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【31】連載(二)ペリー派遣の背景

 この「(二)ペリー派遣の背景」(連載「黒船前後の世界」)は、岩波書店『思想』誌)の710号(1983年8月号)に掲載したものである。前号(709号)の「(一)ペリー艦隊の来航」では、ペリーが最重要視した所期の目的(予備交渉)として、以下の4点を述べた。①発砲を避けて交渉のルートを開く、②そのため日本側から対等な地位の役人を引き出す、③その役人に大統領国書を渡し、条約締結の意志を示す、④これを長崎ではなく江戸で行う。
 幕府も①に関しては腹を決めていた。ペリー来航の予告情報は1年半前に長崎のオランダ商館長から得ており、来航場所も長崎か江戸に近い浦賀(現神奈川県横須賀市)のいずれかと読み、準備を整えた。
最初の接触でオランダ通詞の堀達之助が”I can speak Dutch”(当方はオランダ語を話せる)と呼びかけ、与力の中島三郎助を浦賀の副総督と伝え、翌日、別の与力・香山栄左衛門を総督として引き合わせた。この偽称(詐称)がペリー側の目的の②を促進し、③へとつなげた。
 ペリーは浦賀近くの久里浜で大統領国書を受けとらせると、来春の再訪を告げ、10日間の滞在で去る。幕府はペリー再来と本交渉への準備を加速した。

 この日米初の公的接触の意義と今後の本交渉については、アメリカ側史料の活用により、いっそう明確になるはずである。先行研究は、①結果から原因と経過を説明する、②部分に固執して歴史の流れを無視するという欠陥があり、フィルモア大統領の国書の文言を、そのままストレートにペリーの政策と行動に直結させる傾向が強い。国書に書かれた「外交的希望」がそのまま実現されることは、政治の世界ではむしろ例外である。
 私はアメリカ議会文書(上院・下院)を可能な限り精査し、関連が窺える史料を一覧した。それが同誌58ページに載せた「略年表」である。正確には「ペリー派遣に関わるアメリカ議会文書史料の略年表」と呼ぶべきものであり、①(H)465,No.138(1845年2月に下院へ提出された下院特別統計委員長Prattの日本、朝鮮への特使の提案)から⑮(S)751,No.34(これは1855年2月3日に上院に提出されたペリー報告『遠征記』の一部)まで、計20の文書を掲げた(Hは下院、Sは上院)。

 さまざまな面で思わぬ発見があった。これが歴史を書くときの大きな喜びである。その第1が、太平洋・ハワイをめぐる英米間の競争である。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争、1846~48年)に勝利し、西海岸(カリフォルニアとオレゴン)を割譲させて太平洋に面する国家となり、その先の太平洋航路を視野に入れる。その前提としてアメリカ東海岸と西海岸をつなぐ(パナマは陸路)蒸気郵船航路の完成とアメリカ横断鉄道の開発構想があった。これには1848年のカリフォルニアの金鉱発見と、翌年から始まるゴールドラッシュも後押しとなった。
 一方の超大国イギリスはすでにPeninsular & Oriental Steamship Company(P&O社)による蒸気郵船を敷設し、イギリス・スエズ(陸路)経由、ボンベイ・セイロン・シンガポールを経て、南京条約(1842年)で割譲させた香港島に1845年に到達、さらに上海まで延伸したのが1849年、その先に太平洋横断航路の開設を構想した。

 英米間の太平洋航路開設をめぐる先取り競争が始まっていた。アメリカの蒸気航路開設を担ったのが海軍であり、その海軍郵政長官に就任したのが(1848~50年)、米墨戦争で司令長官を務めたペリーに他ならない。
 当時の蒸気船は大変な石炭喰いで、計算上では、アメリカ西海岸を出て太平洋を横断する18日間の航路のどこかに石炭・食糧・薪水の補給基地(コールデポと呼んだ)が必要であった。イギリスP&O社が香港・上海まで定期運航できたのは、航路上に飛び石のように幾つものデポを置いていたからである。アメリカ海軍は、ハワイと東アジアの東部の琉球(沖縄)あたりにデポを置く計画を俎上に載せる。

 第2の論点が漂流民の問題である。北太平洋は照明用の鯨油を採るアメリカ捕鯨船の最大の漁場であった。アメリカ東部で発達した綿工業のフル操業が鯨油の需要を急増させ、それに比例して捕鯨船の出漁も、遭難事故も増え、海流に乗って蝦夷地(北海道)に漂着する事件が頻発する。アメリカ議会に人道的支援を求める提案が出てくる。
 幕府は漂着民を救出し、長崎へ送って一定の調べをした後、鎖国下で外洋船を持たないため、帰帆するオランダ船に乗せて送還していた。1848年6月、捕鯨船ラゴダ号が漂着する。その長崎での取調べの通訳兼立会いをオランダ商館長に依頼したとのニュースがオランダ外交網からアメリカ海軍に伝わるや、漂流民が虐待されていると考えたアメリカ東インド艦隊は、自国民を救出する「外交法権」の発動として1849年1月、プレブル号を長崎に派遣する。この件は、アメリカ側の誤解と判明したが、日本側も日本人の漂流問題を抱えていた。
 大坂に集荷された食糧(味噌、醤油、昆布、鰹節等)を江戸へ送り、東北からコメ等を江戸へ送る廻船(平底の千石船)が沖へ流されると、北太平洋海流と偏西風に乗りアメリカ西海岸にまで行き着く。九死に一生を得るケース、途中でアメリカ捕鯨船に救助されるケース(ジョン万次郎等)もあったが、太平洋を舞台とする遭難・漂流民の頻発は喫緊の課題であった。

 第3が経済・市場開拓問題である。これについては資本主義が東西から地球を一周し、世界を一つに結ぶ最後の接点が日本で、日本を世界市場に組み入れるための開国こそがアメリカの狙いであるとする見解があった。だが私が調べたところ、アメリカ側の中国茶輸入は綿布輸出の3~4倍であるが、綿製品輸出はブラジル・チリの市場で足りていた。さらに中国市場にこれ以上食い込めなくなったため新たに日本市場を求めるとする説についても、根拠となる史料は見つからなかった。

 対日開国交渉の大役を最初に任されたオーリックが赴任途上の1851年11月に更迭され、翌1852年3月、ペリーが後任となる。このころから、捕鯨船の保護とその避難・物資補給港を求めて対日開国条約を締結せよとする見解が、大統領府内とりわけ海軍内で急速に高まってくる。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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