学生たちの三溪園印象記

 パシフィコ横浜内にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(IUCと略称)のブルース・バートン所長を初め、佐藤有理さんほか教職員のみなさんが学生たち35人を引率して来園された。バートンさんとは25年前、彼が所長として来日した折(今回は2回目)にお会いしている(バートンさんの言)。
 IUCについては、本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の111号(2013年12月16日)にある通り、2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、学生たちは来日前に大学でそれぞれの専門分野と日本語を学び、ここIUCで10カ月間750時間の集中的訓練を受ける。

 来園予定の学生たちには、事前に本ブログのカテゴリ「三溪園」を拾い読みしてほしいとお願いしてあった。さらに本日の印象記や感想文を書いてほしいと頼んだ。吉川利一事業課長の説明の後、3班に分かれ、ボランティア・ガイドの浅沼桂子さん、神保正男さん、吉野直美さんが案内、合掌造りでは酒巻史朗さん、塚本英明さん、藤波富次さんが説明をしてくれた。

 しばらくして佐藤さんが8名分の「三渓園訪問の感想」を送信してくれた。その日本語で書かれた文章がみずみずしい。本ブログへの掲載をお願いすると、すぐ快諾の返事が来た。さっそく紹介したい。

(1) 先週は三渓園を見学させていただきましてありがとうございました。庭園の本当の美しさを反映する写真がきちんと撮れなかったくらい素晴らしい日本庭園でした。三渓園の構内は京都などからの建造物が丁寧に移築され、見事に保存されており、この日本庭園の歴史が深く感じられます。私には強い印象が残っています。その印象の中で一つを言えば、「臨春閣」という別荘にまさに感心せずにはいられませんでした。臨春閣の中の蟻壁には驚くことに和歌が見えます。その発見は古典文学を勉強している私にこの別荘をより楽しませてくれました。三渓園は季節によって庭園の顔が変わるとのことでしたので、今度は秋の盛りにまたお邪魔しようと思っております。重ね重ね、どうもありがとうございました。(エリック・エステバン)

(2) 今回は加藤園長のご招待のおかげで、半日間見学することができた。ガイドの吉野さんの説明を通して、日本伝統建築の巧みさを知り、造園の構想、そして「庭屋一如」という概念を理解できるようになった。それに、園内の古民家、旧東慶寺などの歴史建築に関することを教えてくださって、三渓園は個人的な庭園なだけではなく、地域及び伝統文化を保存するなどの意義も感じられた。(チン・イクネイ)


(3) 先日はお招きいただき、誠にありがとうございました。とても楽しかったです。園内ではさまざまな和風建築が各地から移築されています。伝統的な風景が凝縮されている素敵な日本庭園です。可愛い野良猫は多く、池に鯉も泳いでいます。私はガイドさんと一緒にゆっくり歩いて園内を回りました。ガイドさんはとても優しかったです。大変勉強になりました。(セツ)

(4)三渓園での足跡
私は日本に来た上は東洋風の庭園を鑑賞に行こうと決心したものの、今 まで様々な原因でその希望はまだ叶えてない。それで、およそ二週間前に校外学習として三渓園という選択肢が目に入るが早いか考えるまでもなくそれを選んだ。
それで、昨日はようやく期待していた機会になり、クラスメートと興奮して三渓園を探索した。三渓園に対する印象というのは、どこでも細心に設定されていて「天人合一」という雰囲気である。派手な噴水で修飾されているヨーロッパの園庭に対し、三渓園はそれほど壮大ではなく、全ての建築物が木材と藁でできているので、まるでいつかは崩壊するような華奢なものである。
遊覧している途中で古風な塔や民家のような建築物を見学して色々な勉強になった。例えば、日本の伝統的な美術観によると、居間の天井がどこもより高い、池の水が横に流れるほうがいい、橋がこの世と次の世の繋がりだということである。私はそのように説明してくださって、現在の人より昔の人のほうが遥かに自然に親しんだという印象を受けた。それに、三渓園のそれぞれの部分は日本の時代によって風景が区切られていて、あちこちを歩き回っている間、異時代間の差を実感できた。特に奈良時代と江戸時代の建築を比べて、まるで別々の国のものであるということに驚いた。
最後は、歴史を好む私は恥ずかしいことを告白しなければいけない。昨日の最も貴重な思い出というと、正午の昼寝であった。ツアーが終了した後、やっと他人から離れた時、一人きりで木陰で憩いつつ、美味しいお弁当をゆっくり味わっていた。そのあと、私は横になって池の流れと野鳥の鳴き声を聞いている間に、涼しい秋風を快く感じている自分が寝てしまった。その三十分後、目が覚めて四方に多彩な景色が見えて、最高の雰囲気であった。それで、自分が単なる観光客から庭園の主人になったような気がした。
そのような体験が素晴らしかったので紅葉の頃になったら、またもう一 回昼寝をしに行こうと思う。(ブライアン・リンチ)

