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【27】連載「植民地インドのアヘン専売制」

 拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(『横浜市立大学論叢 1979年)及び拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)において、イギリス議会文書の貿易統計からインド産アヘンの輸出先や箱数・価格等を分析し、これが19世紀アジア三角貿易を構成する重要な商品であることを証明した。
 しかし、まだ課題があった。インド産アヘンの生産の仕組み、とくにベンガル産アヘンの専売制の問題である。専売制は日本でも戦後もしばらく塩やタバコ葉生産等で行われており、植民地台湾では樟脳生産等で採用されていた。政府が独占的に生産から販売までを行い、競争者を排除すると同時に、得られる利益を国家の税収に充てる制度である。

 イギリスから自宅へ膨大な資料コピーを送ったが、肝心のイギリス議会文書(BPP)の植民地インド関係文書がバラバラで困っていたところ、幸いにも復刻版が東京大学東洋文化研究所図書室にあることが判明した。
 久しぶりに古巣の書庫に入り、関連の巻を見つけては必要箇所をコピー、分析するにつれて他の関連個所も必要になるという作業を何週間かつづけた。こうした史料収集を通じて書いたのが、「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『東洋文化研究所紀要』第83冊 1981年)である。序文にあたる「問題の所在」をふくめ、全4章からなる。

 長めの第1章「問題の所在」では、アヘン生産・貿易が近代史のなかで軽視されがちな理由として次の4点を整理し、統計資料の活用が不可欠と述べた。
 1)アヘン戦争(1839~42年)は有名な事件ではあるが、その原因となったアヘンの生産・貿易の実態と仕組みが体系的に把握されておらず、1つの政治的事件の把握にとどまっていたこと、加えて近代化の先導者たるイギリスがいつまでもアヘン生産・貿易に従事してはいなかっただろうと思われていたこと。
 2)日本はアヘン被害をほとんど受けていないと思われ、日本近代史では取り上げられることがなく、世界史との関連でも考える想像力に欠けていたこと。
 3)資本主義発展とアヘン生産・貿易とのイメージがマッチしなかったこと、とくに資本主義分析の始祖とされるK・マルクスが『経済学批判への序説』等で対外貿易を省略せざるを得ないとして言及せず、それがマルクス史学の影響の強い日本の史学界に浸透していたこと。
 4)日本においてアヘン生産・貿易の統計資料がほとんどなく、その制約から問題意識が薄かったこと、しかしアヘン生産・貿易に関する膨大な史料があるイギリス等においても統計資料が十分に活用されなかったことを考慮すると、世界の史学界に広く資料を生かす問題意識と手法が欠けていたこと。
 以上のように先行研究全般を整理したうえで、H・B・モース、E・オーエン、M・グリーンバーグ等の個別の先行研究を点検し、長期にわたるインド産アヘンの生産と輸出を統計により包括的に捉えることの意義を述べた。

 第2章「19世紀アジア三角貿易の基本構造」は、上掲の拙稿を踏襲したうえで、次の3点を補足した。(ア)19世紀後半の中国の輸出入における輸入品の首位が、アヘンから綿製品に代わり、輸出品の首位が茶から絹へ代わったこと、(イ)減少するアヘン輸入に対して1887年から中国海関でアヘン釐金を課すこととしたこと(なお中国海関の総税務司はイギリス人の初代R・ハートが長く勤めた)、(ウ)インド産アヘンの輸出額と植民地インドの財政収入が平行関係にあり(とくに1858年の天津条約でアヘン輸入が合法化されて以降に顕著)、インド輸出総額に占めるアヘン輸出の比率とインド財政収入に占めるアヘン専売収入の比率は、ともにきわめて高いこと。

 第3章「ベンガル・アヘンの専売化(1773-1830)」は本稿の核心部分である。これを統計資料の関係から、①1773~1791年の18年間、②1792~1808年の16年間、③1809~1830年の21年間に分けて分析を進めた。ベンガル・アヘン専売化(ほかに塩も)が始まる1773年は初代総督ヘースティングス就任の年であり、彼の専売生産の狙いと効果を考察した。アヘン専売化により、三大管区(ベンガル、マドラス、ボンベイ)のなかでベンガル大管区の税収が飛躍的に伸びる。

 第4章「マルワ・アヘンの成長」は、中央インドの藩王国で作られるマルワ・アヘンが安値で好みに合うため中国市場で人気が高まり、輸出量は1821年を境にベンガル・アヘンを凌駕する。その脅威に対抗して取られたマルワ・アヘンへの通過税措置(輸出港に至る陸路で課す)について分析した。
 イギリス東インド会社の果たした役割(貿易、税収、軍隊等)が徐々に変わり、貿易業務からの撤退=インド貿易自由化(1834年)、インド統治改革法(1858年)によるイギリス東インド会社の解散とインド帝国(イギリスの直轄支配)の成立へと進む中で、専売制ベンガル・アヘンとマルワ・アヘンに対する通過税措置を両立させ、アヘン生産・貿易は安定して高い位置を占める。
 以上が本論考の主な内容である。

