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タケの開花(その4)

 三溪園の山上にある三重塔近くのタイミンチクと内苑入口近くにあるオロシマササが今年ほぼ同時に花をつけた。その観察状況や不思議な現象について、二人の生物学者(村松幹夫さんと坂智広さん)の力添えにより、これまで「タケの開花」を3回にわたって述べてきた。開花はすこしずつ拡がり、開花のピークを越えた印象を抱くが、いつまでつづくか正確には予測できない。

 私なりに素人の定期観測をつづけ、お二人の意見をいただいてきた矢先の6月20日(火曜)、17時26分過ぎから約2分、テレビ朝日のスーパーJチャンネルで三溪園のタイミンチクに関する報道があり、坂さんのインタビューへの返答に驚かされた。ご覧の方もおられよう。
 「1928年に咲いたとする記録がある」、「開花後に枯れ死した記録がある」の2点である。しかし、これらについては明確な記録がなく、村松さんの記憶だけ存在するのが現状である。この<記憶>を確かな<記録>を得て証明できないか。調べを進め、究明途上にある段階で、上記の発言はどうしたことか。

 私はすぐ坂さんにメール連絡した。念頭をよぎったのが、長い時間の取材を短時間に編集するさいに、記者(またはテレビ局)の都合の良いように発言の一部を切り取るやり方である。
 
 坂さんから返事がきた。…言葉を選びながらかつ「…と記録がある、と新聞で見られますが」とか「…一般に開花後は枯れると信じられているが」など、しっかり否定なり補足説明をつけておりましたが、その一部だけが切り取られて放映されました。…記者の描くシナリオに合わせた場面が使われました。マスコミの切り取り方に不用意に対応した未熟な点、深く反省しております。…
 
私は次のように返信した。「…やはりテレビに都合の良いシナリオに乗せられたのですね。…その記者にまずは厳重に抗議し、その理由をしっかりと伝えてください。もちろん放映したものを撤回することは不可能ですが、記者のこれからの取材・編集方針にはどこかで役立つでしょう。…」

 これと並行して、以前からの課題である村松さんの記憶に関して、放送当日の20日に、ご本人から丁寧な返事をいただいた。以下は21日付けの私の返信の末尾である。

 ご丁寧な説明を拝受しました。ありがとうございます。…
とくに後段にある三溪園のタイミンチクに関して…現状では次のように考えるのが妥当ではないでしょうか。

 ア)生物学者の発言は重要ですが、発言者が不明で文献記録もなく、村松さんの記憶にすぎないとすれば、十分な証拠(エビデンス)にはならない。

 イ)三溪園のカンザンチクが昭和初期に枯れ死したという話(=発言者不明、文献記録なし)も同様に十分なエビデンスにはならない。…カンザンチクとタイミンチクは近い仲間であるが、もと2種あって枯れた種があったのか、カンザンチクがあったのか、カンザンチクとタイミンチクの混同なのかが、結局不明確のままになったという村松さんの注釈は記憶にとどめるべきであろう。

 ウ)開花や枯れ死について生物学者の記録がない現在(発言はあったとの後の記憶のみが存在する)、唯一考えられるのは新聞報道、地域の新聞である『横浜貿易新報』(戦中の「一県一紙」政策により神奈川新聞となり現在に至る)の該当年に当たることです。名所三溪園の大事件なら記事になるであろう。

 ここに記載が見つかれば十分なエビデンスとなりますが、見つからなければ1928年の開花はいまだ「口伝」、「噂話」、「風聞」、「生物学者の記憶」の中にだけ存在し、事実の確認はできない、と結論せざるを得ません。
残された希望である『横浜貿易新報』の点検に待ちましょう。

 そこに坂さんからのメールが届いた。21日にテレビ朝日の記者に「抗議」した内容である。

 先だっての"スーパーJチャンネル”を…昨日改めて録画で見直してみしたが、私の話のところで「1928年に開花した記録がある」、「一斉開花の後は枯れてしまう」という形に切り出されて、90年ぶりの開花ということが強調されてしまっており、意図するところと違っていることに気づきました。私たち研究者は、論文や記録が存在してその原典にあたることができると引用してはっきりと言い切りますが、まだその歴史的証拠に行き着いていません。…今回のように「『1928年に開花した記録がある』の発言だけを切り取るのは誤りで、記録を現在調査している段階にある。その口承や記憶について、視聴者の方から新たな記録の情報が得られることも期待したい」という意図だったですね。私が取材慣れしていなかったので申し訳ありませんが。…

