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原範行さんのお別れ会

 2018(平成30)年4月23日(月曜)早朝、原範行(はら のりゆき)さんが肺炎で亡くなられた。享年89。四十九日に当たる6月18日(月曜)の「故 原範行 お別れの会」案内が、ご子息(女婿)の原信造「ホテル、ニューグランド」会長(正式名はホテルの後に点を付す。以下ニューグランドと略称)と濱田賢治社長名で届いた。ニューグランド2階のフェニックスホールには、優しい笑顔の遺影が掲げられ、数えきれない白い花が捧げられた。

 原範行さん(以下、範行さん)は1929(昭和4)年、外交官の吉岡範武の次男として任地のフランス・パリに生まれ、1953(昭和28)年、東京工業大学金属工学科卒業、日産自動車株式会社に入社し1967(昭和42)年に退社。1971(昭和46)年、原地所株式会社(原合名会社地所部を承継した会社)の代表取締役社長。1983(昭和58)年、ニューグランド代表取締役社長、2003(平成15)年、同代表取締役会長。また横浜商工会議所副会頭、社団法人日本ホテル協会会長、三溪園保勝会理事等の公職を歴任した。

 たどれば、範行さんは原富太郎(原三溪)から数えて3代目の原家当主(女婿)であられる。富太郎は岐阜県生まれ、開港横浜の第一世代で埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿の女婿であり、1906(明治39)年、三溪園(外苑)を一般公開した。

 戦後の1953年、三溪園は横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人三溪園保勝会(理事長は歴代市長、2004年より内田弘保)が管理に当たり、2007年に国指定名勝、2012(平成24)年に公益財団法人三溪園保勝会となる。園内に国指定重要文化財の建造物10棟を有す。

 亡くなられた後の6月12日に開かれた三溪園理事会では、議事に先立ち、一同、範行さんへの深い謝意を表し、黙祷を捧げた。「原様には昭和41(1966)年4月本財団理事にご就任いただき、平成24(2012)年の公益認定後は評議員として、実に50年にわたり多大なご支援とご協力をいただきました。原三溪の業績や人となりを伝える「三溪記念館」の建設や「鶴翔閣」の整備も原様のご尽力なくしては成しえませんでした。…三溪記念館のオープン(平成元(1989)年)にあたってご寄贈いただいた貴重な美術品や資料は、今日展示や研究において欠くことのできないものであり…国内外からの賓客おもてなしについては、特に昭和59(1984)年の皇太子殿下ご夫妻ご来園において大変なお骨折りをいただいたと伺っております。…」

 ニューグランドは、山下公園の真向かい、横浜中華街へ通じる横道沿い1区画を占め、横浜における主要なランドマークの一つである。関東大震災(1923=大正12年)後、官民一体の震災復興計画の一環として(今日の第三セクター)、旧フランス海軍病院跡地に設立、倒壊廃業の外国ホテル「グランドホテル」(明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に開業)の後継館として、1927年(昭和2年)12月に開業した(『ホテル、ニューグランド八十年史』2008年等を参照)。今年で91年になる。

 現在の本館は渡辺仁の設計になるクラシックホテル。渡辺は上野の東京国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、有楽町の旧日劇(日本劇場)やGHQが置かれた東京丸の内の第一生命ビルを設計している。

 ニューグランドの初代会長・井坂孝は東洋汽船出身。ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘、新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」を旗印にレストランに力を注ぎ、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を生み出した。ここからホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉をはじめ数々の名店の料理長を輩出、日本の食文化に大きく貢献する。

 開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリンなど著名人も多数来訪し、1937年に新婚旅行で宿泊したD・マッカーサーは、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、315号室に宿泊した。

 範行さんの社長時代の1991(平成3)年、18階建て(高さ73m)のタワーが開業、その3階に <ペリー来航の間>(250~400名収容可の広間) が設けられた。山下公園と港を一望するこの大広間に、原家所蔵の仮ハイネ油彩画「ペルリ提督横浜上陸の図」(のち横浜美術館へ寄贈)から起こしたネガで布地にカラー印刷した幕が配されている。ここがお別れ会の懇親会会場となった。

