三溪園ボランティア

 2003(平成15)年の第1次募集に始まる三溪園ボランティアは、2017(平成29)年6月の第12次募集で、当初の85名から235名に増えた。線グラフにすると一目瞭然、波を打ちつつ着実に増えていることが分かる。

 三溪園ボランティアは、現在、ガイド・合掌造り・庭園の3つに分かれ、活動時間は10:00~15:30(12:00~13:00は昼休み)。235名の内訳をみると、ガイドが162名で曜日ごとに班に分属(うち1名は2つの曜日に登録)、平均すると1曜日あたり20数名となる。合掌造りが44名、こちらも曜日ごとに分属、平均して1曜日あたり6名。庭園が76名(ガイドまたは合掌造りと重複登録者あり)で、曜日にかかわらず年10回程度の庭園保守管理に参加する。

 年齢は31歳から89歳まで、男性162名に対して女性73名。みなそれぞれの領域で豊富な経験を重ねた方々で、三溪園とその創設者の原三溪(富太郎)に惚れ込み、ほとんどの方がその魅力を広く伝えたいとボランティアに志願された。居住地は横浜市内ほか神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県にまたがる。

 三溪園の休園日は12月29日から31日の3日間のみで、年に362日、活動している。運営主体は公益財団法人三溪園保勝会(内田弘保理事長)で、その活動の重要な一翼をボランティアが担っている。最前線で来園者にガイドすると同時に、合掌造りの維持管理や体験型ガイド役を担い、また庭園の維持管理という<後方支援>も行う。

 1月18日(木曜)、珍しく春のような陽気に恵まれた。10時から12時半まで「三溪園ボランティア連絡会」が園内の鶴翔閣(楽室棟)で開かれ、84名が参加、第2部の懇親会は予定を超え、熱気に包まれて3時までつづいた。昨年も同じ日に開催、その関連記事を本ブログに「三溪園ボランティア連絡会」として掲載(2017年1月30日)したので参照されたい。

 配付資料はA4×34頁の冊子、(1)ボランティア活動の説明、(2)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(スピーチ)、(3)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)の3つに分かれ、大部分の時間を(2)のスピーチ(1人あたり3~4分)に当て、羽田雄一郎主事の司会で進んだ。

 ガイドボランティアの部は、①月曜班が飯島彰(以下、敬称略)、②火曜班が宇草圭司、③水曜班が中江実、④木曜班が古賀則介、⑤金曜班が橋本幸夫、⑥土曜班(急用のため欠席)、⑦日曜班が西村博夫の発表。ときに事実を淡々と、ときにユーモアを交え失敗や反省を語りつつ、有益な提案も行った。

 合掌造りの部は、①月曜班が藤波富次、②火曜班が矢野幸司、③水曜班が津田延子、④木曜班(急用のため欠席)、⑤金曜班が佐藤美奈子、⑥土曜班が松井正、⑦日曜班が鈴木彰文。古民家を今に生かすため囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、正月飾り、ひな人形、五月人形、軒菖蒲、七夕飾り、蚕の育成、月見団子、つるし柿、花餅飾り等々、季節の行事を披露し、その一部には来園者が参加する体験型の応対もあり、思いがけないエピソードに事欠かない。

 草取り、合掌造り用の薪割り、竹林伐採、流れの清掃、蓮池の施肥等々を担う庭園ボランティアについては畔上政男が、古建築公開に合わせて重要文化財のなかで開く「茶の湯の会」(「一日庵茶会」と呼ぶ)については吉野直美が、毎月10日に行っている自然観察会については竹内勲が、そして最後に「英語の会」については出口孝嗣がそれぞれ報告を行った。

 配布冊子の後半にある「ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)」にも事前に目を通したが、貴重な内容を含む珠玉のエッセーが多く、感銘を受けた。紹介する紙幅がないので、12点の筆者名と題名を一覧する。①飯島彰「<三渓園グループ>ですか!」(これはガイド月曜班の報告で使われた)、②大野陽「池波正太郎と三溪園・隣花苑」、③吉野直美「国会図書館デジタルコレクションで見る臨春閣の前身<大坂春日出新田食氏庭>」(筆者は上掲「茶の湯の会」の報告者)、④小野俊明「無題」、⑤吉川慎太郎「平成29年度新入生の徒然草」、⑥石井信行「三溪園は<生きる喜び> Joie de Vivre」、⑦玉田節雄「御門との朝の挨拶」、⑧福田克夫「フランス ベシュトワル家御一行の来園について」、⑨酒巻史朗「無題」、⑩志村忠夫「三溪園はすばらしい」、⑪崎豊「庭園ボランティア奮闘録」、⑫林哲夫「自然観察の会に期待します」。