 竹薮が一斉に枯れてしまうことの話題性だけを期待されずに、むしろ…今後の新しい知見を是非とも第二弾としてお伝えいただければ幸いです。…

 追いかけるように坂さんからまたメールが来た。メールによる自分の抗議に対して、記者から電話があり、全く気付いていなかった、メールを読んで大変大きなミスをしてしまったことを猛省し謝罪したいと話された、とある。
具体的には話の構成を「90年ぶりの開花、何かが起こるのでは?不思議がいっぱい」という流れで組み立てたいという思いで、あの形で言葉を切り取ったことに明らかな問題があった…、メールを読んで改めて気づき、報道に関わるものとして今後襟を正して臨む、と話したという。

 なお番組に寄せられたモニターの感想では、「90年ぶりに開花、異変の前兆!?」というより、「タケの花って小さくて、こんなに地味なのだ、探しに行ってみよう」「三渓園は素敵なお庭があるから、今度行ってみたい」というものが大半であったという。また記者は「視聴者の反応がタケの花そのものに向かった自然を楽しむ心情であったことに、作り手の視点をどう置くべきかきかをしっかり考える良い機会になった」とも付言したという。
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【25】連載「イギリスとアジア」

 連載「紀行随想 イギリスの近代」(世代群評社の『道』誌)を見た木村秀彦さん(岩波書店編集部)が、帰国後の1979年春、声をかけてくれた。連載等を新書にまとめないかと言う。

 イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあった。開けて史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば、1つの歴史書ができる。欣喜雀躍した。

 ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変えて、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して、晩の10時まで8時間、合わせて16時間の作業ができた。若さゆえである。

 私は書き始めると速いが、推敲には時間をかける。雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)は刊行に至った。黄表紙版の108番。偶然とはいえ、この数字が仏教でいう煩悩の数と同じであるのが妙に嬉しかった。

 本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。序章と各部の冒頭には、副題の「近代史の原画」に相応しい、時代を象徴する銅版画(エッチング)を入れた。

 「Ⅰ イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。
第1章はイングランドを中心として旅をつづけた成果を取り入れ、近代の幕開けに村の生活が変わる状況を家計簿等から示し、第2章で交通網(道路と運河)の展開が情報を広く運ぶ状況を招来したこと、第3章では急激な都市化(とくに産業革命都市)による下水道整備等の及ばない過渡期の姿を描いた。

 「Ⅱ 19世紀のアジア三角貿易」は、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。
貿易統計を活用して、第4章で紅茶と綿布(薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出)を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ19世紀アジア三角貿易の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。

 「Ⅲ イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。
 第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かした強心剤アヘンチンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。

 「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換にいたった経緯を述べ、また副題「近代史の原画」に触れて、本書に描いた近代の姿は世界史の教科書にないものが多く、これはコピーではなくオリジナル(原画)であるがデッサン(原画)にとどまっているかもしれない、とも述べた。

 また新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。本書は広い読者を対象とする一般書として、何よりも読みやすさを心がけたが、従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が最初ではないかと思う。

 アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少ないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったため、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。本書は版を重ね、12年にわたり18刷まで刊行、多くの書評を得た。

 毎日新聞の「私の仕事」欄(1980年2月18日)では「イギリス国内のアヘン需要は第一次大戦中までつづき、近代日本のお手本のイギリスは大正時代に”アヘン漬けになっていた“」と驚きを表明、主題とした「19世紀アジア三角貿易」とは違う側面に注目している。

 学術誌では『史学雑誌』(1981年1月号)の新刊紹介で石井寛治さん(東京大学経済学部)は「…本書の面白さは、最近とみに豊かになったイギリス社会史の研究成果を取り込みながら、さらにオリジナルな史料に当たってゆくさいの、東洋史家たる著者の眼のつけどころである…」とし、それぞれの中心課題をⅠ部では「中国産紅茶に呪縛されイギリス社会の構造」、Ⅱ部では「インドから中国へのアヘン輸出のピークが1880(明治13)年であること」、第Ⅲ部では「アヘン中毒とアルコール漬けの19世紀イギリスから公園とレジャーに象徴される今日のイギリス社会がいかに生まれたかの説明」と述べている。