 私事にわたるが、範行さんと初めてお会いしたのが、この広間で「ペリー来航と開国」と題する講演をした時である。ここを<ペリー来航の間>と名づけた理由を伺う機会を失したが、その2年前の1989年に開かれた横浜市政公布100年・開港130周年・横浜博覧会YES’89と、みなとみらい地区開発と無縁ではなかろう。

 YES’89での「黒船館」の基本コンセプトとして、拙著『黒船異変』(岩波新書 1988年)や『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)で展開した<交渉条約>説が採用された。永らく続いた「日米和親条約(1854年)=不平等条約」説を否定し、老中阿部正弘の主導により、横浜村で開かれた林大学頭とペリー提督との論戦を皮切りに交渉を重ね、ほぼ対等な内容の条約が結ばれたとする内容である。この条約が後の日米修好通商条約(1858年)につながり、横浜開港(1859年)の礎となった。

 幕府は国際情勢をよく分析、インドがイギリス植民地、インドネシアがオランダ植民地となり、立法・司法・行政の国家三権すべてを失ったこと、また清朝中国がイギリスと2年にわたるアヘン戦争の末に結んだ<敗戦条約>の南京条約(1842年)により、「懲罰」として領土割譲と賠償金支払いを余儀なくされたこと等を分析し、それを「他山の石」(教訓)として、<避戦>に徹し<交渉条約>を導き出した。<交渉条約>にはそもそも「懲罰」の概念がない。現代から見て不平等な面は、アメリカ外交官の下田駐在を認め、日本の外交官のアメリカ駐在を決めていない<双務性の欠如>であろう。

 27年前の講演でも、ニューグランドのすぐ近く、大桟橋の付け根の開港広場、開港資料館、神奈川県庁の辺りに設けた応接所で締結した日米和親条約の意義を強調、今の横浜の発展はここに起源すると話した。なお上掲の拙著は品切れで、その後継補正版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)である。

 お別れ会にはさまざまな人が集い、実業界にとどまらぬ範行さんの豊かな人脈を表していた。原三溪市民研究会(廣島亨会長)顧問の猿渡紀代子さん(横浜美術館元学芸員)もその一人。三溪園が保管する稿本・藤本實也「原三溪翁伝」(1945年8月16日脱稿)を、多数の人と協力して『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009年11月)の刊行にこぎつけた折の主要メンバーである。原三溪市民研究会は、今年の三溪生誕150周年事業においても重要な一端を担っている。
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シンガポールの米朝首脳会談(速報)

 昨年2月のクアラルンプール国際空港で起きた金正男(金正恩の異母兄)暗殺事件が記憶に残る中、北朝鮮が北米にまで到達可能な大陸間弾道弾の発射実験を行い、それに核弾頭を搭載できると発表、世界の緊張が一挙に高まった。核弾頭とミサイルの開発は、冷戦から熱戦への逆戻りかと危惧された。

 そこに今年3月8日、トランプ米大統領(以下、米大統領)が金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長(以下、金委員長)と史上初の首脳会談を行うと公表した。その後は、想像を越える事態の連続である。この歴史的会談に到る経緯を、可能な限り簡潔かつ正確に記録しておきたい。

 我々のニュース源はテレビ・新聞・週刊誌・SNS等であり、それらの情報を基に政治・経済・社会等の動きを判断するのが一般的であろう。最新ニュースが注目を集めつづける上限は、約1週間ではないかと思われる。これは視聴者の関心の持続期間であると同時に、次々と生まれるニュースを載せる紙面や時間の総量にかかわり、古いものから消えて行くからである。

 米大統領は、サプライズを活用する演出で注目を集め、世論を味方につけようとする。それが奏功する場合もあれば、逆に裏目に出ることもある。我々は、事の本質を見逃さないよう注意したい。

 3月25日、金委員長が初めて訪中、習近平主席と会談した。冷え込んだ関係を変え、来たる米朝会談の後ろ盾を固めるためと言われる。中朝間の鉄道や石油パイプラインは、北朝鮮にとって最重要の供給ルートであり、国連で議決された対朝経済制裁の貫徹か緩和かの選択は中朝間の選択に大きく左右される。

 4月1日、アメリカのポンペオCIA長官(のち国務長官)が極秘で訪朝したと発表。アメリカ側からの積極的働きかけの第一歩である。一方、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領(以下、文大統領)と金委員長との南北首脳会談(2000年、2007年に次ぐ3回目)の開催が予告され、徐々に雰囲気が高まった。