 その後、10年以上のボランティア継続者6名の方々への感謝状を贈呈。石田良平、井脇音文、大川道子、久家孝之、高木宏介。10年と一言で言うが、週1回として500回余である。その献身ぶりに頭が下がる。(お名前は、ご承諾いただいた方のみ掲載)

 最後に私が挨拶。多方面にわたるボランティアなしに三溪園の魅力は世界に伝わらないと、その活動に謝辞を述べ、今日のこの場を話す機会が少ない曜日が違う方々との交流の場としてほしい、また今年は三溪生誕150年、明治改元150年、そしてほぼ30年に一度の古建築の大規模改修工事の初年次にあたるため、盆と暮れが一緒に来るような年となる、ボランティア活動も従来とは違う面が出てくるであろうと述べた。

 そして三溪園刊行の「小さい宝」である2種のリーフレットの積極活用をお願いした。正門からしばらく進むと視界が開け、その右側に地図板がある。そのあたりで園の概要を説明することが多いが、そのときリーフレット「三溪園」(日本語、英語、ハングル、簡体字と繁体字の中国語)を開いてもらい、地図板とリーフレットの地図が同じであることを説明、いま立っている位置と、左遠方の丘の上の三重塔、右奥の茅葺屋根の鶴翔閣の3点を結ぶ三角測量をしてもらう。

 これだけで谷戸(やと)の地形を活かした空間の特性をイメージできる上に、リーフレットに書かれている個々の古建築の配置とその説明がより活かされ、来園者の記憶と感動の反復にも役立つ。要所要所で三重塔の位置を確認してもらえば三角測量の効果がいっそう高まる。
もう1つのリーフレット「花と行事」には季節の花や各種の行事予定が記されている。これが次の来園の誘いとなり、リピータになってもらう鍵とならないか、と結んだ。

 ついで椅子とテーブルの位置をみなで変え、立食の懇親会が始まる。はじめは曜日の班ごとに集まり、やがて入り交じり、賑やかに盛り上がる。私も活発な意見交換に加わった。

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三溪園所蔵の豪華な作品群

 昨年暮れに始まった三溪記念館の展示は、原三溪自筆の絵画、三溪園所蔵の名品から豪華な作品群を揃える。担当は新任学芸員の北泉剛史(35歳)さん。彼の二度目の展示であるが、企画展示はこれが実質的なデビュー作と言ってよく、その意気込みが感じられる。

 第1展示室は、三溪の作品から絵画を8点、三溪ゆかりの画家・横山大観の3点、それに三溪の書簡2点の構成である。
第2展示室は、臨春閣の障壁画(替え襖)・中島清之《鶴図》、祝いの調度として《竹図屏風》等、それに色漆や蒔絵の装飾を施した火桶や火鉢である。
 第3展示室は、三溪園所蔵の美術品から「紅児会の作家を中心に」として安田靫彦、今村紫紅、牛田雞村らの作品を展示する。
会期は、第1・2展示室が1月29日まで、第3展示室が1月30日まで。
 北泉さんに案内してもらい、主に彼の解説を活用して紹介したい。美術や音楽を言葉で紹介するのは至難の業であるが、この展示に足を運んでくださる契機になれば嬉しい。

 第1展示室の「冬の訪れ」は、「紅葉を終え…園内は賑わいがうすれ、一時の静けさに包まれます。新年を迎えるこの季節は、いよいよ本格的な寒さが近づくなか、透き通る空気に気持ちも改まってきます」と述べ、実業家であり、画家であり、美術の収集家でもあった三溪(1868~1939年)の作品8点と、ゆかりの画家として横山大観の3点、それに古美術商(奈良の法隆寺西門前町で楳林堂を営んでいた今村甚吉、~1907)宛書簡2通を展示する。

