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首都圏都留市会の設立

 都留市(山梨県)出身者、都留市にゆかりのある人、都留市民が手を携え、積極的に情報を交換し親睦と交流を図る「首都圏都留市会」を設立する、との案内を頂戴した。その代表発起人が西室陽一、武井正明のお二人。
 設立趣旨を読むまでもなく、西室さんのお名前だけで出席を決めた。西室さんが都留文科大学理事長のとき私が学長で、お世話になり苦楽を共にした、敬愛する大先輩が代表発起人であれば、何が何でも駆けつけたい。

 本ブログのリンクに『都留文科大学学長ブログ 2011~2014年』(以下、「学長ブログ」と略称)があり、その084号「西室理事長の退任によせて」(2013年3月31日)を載せたのは、ほぼ5年前。「都留市立の都留文科大学を公立大学法人都留文科大学に制度変更したのが、2009 年4月である。この法人化から4年間、初代理事長だった西室陽一さんが、みなに惜しまれつつ、3 月末で退任された」と始め、学長として私がご一緒した3年弱の間、理事長・学長の協働関係を記した。高田理孝・福田誠治の両副学長、椎廣行事務局長を加えた5人の常任理事は、会議の前後によく昼食を共にして親交を深めた。

 設立総会の2月18日(日曜)、会場の京王プラザホテルへ向かう。西室さんに初めてお目にかかったのもここで、2010年6月、大阪教育大学から都留文科大学法人化準備室に移った椎さんが引き合わせてくれた。

 11時開始。260名の賛同者のなかから役員として西室陽一(以下、敬称略)を名誉会長、武井正明(NPO法人福祉会希望の家理事長、元小金井市議会副議長)を会長に、そして副会長に川合修、志村政彦、原護の3名、理事8名、監査役2名、事務局長と会計、顧問として横内正明(都留文科大学理事長、元山梨県知事)、堀内富久(都留市長)をはじめ12名、相談役2名を選出、ついで武井会長、堀内市長、来賓の挨拶の後、趣旨・会則・議事が提案通り承認された。

 配布物には、次第として第1部設立総会、第2部懇親会とあり、設立趣旨、役員名簿、会則、予算(案)、事業計画(案)、会員名簿(法人会員13、個人会員247)、来賓31名の名簿、そして都留文科大学学生歌「花のかげ」、都留文科大学創立60周年記念愛唱歌「都留はuniverse」、市民愛唱歌として「今、生きています」と「翼をください」の歌詞が載っている。

 設立趣旨に「…地方の活性化、人口減少や少子高齢化の進行など、地方の課題が山積する昨今、…」とある通り、これは現代日本の直面する普遍的課題である。
以下の記述は、私の走り書きメモに基づいたもの故、各位のご発言の趣旨に添わない場合は、お詫びして修正いたします。

 武井会長は、(1)山梨県人会連合会の支援を受け、今回の首都圏都留市会の設立に至ったこと、(2)東京の地下鉄第1号(銀座線)建設のリーダー早川徳次(1881~1942年)は山梨県(現笛吹市)出身、1923年の関東大震災を乗り越えて、1927年、浅草=上野間を開通させたこと、(3)1997年、品川=名古屋間=大阪の中央新幹線リニアモーターカー(JR東海の超電導磁気浮上式高速鉄道)実験線が宮崎から都留市に移され、2027年開通を目指していることを語った。

 堀内市長は(1)昨日の平昌オリンピック(冬季)で羽生結弦がフィギュアスケートで66年ぶりの2連覇を達成したが、4年前の同じ2月17日、都留市は1メートル半もの豪雪に見舞われ(「学長ブログ」118号参照)、多数の車が立ち往生した時、自発的に炊き出しをした市民の心の優しさを称え、(2)人口3万余の都留市に3000名以上の文大生が全国から集まり、約3万人にのぼる卒業生が全国で活躍、2年前に誕生した「道の駅つる」のオープンには、彼らが海のない都留市に海産物の販売ルートを提供してくれた、(3)学術・文化・芸術が融合した知的風土を醸し出すまちに高齢者を招く、都留市版CCRC事業が全国先進七団体の1つに選ばれた、と語った。