 同じころ私は違う角度からの論考を発表した。1つが「<大正>と<民国>」(『思想』誌 1981年11月号特集「1920年代:現代思想の源流」)で、同じ1912年に始まる<大正>と<民国>という元号に象徴される日中両国の歴史を、関係性と対比性の両面から把握しようと試みたものである。

 すこし毛色の変わった論考が「都市空間における線と面の意識」(『横浜市立大学総合研究』第1号 1982年)である。開港直後の横浜外国人居留地では区割した「面」(ロット)に番号を付して賃貸に出し、日本人町には通りという「線」に名前(中心となるのが本町通り)と番号を付したことに着目した。
 同時期のイギリスはリーズ市の事例を挙げつつ、農村の「面」に付した名前から、都市化に伴い徐々に「線」の名前(と左右に番号を付す)へと進化した過程と対比した。また外国人の紀行文には、神社等の描写で「奥」の思想への関心が強いことを挙げた。
この2つの論考は後に「文明史」や「横浜学」の分野を開拓していくなかで、新たな展開を迎える。(続く)
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【26】連載「現代中国を見る眼」刊行

 イギリス滞在中の1978年、講談社現代新書担当の久保京子さんから執筆依頼が来た。書名案は『現代中国を見る眼』、1980年中には刊行したいとある。
 この新しいテーマは、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)とも『紀行随想 東洋の近代』(朝日選書 1977年)とも接点がほとんどなく、8年前刊行の『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)やW・ヒントン『翻身』の訳書(共訳 平凡社 1972年)等の延長上にある。
 書名案から推すと、「現代中国史」でもなければ「現代中国論」でもなく、「現代中国をどう見るか」らしい。言い換えれば、中国の長い歴史、広大な国土・膨大な人口をはじめ、現代中国の現状分析に至る「対象」の記述も必要だが、一方で日本人をふくむ外国人の中国観(中国を見る主体)とその歴史をたどることも必要となる。これは大変だぞと腹をくくった。

 折しも中国は1878年12月の鄧小平による「改革開放」政策宣言により急速に変化し始めており、その政策内容や今後の展開も見極めにくい状況下にあった。また文化大革命(1966~76年)の評価が大きく揺らいでいた。
 こうした時に「現代中国を見る目」をどう描くか。まず日本人の中国観を述べ、ついで長い中国史のなかの現代の位置を確かめ、中国の若者の動向を通じて現代中国の現状を総括、見えにくい将来展望を書こうと考えた。私にとって同時代まで含む歴史書の執筆は初めてである。
 刻々と変わる中国の現状を分析・意見交換する「二四の会」の末席に加わっていたのが幸いした。第一線のジャーナリスト(特派員経験者等)や学者・研究者が第二・第四土曜の午後に集まる。ここで多くの示唆と知識をいただいた。

 本書の冒頭は、新中国成立前後の新聞記事を参考にした。1949(昭和24)年1月31日の北京無血開城について、「中共軍は31日午後正式に北平に入城した(AP=共同)」(朝日新聞)と2行だけの報道である。今では想像もつかないが占領下の日本の新聞は朝刊だけで、それも1枚の2面のみである。約8か月後の10月1日、中華人民共和国の成立を伝える記事も小さい。トップ記事になるのは10月14日の「国府、広東を放棄、中共軍、三方面から包囲」である。
 この新聞報道から分かる通り、「…日本の敗戦時に約400万の日本人(軍人と民間人)がいた中国、親戚をふくめて誰かが中国滞在の経験をもつ身近な中国では、すっぽり抜け落ちたこの4年間(1945~49年)に大変革が進んでいた…」と述べ、日本人の中国観に大きな断絶があることを示した。

 第一章「中国―その時間と空間」には、「1 <歴史>の重み」、「2 中国は大きい」、「3 中国は小さい」の3節を設けた。20世紀イギリスの中国賛美論者の代表と言えるG・F・ハドソン『ヨーロッパと中国』を挙げ、中国に対する「優れた古典と遅れた現代」観を見る。とくに過去1300年にわたる科挙制度をイギリスが植民地インド統治のために導入、1855年(アヘン戦争勝利の13年後)にはイギリス本国の文官登用試験法のモデルとして導入したことを述べた。
 中国の国土面積は日本の約26倍、四川省だけでも日本より広いが、可耕地(農業適地)は国土の約10%に過ぎない。日本の約9倍の人口(10億と言われた)の約8割を農民が占める。彼らは省-県-人民公社-生産大隊-生産隊という行政組織の末端である生産隊(平均200人)で生きており、1つの生産隊の農地はわずか20ha(約450m四方)。農民の「中国は小さい」と言わざるを得ない。

