【24】連載「19世紀アジア三角貿易」

 イギリス議会文書の精査を通じて、19世紀初頭に(1)中国からイギリスへの紅茶、(2)植民地インドから中国へのアヘン、(3)イギリスからインドへの工場製綿布という3大商品による3か国(地域)を結ぶ三角貿易が誕生したことを確認し、これを「19世紀のアジア三角貿易」と命名した。

 これらは段階的に成立してくる。これまで述べて来たものをまとめると、(1)、(2)、(3)の順に貿易量・貿易額が増える。(1)の中国からイギリスへの紅茶は1740年代に増え始め、1780年代からコングーという中級茶が伸び、1840年代から第2の急増期を迎え、1870年代からはインド・セイロン紅茶が登場する。

 対中紅茶貿易はイギリス東インド会社(貴族・議員等が大株主で半官営)が独占権を握っていたが1834年に廃止、貿易監督官が広東に置かれ、貿易業務は新設された民間の巨大商社(その筆頭がジャーデン・マセソン商会)が担う。

 ついで(2)植民地インドから中国及びイギリス植民地のシンガポールとマレー半島へのアヘン輸出が増える。紅茶の対価となった銀(銀塊)の減少を補うため、1773年に東インド会社がベンガル地方で専売制アヘンの生産を開始、輸出港カルカッタ(コルコト)で民間の貿易商人に売り渡した。

 対する清朝中国はアヘン禁輸政策下にあり、やがて1839年、林則徐が密輸アヘン厳禁政策を採用すると、これに反発したイギリスが戦争を仕掛ける(~1842年のアヘン戦争)。中国へのアヘンはこの年だけ減るが、翌1840年から反転急増し、ついで第2次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約(1858年)によるアヘン合法化(これまでは密輸)でさらに増えた。

 最後に登場するのが(3)のイギリスからインドへの工場製綿布である。長い間、イギリスは中国からは厚手の、インドからは薄手の綿布・綿製品を輸入してきたが、イギリスが自ら生産し始めたのが綿工業主導の産業革命である。原綿の生産基地をアフリカからアメリカ南部へ移し、奴隷貿易で労働力を確保、安定した原綿供給と綿布生産の増強を図った。

 その結果、綿布の流れが逆転し、1815年以降、イギリス製綿布がインドへ向かい始める。1813年に東インド会社がインド貿易から撤退し、民間貿易商に開放された「インド貿易の自由化」も一因となった。この逆流は、宗主国イギリスと植民地インドとの貿易であり、対等な二国間貿易とは言えない。

 東インド会社はアヘンの生産・輸出で銀を獲得、専売制により植民地財政の税収を増やし、その多くを本国送金して本国財政に貢献するという「一石三鳥」を実現させた。またインド軍と呼ばれる軍隊を保有、インドを直轄植民地とする1857年までの過渡期に間接統治機関の役割も果たした。

 このインド軍は将校がイギリス人、兵士の大部分がセポイ(インド人兵士)という構成で、植民地内の治安維持を行うとともに、イギリス軍の指揮下で海外派兵に従軍した。アヘン戦争(1839~42年)のイギリス派遣軍の大半はセポイである。

 アジア三角貿易が形成されると、次第に他の商品も登場し、それぞれの構成比も変わり、構造は複雑になる。

 アヘンは薬用と麻薬の両面を持ち、現在も最強の鎮痛剤として厳重な管理下で医療に使われているが、当時は莫大な利益を生む商品であり、麻薬として野放しであった。アヘン貿易が国際世論の批判を受け、またアヘンがイギリス人兵士の戦闘能力に支障をきたすとされて1917(大正6)年に全面的に廃止されるまで、これが現実であった。

 需要の勢いが止まらない紅茶については、安く輸入することが課題であった。アヘン戦争直後(1843年)、R・フォーチュンが茶樹を上海港からインドへ移送、インドやセイロンでの栽培を試みる。約30年後、インド産紅茶が市場に登場、やがてイギリスに入る紅茶は中国産とインド産がほぼ半々に近づく。