 CCRC事業とはContinuing Care Retirement Community (継続的なケア付き高齢者共同体)の省略形。退職後の第二の人生を健康的に楽しむ街づくりの概念で、元気なうちに地方に移住し、必要な時に医療と介護のケアを受けて定住できる場所づくりを目指す。政府は2015年、有識者会議で、高齢者の地方移住を促すことで首都圏の人口集中の緩和と地方の活性化を目指す「日本版CCRC」構想をまとめた。
 都留市役所のホームーページに「生涯活躍のまち・つる構想(都留市版CCRC構想)」があり、下谷地区の単独型と田原地区文大隣接地の複合型プロジェクトに参入する事業者を公募中とある。

 来賓の山梨県人会連合会(1950年設立)会長の弦間明さん((株)資生堂特別顧問)は、全国の都道府県人会連合会(出身地外の東京等に事務局を置く)のうち、会員数の1位は北海道で会員6万人(正式名は北海道ふるさと会連合会)、2位が鹿児島県で4万人、3位が我が山梨県、会員数3万5000人…と切り出す。そして県人会は会員各自の自主的・自発的ボランティア活動が本旨であり、「互いの情報を積極的に交換し、親睦と交流を図ること」を通じて、まちの発展に寄与しよう、と結ぶ。

 第2部懇親会は会場を移して始まった。冒頭で西室さんが登壇、「この2月で90歳になりました…」に、万雷の拍手。
乾杯、祝辞、歓談とつづき、トリマーズの演奏についで若き文大合唱団が登場。宮城県から駆けつけた卒業生の鎌田光彦さんが、7年前の東日本大震災後、母校の合唱団の慰問(「学長ブログ」029、031参照)にどれだけ勇気づけられたかと話し、大きな拍手が沸いた。思えば「学長ブログ」は大震災の翌日2011年3月12日に書き始め、学長退任後に「加藤祐三ブログ」として承継、通して7年になろうとしている。

 会場の熱気が最高潮に達したところで最後のあいさつ。「つる大使」の一人、国井雅比古さん(元NHKアナウンサー)が「私自身ができることを自主的・自発的に進めたい」と力強く締めくくった。
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コックス商館長が将軍秀忠に拝謁

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」、10月4日号に「平戸イギリス商館」、12月5日号に「平戸のにぎわい」と3本の論考を載せた。いずれも平戸のイギリス商館長コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻し、訳文を付した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)所収、以下、「コックス日記」とする)の豊富な史料に魅せられ、400年前の日本社会の一端を描こうと試みたものである。

 コックス日記の史料的特徴を挙げれば、次の点にあろう。(1)日本語の史料では記されることの少ない外国人の視点と体験から描かれた日本社会の諸相、(2)商館長として貿易取引に伴う商品・価格・売れ行き等々の業務記録(日記には概要のみ掲載、帳簿はなし)、(3)1600年に発足したイギリス東インド会社の仕組みと貿易業の現場の状況記録等々である。

 コックス日記を使った先行研究は、参照できた歴史学の分野では、(1)武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記:碧眼のみた近世の日本と鎖国への道』p245~、そしえて社、1981年)、(2)鍋本由徳「江戸時代初期における領主権力と<長崎奉行>の覚書」(日本大学通信教育部通信教育研究所「研究紀要」2015年)、(3)小林章夫「平戸イギリス商館の木綿販売」(『はた』日本織物文化研究会誌 19号 2012年)、(4)榎本宗次「近世初期銀貨考」(『史料館研究紀要』5、1972年)。

 歴史学以外では、(5)ろじゃめいちん『江戸時代を見た英国人』(PHP研究所 1984年)、(7)演劇史の分野からトマス・ライムス(Thomas Leims)「リチャード・コックスの日記-成立初期の歌舞伎研究におけるコックス日記の意義について」(早稲田大学演劇学会『演劇学』31号、1990年)がある。シェイクスピアと同時代の「コックス日記」を活用した英語史の研究は見つからなかった。

