善四郎とペリー饗応の膳

 日米最初の公式会談は、164年前の1854年3月8日(嘉永七年二月十日)に開かれた。幕府全権は林大学頭(復斎)、アメリカ側はペリー米東インド艦隊司令長官、場所は横浜村駒形に建てた仮設の横浜応接所、現在の横浜関内の、神奈川県庁と日本大通り突き当り一帯である。

 応接所へとペリー一行を先導するのは与力の香山栄左衛門、つづいてマスケット銃を持つアメリカ兵400余名が上陸、うち50余名が屋内に入った。ペリーや将校はサーベルに短銃の正装で椅子に座り、幕府側は台座上に正座して脇差を左脇に置き、大刀は後ろに構える家来が捧げ持つ。

 挨拶の後、双方の首脳各5名が隣室に移り、茶菓が出て会談となった。森山栄之助とポートマンによるオランダ語を介した二重通訳である。林が大統領国書への回答を述べると、ペリーは、まず病死した艦隊員の埋葬を要請した。そこで林が、この件を当方で協議する間に食事を、と勧める(「饗応の膳」)。ペリーは「食事を共にするのは友情の証」と快諾、ここで緊張が一気にほぐれた。

 この日米和親条約締結(1854年)に至る歴史は、拙著『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年1月、のち講談社学術文庫 2012年)及び拙著『開国史話』(2004年3月~2005年7月まで神奈川新聞連載、同社より2008年刊)に述べた。いずれも日米和親条約締結150周年の2004年前後に書いたものだが、後者は日常の情景や人々の動き等にも可能な限り言及した。

 幕府は300人前の「饗応の膳」(これに予備の200人前)を用意した。応接所の配置図には「御賄所御料理所」(2間×10間)が描かれている。料理の担い手は誰か。私は前掲の『開国史話』で、「…幕府御用達の百川(ももかわ、日本橋浮世小路)とする説と、百川で修行し後に浦賀宮ノ下で開業した岩井屋とする説がある。…与力のメモに浦賀奉行所御用達の(岩井屋の)富五郎と善四郎に請け負わせたとあり…」と書いた。

 本稿から十数年を経た昨年、齊藤淳一さんという方からの手紙が版元の神奈川新聞社から転送されてきた。上掲の「富五郎と善四郎に請け負わせた」の史料の出典を問う内容である。お手紙にあるメールアドレスへ、東京大学史料編纂所編『幕末外国関係文書』(『大日本古文書』シリーズのうち)の附録之一の史料番号八「(「亜米利加応接掛町奉行支配組与力)浦賀御用日記」(605ページ末)とお伝えした(2017年9月27日)。

 これが齊藤さんとの交流の始まりで、以来、幾度かのメール交換の後、10月29日、「ペリー黒船艦隊への饗応料理と『八百善』との関り研究(その後)」と題する一文をいただいた。私の挙げた史料を横浜市中央図書館で確認し、八百善の関りを示唆する「証拠」を得た。この「善四郎」の3文字は、江戸にあった八百善六代目栗山善四郎を示すもので、現在の当主・十代目善四郎氏(66歳)と嗣家・雄太郎氏(40歳)は「謎」の163年間に終止符を打てたと大変に喜んでおられる、ともあった。

 年が替わって2月12日、齊藤さんから招待状が届いた。創業301周年を迎えた江戸料理の老舗『割烹家 八百善』で、40年に渡り当主であられた十代目善四郎さんの引退と長男・雄太郎さんの十一代目栗山善四郎襲名披露宴、及びペリー提督饗応の膳(再現)への招待である。

 八百善の歴史は、享保2(1717)年、浅草山谷での創業に始まる。八百屋から寺への料理の仕出し屋、そして料理屋と業態を拡げ、将軍のお成り(来店)を得る一方、大田南畝(蜀山人)、谷文晁、葛飾北斎ら文人墨客を魅き寄せ、その協力を得て、四代目は『江戸流行料理通』を出版(文政5年=1822年)する。

 明治維新(1868年)後は新政府の政治家をはじめ各界の名士が来店、『海舟語録』等にもよく出てくるという。八代目(1905年に襲名)は茶道と古器物鑑定にも力を入れた。その後、関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受け、幾度もの波を乗り越えて300年、今なお和食の伝統を堅持する唯一の割烹である。