 イギリス産業革命の進行は同時に都市化を意味した。急速に膨張する都市の上下水道等、インフラ整備は遅れ、人々は身を守るため、水は煮沸(滅菌)して飲んだ。

 都市人口の増加に伴い紅茶需要も増える。熱湯で淹れた紅茶に砂糖と牛乳を入れるミルクティーが階層を問わず人びとを魅了し、生活に不可欠なものとして日常に根づいていく。

 その紅茶ははるか「極東」の中国(そしてインド)から、砂糖は大西洋を挟んだ遠い「極西」のカリブ海からの輸入で、牛乳だけが地元産と、日々の生活もまたグローバル化していった。

 イギリス産業革命の産物である綿製品は、薄手を主とするインドへの輸出を突破口に、ついで厚手綿布市場の中国にも拡大し、1880年代以降、紅茶輸入に匹敵する貿易額となる。

 こうして「加工貿易立国論」が国策として推進され、農業・工業・サービス業にいたる全産業分野で「比較優位」に基づき採用され、経済効率を高めた。たとえば食料源の小麦の生産農家が工場労働者へと流れれば、小麦は隣国フランスから輸入、代わりに綿製品を輸出して稼げば足りるとした。

 多国間貿易は地域をさらに拡張していく。この頃から「東インド」に代わり「インド以東」という言い方が現れる。「インド以東」とは、植民地インドから東の地域、現在の東南アジア、東アジア、南下してオーストラリア・ニュージーランドあたりを指す(日本には言及が少ない)。

 とくに「飢餓の1840年代」以降、貧窮する人たちが北米についでオーストラリア・ニュージーランドへ移民を始める。この広域をいかに効率よくネットワーク化するか。政治と産業の「広域化・世界化」(グローバル化)は、民間の商社のみならず、外務省、海軍省、植民地省等でも検討された。

 このような多くの諸問題を究明する途上にいた私は、まず1冊にまとめることを優先し、焦点を「19世紀アジア三角貿易」に絞った。(続く)
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タケの開花(その1)

 三溪園の三重塔と松風閣(現在の展望台)あたりに、細めのタケ(ササ?)が密集している。タイミンチク(大明竹)と呼ばれ、根元の太さは直径1~3センチほどだが、丈は高いもので大人の背の4~5倍もあろうか。左右から伸びる枝がたわんで、一部はトンネル状になっている。

 周りの太湖石(中国は蘇州近く太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形の奇石)と合わせて異国風の印象を与えるが、これは横浜居留地の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年)が1890年頃に建てた別荘・松風閣の中国風庭園の跡である。

 今年の3月29日、思いがけないメールが入った。発信者は旧知の坂智広(ばん ともひろ 横浜市立大学木原生物学研究所教授)さん、コムギ研究の第一線で活躍すると同時にテニス仲間でもあり、左腕で豪速球を打つ。本ブログのなかにも「コムギの里帰り」(2015年12月23日掲載)や「金沢八景と泥亀」(2016年7月25日掲載)に登場する。このメールは言う。

 今週は、日本育種学会で名古屋大学に来ております。昨日、岡山大学名誉教授の村松幹夫先生から「三渓園の蓬莱竹の仲間の竹の開花」の話を伺いました。

 村松先生は、木原均先生の元で学ばれ、木原生物学研究所が京都大学の物集女にあった時代からコムギの研究で世界を牽引されてこられた方で、私もコムギの近縁野生種の植物を見る目をご指導いただいております。日本のタケ・ササ類に関する研究で、現在も日本中の竹林を見守っておられます。

 タケは60年?あるいは100年単位の周期で一斉に花を咲かせ、そのまま枯れて新たな竹林が形成されると言われています。同じ仲間でも開花期があわないと交雑せず、ま花が合えば新たな雑種を作って進化する可能性も示唆されています。人知を超えた時間の流れと歴史を染色体に刻んだ、自然の教科書です。

 村松先生のお話ですと、「1928年に三渓園の竹が開花した」という記録があり、今年また花を咲かせそうだと情報を得られたそうです。それが90年ぶりの開花なのか?
 