 コックスに関する同時代人の評価はどうか。上掲(1)武田によれば、サー・トーマス・ウィルソン(大蔵大臣ソルスベリー伯の秘書官)は「…学問があるわけではないが誠実で、年がいっており、判断力もある…」とし、これを受けて武田は「…商人としてきわめて敏腕とはいえないが、正直で公私をわきまえ、日本では人望があった…」と言う。
ついで直接の上司にあたるジャワ島バンタムの支店長ボールは、きわめて否定的に、「…情熱においてはきわめて激しいが、理性においては見るかげもない。…総合的な判断力や見通しに欠け、片意地で評価すべきものを評価せず、口先の美辞に惑わされる…」(上掲(1)武田)と厳しいが、関係がよくなかった上司の部下への人事評価であることも考慮すべきであろう。

 現代のイギリス人による評価は、上掲『江戸時代を見た英国人』の第2章「外国人観光客のはしり、コックス商館長」に詳しい。そこにコックスがイギリス出航前の1611年に遺言書を残していたこと、1563年1月10日~15日頃にスタフォード(製靴業で有名)で誕生したことが記されている。さらにコックスが商売には向いておらず、庭仕事(1615年6月9日の日記にサツマイモを栽培した記事あり)、金魚の飼育、観光に熱心であり、また11年間の任期を終えて帰国する彼への日本人による送別の宴に触れ、親善大使の役割は十分に果たしたと述べる。なおコックスの蔵書家・読書家の一面は特筆すべきであろう。

 今回はコックス日記をもとに、彼の第1回江戸参府(1616年と翌1617年の2回あり)を見ることにしたい。アダムズが同行したこの参府は、1616年7月30日から12月3日まで。船で平戸を発ち、下関から瀬戸内海に入り、5日目に砂州(大坂港外)着、その後は陸路を行く。10日、献上品や商品等を2隻の舟で堺から伏見へ運び、運搬費を節約した。

 12日、伏見で10人ほどの罪人の晒し首を目にし、「このような厳しい処罰がなければ、彼らのなかで(私たちは)生きていけない」(以下、引用は拙訳による)と記す。高価な物品を運ぶ旅でも、盗難に遭ったという記述はない。

 さらに東海道を進み、8月19日に浜松、24日に箱根を越えて小田原、26日に戸塚、そのつどの宿代の支払いや関係者への贈答品を記す。27日午後に江戸着、平戸を出て28日目である。この日はアダムズの家に泊まるが、江戸の定宿の三雲屋はイギリス商館の代理人も兼ねている。30日、激しい地震に恐怖を覚える。

 9月1日、「…皇帝ションゴ(将軍)様へ献上品を納め、快く受け取ってもらった。この件ではコジスキン(本多正純、年寄=老中)殿とションガ(向井忠勝、御船手奉行)殿の助けを得た」。長く待たされた後に登城。「城はすこぶる強固で、二重の堀で囲み、石垣を回らし、…皇帝(将軍)の宮殿は巨大な造りで、どの部屋の天井も壁面も金箔で覆われ、あるいは獅子・虎・豹・鷺等の鳥獣の絵が描かれ……絵の方が金箔より素晴らしい」。

 いよいよコックスとイートン、ウィルソンが皇帝(徳川秀忠、家康の三男)に拝謁する。「…皇帝ションゴ(将軍)様は、ひとり一段高い所に座り、目にも鮮やかな青色の絹の衣を羽織り、仕立屋がするように畳の上に足を組み、…誰もこの部屋に入ることは許されなかった。彼は二度ほど私に入るよう招いたが私は固辞した。これは良いことだったと後で評価された。束の間のお目見えだったが、会う時も別れる時も彼は頭を下げた。」