 暖かな花曇りの3月19日(月曜)、神奈川県鎌倉市十二所33-2(明王院境内)にある八百善へ向かう。この店は5年目という。鶯の鳴く明王院(真言宗)境内を散策後、門をくぐり庭石を踏んで、茶室に似た木造二階建て(大正14年築)の入り口に至る。板戸が開いて十代目善四郎さんが迎えてくださった。

 十代目善四郎さんは大学で国文学を学び、随筆・日記類にも精通する読書家で、昨年『江戸料理大全』(誠文堂新光社、2017年1月)を刊行した。また八代目(祖父)の影響か陶磁器等の目利きでもある。八代目から聞いたことを鮮明に記憶され、運ばれる料理の特徴や盛付けの器の由来、所蔵の貴重な古記録の一部を惜しげもなく披露、これは襲名の儀式でもあった。

 十代目によると、ペリー饗応の膳にかかわった六代目善四郎はそのとき26歳、若すぎて荷が重かったのでは、と。

 客は10名、テーブルは3つ、私は神戸から来られた常連のご夫妻と同席となり、同じ開港都市の横浜と神戸の比較論等を楽しんだ。祝い膳は、鰤、蛤、鮭、鰆、浅利、白子(シラス)に旬の野菜をふんだんに使った二汁五菜に、丼と汁、最後に抹茶。なかでも「ぶた煮」という葛粉の団子を油で揚げて豚肉に見立てた普茶料理が、この店ならではのものだと言う。舌と目と耳を肥やし、香りと手触りを楽しむ、瞬く間の4時間であった。

 宴の半ばで齊藤さんが挨拶に来られた。メールでは当日は厨房に入るとあり、お会いするのは初めてである。訊くとアメリカの大学で長く化学を教えておられたが、諸般の事情から帰国、八百善の料理教室で学ぶうちに、料理にはまり込んだとのこと。

 宴の終わりに、六尺豊かな偉丈夫の十一代目が挨拶に立った。趣味のロックバンドはしばらくお預けとし、八百善301年の伝統を守り発展させることに全力を注ぎたいと、覚悟のほどを述べる。談笑のさいに料理人としての齊藤さんはと尋ねると、「いまや私の右腕」とほほ笑んだ。

 齊藤さんは、六代目善四郎やペリー饗応の膳に関して解くべき「謎」がまだあり、店に残る大福帳や幕閣・政商・料理屋の関係、顧客記録やペリー側の英文史料等を使い、仮説の検証を進めると言う。日米の文化体験と理系の緻密な論理・実証法に料理人の勘を駆使した謎解きを、心から期待している。
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女性駐日大使ご一行の三溪園案内

 2018年3月2日(金曜)午後、女性駐日大使13名(アジア、大洋州、中南米、欧州、中東、アフリカ)が、林文子横浜市長招待の懇談後、三溪園まで足を運ばれた。前日の春の嵐も収まり、観梅会の最中、馥郁(ふくいく)たる香の中で、花も枝ぶりも楽しんでいただき、三溪園の魅力をお伝えしたいと準備した。

 歓迎の挨拶で、通常は260人ものボランティアが、ガイド、庭園管理、合掌造りの運営等に尽力しているが、今回は吉川利一事業課長と私がご案内したいと述べる。英語の通訳はエクシム・インターナショナルの清原美保子さん。

 正門を入ると間もなく、一斉に歓声が上がる。私はここを密かに<展望所>と呼んでおり、多くの人が最初に感動する場所である。左側に外苑、右側に内苑を見て、外苑の三重塔(英文版リーフレットの2)と内苑の鶴翔閣(リーフレット8)の2つのシンボル的な建造物を視野に入れ、それらと現在の立地点を結ぶ「三角測量」により、東西南北と地形の高低、これから歩く園路が谷底にあることを確認してもらう。
 三溪園のホームページ(http://www.sankeien.or.jp/)に同じ地図がある。

以下は女性大使一行にお伝えした概要である。

 谷と丘から成る地形は、谷戸(やと)と呼ばれる。横浜の地形の特徴であり、市内に約3000あったが埋立により激減した。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園112年となる。右手の南面する斜面が「内苑」。右手の蓮池の先に見える茅葺屋根の建物が鶴翔閣で1902年落成、原三溪が住まいとした(時に34歳)。4年後の1906年に外苑を公開、ついで内苑を造営し、約20年の歳月をかけて三溪園を造りあげる。