(5) アメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの校外学習で「三渓園」に行きました。実は、横浜市の中で、こんなに美しい自然が見えること を知りませんでした。この庭園は非常に広くて、何回も友達と一緒にまたゆっくり見に行きたいと思います。その上、どんな季節でも、景色が変わるのでいつ行っても入場者が楽しめると思います。三渓園を歩きながら、ツアーガイドの説明を聞きました。特に、「旧矢箆原家住宅」の見学をした時に、ツアーガイドの専門的知識は大変印象的でした。とても気に入ったことは、そこで皆が畳の上に 座って、部屋の細かい部分と外の景色を楽しんだ時です。そして、もう一つ印象的なことがありました。それは、三渓園の香りです。例えば、「臨春閣」では、最近、畳替えをしたそうなので、私が大好きな新しい畳の香りがしました。その上、一度、キンモクセイという花の香りもしました。日本では、その花の香りが一番好きだから嬉しかったです。秋の校外学習で、横浜市の特別なところ「三渓園」を発見して、本当に良かったと思います。(バトラー・ジェニファー)

(6) 昨日(2017年10月2日)IUCの学生たちと先生たちと一緒に遠足してきた。朝にセンターの南の方にある「三渓園」という日本庭園に行った。広くて、とても美しかった。花があまり咲いていない季節だったが、私は今年までの5年間、砂漠のような南カリフォルニアに住んでいたので、三渓園の青々としている景色が本当に素敵だと思った 。ボランティア のガイドさんの説明のおかげで、良い勉強になった。三渓園では、原三溪さんという方が日本の色々な場所から伝統的なものや古い建物を集めて、保存するために建て直したということを聞いた。その話を初めて聞いたときは、彼が個人で博物館を作って自分で楽しむという目的で作ったのかなと思っていたが、 園を散歩したり、建物を見たりすると、感謝の気持ちになった 。原三溪さんが日本の大切な歴史や文化などを守るために力を入れてくださったから、現在のセンターの学生のような日本に興味を持っている人々が、日本の文化を経験できると思う。(ルクレア・ジェシカ)


(7)10月2日にセンターのクラスメイトと先生方と横浜の三渓園に行って、ガイドが案内してくださった。ガイドが三渓園の歴史と日本の伝統的な建築物の楽しみ方を教えてくださった。ほかの庭園と違って、三渓園は日本全国から17軒の古い建築物が移築されている。例えば、京都の室町時代の燈明寺というお寺の本堂と三重塔が今三渓園に建っている。そして、江戸時代の旧矢箆原家住宅という合掌造りの家が岐阜県の白川郷から三渓園に移築されている。以前高山市で合掌造りの家は見たことあるが、矢箆原家は裕福な家庭だったため、一般的な農家の家に比べて大きくて高級な建物だと感じた。旧矢箆原家住宅は実際に入れるので、私たちは歩き回り、ガイドが伝統的な日本の建築の面白さを教えてくださった。ガイドによると、最も重要なことは、床の間の前に座って、その高さから家と庭を眺めることだ。日本の建物は床に座るイメージで作られているので、その目の高さから見るのが一番いいらしい。そして、日本の伝統的の建築には木の自然の特徴が貴ばれているので、床の間の柱はよくまっすぐの幹ではなくて、少し曲がっている幹が多いと説明してくださった。歴史も、日本の伝統的な建築にも興味があるので、私にとってとても面白い日だった。また、季節によって庭が変わると聞いたので、他の季節にもう一度三渓園を見てみたいと思う。(デリオン・アレキサンドラ)