 第二章「新中国、三つの<経験>」には、「1 耕す者に土地を」、「2 中華人民共和国の成立」、「3 文化大革命は何であったか」の3節を入れた。1945年以来、中国農民にとって切実かつ基本的な課題である<土地改革>を扱い、1945年からの国共内戦期に主に華北の解放区で行われた改革が、新中国を成立させる大きな政治的要因となったことを述べた。
 「2 中華人民共和国の成立」では、前述のボトムアップの華北解放区の政治勢力と、広範な統一戦線の形成による政治勢力の総和として、新中国が誕生したと述べ、ついで「3 文化大革命は何であったか」で新中国成立後の最大のイベントである文化大革命を取り上げ、これら<三大経験>を総括した。

 第三章「人間と組織をどう生かすか」では、現代中国の組織特性を見るため、「1 自力更生とモデルの是非」、「2 工作団方式」、「3 幹部と大衆-政治の三層構造」の3節を設けた。「工作団方式」は精選した幹部を中央から各地に派遣してモデル事業を実施する方式であり、とくに1948~52年の土地改革推進期と、1956~58年の農村合作化(人民公社建設)の時期に大きな役割を果たし、派遣幹部(全人口の約2%)と在地の幹部候補生(全人口の約10%)が共鳴したことの意義を述べた。
 文化大革命は都市部の青年を中心に展開され、ここで幹部と紅衛兵ら幹部候補生を結ぶ意見表明の媒体として壁新聞が大きな役割を果たしたが、ポスト文革期の1980年3月、壁新聞の自由を憲法から削除する決定がなされ、これにより若手を中心とした幹部候補生のエネルギーが遮断されたと述べた。

 第四章「若ものたちの現在と未来」は、こうした鬱積した状況下の若者たちの現状分析であり、「1 世代差-乞食をめぐる論争」、「2 迷信に走る青年」、「3 自信喪失と自覚」の3節を設けた。
 現状分析には新しい資料が不可欠だが、アンケート調査やインタビュー等の直接取材は難しい。そこで新たに日本に入り始めた中国の地方紙や『中国青年報』紙、『中国青年』誌等を材料とした拙稿「中国の新聞のおもしろさ」(『世界』誌1980年8月号の「論壇」所収)につづき、これら紙誌の投書欄に出てくる若者たちのホンネと大人の解説等を主な資料とした。個別の事例は本書に譲る。

 第五章「<四つの現代化>の課題」では、「1 なにが問題になっているのか」、「2 農業は遅れているか」、「3 工業は成長するか」の3節を設け、現状を分析したうえで現代中国の近未来を考えた。全国に35万の工業企業があり、その所有形態は国営工業、農村人民公社の社隊工業(公社と生産大隊の経営)、都市集団工業の3つに分かれるが、最大の国営工業は4分の1が赤字である。
 「展望-平等と競争の二重原理」では、国営工業の赤字改善を目ざす企業間競争と農村人民公社での「五定一奨」等を取り上げ、個人間平等と企業間競争による生産性向上という二重原理の相克を述べ、展望とした。(続く)

国指定名勝の10年

 三溪園は平成19(2007)年2月6日、文化財保護法の規定に基づき国指定の名勝となった。明治39(1906)年の開園から100年後である。それからさらに10年が経った。
 指定の解説文に「三溪園は、近世以前の象徴主義から脱却した近代の自然主義に基づく風景式庭園として傑出した規模・構造・意匠を持ち、保存状態も良好で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い。また、当初の原富太郎(三溪)の構想どおり広く公開され、多数の来訪者に活用されている点も高く評価できる。」とある。
 
 国指定名勝とは、「我が国の優れた国土美として欠くことができないもの」(平成7年改正の文部省「指定基準」)であり、自然的なものから人文的なものまで指定範囲は幅広い。①公園、庭園、②橋梁、築堤、③花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所等11種に分かれ、2017年6月現在、計402件。国指定名勝の整備には国の補助金が出る(補助対象経費の半額)。
 上記①公園・庭園のうち庭園は144件で、所在地は京都45、滋賀19の順に多く、金閣寺、銀閣寺、苔寺、大徳寺方丈庭園等があり、また岩手県の毛越寺庭園、東京の小石川後楽園、旧浜離宮庭園、六義園、さらに金沢の兼六園等が有名である。近代の庭園はきわめて少なく、東大構内の懐徳館庭園、佐倉市の旧堀田正倫庭園等、そのなかで三溪園の規模は約18haと群を抜く。 

