第20回 三溪園大茶会
第20回三溪園大茶会が11月21日(火曜)と22日(水曜)の10時~15時、内苑の建物を使って開催された。すっきりと晴れたとはいえ、寒波襲来の中、和服姿がつづく。蓮池と大池の間の園路を西へ向かうと、右手上方に茅葺屋根の大きな建物、左奥の丘の上に三重塔が聳える。わずかに銀杏の黄色が見えるが、全体として紅葉には早い。
三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。
当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。
使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。
ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。
三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。
三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。
一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。
それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。
1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。
平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。
公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。
三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。
当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。
使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。
ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。
三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。
三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。
一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。
それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。
1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。
平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。
公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。
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