(8)加藤園長、先日はどうも有難う御座いました。私は津島裕子の小説で日本庭園の記述を読んでから(樹木がうっそうと茂ってレンガ塀に囲まれて三渓園と全く違うイメージですが)ずっと何度も庭園を訪ねてみたかったです。津島が説明している通り、庭に入ると他の世界に入れます。津島の庭園の世界は野獣や悪い記憶で満ちていて物騒な世界ですが、三渓園の正門をくぐって第一歩から園内のうねっている芝生や古風な建造物を初めて見た瞬間に別の世界に入っていくような感覚です。園内のどこからでも梢の上に突き出ている三重塔が見えるし、建物で履物を脱いで上がって客間で正座をしながら障子の隙間から風景を眺める時、まるで自身全体が江戸時代に生まれ変わったような感じです。原三渓さんが生きている間にも訪問した外国人の方も同じように感じたでしょう。歴史的な建物を庭園に移築し保護するだけでも素晴らしいことですが、和風の雰囲気を作り上げるためにそんなに巧みに配置したことでも原さんの天才が表れていると思います。ぜひ、今度もう一度訪問させていただきたいと思います。(クレイン・ブレンダン)

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ベシュトワル家の来園

 アントワーヌ・ベシュトワルさん(Antoine Bechetoille、1872~1966年)は、絹織物の筆頭生産地フランスのリヨンの生糸輸入商であり、1903(明治36)年に原合名会社(社長は原三溪)の子会社である原輸出店の総代理人となった人物である。1868年生まれの三溪が35歳、アントワーヌさん31歳、日仏間で見事なコンビを組んだ。
 この史実を雑誌“France Japon Eco”(日仏両国語の季刊誌)146号、147号(2015年)に多数の写真入り(史料)の記事で伝えたのが、クリスチャン・ポラックさん(Christian Polak、株式会社セリク社長、本社は日本橋)で、10月6日、三溪園の観月会にアントワーヌさんのご子孫一行20名を連れて来られた。

 ポラックさんの名前は、明治大学に収蔵されたポラック・コレクションや2014年の神奈川県立歴史博物館展示「繭と鋼-神奈川とフランスの交流史」等で知っていたが、お会いしたのは初めてである。その展示図録の冒頭に「クリスチャン・ポラック コレクションの歩み」として自伝風の回想が載っている。かいつまんで抜粋・紹介したい。
 「…ピレネー地方の片田舎で育ち、…東の最果ての地、日本とその国の民が話す言葉を学ぼうと心に決め、1968年、パリの国立東洋語学校(現在のフランス国立東洋語学研究所)に入学…卒業と同時に日本政府の給費留学生として来日…一橋大学で日仏外交関係史を学ぶ。…一次史料に当たり、安易な憶測を排し、常に厳正を期すべしと叩き込まれた精神は小生の研究者・企業家という二つの人格間に通底し、矛盾なく統合している。…」

 一橋大学で細谷千博教授(1920~2011年)に師事し、1907年締結の日仏協商に関する修士論文を書く。ついで日仏会館事務所長の手引きで日仏文化交流史の権威、高橋邦太郎教授(1898~1984年)に出会い、「…この驚くべき博学のユマニストは上野池之端に住む生粋の江戸っ子で、神田の古書店街を己が庭も同然に知り尽くし、…参考にすべき史料や書籍を指南してくれた。…(歴史研究には)国政史のような<大きな歴史>と個人史・家族史という<小史>があるが、自分は後者を選び、それを裏付ける史料は手紙、日記、メモ帳、蔵書、写真、通信簿等々…とりわけイコノグラフィー(図像)を重視している。…」
 当時、外国人の国立大学教員への道は閉ざされており、1980年、大学院法学研究科博士課程を修了すると、その翌1981年、株式会社セリクを立ち上げた。「…この社名は日仏協商の研究で学んだ両国の相互依存関係を紡いだ<絹>に因んだもので、小生の冒険の始まりである。以来、師の教えを忠実に守り、小生の稼ぎのすべては史料の収集に注ぎ込まれることになる。」

 そして一行の三溪園訪問を企画したポラックさんの日本側の相方が、公益財団法人三溪園保勝会の猿渡紀代子副理事長である。横浜美術館の学芸員時代、日本に住み版画や絵画を制作した「フランス人浮世絵師」ポール・ジャクレー(1896~1960年)の展覧会を企画した15年ほど前に知り合ったという。
 冷たい雨という予報だったが、ボランティア・ガイドの大西功さん、福田克夫さん、本田実さんが英語で案内する園内散策の間は降らなかった。そして白雲邸での懇談会。三溪園からは内田弘保理事長、猿渡副理事長、野村弘光理事(祖父の野村洋三氏が三溪と親しく、横浜で古美術商<サムライ商会>を経営)、川幡留司参事(三溪園の生き字引)、吉川利一事業課長と私が出席。