 公益財団法人三溪園保勝会では、平成20(2008)年度から国の補助金を受けるようになり、平成21(2009)年4月、各分野の専門家・学識経験者(歴史、庭園、建築、植生、地盤工学等)にお願いして、三溪園整備委員会を設置し(担当は羽田雄一郎主事)、重要事項の審議をつづけてきた。委員の任期は1年とし再任を妨げないと規定、委員長は本年度も引き続き尼﨑博正教授(京都造形芸術大学)を互選した。

 2016年度3回目の委員会(2017年2月16日)において「名勝三溪園保存整備事業報告書(中間) 平成28年度」(384ページ、以下、報告書と呼ぶ)が提出された。委託先は㈱環境計画研究所(吉村龍二所長)、以下の5章からなる総合的かつ詳細な内容で、書名に(中間)とあるのは、これからも続くことを意味する。
 第1章 保存整備事業の経緯と目的
 第2章 三溪園の価値
 第3章 保存整備事業
 第4章 保存管理計画
 第5章 事業計画

 この報告書を踏まえて、いま三溪記念館の第3展示室で8月16日まで「名勝指定10周年記念―三溪園をまもり伝える―」が開かれている(担当は羽田主事と清水緑学芸員)。三溪園を守り伝えるため、さらには開園当初の姿に近づけるため、各分野の専門家により「名勝整備委員会」を立ち上げ、長期計画により三溪園の整備を行ってきた経緯を紹介している。その一部を抄録しよう。

 (1)整備のこころがまえ:三溪園の保存整備事業は、変化しつつある景観を、傷んだ部分の修理や、危険な箇所の保全、生長しすぎた樹木の整理などを通して、元の姿に近づけることを目的とする。それには、発掘調査や史料をもとに明らかになった事実をよりどころとして、実際の修理方針を検討し、設計、実施というように手順を踏んですすめていく。原三溪がつくりあげた作品である三溪園を守り伝えていくために、十分な検証を行いながら、よりよい姿で後世に遺していくことを目指す。
 (2)三溪の庭づくり:三溪園の土地は、先代・善三郎が別荘地として求めたもので、善三郎の逝去(明治32年(1899)後に三溪が引き継いだ。三溪が構想した庭園の設計図などは、今のところ残されていない。三溪が美術品を収集していた際に、奈良の古美術商・今村甚吉へ宛てた書簡の中に、建造物や庭石の入手について触れられているものがある。三溪園の庭づくりには、三溪自ら足を運び、目で確かめて、一木一草一石が選ばれたことがわかる。そのことを記した三溪の書簡を紹介する。
 (3)三溪園のこれから:三溪は「自然は造物主の領域」であり私有すべきではなく、公共性があるものという考えを実践した。三溪が心をこめてつくりあげた庭園は、古建築や美術品の保存も視野に入れた文化財そのものである。名勝整備事業は現在、整備委員会発足時に立てた長期計画の半ばである。多くの文化人が集い、多くの市民の憩いの場である三溪園の姿をよい状態で遺していくため、これからも丁寧に保存整備をすすめていくことが望まれる。

 これまで実施した具体的な保存整備事業は以下の通りである。
 内苑流れの整備 平成20~24年度(2008~2012)
 外苑流れの整備 平成22~25年度(2010~2013)
 植栽整備 平成21年度~(2009~) 
 内苑土塀の保存修理 平成20年度(2008)
 寒霞橋欄干の改修 平成21~22年度(2009~2010)
 観心橋の改修 平成22~23年度(2010~2011)
 白雲邸崖の整備 平成23~24年度(2011~2012)
 三重塔周辺園路の整備 平成23~24年度(2011~2012)
 亭榭欄干の改修 平成23・25年度(2011・2013)
 大池アオコの調査 平成23~25年度(2011~2013)
 白雲邸崖横穴の修理 平成25年度(2013)
 南門崖の整備 平成25~26年度(2013~2014)
 正門藤棚の改修 平成25年度(2013)
 中ノ島の木橋の改修 平成25~26年度(2013~2014)
 白雲邸倉の保存修理 平成22・25~27年度(2010・13~15)

 いずれも素通りしがちで、目立たない場所にあるものが多い。だが手を抜けば現在の三溪園はない、重要なものばかりである。三溪園の名勝指定範囲18haのうち、山林部は約10haで庭園部は約8ha、来園者が山林部に踏み入ることは稀であり、庭園部についても崖の整備等を目にすることは少ないであろう。

 日々呼吸しつつ生きている名勝・三溪園の整備には、莫大な費用と手間、そして適宜の判断が不可欠となる。整備委員会はそのための「頭脳であり心臓」である。

 近未来の差し迫った保存整備対象は、最初に来園者が触れる正門と南門の一帯である。さらに臨春閣(重要文化財の古建築)の檜皮葺き屋根の葺き替え等の時期も迫っている。2019年11月、横浜で開催予定のラグビー・ワールドカップ決勝戦と2020年夏のオリンピック・パラリンピックに間に合わせたい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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