 4月27日、軍事境界線にある板門店で南北首脳が会談、ハグして世界の注目を集めた。朝鮮戦争(1950~1953年7月27日)の休戦協定署名(朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で署名)以来、初めての板門店会談であり、朝鮮戦争終結等を含む共同宣言に署名。同じ民族の両首脳は世界平和の象徴であるかのような報道がなされ、ノーベル平和賞はこの両名かとの声も上がった。

 5月、さらに動きが激しくなる。8日に金委員長が2度目の訪中で首脳会談、その翌9日には国務長官となったポンペオ氏が訪朝して金委員長と会談、10日には拘束されていたアメリカ人を解放した。同じ日に米大統領は米朝首脳会談を6月12日に行うと発表する。会談場所として、板門店、モンゴル、シンガポールの3つが候補に上がった。

 並行して、米大統領補佐官ボルトン氏が13日、「見返りの援助を語る前に、恒久的かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)が必要」と発言、いわゆるリビア方式の採用を示唆した。これに反発した北朝鮮は16日、「核放棄だけを強要するのなら、これ以上の興味はない」(金桂官(キム・ケガン)第一外務次官)と発表、ペンス米副大統領は21日、「取引きできなければリビアと同じ終わりを迎えるだろう」と応酬。22日、文大統領がワシントンに飛び、米朝間の仲介工作を行うも進展せず。24日、北朝鮮の崔善姫(チェ・ソンヒ)外務次官が「我々は対話を哀願することはない」と強硬姿勢をあらわにする。

 一方、北朝鮮は北東部にある豊渓里(ブンゲリ)の核実験場を自ら爆破すると発表、予告通り24日に爆破を実施して5か国のメディアに公開したが、検証する専門家の入国は拒んだ。爆破の5時間後、米大統領がシンガポールで6月12日予定の米朝首脳会談を中止するとの書簡を金委員長宛に送ったと公表。

 慌てた北朝鮮の金桂官第一外務次官は9時間後の25日朝、手の平を返すように「関係改善のため首脳会談が切実に必要…」と表明し、文大統領に仲介を求めた。これに対して米大統領は「米軍は必要なら対応をとる準備がある。」と軍事オプションの警告を発する一方、「会談の12日開催の可能性はある。…」とも述べる。なお31日、金委員長が訪朝のラブロフ・ロシア外相に段階的非核化の意思を伝えた。

 そして1週間後の6月1日、金委員長の右腕とされる金英哲(キム・ヨンチョル)朝鮮労働党副委員長が訪米、米大統領はホワイトハウスに迎えて会談、世界を仰天させる。アメリカを核で恫喝してきた、人権無視国家の最高位の高官であり、個人としても制裁対象になっている人物の、18年ぶりの訪問である。金委員長からの親書を手渡して、会談は90分近くつづいた。米大統領は満足げに「われわれはほぼすべて話し合った。たくさん話した」と述べる。

 会談場所は警備に適したシンガポールのセントーサ島に決まり、会談まで「あと4日」となった6月8日、3つのニュースが流れた。第1がアメリカ発の2つ。(1)米大統領は首脳会談で北朝鮮の「非核化」は十分に詰め切れないと考え、代わりに史上初の首脳会談を実現させたこと自体を重視し、その関連で朝鮮戦争の終結合意を行うかもしれない(1953年7月27日に朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で休戦協定に調印したままの現状)。(2)訪米した安倍首相が米大統領に、日本人の拉致問題解決を米朝会談の場で強く主張するよう要請、米大統領が承諾し、これを前提として安倍首相は日朝会談において解決するとした。
 
 第2が北朝鮮発。人民武力相等の軍トップ三役を総入れ替えした。その意図は憶測の域を出ないが、穏健派を据えて外遊中の不穏な動きを抑止する目的とも言われる。毎年6月下旬に反米帝国主義のキャンペーンを張ってきたものを、あろうことかその直前、「アメリカ帝国主義の頭目」とシンガポールで笑顔の会談となれば、その及ぼす影響も考慮しなければならない。