 この蓬莱竹は稈状の繊維を火縄の材料にするため日本に渡来、九州の南の島から中部地方以西に植栽されているとも言われます。…村松先生はこの歴史的なイベントに、花が咲いた時に観察をし、花粉を採集して、可能な交配実験を考えておられます。
 
 最近は花を咲かせるタンパク質のフロリゲン遺伝子が研究されていることもあり、タケが90年の時計をどのように数えているのか?私も遺伝子の中に記された記録に大変興味があります。…そこで、三渓園の管理されていられる方のお力も借りながら、わたしが定期的に三渓園に伺い、開花に向けて観察をさせていただけないかと考えております。 坂 智広
 
 タケやササは100年に一度、花を咲かせるという話を子どもの頃に聞いた記憶があり、そのときの不思議が蘇る。すぐに坂さんに返信した。

 貴重な情報を拝受しました。多謝!
 
 タイミンチクは確かに三重塔近くの旧庭園(原善三郎が造った中国風庭園)の周囲に繁茂しています。…大兄が「定期的に三渓園で開花を観察」してくださるなら大歓迎です。 加藤祐三
 
 4月13日の坂さん第2信メールには、11日に三溪園へ行ったが開花の兆候は見られないとあり、写真が付されている。この報告について村松幹夫さんから坂さん宛の返信メールが私宛に転送されてきた。以下はその概要である。

 (冠省)三渓園でのタイミンチクの観察ご報告と写真拝見しました。…写真では、タイミンチクも、冬から殆ど目覚めていないと感じです。…

 写真の5枚目に昨年度の部分開花の花穂の小穂があり、また止め葉らしい枝先が見られる写真もありますが、もう少し気温が上がる下旬から5月の連休明け頃まで待つ必要があるかと思います。

 と言ってもメダケ属のメダケ節やネザサ節の一斉開花集団では、前年度秋に側枝部分に花穂の兆候が見られます。今までの観察で、蓬莱竹は熱帯系(南方原産)ですが、一斉開花の最初の年には、晩春に入った頃になってから一斉に花穂が現れます。

 メダケ属でもリュウキュウ節の種は南方系です。どのようであるかは、もう少し経過を見なければ、と思います。

 タケ・ササは栽培に取り込まれていても、姿・様相は全く野生なので、また木本性(竹本性)なので、どうか長期の視点で観察なさって下さい。 村松幹夫
 
 ついで5月5日付けの坂さん第3信には、「山上あたりの日当たりが良さげなところの15株くらいで、下の方に開花を認めました。開花している株では2~3花穂が見られます」とある。私も一帯を回ったが(坂さんとは会えず単独行)、素人の悲しさで、まったく気づかなかった。
 
 さらに5月14日の坂さんの第4信によれば、「地際から出ている新しい稈(おそらく昨年?あるいは今年?地下茎から出芽したもの?)は多くの花をつけています。
 
 胸高あたりの節や、頭上の節から花穂を出して開花している株もあります」としたうえで、「この10日間でかなり開花が進んだのは確かです」と述べる。<風雲急を告げる>予感がする。

 5月18日夕刻、急な雨の中、坂さんの教示であちこちに花を見ることができた。小さな、つつましい花である。この4日間で大幅に増えたという。<歴史的瞬間>の急展開があるかもしれない。

 来週の5月25日、岡山から来られる村松さんを坂さんとともに迎え、現場を観察していただく。大きな進展があるに違いない。とり急ぎ、これまでの経過を公開し、これからの観察記録の準備としたい。(続く)