 原三溪(1868~1939年)は、岐阜県佐波柳津(現岐阜市)の庄屋青木家の長男に生まれ(富太郎)、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、跡見学校(明治8年創立、現跡見学園)で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿(やす)と出会い結婚(24歳)、原富太郎となる。この教え子とのロマンスに、一行から華やかな声が上がった。なお三溪は原富太郎の号である。

 内苑入口で記念撮影を終え、左折して梅林へと向かう途上、横浜がとても若い都市であることを伝える。横浜の歴史はわずか150余年。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べ、きわめて短い。都市横浜の起源は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)に基づく1859年の開港(5港開港場の1つ)にある。来年、横浜開港160周年を迎える。

 この若い都市へ「進取の気性」に富む人びとが全国から集まり、「三代住んで江戸っ子」に対し「三日住めば浜っ子」と言われた。諸外国からも貿易商を中心に渡来、幕府は外国人居留地を設定して賃貸する。日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東一円の商人が積極的に進出し、主導権を握った。

 横浜は五港のうち最大の貿易量を誇り、筆頭輸出品の生糸が日本の外貨獲得に大きく貢献する。この生糸売込商の一人が原善三郎で、弁天通りに店を、野毛山に自宅を構え、本牧村三之谷の土地を入手、1880年頃、その丘(いまの三重塔隣接地)に煉瓦造の別荘・松風閣を建て、中国趣味の小さな庭園を造った。

 1898年、善三郎の逝去に伴い、三溪は生糸売込商原商店を承継して近代的な原合名会社に組織を一新、製糸業にも着手した(富岡製糸場等の経営は1902~38年)。

 三溪は、外苑の造営を先行させ、植栽と日本伝統の古建築移築や石(庭石、石塔、灯籠、礎石等)の配置を造園の基本に据えた。植栽は、平安時代から花の代表とされ果実を薬用・食用とした梅を中心とし、江戸時代初期(17世紀)に栽培が始まる東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集めた。1906年の開園当初から三溪園は梅の名所として知られる。

 初音茶屋(観梅会の時期には麦茶を供す)の近くの臥龍梅(がりょうばい)は、杉田梅林から移した100余年を経た古木。その名の通り、龍が臥すが如き佇まいである。一行は思い思いに写真を撮り、香りを愛おしみ、しばしの散策。
ここで下村観山(1873~1930年)の日本画「弱法師」(よろぼし)の話をした。観山は三溪が支援した画家の一人で、画題は能(謡曲)に因む。

 河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。

 この屏風絵「弱法師」は、高さ187センチ、幅8メートルもの大作と言うや、「私の背と同じ」と声が上った。川幡留司参与から借りた複写の「弱法師」を拡げる。画面左端に夕日、それに向かい合掌する右端の弱法師。弱法師をいざなうように、横長の画面いっぱい、夕日に枝をさし延べる臥龍梅。ここで撮影ラッシュとなった。市長公舎で下村観山の「富士山」を観てきたばかりの一行の印象はひとしおだったらしい。

 弱法師が描かれたころ、詩人のタゴール(Rabindranath Tagore 1861~1941年、アジア初のノーベル文学賞(1913年)を受賞)が三溪園に滞在しており、この絵に惚れ込み、インドにもと要望した。その模写を鶴翔閣で行ったのが画家の荒井寛方。タゴールは1916年、寛方をビチットラ美術学校の絵画教授として招聘、寛方はアジャンター石窟群の壁画などの模写にも当たり、日印交流に貢献した。

 来た道を戻り内苑へ向かう。内苑の造営は1914年の三重塔移築後に一挙に進んだ。古建築の移築は造園の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動の下、衰退する寺社や仏像等を護るべしとする岡倉天心(1863~1913年)の思想に共鳴した三溪が実践躬行した成果でもある。なお天心の想いは古社寺保存法(1898年)に結実し、戦後1950年の文化財保護法に継承された。

 1917年に臨春閣(リーフレット11)、1918年に月華殿(リーフレット13)、1922年に聴秋閣(リーフレット16)と春草廬(リーフレット17)を移築(それぞれの古建築の由来はリーフレットにある)、1923年、内苑の完成を祝う大師会茶会を開催する(三溪55歳)。