 まずは三溪の山水画。(1)近江八景の1つ、琵琶湖西岸の雪の比良山遠景《比良山》と(2)夜明けの富士山《黎明》。

 次に人物画。(3)中国東晋(4世紀)の名臣・謝安が、国家存亡の決戦に大勝した報せにも平然と客と囲碁を打っていたという故事を描く《謝公囲碁》。これに付された注「実はこのあと、謝安は部屋に入ってから小躍りして喜んだそうです」の一文に思わず頬がゆるむ。(4)平安時代の僧《丹霞和尚》では、厳冬に仏像を燃やして暖をとり咎められる僧の、苦渋の表情を対比的に描く。舎利(釈迦の骨)のない仏像は形に過ぎないと、偶像崇拝に陥りがちな考えを改めさせたものとも言われる。

 ついで各地の生活ぶりを描く「風俗画」が4点。(5)《雪暁》は、凛とした冬の夜明け、一面の雪。障子を開け放った農家の一家が囲炉裏を囲み、馬小屋では馬が餌を食む。(6)《佐倉義人旧宅の図》は、江戸初期の下総国佐倉藩(千葉県成田市)、歌舞伎の題材ともなった伝説的な百姓一揆指導者・木内宗吾の屋敷の正月風景。(7)《雪の朝》は、雪に覆われた川沿いの農家。庭先の鶏の真っ赤な鶏冠が映える。(8)出羽富士とも呼ばれる白装束の《鳥海山》。麓の村にはゆったりと進む馬上で言葉を交わす二人の男。 

 ゆかりの作家として横山大観(1868~1958年)の3点がつづく。解説は三溪と大観の間柄について紹介する。古美術収集に力を入れていた三溪は、明治の終わりごろから日本美術院を中心とした若手作家たちを、物心両面で支えた。近代日本画の巨匠である大観にも援助を申し出るが、金持ちに支援されるのは好まないと大観は辞退。そこで三溪は作品を買い上げ、間接的な支援を行った。三溪所蔵の近代絵画のなかで、最も多い買い上げが大観の作品と述べる。
 三溪と同い年の大観は、5歳年長で東京美術学校(現東京芸術大学)を創設、のち追われて日本美術院を作った岡倉天心(1863~1913年)と行動をともにした筆頭格で、水戸藩士の気風を引く。互いの生き方の接点が、いまに残る三溪園所蔵の大観の作品と言えるかもしれない。

 大観の作品の(1)《あけぼの》の解説、「手前に松原が広がり、茫洋とした春の夜明けを感じさせ、…やわらかな景色の中に、黒々とどっしりとした松はとても存在感がある」。(2)《赤壁》は、中国の詩人・蘇軾の「赤壁賦」のうち「前赤壁」に因むもの。三国志の戦場の赤壁に思いを馳せ、客と酒を酌み交わし舟遊びする穏やかな夜を描く。(3)《煙寺晩鐘》は、日暮れ時の松林を濃墨や深い緑色で描く。朦朧体の圧倒的な迫力、大観47歳の作品である。

 第2展示室には、「臨春閣の障壁画 中島清之《鶴図》」と、新年を祝う調度品の、寒中に暖をとる火鉢と火桶、それに《竹図屏風》を展示。
 紀州徳川家の別荘であった臨春閣には、狩野派を中心とした江戸時代の障壁画があるが、保存のため原画は収蔵庫に収め、順に記念館で展示している。三溪園では1979年代に日本画家・中島清之(1899~1989年)に依頼し、臨春閣の替え襖を制作、清之没後は三男の中島千波(1945~)が引き継ぎ、《不二に桃花図》(1988年)と《松林図》(1990年)を制作。

 この清之の替え襖5点(《鶴図》、《梅図》、《竹図》、《牡丹図》、《菖蒲図》)のうち、今回は最初に制作された《鶴図》(1976年)のお披露目である。26羽の大きな鶴が翔ぶ壮観。

 向かい側には、金箔を貼った和紙に太い孟宗竹を描く、圧巻の《竹図屏風》(江戸時代の作品)がある。竹の上部は金箔で、ぼかしを入れる手法をとり、空間のひろがりを感じさせる。