 ついで拝領品の一覧を記す。各種の羅紗(毛織物)、ロシア産の獣皮、硝子の姿見、珊瑚樹、琥珀玉、兎皮、鋼鉄棒、鷹狩用具、薬壺、水差、湯呑、牛乳酒鍋、金箔を貼ったインド産の獣皮、錫の棒、鉛80貫(重いため証書のみ)。

 「仲介の労を取ってくれた本多正純殿と向井忠勝殿を訪れて礼を言うはずのところ、通詞のゴレザノ(五郎左衛門)が訪ねもせずに、もう登城されたと私に嘘の報告をしたせいで、贈物は宿舎に持ち帰ることとなった」。

 翌日、「本多正純殿、土井利勝殿(老中)、酒井忠世殿(雅楽頭)という皇帝に次ぐ重要人物3人」に同じ物を贈る。すなわち種々の羅紗、硝子の姿見、黒い兎皮、薬壺等。さらに平戸の王の弟(松浦信清)を訪ね、羅紗、サラサ(更紗、捺染した綿布)、硝子の姿見、手帳等を贈った。

 贈物はいずれも軽量、希少、高価の特性を持つ貴重品であり、運搬にも適している。「贈物の交換」は古くから「信頼の交換」を意味した。信頼により次に何を得るか。半年ほど前の1616年4月に家康が逝去、二代将軍秀忠の進めるキリシタン禁制とイギリス・オランダ両商館への貿易制限の下、コックスは家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、思うようにはならない。(続く)

【33】連載(四)東アジアにおける英米の存在

 連載「黒船前後の世界」の「(四)東アジアにおける英米の存在」は、『思想』誌(岩波書店)の1983年11月号に掲載した論考である。それまでの3回分(1983年7月、8月、9月号)は、ペリー艦隊の派遣とその目的等をテーマとして日米の史料を基に毎月掲載してきたが、対象を東アジア情勢や英米の存在等に移すと関連史料も多岐にわたり、準備にもう1か月かけた。その後も隔月の掲載とし、最終の(八)(1984年7月号)の完成まで約1年を要した。

 本稿は全体を9節に分け、英米の東アジアにおける在外公館の規模の英米比較、その役割、米英関係史の概略、英米の対中貿易の比較(扱い量と貿易商品の構成等)、東アジアにおける英米の軍事力比較(軍艦の配備等)を分析し、米国が東インド艦隊により日本に一番乗りした背景等を述べる。

 1節で述べたのは、米国の東アジア在外公館が無給の商人領事を主体としており、それも中国では1846年から上海に、1849年からアモイに各1名を任命したに過ぎないこと、また領事より格上の公使待遇の弁務官(駐在地はマカオ)は米清望厦条約(1844年)の締結に伴い翌1845年に初代A・H・エベレットを任命するも赴任途上の病で退き(のち客死)、代理に東インド艦隊司令長官J・ビッドルを任命、彼はコロンブス号で1846年に江戸湾に来航したこと、駐華弁務官の2代目は半年間の空白期を挟んでJ・W・デービス、さらに2年半の空白期を挟み3代目のH・マーシャルが1853年1月16日に着任したこと等である。

 2節。英国も軍人のスターリング司令長官が日英約定(1854年10月)を結び、ロシアもプチャーチン海軍中将が日露和親条約(1855年2月)を結んだが、当時は英露間のクリミア戦争の最中であり、両国とも戦争の一環として日本に寄港する必要性から日本との条約締結を急いだもので、その分だけ日本の主張が相対的に通りやすい情勢にあった。
 軍人による条約締結は、必ずしも強い軍事的恫喝を意味するものではない。幕府が相手の弱点をどこまで見抜いて交渉を進めたかが重要である。条約締結に至る意思決定・実行過程・条約内容(交渉結果)の3段階のうち、米国は実行過程の最初部分に取りかかったばかりである。任命をうけたペリーの念頭には、①相手国の日本、②列強とりわけ超大国たる英国、③米国政府(とくに海軍省と国務省の対抗関係)の3つが複雑にからみあっており、いずれも無視できない重要問題であった。使用史料は主に米国議会文書。