 その直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受ける。三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造のみで比較的小さかったが、以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち、1939年に没する。享年70。三溪は実業家、造園家、茶人、日本画家の支援者であり、自らも日本画を良くした。

 戦中・戦後の混乱期を経て、1953年、三溪園は原家から財団法人三溪園保勝会(理事長は横浜市長)に移され、復興の道を切り開いてきた。そして2007年、国指定名勝(文化財の1つで「景色の優れた地」)を受けると同時に組織替えし、公益財団法人三溪園保勝会として管理・保存・活用等の事業を担って現在に至る。

 名勝指定の理由は、「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(平成19年2月6日の官報)とある。近世の石庭等の<象徴主義>に対する<自然主義>に基づく近代の風景式庭園である。

 内苑の御門(リーフレット9)をくぐり、右手に白雲邸(リーフレット10)を見て進む。臨春閣前の広場に出ると、眼前に広がる壮大な美しさに驚きの声が上がる。今回の来園が二度目の大使もおられるが、桜、新緑、花菖蒲、名月、紅葉、雪景色等、四季折々の来園に興味を持っていただいた。

 三溪記念館(リーフレット20)に入る。内田弘保理事長が挨拶を述べ、池を望む望塔亭でお抹茶を振る舞う。引率の関山誠国際局長によれば女性駐日大使はいま22名、その過半数が万障を繰り合わせて参加された。日ごろから互いに交流があるようで、打ち解けた会話と笑い声が絶えない。お点前の実演をする大使の姿にまた盛り上がる。最後に三溪園職員による手作りの紙雛の匂い袋「根岸~本牧 お雛さまめぐり」(観梅会催事用に特製)をプレゼントした。

 好天に恵まれ、楽しい一時を過ごしていただけたと思う。

人文知による情報と知の体系化

 人間文化研究機構と情報・システム研究機構の合同シンポジウム「人文知による情報と知の体系化-異分野融合で何をつくるか」が2008年2月26日(月曜)午後1時半から、一橋大学一橋講堂(学術総合センター内)で開かれた。難しそうなテーマだが、前々からきわめて重要なテーマだと思っていた。

 主催団体の人間文化研究機構(6つの研究所・博物館等を持つ)と情報・システム研究機構(4つの研究所と1つの基盤施設を持つ)とは、国立大学法人法の設置する大学共同利用機関法人に属し、国公私立の大学が利用できる。全部で4つの機構から成り、上掲の2つに加え、自然科学研究機構(国立天文台と4つの研究所)、高エネルギー加速器研究機構(2つの研究所)がある。

 大学は教育・研究・社会貢献の3つの役割を持つ(本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の009「大学の役割」2011年5月9日を参照、以下の引用では「学長ブログ」と略称)。これに対して、これら4つの機構は、名前が示すように研究を本務とし、データベース等を作成して公開する社会貢献を行うと定義して良かろう。教育は総合研究大学院大学(博士課程のみ)であり、若い学部生と日常的に接する機会は少なく、ゼミ学生もいない。

 今回の案内には、「二つの機構による共同研究に基づき、本年度は連携・協力推進にかんする協定を締結、さらに新たな知の創造、異分野融合の促進、新領域の創出を推進していく」とあり、このシンポジウムの開催趣旨を「…文と理にまたがる多様な分野で、興味深い、先進的な研究に取り組んでいることを実感していただきたい」と述べる。

 最初が立本成文(人間文化研究機構機構長)の基調講演「人文知から見た文理融合」である。この3月に退任される立本さん(1940年~)の「最終講義」とも言える。わずか40分間のなかにエッセンスを込め、聴き手に分かるよう、最初に「三大話」と言いつつ、3章9節の目次をスクリーンに映し出して話を進めた。私のメモに基づき一覧したのが下記、ここに主張の強調点が見られる。

 1章「文と理」は、(1)「文理とサイエンス」、(2)「文理は分離できない、百学連環」、(3)「二つの文化論と二元論的発想」

 2章「人文知-二項対立から融合へ」は、(1)「客観的知識と主観的知識」、(2)「科学革命(19世紀後半)で失われたもの、いのち(からだ・こころ・ことばのはたらき)、(3)「総合性の復権」。

