ油彩画「ペルリ提督横浜上陸の図」(のち横浜美術館へ寄贈)から起こしたネガで布地にカラー印刷した幕が配されている。ここがお別れ会の懇親会会場となった。
私事にわたるが、範行さんと初めてお会いしたのが、この広間で「ペリー来航と開国」と題する講演をした時である。ここを<ペリー来航の間>と名づけた理由を伺う機会を失したが、その2年前の1989年に開かれた横浜市政公布100年・開港130周年・横浜博覧会YES’89と、みなとみらい地区開発と無縁ではなかろう。
YES’89での「黒船館」の基本コンセプトとして、拙著『黒船異変』(岩波新書 1988年)や『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)で展開した<交渉条約>説が採用された。永らく続いた「日米和親条約(1854年)=不平等条約」説を否定し、老中阿部正弘の主導により、横浜村で開かれた林大学頭とペリー提督との論戦を皮切りに交渉を重ね、ほぼ対等な内容の条約が結ばれたとする内容である。この条約が後の日米修好通商条約(1858年)につながり、横浜開港(1859年)の礎となった。
幕府は国際情勢をよく分析、インドがイギリス植民地、インドネシアがオランダ植民地となり、立法・司法・行政の国家三権すべてを失ったこと、また清朝中国がイギリスと2年にわたるアヘン戦争の末に結んだ<敗戦条約>の南京条約(1842年)により、「懲罰」として領土割譲と賠償金支払いを余儀なくされたこと等を分析し、それを「他山の石」(教訓)として、<避戦>に徹し<交渉条約>を導き出した。<交渉条約>にはそもそも「懲罰」の概念がない。現代から見て不平等な面は、アメリカ外交官の下田駐在を認め、日本の外交官のアメリカ駐在を決めていない<双務性の欠如>であろう。
27年前の講演でも、ニューグランドのすぐ近く、大桟橋の付け根の開港広場、開港資料館、神奈川県庁の辺りに設けた応接所で締結した日米和親条約の意義を強調、今の横浜の発展はここに起源すると話した。なお上掲の拙著は品切れで、その後継補正版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)である。
お別れ会にはさまざまな人が集い、実業界にとどまらぬ範行さんの豊かな人脈を表していた。原三溪市民研究会(廣島亨会長)顧問の猿渡紀代子さん(横浜美術館元学芸員)もその一人。三溪園が保管する稿本・藤本實也「原三溪翁伝」(1945年8月16日脱稿)を、多数の人と協力して『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009年11月)の刊行にこぎつけた折の主要メンバーである。原三溪市民研究会は、今年の三溪生誕150周年事業においても重要な一端を担っている。
原範行さん(以下、範行さん)は1929(昭和4)年、外交官の吉岡範武の次男として任地のフランス・パリに生まれ、1953(昭和28)年、東京工業大学金属工学科卒業、日産自動車株式会社に入社し1967(昭和42)年に退社。1971(昭和46)年、原地所株式会社(原合名会社地所部を承継した会社)の代表取締役社長。1983(昭和58)年、ニューグランド代表取締役社長、2003(平成15)年、同代表取締役会長。また横浜商工会議所副会頭、社団法人日本ホテル協会会長、三溪園保勝会理事等の公職を歴任した。
たどれば、範行さんは原富太郎(原三溪)から数えて3代目の原家当主(女婿)であられる。富太郎は岐阜県生まれ、開港横浜の第一世代で埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿の女婿であり、1906(明治39)年、三溪園(外苑)を一般公開した。
戦後の1953年、三溪園は横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人三溪園保勝会(理事長は歴代市長、2004年より内田弘保)が管理に当たり、2007年に国指定名勝、2012(平成24)年に公益財団法人三溪園保勝会となる。園内に国指定重要文化財の建造物10棟を有す。
亡くなられた後の6月12日に開かれた三溪園理事会では、議事に先立ち、一同、範行さんへの深い謝意を表し、黙祷を捧げた。「原様には昭和41(1966)年4月本財団理事にご就任いただき、平成24(2012)年の公益認定後は評議員として、実に50年にわたり多大なご支援とご協力をいただきました。原三溪の業績や人となりを伝える「三溪記念館」の建設や「鶴翔閣」の整備も原様のご尽力なくしては成しえませんでした。…三溪記念館のオープン(平成元(1989)年)にあたってご寄贈いただいた貴重な美術品や資料は、今日展示や研究において欠くことのできないものであり…国内外からの賓客おもてなしについては、特に昭和59(1984)年の皇太子殿下ご夫妻ご来園において大変なお骨折りをいただいたと伺っております。…」
