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第20回 三溪園大茶会

 第20回三溪園大茶会が11月21日(火曜)と22日(水曜)の10時~15時、内苑の建物を使って開催された。すっきりと晴れたとはいえ、寒波襲来の中、和服姿がつづく。蓮池と大池の間の園路を西へ向かうと、右手上方に茅葺屋根の大きな建物、左奥の丘の上に三重塔が聳える。わずかに銀杏の黄色が見えるが、全体として紅葉には早い。
 三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。

 当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
 その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。

 使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
 第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
 第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
 第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
 第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
 第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
 鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。

 ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。

 三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。

 三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。

 一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
 三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。

 それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
 1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。

 1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。

 平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。

 公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。
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三溪園と本牧のまちづくり

 2017年11月11日(土曜)、横浜美術館円形フォーラムにおいて原三溪市民研究会・横浜美術館・三溪園共催の第4回シンポジウム「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」が開かれた。昨年11月12日(土曜)開催の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり」を継ぐものである。

 昨年の第3回シンポジウムの記録及びその開催者の原三溪市民研究会の誕生の経緯については、本ブログ「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日掲載)に述べた。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 (1)吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。

 (2)當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。

 (3)鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。

 (4)内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。

 報告のあと、休憩を挟み、猿渡さんの名司会によるパネル・ディスカッションが続いたが、報告の補足が中心であり、その趣旨は上述のなかに含めた。
ついで参加者から2つの意見開陳があった。(1)本牧ツアーのガイドをつとめた男性は、本牧は衰退しつつあり、そのまちづくりに一番重要なのは地下鉄(みなとみらい線)の延伸であり、それを抜きに今後のまちづくりは語れないと述べる。(2)横浜出身で現在はカナダで旅行業を営む男性からは、三溪園はSankeienと表示されて有名だが、公園かミュージアムかカテゴリーが分かりにくい(三溪園のホームページ英文版や英文リーフレットにはSankeien Gardenと明示してある)とした上で、外国人客の比率等の具体的質問があった。

 報告と会場発言のいずれも、たいへん興味深かかったが、残された次の課題も明らかになったように思う。昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。

 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。

いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。

古建築のマド

 「三渓園特別見学のお願い(村松)」のメールを受け取った。「…ご無沙汰しております。標記のお願いです。実は、10月から12月にかけて東大大学院の講義でマドについて話します。その中で、三渓園の臨春閣、聴秋閣、白雲邸など、近世から近代にかけての日本のマドの状態が見られる建物を、内部も含めて見学することは可能でしょうか?…昨日、実際に下見に行き、とても素晴らしいところだと感銘し、メール差し上げてお願いしようと思いました。いつもお願いばかりで申し訳ありません。よろしくお願いします。 村松伸」
 メールには2枚のポスターが添付してある。大きな字で「マドの向こうに 人類の建築史が見えてくる」と縦書き(マドは窓)、すこし小さな字で「マドの進化系統学」、東京大学大学院建築学専攻講義 2017年建築史学第5(村松伸教授)と横書き、開催の日時と場所が記されている。

 講義主旨には、(1)通奏低音としての3つの問い、(2)3つの問いへの仮説、(3)予備知識の導入、とある。(1)で「私は、建築とは何かを、建築を学び始めてからずっと模索し続けています。年をとったせいか、特に最近しつこくこの問題に拘泥しています」と述べ、3点を挙げる。①そもそも建築は人間にとっていかなる物かという哲学的な問い、②建築をどうやって構築したらいいかという手法に関する問い、③この大きな問い(「建築とは何か」)をどのように将来に役立てるかという問い。
これを受けて(2)で、「建築とは環境との対話装置であり、その根幹はマドである」とする。ここまで読んで彼の狙いが分かり、吉川利一事業課長に応対を頼み、すぐに来園歓迎の返事を出した。

 村松さんは30年来の古い友人である。『アジアの都市と建築』(鹿島出版会 1986年)の編集のために集まったのが32年か33年前である。本書の編者は私になっているが、仕掛人は村松さん。そのころ私だけが50歳になろうとする中年で、彼らはみな30歳前後の青年であった。
 この村松さんが今回の講義要旨に「…年をとったせいか…」と書いている。建築史を総括したいとする彼の志に応えたいと思い、村松さん関係の記事をネットで探すと、10+1 web siteの2015年5月号を見つけた。彼は近代建築史を6つの世代に区分し、自分は6世代目くらいにあたるとした上で、建築史を課題別に3期に分けている。第一期<勃興社会の建築史>は19世紀末からの伊東忠太、関野貞たちによるもの、第二期<成長社会の建築史>は戦後すぐの稲垣栄三、村松貞次郎から1980年代の5代目の鈴木博之、藤森照信、陣内秀信たちの時代で、日本が経済的にも人口的にも成長期にあり、体制批判は喧しかったが、未来が輝き、経済も順風満帆な時代だった。