外国人VIPの三溪園案内

 アジア開発銀行(Asia Development Bank,略称はADB)の第50回年次総会が「ともにひらく、アジアの未来」を掲げ、5月4日(木曜)から7日(日曜)まで横浜みなとみらいのパシフィコ横浜で開かれ、加盟国の財務大臣・中央銀行総裁の会合やセミナー等の関連事業を含め、約4000人が参加した。

 ADBは1966年に発足、現在67か国/地域で構成される。最大の出資国は日本とアメリカ合衆国(ともに出資比率15.7%)、ついで中国6.47%、インド6.35%が並ぶ。貧困削減を最重要目標と定め、「貧困層に配慮した持続可能な経済成長」、「社会開発」、「グッド・ガバナンス」の三本を戦略の柱とする。

 会議の多忙な日々の合間をぬって、4日(木曜、祝日)に「VIPテクニカルツアー」(加盟各国の財務大臣と中央銀行総裁等16名の参加)が、6日(土曜)には「配偶者プログラム」(同配偶者等47名の参加)が行われ、その訪問先の一つとして三溪園が選ばれた。

 正門で出迎え、鶴翔閣でのおもてなし(4日は昼食、6日は茶の湯)に約1時間を割き、園内散策、臨春閣前の記念撮影、お見送りするまでの30分弱という短い移動時間内に、イヤホンを介して通訳の英訳を聞いてもらう形式である。これまでも各国在日大使等をお迎えした経験があるが今回は格別、ほとんどの方が初めての横浜、初めての三溪園であり、人数も多い。短時間で三溪園の魅力をどう伝えるか、職員一同で知恵を絞り、私の責任でとりまとめた。

 あらかじめ写真を主とする「三溪園の四季」(英文)と三溪園リーフレット(英文)の二つを来園までのバス内で配布し、「案内シナリオ」を事前に通訳へ送り、準備した。今後の参考のため、この「案内シナリオ」の一部を掲載する。

 (1)<谷戸の地形を生かした造園> 正門を入るや、三重塔と鶴翔閣と自分の立地点を結ぶ「三角測量」を行い、東西南北と地形の高低、これから歩く通路が谷底にあることを確認する。谷と丘の地形を谷戸(やと)と呼び、横浜の地形の特徴をなすが、地名の三之谷にも残る。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園111年を迎えた。右手が「内苑」、茅葺屋根の家屋が鶴翔閣で1902年落成、ここへ原三溪が野毛山から転居(時に34歳)、それから約20年の歳月をかけ、三溪園をつくりあげた。

 (2)<三溪園を造った人>原三溪(1868~1939年)は岐阜県出身、庄屋の長男の青木富太郎、その号が三溪で三溪園と名づけた。東京専門学校(早稲田大学)出身、跡見学園で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿と知り合い結婚(24歳)。三溪は生糸売込商を承継し、製糸業も経営(富岡製糸場の経営は1902~38年)した実業家であり、日本画家、茶人、造園家と一人四役の顔を持つ。三溪の書画は三溪記念館にて年9回ほど展示替えしている。なお三重塔と鶴翔閣を結ぶ線まで来ると、新たな三角形が始まり臨春閣前で終わるイメージを確認した。

 (3)<横浜は若い都市> 横浜の歴史はわずか160年と短い。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べるとよくわかる。幕府は米国東インド艦隊司令長官ペリーとの交渉地として横浜村(現在の関内)を指定、平和裏に日米和親条約(1854年)を結び開国した(拙著『幕末外交と開国』講談社学術文庫 2012年)。この横浜村を1859年に開港(5港開港の1つ、最大の貿易量を誇る)、これが都市横浜の起源となる。1901年の第1次市域拡張で本牧村が横浜市へ編入され(人口30万人)、三溪の鶴翔閣転居は翌年。160年間に急成長した横浜市は、いま人口370万余の日本最大の政令都市となった。
若い都市へ全国から「進取の気性」に富む人たちが、諸外国からは貿易商を中心に集まった。「三代住んで江戸っ子」に対して「三日住めば浜っ子」と言われた。幕府は外国人居留地を設定して賃貸し、日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東を中心として商人がみずから進んで進出した。とくに海外市場で需要が高まった生糸の売込商が日本の外貨獲得に最大の貢献、その一人が原善三郎、彼が本牧村三之谷の土地を買い、丘のうえに煉瓦造の別荘を建てた。