 猿渡さんのフランス語の司会で進む。まずポラックさんに今回の三溪園訪問に至る経緯を伺うと、彼はまず日本語で話し、その要約をフランス語で伝えた。
 10年間ほど進めていたアントワーヌ・ベシュトワルの調査の成果が得られないなかで、2014年、日本在住のジャン・ピエール・デュプリユ氏からエミール・ド・モンゴルフィエ(1866年~73年、横須賀造船所の会計係兼写真師)の子孫マリー・ド・モンゴルフィエさんと夫のベルナール・シャンパネ氏を紹介され、翌2015年、シャンパネさんからアントワーヌさんの孫ベルナールさんを見つけたと連絡を受ける。さっそく大勢のご子孫と対面、多数の史料を得た。この続きは上掲雑誌の論考と写真を参照されたい。

 ついで内田理事長のフランス語の挨拶。「ご一行の来園を心から歓迎します。原三渓とアントワーヌ・ベシュトワル氏の関係はよくご存知だと思いますが、氏は1910年、三渓の招きで、まさに皆さんの今おられるこの公園を訪問したのであります。横浜とリヨンは一本の生糸の線で結ばれていました。繊細ですけど、堅い糸です。その頃の日仏経済交流については、わが旧友ポラック氏の研究によるところが大であり、ここに感謝します。三渓は大企業家でしたが、同時に芸術の擁護者であり、大コレクターでありました。彼は寛大な心の持ち主でありました。その得たところを市民に惜しみなく開放しました。この公園もそうです。園内を散策すれば、日本を、その美と伝統を理解することが出きるでしょう。塔や建造物、動物や植物(梅や桜が素晴らしいです)もそうです。そうそう、「月」も加えたいのですが、今宵は残念ながら、彼女はgentilleでないようです。皆さまの快適なご滞在を祈念します。」

 ベシュトワル家の紹介はアントワーヌさんの孫のジョルジュさんが行う。20名のお顔と名前と血縁関係を瞬時に理解するのは難しい上に、頂戴した家系図(顔写真入り)を見ると、大変な人数である。いまなお高い出生率を誇るフランスの勢いを実感した。
 昨日到着したばかりの一行はみなお元気で、原三溪の居所であり、公開庭園でもある三溪園について、自然との一体感、樹木・石・古建築の配置の妙がなんとも素晴らしいと言われる。自作の手縫いのペンケースをいただき、三溪園から匂い袋を差し上げると「…ベシュトワルの苗字は<小さな森>という地名に由来しており、木から取ったお香は我々への格別の贈物です」と声があがった。

 明日は富岡製糸場(2014年に世界文化遺産に登録)へ行かれるという。官営の富岡製糸場は1872年に誕生し、1891年の払い下げを三井家が受け、さらに1902(明治35)年に原三溪の原合名会社が経営を引き継ぎ原富岡製糸所(~1938年)となった。アントワーヌさんが原合名会社のリヨン総代理店となったのがその翌年である。
 ベシュトワル家の方々の旅は三溪園と富岡、それに京都・奈良で終わるはずだが、ポラックさんの歴史研究の旅はさらにつづき、多方面へ拡がっていくに違いない。

平戸イギリス商館

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」を書いた。平戸(現長崎県)のイギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)による日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)に出会い、そのブログで冒頭部分に触れた。

 商館が置かれた平戸は九州最西端に位置し、大陸に近く、古くから中国や西洋諸国との貿易で栄えた。1191(建久2)年、 栄西が留学先の南宋から平戸島に帰着、ここで最初に禅宗を伝えた。1550(天文19)年、平戸藩主・松浦肥前守隆信の南蛮貿易進出、ポルトガル貿易船の入港、また同年9月、フランシスコ・ザビエルの来航とキリスト教布教でも知られる。

 コックス日記は西暦1615年6月1日に始まり、商館建物の一部の新築工事に関する王(上掲の松浦隆信の孫、同姓同名)の大工棟梁・山崎弥右衛門から購入した木材や大工・人夫の人数についで、前年末に暹羅(シャム=現在のタイ国)へ向かうも暴風雨のため琉球に5か月間滞泊していたWilliam Adams(1564~1620年)船長のジャンク船Sea Adventure号が戻ってきたことを記す。
 ウィリアム・アダムズとは、1600年4月、オランダ船リーフデ号(Liefde)で豊後佐志生に漂着、徳川家康により旗本として知行地の三浦半島の逸見に因み「三浦按針」の名を得た人物で、外交顧間等の役割を果たし、平戸イギリス商館開設にも大きく寄与した。