 そして第三期<成熟社会の建築史>を担うのが、少子高齢化、定常経済、地球環境の危機などに直面する自分たちと位置づける。<成長社会の建築史>の代表格であった藤森研究室を継承し、<成熟社会の建築史>を進める自分の研究内容が極めて散漫に映るのは、<勃興社会>でも<成長社会>でもなく<成熟社会>に適合した建築史研究を新たに切り開こうとしているからに他ならない、そして「<成熟社会の建築史>研究は、どこかにモデルがあるわけではない。自ら問い、観察し、思索し、新たに構築する必要がある。だから決められた本を律儀に読んだり、決められた手法をそのままなぞったりすることを推奨してはいない。 常にクリエイティビティとオリジナリティが必須となる。だが放任とは異なる。確かに、修士、博士の学生たちのテーマはてんでんばらばらではある。基本的にテーマは自分で選ばなくてはならない。それこそが、ぐいぐいと自分でどこまでも進んでいける原動力となるからだ」と続ける。

 現在、村松研究室で行なっているテーマは、「建築史系」、「保全系」、「リテラシー系」、「統合系」の4つの系に整理することができるとし、「建築史系」は建築史研究室の正統的な研究の姿であるが、対象を全球の人類一万年に広げたり(空間・時間の拡大)、五感との関係で見たり(ディシプリンの拡大)、やや無節操に方法・対象を肥大化させている。ここ数年はマド[窓]の全球全史を考えている。視覚という認知にも地域生態系によってさまざまなバリエーションがあることを人類史のなかで明らかにしたい、と。
 そのうえでいま読んでいる近刊本9冊を紹介し、方法(1、2)、理念(3、4)、建築史(5〜7)、その他(8、9)に分けて提示。「3カ月も経てば読んでいる個々の本は変わるだろうけれど、方法、理念、建築史、その他の枠組みそのものは基本的には変わらないから、…多様な読書を試みてほしい」と述べる。

 1954年生まれの村松さんは私より18歳も若く、いま還暦を過ぎて定年まぢか。私自身の過去と重ねると、研究分野は違うが、総括を意識する心情が痛いように分かる。私も還暦を機に自分の歴史学の追究と大学行政の現場での模索に苦闘する日々であった。

 久しぶりの暖かい好天下、菊花展も盛りの11月2日(木曜)、一行を三溪園に迎えた。村松夫妻、林憲吾講師、岡村健太郎助教、大学院生の計23名、村松夫人とは20年ぶりの再会である。
 私は、本ブログ「外国人VIPの三溪園案内」(2017年5月10日号)や「国指定名勝の10年」(7月11日号)を念頭に以下の話をした。①三溪園は三溪が設計した<谷戸>(ヤト)の地形を生かした特異な庭(名勝指定を受けて10年)、②若い都市・横浜は生糸輸出で成長、その生糸売込商の一人が原善三郎で、その孫娘の婿に入ったのが三溪(青木富太郎)、③三溪は実業家(生糸売込商、20世紀に入ってから富岡製糸場を経営)であり、自らも書画を良くし、下村観山ら近代日本画家を育て、茶人で造園家でもある「一人五役」の人物…。

 吉川さんの案内で3つの重要文化財を見学した後に、観察の成果として各人が撮ったマドの写真2枚を放映、タイトルを付して説明した後、相互に批評しあうミーティングがあり、私も参加した。古建築に現存する多彩なマドを写真に収める<主体>と<客体>(<対象>)との緊張関係が面白い。

 マドというカタカナ表記に村松さんの想いがあるらしい。マド(窓)は広辞苑に「採光あるいは通風の目的で、壁または屋根に明けた開口部(目門または間戸の意か)」とある。マドの音が先にあり、後に漢字の窓を充てたと思われる。語呂合わせではないが、マド(間戸)とヤト(谷戸)が不思議に響きあう。

【31】連載(二)ペリー派遣の背景

 この「(二)ペリー派遣の背景」(連載「黒船前後の世界」)は、岩波書店『思想』誌)の710号(1983年8月号)に掲載したものである。前号(709号)の「(一)ペリー艦隊の来航」では、ペリーが最重要視した所期の目的(予備交渉)として、以下の4点を述べた。①発砲を避けて交渉のルートを開く、②そのため日本側から対等な地位の役人を引き出す、③その役人に大統領国書を渡し、条約締結の意志を示す、④これを長崎ではなく江戸で行う。
 幕府も①に関しては腹を決めていた。ペリー来航の予告情報は1年半前に長崎のオランダ商館長から得ており、来航場所も長崎か江戸に近い浦賀(現神奈川県横須賀市)のいずれかと読み、準備を整えた。
最初の接触でオランダ通詞の堀達之助が”I can speak Dutch”(当方はオランダ語を話せる)と呼びかけ、与力の中島三郎助を浦賀の副総督と伝え、翌日、別の与力・香山栄左衛門を総督として引き合わせた。この偽称(詐称)がペリー側の目的の②を促進し、③へとつなげた。
 ペリーは浦賀近くの久里浜で大統領国書を受けとらせると、来春の再訪を告げ、10日間の滞在で去る。幕府はペリー再来と本交渉への準備を加速した。