 新年を祝う調度品として、縁起の良い蓬莱山を描く《黒漆蓬莱蒔絵広蓋》、色漆や蒔絵の装飾を施した《黒漆桧扇唐草蒔絵火鉢》と《赤漆火桶》、それに《片輪車螺鈿蒔絵火鉢》。漆は縄文時代の遺跡からも出土する。漆芸品は耐水・耐熱性に優れ、手入れしやすく、その色合いと光沢に独特の美しさがある。

 第3展示室は、「三溪園の美術品-紅児会の作家を中心に-」と題し、計16点を展示する。紅児会(こうじかい)とは、明治後期に発足した美術団体。明治31年(1898)に小堀鞆音門下の安田靫彦らが紫紅会を立ち上げ、33年に松本楓湖門下の今村紫紅が加わり紅児会と改称、のち前田青邨、小林古径、速水御舟、荒井寛方、牛田雞村らが加わり、大正2年(1913)の19回展覧会を最後に解散、のち多くが再興美術院に参加した。
 年齢も画風も異なるが、「紅児会」で研鑽を重ね、三溪が支援した画家たちの作品である。靫彦と紫紅は、岡倉天心を通して明治末頃から、またのちに青邨、古径、御舟らも、三溪の支援を受けた。なお展示作品は紅児会の活動時期より後のもの。

 室内に足を踏み入れると、左手に《軍鶏(しゃも)》の絵が目に飛び込んでくる。手前右から順に小堀鞆音(1864~1931年)の《藤房卿》、安田靫彦(1884~1978年)の《甲斐黒駒》(聖徳太子が甲斐国産の駿馬「黒駒」にまたがり全国を駆け巡ったとされる故事)、《羽衣》、《驃騎》の3点、松本楓湖(1840~1923年)の《大塔宮護良親王》、今村紫紅(1880~1916年)の《秀吉詣白旗宮図》、《後赤壁》の2点、速水御舟(1894~1935年)の《松徑》(鮮麗な藍青の顔料を多用、鬱蒼とした松が強烈な印象)、《寺の径》の2点、荒井寛方(1878~1945年)の《孔雀妙音》、牛田雞村(1890~1976年、横浜生まれ)の《老松図》、《聖徳太子像》、《松に雉子図》、《三溪園全図》(関東大震災前の園内を描く。中央ガラスケース内)の4点、そして最後に小茂田青樹(1891~1933年)の《軍鶏》、《蒲田》の2点。

 楽しんで鑑賞していただければと思う。

清談会の定例会

 我らが「清談会」は2005年に発足、毎年7月と12月に都内のレストランで開催、今回が25回目になる。12月28日、場所は中華料理の古稀殿。メンバーは横浜市立大学で活躍した面々で現在は6名、途中で他大学へ移った者を含むが、市大時代に共有した志をいまも引き継いでいる。

 「清談会」(せいだんかい)の発起人かつ命名者で幹事は、物理学者の小島謙一さん(後述)である。清談とは、世俗を離れた清らかな談話という意味。儒教思想全盛の漢代から魏の時代になり、儒教道徳を超えて主に老荘思想を題材とする幽玄な哲学的議論を交わした「竹林の七賢」の清談が代表例である。
 この故事にちなんで命名したが、現代日本では清談会と聞いてピンと来る人は多くない。長く使ったレストランが工事で閉鎖し、古稀殿に電話予約を入れたとき、政治団体か右翼団体かと訝られた。

 メンバーは以下の通り(年齢順、敬称略)。
穂坂正彦(医学・泌尿器科専門医、元医学部長、退職後に船医を10年つとめた。昭和11年東京生まれ)。船医時代の奮闘ぶりを、本ブログの2017年1月6日掲載の「船医、この10年」に書いた。
加藤祐三(歴史学・アジア史、元国際文化学部長、元学長、のち都留文科大学長、昭和11年東京生まれ)
丸山英氣(民法・区分所有法、途中で千葉大学へ移籍、同大で学部長、さらに中央大学法科大学院教授、現弁護士、昭和13年長野県生まれ)
小島謙一(物理学、元理学部長、現横浜創英大学学長、昭和16年群馬県生まれ)山本勇夫(医学・脳外科、元市民総合医療センター病院長、のち横浜市立脳卒
中・神経脊椎センター院長、現並木病院長(名古屋)、昭和18年静岡県生ま
れ、今回は欠席)
浅島誠(生物学・発生学、途中で東京大学教養学部へ移籍、同大で学部長・副学長、現東京理科大学副学長、昭和19年新潟県生まれ)