 本書には中国語訳『19世紀的英国和亜州』(『加藤祐三史学選之一』 中国社会科学出版社 1991年)がある(訳書出版に対して横浜市海外交流協会から助成金を受けた)。訳者の蒋豊さんは私のもとに留学してきた北京師範大学史学科出身の英才で、いま人民日報日本月刊(東京)の編集長であり、東方出版社(北京)の東京支社長でもある。この訳書を通じて、中国近代史の起点であるアヘン戦争の世界的な背景が、初めて中国人読者に届けられた。(続く) 

タケの開花(その3)

 前回(その2)で書いた「一斉開花」と「部分開花」について補足したい。「部分開花」が「一斉開花」の前段階の場合と、群落の一部だけの開花に終わることもあるらしい。一斉に開花した後、群落全体が死滅するケース、開花しても枯れないケース等があり、タケ・ササの種類により異なる。しかし、どこまでが「部分開花」で、どこから「一斉開花」かを現場で判別するのは難しい。

 5月27日朝、坂智広さんから次のメールが入った。
…オロシマササはメダケ属なので、本来はタイミンチクと同様に株によって段階的に咲いていくのかもしれませんね。29年前の記念館完成時に栽植され、いま向かって左側の植栽が地下茎の先端にある新芽まで開花している状況、また右側の生垣は開花していな状況を見ると、植栽を管理される刈り込み作業の効果・影響で一方は一斉開花しており、他方は開花していない。同じ株由来だとすると、非常に興味深い現象があるのかもしれません。いずれにせよ、観察を続けることが肝要と思っております。
…愛知県設楽町の森林でササ属のスズタケが一斉開花したとする日テレNEWSの2016年6月10日の報道がありました。研究者らが設楽町の段戸湖周辺約5000ヘクタールで「スズタケ」の花が一斉に開花したことを確認したと発表、120年に一度しか咲かないと言われるこのササの珍しい一斉開花である。
 村松先生のお話だと、ササ属では一斉開花して群落が枯れた後、種子が発芽して回復するのが多いようです。ミクラザサでは地下茎まで完全に枯れタケノコは出ず、開花結実した種子が落下後直ちに発芽して群落が回復しました。クマザサの開花を見たことがありますが、種子よりも生き残った部分からの回復のようでした。
 マダケ属のマダケは60年、120年周期で一斉開花し、不稔で種子は結実せず、開花稈の地下茎からタケノコで復活したという報告があります。不稔といっても完全に不稔ではなく、開花後地下茎からの再生竹で比較的速やかに藪が回復することはこの分野の間では常識です。

 これまで本稿ではタケとササを区別せずに使い、ときにタケ・ササと併記してきたが、両者の区別を概観しておきたい。その大きさが様々なことから両者の区別がつきにくい場合もあり、日常用語としては明確な区別をせず用いる場合もある。以下、私に分かるかぎりで通説を整理する。
 広義のタケは、その生育型から狭義のタケ(竹)、ササ(笹)、バンブー (bamboo) の3つに分けられる。熱帯域に多いバンブーは地下茎が横に伸びず、株立ちとなる。問題のタケとササの区別は、(1)タケは地下茎が横に伸び、茎(くき)は当初は鞘(さや)に包まれるが、成長するとその基部からはずれて茎が裸になる。ササはタケと同じく地下茎が横に伸びるが、茎を包む鞘が剥がれず、枯れるまで残る。(2)しかし村松幹夫さんによればササでもリュウキュウチク節であるタイミンチクは地下茎が伸びもするが株立ちもする。自然界では様々な進化状態が混在して一概に語る難しさがある。(3)葉の形態ではタケには格子目があるが、ササにはそれがなく縦に伸びる平行脈があるとされる。一般にササはタケより小さいが、一部には逆転する例もあり、オカメザサはごく小さなタケ、メダケは大きくなるササである。
 日本の大型タケ類は中国渡来であると言われるが、ササ類はまずは土着の種で、しかも変異が多い。「竹」の音はチク、訓はタケであるが、「笹」には音がなく訓読のササのみの国字(『漢字源』)であり、竹冠の下の「世」は葉の省略体という。欧米ではササ (sasa) と呼ばれ、日本的な植物として認知されている。またタケから竹釘や籠等を作り、ササの葉の防腐作用を活用して保存食(鱒寿司、ちまきなど)を包むのに使う等々、生活に密着する使途がある。