 第3が訪中したロシアのプーチン大統領が習近平主席と会談、「中ロは朝鮮半島の平和と安定に関心を持っている」とし、米大統領・韓国文大統領・金委員長の三者による朝鮮戦争の終結宣言に対して強い警戒心を見せた。

 10日午後、金委員長が中国国際航空でシンガポール着、米大統領はその6時間後にG7開催地のカナダから専用機で到着した。

 12日午前、史上初の米朝首脳会談が始まった。冒頭で米大統領が「とても良い気分だ。…われわれは大きな成功を収めるだろう。素晴らしい関係を築くことに疑いはない」と述べる。金委員長は「ここまでの道のりは容易ではなかった。われわれには足を引っ張る過去があり、誤った偏見と慣行が時に目と耳をふさいできたが、全てを乗り越え、この場に来た」、つづく拡大会合では「この先、課題もあるだろうが、トランプ氏と協力する。…これが平和のために良いと信じている」と語る。米大統領は「われわれが解決する。協力することを楽しみにしている」とも述べた。
 
 拡大会合、昼食会を経て両首脳が共同声明に署名、夕方の記者会見で米大統領は、「今日、始まったばかりだ。重要な第一歩を踏み出した…明日からすぐ詰めの協議が始まる。…」と強調。具体性が乏しい合意、政治ショー等々の批判もあるが、この<歴史的会談>を期に、非核化・ミサイルの廃棄・拉致問題等の具体的進展を注視していきたい。

IUCの卒業発表会

 IUCはアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter-University Center for Japanese Language Studies)の略称である。本ブログのリンクで読める『都留文科大学学長ブログ2011~2014』の111号「IUC創立50周年を祝す」(2013年12月16日)でその概略を「…伝統ある世界で唯一の上級日本語教育機関、約1800人もの卒業生を輩出している。アメリカ等の大学で日本語を勉強した学生から約40名が選抜され、毎年、10か月間(40週=10週×4学期)、計700時間におよぶ日本語の集中特訓を受ける。その最終日に集大成として行われるのが、例年6月初旬の卒業発表会である。…」と記した。

 日本にはない素晴らしい機関である。若く優秀な日本理解者が一人でも増えればと、私もIUCの東京から横浜桜木町への誘致(1987年)、そして桜木町から現在のパシフィコ横浜への移転(1991年)の手伝いをした。とくにケネス・バトラー所長(故人)とは公私にわたり親しかった。現所長のブルース・L・バートンさんには、26年前にもお会いしている。青木惣一副所長は日本語教授法の柱で働き盛りである。

 その後、本ブログでも「2つの研究発表を聴く」(2014年6月12日)と「学生たちの三溪園印象記」(2017年10月24日)を載せた。とくに後者は来日して間もない10月2日の来園であったため、学生たちに新鮮な印象を書いてもらい、8名の文章を転載した。

 そして2018年6月4日(月曜)から6日(水曜)までの3日間、63名の卒業発表会が開かれた。以前は40名程度だったと記憶していたので青木副所長に尋ねると、これほどの人数は開校以来初めてで、教室を増やす等々「嬉しい悲鳴」を上げているという。

 発表は一人の持ち時間が15分(2問ほどの質疑応答をふくむ)、朝10時から夕方まで、3日間にわたった。私は最終日の午後の部、下記10名の発表に間に合った。

 ウォルター・ヘア「人形浄瑠璃の根本テーマ-心中-」。エリック・エステバン「俊成卿女の和歌に見る本歌取りへの態度」。ミョウレイ・セツ「句題和歌における漢詩受容-慈円と定家―」。スージー・キム「姿を変える女-江戸木版画における変身の記号学」。(休憩)

 ジェイソン・アレクサンダー「江戸時代の<被虜人>と対朝鮮観-朝鮮人捕虜の位置づけ-」。ブラッドフォード・ナップ「戦時の資源不足と環境問題の関係」。イクネイ・チン「婦人服と戦争-女性誌の表紙に現れるファッションショー(1930‐1945)」。ステファニー・佐久間「日韓の歴史認識の乖離」。ビーチェン・ファン「儀式化された領土問題-<竹島の日>と日本人の政治意識-」