 全員が専門を異にする。共通するのは(1)専門分野にとどまらず広い知的関心を持っていること、(2)大学という学問の府をいかに自由闊達な知の展開の場にするかに情熱を持ち、(3)人類と地球の未来に思いを馳せることか。

 今回は、丸山が瑞宝中受章、浅島が瑞宝重光章(2001年の紫綬褒章等に加えて)の叙勲のお祝いに、小島が準備した銀杯(「清談会、平成29年霜月」の銘入り)を贈呈した。なお穂坂は臨床医のため教職歴が短いとして受章とならず、加藤は2014年秋に瑞宝中受章を受けた。

 清談会では、話題提供者を決め、食事と酒の合間に耳を肥やし、やがて侃々諤々、時に脱線の議論がつづく。今回からの新しいテーマは、「各専門分野の10年後を予測する」である。

 一番バッターは言い出しっぺの小島である。テーマは「自然界の4つの力」、パワーポイント(のプリント版)を使って話す。その延長上に10年後の予測テーマが「室温(氷点以上)超電導が実現するか」である。超電導が室温で実現すれば、電気エネルギーが大幅に削減できる。2030年には観測可能となるが、その実用化は2040年以降と予測した。

 穂坂のテーマは「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」、配布レジメはA4×11ページ。1950年代に始まる第1次AIブーム(推論・検索)、1980年代からの第2次ブーム(知識表現)、2012年以来の第3次ブーム(ディープラーニング、機械の自律的成長)と展開した後さらに急展開し、IoT(Internet of Things、部品・原料等モノをインターネットで結ぶ)を中心とする第4次産業革命に突入する経緯を説明する。
 医療の(画像)診断・治療の領域では、全診療科にわたる高度な診断・支援が可能となった。ゲノム(遺伝子情報)医療も急速に進み、2020年までに個々人のゲノム解析をAIが行い、日常の診療に活用されるようになるとする。最後に<AIの限界>を語って終わった。

 すかさず浅島が言う。「…AIはもっと先に進んでおり、自身で考え、人間社会を支配することが将来は起こるのではないか…」。生物学が遺伝子情報を操作することの怖さを熟知しているからであろう。穂坂が答える。「レジメの末尾の<AIの限界>で言おうとしたのは、その問題。AIの能力の限界ではなく機能の限界…チェックと制御が必要…AIは生命を扱ってはいけない…」。

 私も、かつて本ブログに書いた関連記事を思い出し、極端な事例として「AIが核兵器のボタンを押すことの危険性」について警鐘を鳴らす発言をした。それはたんなる素人の思いつきではなく、藤原洋さんから教えられたところが大きい。本ブログの「地球環境とサイエンス」(2014年10月1日掲載)や「ありがたき耳学問」(2016年5月24日掲載)で、AIやIoTに言及した。

 藤原さんは京都大学理学部宇宙物理学科を卒業、株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEOである。IoTの概念を初めて提示した『第4の産業革命』(朝日新聞社 2010年)の著者でもある。
 藤原さんと初めてお会いしたのは、2014年4月、『人民日報海外版 日本月刊』誌主催の「日清戦争120周年座談会」。藤原さんは同誌の理事長、編集長は蒋豊さん。不思議な縁で、蒋さんは20年以上も前に私の所へ来た留学生であった。本ブログのリンク「都留文科大学長ブログ」の077「20年ぶりの再会」(2013年1月21日に登場)。

 AIの能力とそのもたらす便利さへの期待、その反対にAIに仕事を代替され失業する不安や、AIが暴走することへの恐怖とその抑止具体策(への疑問)…科学技術の未来を考えると、悲観論に陥らざるを得ない時がある。
 
 だが知的営為は止められない。…<陰極まりて陽転ず>という名言を古代中国人が残している。日々の営為が悲観の極みに達すると楽観に転じる。その逆の<陽極まりて陰転ず>もある。今後さらに議論を深めたい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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