 3章「文理融合の方法」は、(1)「総合的に捉まえる最近の考え方(ITによるビッグデータの統合等)」、(2)人間文化研究機構のビジョン、(3)「実事求是(事実判断と価値判断)と科学者の道義的責任、人間らしさの復権」。

 いくつも共感できる点があるが、なかでも1章(2)の西周の「百学連環」と2章(2)の「科学革命で失われた、いのち(からだ・こころ・ことばのはたらき)」が心に残る。まとめの段階で、ゲージ理論の草分け、数学・物理・哲学等に通暁、深い思索を展開したH・ワイル(1885~1955年)「プリンストン大学創立200周年記念講演(1946年)」(岡村浩訳『精神と自然』(1946年、ちくま学芸文庫、2014年所収)を引き、科学における人間らしさの復権を結びとした。

 立本さんとは、6年前に山梨県富士吉田市で開かれたセミナー「第2 回の地球研地域連携セミナー「分かち合う豊かさ 地域のなかのコモンズ」で初めてお会いした(「学長ブログ」067「2つの研究セミナー」2012年10月19日号)。当時、立本さんは総合地球環境学研究所(略称が地球研)所長であり、私は都留文科大学長として地域の縁から出席、その後もお会いする機会を得た。

 立本さんは京都大学文学部哲学科を卒業、大学院で社会学を専攻、京都大学東南アジア研究センターで長らく研究に携わった。『東南アジアの組織原理』(勁草書房、1989年、旧姓の前田成文)、『共生のシステムを求めて』(弘文堂、2001年)等の名著で知られる。
 研究者にとどまらず、1998~2002年、京都大学東南アジア研究センター所長、2007年より総合地球環境学研究所所長、2014年から人間文化研究機構長として、人文知の推進・発展のための組織的牽引役を果たした。その一つが3章(2)、組織の将来ビジョンを描いたものである。

 つづいて3つの事例紹介があった。
 事例紹介1 斎藤成也(国立遺伝学研究所教授)「ヒトゲノム情報の革命がもたらした日本列島人史研究の新展開」。『ゲノム進化学入門』(共立出版 2007年)等のほか、一般書・啓蒙書も多い。『DNAから見た日本人』(ちくま新書 2005年)、『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書〈知の航海〉シリーズ) 2015年)等に見られるように、ゲノム分析と日本列島人の歴史を結合し、新しい世界を切り開く。

 事例紹介2 木部暢子(国立国語学研究所教授)「言語調査における連携・協力~八丈島・岡崎市・鶴岡市などの調査から~」。『そうだったんだ日本語 じゃっで方言なおもしとか』(岩波書店 2013年)、『方言学入門』(共著 三省堂 2013年)に見られるように、日本語の方言研究、なかでもアクセントや音韻に特色のある九州西南部の方言を中心に研究しており、統計数理研究所との共同研究は不可欠と言う。

 事例紹介3 片岡龍峰(国立極地研究所准教授)「オーロラと人間社会の過去・現在・未来」。『オーロラ!』 (岩波科学ライブラリー、2015年)、『宇宙災害-太陽と共に生きるということ』 (DOJIN選書 2016年) 等を基盤として、オーロラ研究と古記録、『明月記』等の文学を結合して研究を進めている。100年~1000年単位で起きる大規模オーロラと磁気嵐を調べる楽しさはもとより、今後のオーロラ災害(誘導電流による停電等)への対処にも役立つ、と結ぶ。

 パネルディスカッションは、藤井良一(情報・システム研究機構機構長)と上掲3名の事例報告者の計4名、司会は佐藤洋一郎(人間文化研究機構理事)。司会の巧みな誘導で、パネラーの幼少期の経験がどう現在の問題発展につながったかも聞けた。異分野の共同研究に関心を持つ人はまだ少ないと若手が発言すると、藤井機構長が未来志向のプログラムを提案してほしいと述べる。

 5時過ぎまで「知の弾丸を楽しく浴び」、豊かな気持ちで会場を後にした。基調講演、3つの事例報告、パネルディスカッションと、すべてが定刻に始まり定刻に終わった。組織的に動く登壇者と裏方に驚かされる。なお各位の報告に関する主要項目や図、関係文献等、短いペーパーがあれば、さらに有難い。

 このシンポジウムの次の企画と新人の登場を心より期待したい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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