 ムギ類の研究と並行して村松さんがタケ・ササと関わり始めたのは1953年とご本人が言われる。今年5月25日に初めてお会いした折、論文抜刷3点をいただいたが、タケ・ササに関する最初の論文が1972年発表の2本であり(いずれも『富士竹類植物園報告』第17号)、この分野の先駆者として60余年にわたり研究を牽引してこられた。なお同植物園は世界のタケ500種類を展示する。
 
 大先達の研究と並行して、最近は若手の研究が進み、多数の知見が積み重ねられている。5月30日、坂さんから次のメールが入った。
…日本生態学会誌(2010、60巻1号)に井鷺裕司「多様なタケの繁殖生態研究におけるクローン構造と移植履歴の重要性」の論文を見つけました(アドレス付)。オロシマササはこの論文にあるタイプA、タイミンチクはタイプCにあてはまるのではという考え方になりますか?
 三渓園のタイミンチクも、当初どのくらいの株が植えられて遺伝的多様性があったか、DNAマーカーで分析して見るのも興味深いと思います。  坂

 私は以下のように返信した。
…井鷺論文を拝受しました。…「はじめに」に記されるように、タケ類が有用なため「種レベルの特徴というより、偶然、その地域に人為的に導入された限定された系統の性質であったり、群落を構成するクローン数が極端に少ないという事に起因する可能性がある」との仮説は生態学者らしい、種の人為的環境を重視する見方と思われます。…

 井鷺裕司研究室(京都大学農学研究科森林科学専攻教授で森林生産学を担当)のホームページには「隠花植物の系統分類、植物群落の炭素循環、都市近郊林の管理、植物群落の更新過程などに関する研究を行ってきた。現在の主要な研究テーマは、保全生態学で、フィールドワークと遺伝解析に基づくより適切かつ効果的な生物多様性保全を模索している」とある。

 一方、三溪園のタケの開花がマスコミの関心を呼び、5月31日に毎日新聞朝刊、6月3日に朝日新聞朝刊に記事が載り、6月2日にはテレビ神奈川の放映があった。6月7日の神奈川新聞は、花のカラー写真やそれを撮る来園者の姿、さらに坂さんへの取材記事等を掲載した。
 マスコミ報道の拡がりに加え、三溪園の羽田雄一郎主事の「一生に一度見られるかどうかの貴重な花で感動している…」の言葉が共感を呼んだか、来園者が急増している。
 議論が植物学の深みに入るほど門外漢の私には分からないことが増え、理解不能になることを危惧しつつ、一方でタケ・ササの花、広くは植物や生物の生態の不思議に惹きこまれている。理解できる限り、これからも伝えていきたい。(続く)

タケの開花(その2)

 三溪園のタイミンチク開花報告の続き(その2)である。前回報告から1週間後の5月25日、村松幹夫さん(岡山大学名誉教授)が、木原ゆり子さん(木原生物学研究所創設の木原均博士の三女)、坂智広さんと一緒に来園された。ちょうど「蛍の夕べ」(5月22日~6月2日)や記念館内で所蔵品展「五月雨る―さみだる」「水の色」(5月25日~7月4日)など特別行事の開催中である。
 移動しつつ遠来の客に三溪園の歴史や魅力をお伝えした。横浜が若い都市で、1854年に幕府が日米和親条約交渉地とした横浜村を1859年の横浜開港場としたことに起源すると話したところで、管理事務所前に着く。ここでオロシマササ(福岡県於呂島の原産と言われる)の生垣の開花状況を観察していただく。坂さんが先週より花が格段に増えたと説明する。
 ついで村松さんは横浜開港の1859年について「この年こそ進化論の古典的名著、ダーヴィン『種の起源』の刊行年です…進化論は生物の歴史を説くもの、文系の歴史学と同じ発想により展開する学問です。分析のための素材や手法は異なりますが…」と言う。偶然にも1859年は、生物の謎を解く学問の起源と、都市横浜の起源とが重なる記念の年であることを、初めて意識した。