 (4)<三溪園の造園手順と古建築移築> 原三溪は1902年に新築の鶴翔閣に移り住むと日本伝統の古建築移築を造園の基本の一つに据えた。まず外苑の造園を先行、1907年に旧東慶寺仏殿を移築した。古建築の移築は造園上の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈により衰退する寺社の文化財を保護すべしとする岡倉天心の考えが古寺社保存法(1898年)に結実(戦後1950年の文化財保護法に継承)、これに三溪が共鳴し実践した成果でもある。

1914年、三重塔を燈明寺(京都)から山上に移築(三溪46歳)、それ以降、内苑の造園が急展開する。1917年の臨春閣移築により、南の山上に望む三重塔から下の池・渓流・芝生に到る「山水画」の世界を眼前に持つ庭園が完成する。臨春閣は1649年造の紀伊徳川家初代藩主の頼宣(家康の十男)が紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造の夏の別荘である。なお園内には重要文化財の古建築が合計10棟、横浜市指定有形文化財が3棟ある。

 内苑は1923年に完成(三溪55歳)、これを祝う大師会茶会を開催する。この直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受けるが、三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造を除き比較的小さい。以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち尽力、1939年に没した。享年70。戦後、財団法人三溪園保勝会(現在は公益財団法人三溪園保勝会)が管理・保存・活用等の事業を担当している。

 (5)<名勝指定に見る三溪園の特性> 10年前に名勝(文化財の1つで「風景の優れた地」)指定を受けた(名勝11種類のうちの公園・庭園144件の1つ)。その理由は「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い。」(平成19年2月6日付け官報)。名勝は中世・近世の庭園が多く近代のものは少数、うち規模は三溪園が17.5ヘクタールと最大である。

 最後に次のように述べた。日本の庭園の特徴は左右非対称(シンメトリックでない)、曲線曲面を重視する点にあるが、加えて三溪園は谷戸の地形を活かした天地上下の風景を工夫した独特かつ唯一の「風景式庭園」である、と。

 幸い両日とも好天に恵まれ、一行から時おり歓声があがり、笑顔がこぼれ、この感銘を忘れまいとスナップ撮影する姿が見られた。「三角測量」も記憶の定着に役立ったようである。増えつづける外国人来園者に対し、上記のシナリオを基に、滞在時間や人数等に応じて加除することで、工夫を加えていきたい。

身近になった機械翻訳

 4月24日(月曜)の午後1時~4時半、東京駅近くの丸の内サピアタワー内ステーションコンフェレンス5階で、豊橋技術科学大学(1976年設立の国立大学)が主催する「機械翻訳シンポジウム AIで変わるグローバルコミュニケーション-身近になった機械翻訳」が開かれた。

 ホットな話題であり、その成否がグローバル化時代の日本と世界の未来を左右するほど大きなテーマである。メールで案内をくれたのが後述の藤原洋さん、本ブログでも何度か取り上げた(2014年10月1日の「地球環境とサイエンス」や2016年5月24日の「ありがたき耳学問」等)。

 まず原邦彦(豊橋技術科学大学副学長、以下、敬称略)の主催者挨拶で、昨年6月に始まった共同研究の経過と現在の課題についての概要説明があった。共同研究の相手は、この日の共催者である日本マイクロソフトとブロードバンドタワーの2社で、テーマは自然言語の機械翻訳、その活用範囲を主に日本語出版物の外国語訳とインバウンド(訪日外国人)向けの地域情報等の外国語訳(と対話)に絞る、としている。