 ほぼ毎年、私は聴きに来ているが、いつもA5版のプログラムに発表の概要(約300字)が準備されている。今年は63名分の発表概要とバートン所長の「ご挨拶に代えて」で全28ページである。

 テーマは多岐にわたる。パワーポイントを使い、ジョークも忘れない。彼らの的確な日本語、豊かな感性。ついつい引き込まれる。

 このなかに、三渓園印象記を寄せてくれた3名がいた。エリック・エステバンさんは、印象記で「…臨春閣の中の蟻壁には驚くことに和歌が見えます。その発見は古典文学を勉強している私にこの別荘をより楽しませてくれました。…」と記しており、彼の発表「俊成卿女の和歌に見る本歌取りへの態度」と繋がっていることが分かる。

 ショウレイ・セツさんは、句題和歌(漢詩の一部を題とする和歌)をめぐる論考で、慈円と定家は、白居易<凶宅詩>の政教性の世界から離れて「自然に対する独自な和歌世界を築いた」と述べた。比較文学は多くの関連項目をたぐる必要があるが、印象記に「…園内ではさまざまな和風建築が各地から移築されています。伝統的な風景が凝縮されている素敵な日本庭園です。…」と記していたことと関連があるように思える。

 イクネイ・チンさんは、『主婦の友』等の婦人雑誌の表紙絵は和装の女性の顔で通すが、記述は洋装や戦時中の国民服モンペを推奨しているという点に注目する。印象記では「…ガイドの吉野さんの説明を通して、日本伝統建築の巧みさを知り、造園の構想、そして「庭屋一如」という概念を理解できるようになった。…三渓園は個人的な庭園なだけではなく、地域及び伝統文化を保存するなどの意義も感じられた。」と述べていた。

 三溪園訪問の経験が卒業発表にどう影響しているか俄かには判じ難いが、ほとんどが大学院生であり、以前からの研究テーマと関心を背景に三溪園を観たのではないか。日本語集中研修や三溪園訪問等は、忘れ得ぬ経験となるだろう。来年度の学生がどのように三溪園の印象を書いてくれるか楽しみである。

 すべての発表が時間通り進み、青木副所長が閉会の辞を述べる。「ご来賓のみなさまにおかれましては、学生たちの発表に耳を傾けてくださり、ありがとうございます。…(学生に対して)みなさんは今日で解放されます(一斉の笑い)。…これから日本語で研究や仕事を進めていくみなさんにとって、日本語は単なる<道具>以上のものとなります。そのことを自覚し、日本語を更に磨き続けてください」のエールに、どの学生も深く頷いた。

大学のスポーツ

 5月26日(土曜)、古巣の横浜市立大学(市大)へ行く。キャンパスの北側一帯には横浜の地形の特徴である谷戸(やと)がそのまま残り、常緑広葉樹(照葉樹)の多い混合林に踏み入ると、夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれる。石段を9つ上ると「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板。

 第2グランドにはテニスコートと多目的グランド(ホッケー、サッカー等)がある。この急坂の林をなんど往復したことか。思索のために、学生たちとのテニスのために、そして夕映えの富士山を見るために。

 関東学生テニス連盟は最強の1部から6部まで各6校が入り、それ以外の約60校が7部に属す。10年前(2008年)、5部にいた市大と6部で優勝した東大との入れ替え戦がここで行われ、雨のため2日にわたる熱戦の結果、市大が勝利(防衛)した。両校にはスポーツ推薦入試もなく、高校時代にテニスをした者も多くない。その二者の、今も心に残る大試合であった。

 階段を上り切って平らな道をすすみ、しばらく下って鉄製の急階段が第2グランドへとつづく地点で、木々の間から視界が開け、遠くに山並みが見える。その先は富士山だが、今日は見えない。下のテニスコートから、「おはようございま~す」と大声が響いた。手を振って答える。

 教職員テニス親睦会(以下、親睦会)と硬式庭球部員との、年に一度の親善交流試合の日である。階段を下り切ったところで、男子部主将(軒野秀則)と女子部主将(斉藤玲乃)が出迎えてくれた。部員は男子22名、女子10名、男子に1年生が多いとのこと。親睦会からは、仕事で出られない人もおり、男女合わせて9名が参加。