ニューグランドは、山下公園の真向かい、横浜中華街へ通じる横道沿い1区画を占め、横浜における主要なランドマークの一つである。関東大震災(1923=大正12年)後、官民一体の震災復興計画の一環として(今日の第三セクター)、旧フランス海軍病院跡地に設立、倒壊廃業の外国ホテル「グランドホテル」(明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に開業)の後継館として、1927年(昭和2年)12月に開業した(『ホテル、ニューグランド八十年史』2008年等を参照)。今年で91年になる。
現在の本館は渡辺仁の設計になるクラシックホテル。渡辺は上野の東京国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、有楽町の旧日劇(日本劇場)やGHQが置かれた東京丸の内の第一生命ビルを設計している。
ニューグランドの初代会長・井坂孝は東洋汽船出身。ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘、新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」を旗印にレストランに力を注ぎ、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を生み出した。ここからホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉をはじめ数々の名店の料理長を輩出、日本の食文化に大きく貢献する。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリンなど著名人も多数来訪し、1937年に新婚旅行で宿泊したD・マッカーサーは、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、315号室に宿泊した。
範行さんの社長時代の1991(平成3)年、18階建て(高さ73m)のタワーが開業、その3階に <ペリー来航の間>(250~400名収容可の広間) が設けられた。山下公園と港を一望するこの大広間に、原家所蔵の仮ハイネ油彩画「ペルリ提督横浜上陸の図」(のち横浜美術館へ寄贈)から起こしたネガで布地にカラー印刷した幕が配されている。ここがお別れ会の懇親会会場となった。
私事にわたるが、範行さんと初めてお会いしたのが、この広間で「ペリー来航と開国」と題する講演をした時である。ここを<ペリー来航の間>と名づけた理由を伺う機会を失したが、その2年前の1989年に開かれた横浜市政公布100年・開港130周年・横浜博覧会YES’89と、みなとみらい地区開発と無縁ではなかろう。
YES’89での「黒船館」の基本コンセプトとして、拙著『黒船異変』(岩波新書 1988年)や『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)で展開した<交渉条約>説が採用された。永らく続いた「日米和親条約(1854年)=不平等条約」説を否定し、老中阿部正弘の主導により、横浜村で開かれた林大学頭とペリー提督との論戦を皮切りに交渉を重ね、ほぼ対等な内容の条約が結ばれたとする内容である。この条約が後の日米修好通商条約(1858年)につながり、横浜開港(1859年)の礎となった。
幕府は国際情勢をよく分析、インドがイギリス植民地、インドネシアがオランダ植民地となり、立法・司法・行政の国家三権すべてを失ったこと、また清朝中国がイギリスと2年にわたるアヘン戦争の末に結んだ<敗戦条約>の南京条約(1842年)により、「懲罰」として領土割譲と賠償金支払いを余儀なくされたこと等を分析し、それを「他山の石」(教訓)として、<避戦>に徹し<交渉条約>を導き出した。<交渉条約>にはそもそも「懲罰」の概念がない。現代から見て不平等な面は、アメリカ外交官の下田駐在を認め、日本の外交官のアメリカ駐在を決めていない<双務性の欠如>であろう。
27年前の講演でも、ニューグランドのすぐ近く、大桟橋の付け根の開港広場、開港資料館、神奈川県庁の辺りに設けた応接所で締結した日米和親条約の意義を強調、今の横浜の発展はここに起源すると話した。なお上掲の拙著は品切れで、その後継補正版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)である。
お別れ会にはさまざまな人が集い、実業界にとどまらぬ範行さんの豊かな人脈を表していた。原三溪市民研究会(廣島亨会長)顧問の猿渡紀代子さん(横浜美術館元学芸員)もその一人。三溪園が保管する稿本・藤本實也「原三溪翁伝」(1945年8月16日脱稿)を、多数の人と協力して『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009年11月)の刊行にこぎつけた折の主要メンバーである。原三溪市民研究会は、今年の三溪生誕150周年事業においても重要な一端を担っている。
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