 3節は英米関係略史である。米国は旧宗主国の英国から独立し、1776年にアメリカ合衆国を樹立した。ペリーは日米和親条約締結の1854年、「米国独立78年目」とわざわざ表明し、超大国の英国に先んじて「もっとも若い国たる米国が、もっとも古い歴史を持つ日本と条約を結び、世界へ仲間入りさせる役割を自分が担っている」と誇らしげに記した。

 4節は主として英国の在外公館の強大な陣容を扱う。1834年の東インド会社カントン事務所の解体と貿易監督官制度の発足、ついでアヘン戦争中の1841年に香港を植民地として香港総督を置き、南京条約(1842年)以来、順次、五港の開港場に置いた領事館の陣容等を述べる。史料は主に英国議会文書。
 米国の東アジアにおける在外公館の貧弱さに比べ、英国のそれは10倍以上の陣容を誇り、規模や待遇等の面で、まさに超大国に相応しいものであった。1834年に始まる英国の貿易監督官は、その名の示す通り自国商人の監督を行う役目を持つが、駐華全権大使、さらに1841年から香港総督、加えて英国東インド艦隊司令長官と、併せて四職を兼務した。

 5節と6節では、対中貿易の英米比較を行う。1849~53年の貿易額から英国と米国の対中輸出を比較すると、英国が圧倒的に多く(約94%)、対中輸入の面でも79%を占め、およそ英国:米国=9:1となる。
 これを商品構成から見ると、英国はインド産アヘンの輸出と茶(主に紅茶)の輸入が高い比重を占め、米国は白綿布の輸出と茶(主に緑茶)の輸入の占める比重が高い。英国から中国へのインド産アヘンの輸出急増に関しては、すでに拙著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)等の研究があり、本ブログでも【25】、【27】等で述べた。

 7節は、東アジアにおける英米の軍事力比較、具体的には配備された軍艦の英米比較である。この点に幕府は強い関心を払い、1853年8月の『和蘭別段風説書』にも記載がある。船数では英国が18(3)隻(()内は汽走軍艦)で首位、これに対して米国は7(2)隻で2位であり、総トン数でみると英国14,368トンに対して米国7,014トン。これから分かるように英国は小型船が多く、汽走軍艦では英国:米国=3隻:2隻となり、米国の汽走軍艦の比重が高い。

 8節。ペリーが12隻からなる「堂々たる艦隊」を海軍長官に要請したのは、日本に対するだけでなく、超大国英国に対して新興国の「意気と存在感」を示す意図もあった。当時の汽走軍艦の航行能力や英米双方から東アジアまでの距離を比較すると、米国西海岸オレゴン州から太平洋経由で上海までが5,000マイル、それに比べロンドンから上海までは14,400マイル。米国は英国より3分の1も近い隣国であり、航行時間や海底ケーブルの敷設等の面でも有利である。

 9節。ペリーは1837年に米海軍の蒸気船フルトン号の艦長、米墨戦争(1846~48年)では米国メキシコ湾艦隊司令長官、のち陸上勤務の郵船総監(1848~52年)として米国東部と西部(オレゴン州、カリフォルニア州)を蒸気郵船で結ぶ事業を主導した。これらの経歴から汽走軍艦の及ぼすデモンストレーション効果を熟知していた。
 ところが当時の大型汽走軍艦は石炭喰いで、補給線がなければ太平洋を横断できない。事実、ペリーの搭乗したミシシッピー号(1,690トン)は米国東海岸の軍港ノーフォークを出航、大西洋を横断して南下、喜望峰を回って北上した後は、英国の補給線から石炭・水・食糧等を買い、インド洋、中国海域、琉球(沖縄)を経由、地球の4分の3を経て、江戸湾にたどり着く。

 先発のサスケハナ号(2,450トン)とミシシッピー号、それに翌1854年ポーハタン号(2.415トン)が合流し、3隻の大型汽走軍艦が居並ぶ黒船艦隊は、英国のそれを凌駕、日本と英国をともに威圧する存在となった。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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