 椎の木の若葉がきらきら光り、薫風が吹き抜ける。曇りがちで少し蒸すが、絶好のテニス日和である。昨年の補修工事で、ハードコートからオムニコートとなり、足腰にかかる負担が減った。ありがたい。

 親睦会は創設が1980年頃なので、40年近く経っている。呼びかけの張本人が私で、初代の会長をつとめた。そのころ第2グランドのテニスコートが学生の部活専用として完成した。本キャンパスのコートは、私の記憶では今の図書館東側にあったクレーコート、ついで今のシーガルホール横の運動部部室あたりのコート、今の理科系研究棟あたりのコート(ここからオムニ)と移り、現在は谷戸の谷間にある弓道場の手前にある。

 現在の親睦会会長は随清遠さん(金融論)、学問に厳しく人に優しい。硬式庭球部の部長も兼ね、学生の信頼を集める。

 副会長の坂智広さん(農学)は左腕の剛速球。毎土曜の朝、季語や農暦を盛り込んだ、味わい深い名文の練習呼びかけメールをくれる。

 親睦会は会員の高齢化が進んで、20代から40代にかけての教職員がほとんどいない。子どもの頃の運動量(時間)が急減し、交通機関への依存度が高まった時代に育ち、運動習慣を持たない人が増えたのであろうか。

 「大学のスポーツ」と言えば、ふつうは学生スポーツを意味する。どの大学にも部活としてのスポーツがあり、スポーツ同好会も盛んである。部活は競技種目ごとに地域単位や全日本規模のリーグ戦、大学間の定期戦を行っている。

 学生生活におけるスポーツの役割を私は高く評価し、長く応援してきた。文章で表現したものは少ないが、ブログという新しい媒体が生まれてからは、『都留文科大学学長ブログ-2011~2014』(このブログのリンクにあり)等で折に触れて述べてきた。

 もともと「気晴らし」の意味であった英語のスポーツが、現在のようにラグビー、サッカー、野球、テニス等のゲームを意味する「近代スポーツ」として誕生したのは19世紀中頃である。近代スポーツの誕生は、都市化の進行と肉体労働の減少という近代史の特性と密接に関係している(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書、1980年、第3章)。とくに高校・大学の若者たちが新生スポーツを先導してきた意義は大きい。

 そこに最近、忌わしい事件が起きた。関西学院大学(関学)と日本大学(日大)とのアメフトの定期戦(5月6日)で、日大の選手がボールを持たない関学の選手(QB)を後方からタックルして怪我を負わせた。

 それから2週間余の5月22日、危険(反則)タックルをした日大の選手が勇気ある謝罪会見をした。翌23日晩、雲隠れしていた日大の内田(元)監督と井上(元)コーチが記者会見を行ったが、反則タックルの指示はしていない等、選手と正反対の発言に批判が集中した。

 球技のなかでタックル等の接触プレーが多いのがアメフトで、次がラグビー。スポーツマンシップに基づくタックルは、かける方もかけられる方も爽快で、私もそれに魅せられてラグビーをした経験がある。だがタックルは取り返しのつかない怪我や死亡事故と紙一重であり、ルール厳守、フェアプレー精神(競技相手への敬意)の徹底が不可欠である。

 今回の事件は、スポーツ競技の例外的な不祥事にとどまらず、広く「大学のスポーツ」、「教育指導における主体性の尊重」等の問題を浮き彫りにし、日大執行部の体質等、根の深い課題をも露呈させた。

 この事件が念頭を去らぬまま、テニスコートまで来た。今回の交流試合は、1992年以来27回目であろうか。学生たちがプログラムを組み、審判やボーラーもつとめる。賑やかに声援が飛び交うなか、教職員と学生がペアを組み、4ゲームオール(第5ゲームあり)の試合を5セットこなした。

 歴代の庭球部部長が勢ぞろいしたのも嬉しい。年齢順に柴田梧一さん(経営学)、岡眞人さん(社会学)、随清遠さん(前掲)。柴田さんは今春に叙勲を受けた年齢だが、まだまだテニスは現役である。「若い」団塊世代の岡さんは、着実にテニスの腕を上げている。

 溌剌とプレーに打ち込む学生たちにつられ、私はいささか張り切りすぎた。学生が異世代と交流試合をする、これもまた「大学のスポーツ」の一つの姿であろう。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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