 本題の「タケの開花」の理解を深めるために、前回に一部のみを紹介した坂さんの5月14日の観察報告をもう少し詳しく見たい。
…花穂の形状が、少し変わったものも認められます。…今回は開花株の範囲が広がっていました。まだ、株全体や山全体が開花するのか?という雰囲気ではないようです。しかしこの10日間でかなり開花が進んだのは確かです。
 タケ・ササの種によって、また集団によって、全面開花~部分開花、その移行型を示すことが多く、いろいろな場合を見てきています。三渓園のこのリュウキュウ節(タイミンチク)はどうだろうか、ということも興味を持っております。
 三重塔をから松風閣のあたりの遊歩道沿い、また外苑に降りていく辺りのタイミンチク、特に小株がよく咲いています。駐車場辺りのタケはまだ新梢が出ていないようなものもあり、かなり場所によってばらつきがあるのでしょうか?集団が遺伝的にバラついているのか、松風閣あたりの集団がF1のような集団なのでしょうか?さらに不思議さが深まってきます。…
 一斉開花は、どのような様相だったのか、古い分けつの節からも花穂がたくさん出て株全体の枝先に花がつくのでしょうか?あるいは、今回のように株元の新梢に花穂がたくさんつくような形になるのでしょうか?…観察で注意したり、見落としてはいけない点をご指導いただけますと幸いです。 坂 智広

 これに対して翌5月16日、村松さんからのメールが来た。
 …メールにて三渓園のタケ・ササ開花の状況をありがとうございます。写真やご報告を読んで、一斉開花に向かっているかと期待を大きくしています。基部根際から出ている小稈にも花穂が形成されていますのでその感じを強くしています。もし一斉的としますと、藪全体がどのようになっているのかが、ポイントと思います。…一斉開花や部分開花について、いろいろな報告がありますが…視点や目線にはとても大きい違い~振れがあります。私は、タケの研究者との会話で、用語を含めて話しの「ずれ」をしばしば感じています。…私は、まだまだ現象論を追求する必要があると思っています。 村松幹夫

 タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが、事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少ない。村松さんが「現象論を追求する必要がある」とするのは、現象を的確に観察して記録に残すことの重要性を指しているのではないか。
 また開花の理由についても、タケ・ササはふだん地下茎から伸びてくるクローンにより世代交代を行うが、それが限界に来たとき開花・交配して種をつくり次世代を生むとする仮説があるが、これも不稔の場合には通用しない。また開花を引き起こす情報伝達と物質(ホルモン等)が何かも気になる。

 上記の村松メールに対する坂メールは次のようにある。
 薮全体がどうなっていくか、大変興味あります。…三渓園のタイミンチク開花株周辺の竹薮は、新枝?の伸びに勢いがあって他の場所と違った雰囲気を醸しだしているようにも感じます。…竹薮の奥の方が気にかかっています。
 またタケの開花を誘導する遺伝子が基本的にはシロイヌナズナやイネと同じく植物に広く保存されているFTとTFL1遺伝子が関与していることを報告した論文を見かけました(アドレス付き)。…いくつかの歯車が組み合わさって数十年のサイクルになっているであろうところが興味深いですね。地際からの若い稈に花が多いのは、葉で作られたフロリゲンが成長点に十分量届いていると言うことなのでしょうね。  坂 智広
 
 そして我々は三重塔方面へ坂道を登り、いよいよタイミンチクの開花観察に向かった。米寿(88歳)を超えた村松さんは、周囲の植物に目を配りつつ、足取り軽く歩く。タイミンチクの花は、すっと伸びた花穂の先端に雌しべが包まれ、それを取り囲むように雄しべ(その葯は数ミリ)3個が垂れ下がっている。
 開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていた。だが村松さんによれば、これが「一斉開花」の前兆なのか、それとも「部分開花」なのかを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。
 この話の延長上に「竹酔日」(ちくすいじつ)という言葉が村松さんから出た。この日にタケを植えるとよく育つという中国の言い伝えで、陰暦5月13日、新暦で6月23日頃を指す。この頃がタケの個体更新や世代交代の最適期なのか。まずは竹酔日までの変化をしっかり観察していきたい。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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