 この日米初の公的接触の意義と今後の本交渉については、アメリカ側史料の活用により、いっそう明確になるはずである。先行研究は、①結果から原因と経過を説明する、②部分に固執して歴史の流れを無視するという欠陥があり、フィルモア大統領の国書の文言を、そのままストレートにペリーの政策と行動に直結させる傾向が強い。国書に書かれた「外交的希望」がそのまま実現されることは、政治の世界ではむしろ例外である。
 私はアメリカ議会文書(上院・下院)を可能な限り精査し、関連が窺える史料を一覧した。それが同誌58ページに載せた「略年表」である。正確には「ペリー派遣に関わるアメリカ議会文書史料の略年表」と呼ぶべきものであり、①(H)465,No.138(1845年2月に下院へ提出された下院特別統計委員長Prattの日本、朝鮮への特使の提案)から⑮(S)751,No.34(これは1855年2月3日に上院に提出されたペリー報告『遠征記』の一部)まで、計20の文書を掲げた(Hは下院、Sは上院)。

 さまざまな面で思わぬ発見があった。これが歴史を書くときの大きな喜びである。その第1が、太平洋・ハワイをめぐる英米間の競争である。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争、1846~48年)に勝利し、西海岸(カリフォルニアとオレゴン)を割譲させて太平洋に面する国家となり、その先の太平洋航路を視野に入れる。その前提としてアメリカ東海岸と西海岸をつなぐ(パナマは陸路)蒸気郵船航路の完成とアメリカ横断鉄道の開発構想があった。これには1848年のカリフォルニアの金鉱発見と、翌年から始まるゴールドラッシュも後押しとなった。
 一方の超大国イギリスはすでにPeninsular & Oriental Steamship Company(P&O社)による蒸気郵船を敷設し、イギリス・スエズ(陸路)経由、ボンベイ・セイロン・シンガポールを経て、南京条約(1842年)で割譲させた香港島に1845年に到達、さらに上海まで延伸したのが1849年、その先に太平洋横断航路の開設を構想した。

 英米間の太平洋航路開設をめぐる先取り競争が始まっていた。アメリカの蒸気航路開設を担ったのが海軍であり、その海軍郵政長官に就任したのが(1848~50年)、米墨戦争で司令長官を務めたペリーに他ならない。
 当時の蒸気船は大変な石炭喰いで、計算上では、アメリカ西海岸を出て太平洋を横断する18日間の航路のどこかに石炭・食糧・薪水の補給基地(コールデポと呼んだ)が必要であった。イギリスP&O社が香港・上海まで定期運航できたのは、航路上に飛び石のように幾つものデポを置いていたからである。アメリカ海軍は、ハワイと東アジアの東部の琉球(沖縄)あたりにデポを置く計画を俎上に載せる。

 第2の論点が漂流民の問題である。北太平洋は照明用の鯨油を採るアメリカ捕鯨船の最大の漁場であった。アメリカ東部で発達した綿工業のフル操業が鯨油の需要を急増させ、それに比例して捕鯨船の出漁も、遭難事故も増え、海流に乗って蝦夷地(北海道)に漂着する事件が頻発する。アメリカ議会に人道的支援を求める提案が出てくる。
 幕府は漂着民を救出し、長崎へ送って一定の調べをした後、鎖国下で外洋船を持たないため、帰帆するオランダ船に乗せて送還していた。1848年6月、捕鯨船ラゴダ号が漂着する。その長崎での取調べの通訳兼立会いをオランダ商館長に依頼したとのニュースがオランダ外交網からアメリカ海軍に伝わるや、漂流民が虐待されていると考えたアメリカ東インド艦隊は、自国民を救出する「外交法権」の発動として1849年1月、プレブル号を長崎に派遣する。この件は、アメリカ側の誤解と判明したが、日本側も日本人の漂流問題を抱えていた。
 大坂に集荷された食糧(味噌、醤油、昆布、鰹節等)を江戸へ送り、東北からコメ等を江戸へ送る廻船(平底の千石船)が沖へ流されると、北太平洋海流と偏西風に乗りアメリカ西海岸にまで行き着く。九死に一生を得るケース、途中でアメリカ捕鯨船に救助されるケース(ジョン万次郎等)もあったが、太平洋を舞台とする遭難・漂流民の頻発は喫緊の課題であった。

 第3が経済・市場開拓問題である。これについては資本主義が東西から地球を一周し、世界を一つに結ぶ最後の接点が日本で、日本を世界市場に組み入れるための開国こそがアメリカの狙いであるとする見解があった。だが私が調べたところ、アメリカ側の中国茶輸入は綿布輸出の3~4倍であるが、綿製品輸出はブラジル・チリの市場で足りていた。さらに中国市場にこれ以上食い込めなくなったため新たに日本市場を求めるとする説についても、根拠となる史料は見つからなかった。

 対日開国交渉の大役を最初に任されたオーリックが赴任途上の1851年11月に更迭され、翌1852年3月、ペリーが後任となる。このころから、捕鯨船の保護とその避難・物資補給港を求めて対日開国条約を締結せよとする見解が、大統領府内とりわけ海軍内で急速に高まってくる。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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