 コックス自身が「すべての出来事を正確に記した」と述べているとおり、日記は彼の旺盛な記録志向に満ち、可能なかぎり客観的な記述を志しているようである。つい胸のうちを明かすこともあるが…。
 毎日の書き出しは必ず天候と風向きで、航海日誌の形式を踏む。なお気温の記載がないのは、まだ寒暖計がなかったためであろう。たまに「蒸し暑い」とか「寒い」等の表現が見られるに過ぎない。
 ついで取引や贈答品、手紙を送った相手とその概略を記し、事件、人物評、風評等を記す。

 翌2日には、「…オオゴショ様(徳川家康)が大坂の城を取り、フィディア様(豊臣秀頼)の軍を滅ぼした」との第一報を記す。5月6日の豊臣勢の大敗、翌7日の決戦で終わる大坂夏の陣である。平戸まで約3週間で届いたことになる。
 4日には、夏の陣から帰国途上にある島津家のバルク船の艦隊500隻が平戸に寄港。コックス自ら船まで出向き贈物を届ける。豪華な南京緞子3反、藍色のバイラム布(インド産更紗)10反、赤色のゼラ布(インド産の布の総称)10反、白色のバフタ布(インド産キャラコの一種)10反、ダッティー布(インド産の厚手の綿布)等。綿布国産化が普及する直前の時期の高級舶来品である。

 麻が衣類の主体であった日本で、中国産・インド産の綿布は「贈物外交」の代表として広く使われた。イギリス人同士でも、藷(サツマイモ)、コムギ、ベーコン、パン、酒などの贈答や売買のなかに、綿布が少なからず登場する。なおサツマイモはアダムズが琉球から持ち帰りコックスに贈り、彼が初めて商館内に植えたと記している。

 商館建築のため雇った大工・人夫・職人(畳・瓦等)の人数も漏らさず記す。6月11日、木材等の購入代金や大工・人夫の延べ457日分を含め計581匁を清算した。人夫1名の日当は5分、井戸清掃の人夫は3分(大工の日当は明細書に記すとあり日記にはなし)。23日には完成したとあるが、大工・人夫数から推して、工事は5月中旬には始まり、床面積は100坪(200畳)程度か。
 オランダ商館に4年遅れて開設された平戸イギリス商館、それも11年間(1613~23年)だけで撤退を余儀なくされる商館の構成や役割、また日記の主コックス(商館長は彼一代)その人や彼の日常へと関心が膨らむ。

 ところで、コックス日記はなぜ1615年6月1日から始まるのか。天候と風向きから始まる、この日の日記には、「いざ書き始めるぞ」といった気配は窺えず、いつも書いてきたように今日も、という印象を受ける。
 平戸イギリス商館の開設は日記開始の1年半も前の1613年11月。以前の分もあったのではないか。なおこの『イギリス商館長日記』も1619年1月から1620年12月までの約2年分を欠いている。コックスは約10年後の1624年、バタビアから帰国の途次、船上で死去。商館旧蔵の文書も今は伝わらない。このときに一緒に消失したとも考えられる。

 本書の刊行を担当した史料編纂所の金井圓さんが『東京大学史料編纂所報』第13号(1978年)~第17号(1982年)の「刊行物紹介」に、文献考証のみならず史実についても貴重な記述を寄せている。以下2点を紹介する。
 第1が平戸イギリス商館の開設について。イギリス東インド会社の司令官 John Saris が1613年6月、平戸に来航、アダムズの仲介で9月に駿府の徳川家康にジェイムズ一世の親書を提出、江戸で徳川秀忠から貿易開始の許可を得て平戸に戻る。そして11月、平戸イギリス商館開設を決議し、商館長に東インド会社のコックスを、そして館員として8名を任命、12月に日本を去る。

 第2がコックス商館長の初期の仕事について。コックスは当初、平戸華僑の甲必丹(カピタン)李旦の屋敷を借りて商館に充て、1614年には長崎にヨーロッパ人の代理人を置いた。さらに江戸にRichard Wickhamを配置、駿河と浦賀に置いた日本人代理人を監督させ、大坂にWilliam Eatonを配置して、京都・堺に置いた日本人代理人を監督させた。さらにシャム(タイ)、ベトナム、対馬との貿易も試みる。

 種々の困難はあったものの、商館開設の1613年11月から1616年9月の江戸幕府による貿易地平戸限定令の発令、その制限緩和運動を進めるコックスの活動を含めた3年間は、商館建築や貿易活動の拡張、本国からの来航船受入れ、オランダ商館との相対的友好の保持など、活気に満ちた時期であった。 
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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