 ついで共催者の日本マイクロソフトCTO榊原彰とブロードバンドタワー会長の藤原洋が挨拶、お二人は大学が機械翻訳の技術向上に邁進するのに対し、企業としてその支援体制と普及にどう取り組むかを語る。ここで「日本語文献の翻訳発信」と「訪日観光客対応」という2つの緊急需要に応えるための機械翻訳の社会的役割が明示された。

 基調講演は井佐原均(豊橋技術科学大学教授、情報メディア基盤センター長、本共同研究のリーダー)による「機械翻訳が広げるグローバルコミュニケーション」。今回の講演の前提となる氏の研究課題を知ろうと、同大学ホームページで見ると「人間の知的な活動の中核である言葉に関する研究を通して、コンピュータによる言語理解を実現」することとして3つの具体的テーマを掲げており、とくに下記の2つが深く関係している(「です、ます調」を改めた)。

 テーマ1:「人間の思考を模擬し、発想を支援する Creative Information Retrieval技術の研究」。その概要は「人間の発想を支援する創造的情報検索(Creative Information Retrieval)システムの研究。辞書やウェブの文書から言葉の意味関係を抽出し、人間の思考に合った概念ネットワークを作成、このネットワークを用いて、人間と同じように連想するシステムを作成する」こと。キーワードは、概念体系、語彙意味論、情報検索、発想支援。

 テーマ2:「国際競争力の強化のための産業文書の効率良い多言語化の研究」。その概要は、「自動車や楽器など東海地方の中核産業の企業文書を対象に、重要語句の抽出技術や後編集技術を確立することにより、文書の多言語化を支援する。機械翻訳の実用化に向けて、情報発信のための(機械)翻訳環境を実現する。具体的には、日本語の規格化(制限言語)、対訳用語辞書や対訳データベースの構築、集合知による後編集の研究を行う。」キーワードは機械翻訳、情報発信、サービス工学。

 プロジェクト進捗報告「実用化に向けて。研究からビジネスへ」(井佐原均+AIスクウェア)が示すのも、テーマ1と2に関連が深そうである。

 ついで長尾真(京都大学元総長)が特別講演「機械翻訳の次の課題」で研究の現段階と次の課題について述べた。ア)論文等のテキストの機械翻訳は語彙数の増加等により急速に向上するが、イ))対話文等の機械翻訳は文脈や発語場面の設定に課題が多く残り、ウ)文学作品等の機械翻訳は難しい、と。

 休憩をはさんで、クリス・ベント(マイクロソフト研究マネジャー)の招待講演「機械翻訳技術の最先端」が行われた。その講演内容にも、英語の講演がすぐ日本語に訳されスクリーンに映されるとの予告にも期待が膨らんだが、思わぬ伏兵(プロジェクターの不具合)によりスクリーンには写されなかった。だが各人のスマホには反映され、概要を把握するには十分な訳文であった。

 日本マイクロソフトは、本年4月7日、榊原彰(前掲)が次のように表明したばかりである(要約)。「Microsoft Translator アプリや Skype 翻訳(Skype Translator) など Microsoft Translator を活用したすべてのアプリとサービスにおいて、日本語をテキスト翻訳および音声翻訳の双方が可能な 10 番目のサポート言語として追加する。これにより日本語を話す人々は、既にサポートされている 9 言語(アラビア語、中国語(マンダリン)、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ロシア語)を話す人々と、リアルタイムに対話ができるようになる。」と。このお披露目も兼ねていた。

 最後のパネル討論「機械翻訳がもたらす新しいコミュニティーへの期待」には、各分野から坂村健(東洋大学、元東京大学教授)、熊田順一(JTB総合研究所主任研究員)、溝口敦(メディアドゥ取締役)、藤原洋(前掲)、田丸健三郎(日本マイクロソフト業務執行役員NTO)の5氏が参加し、井佐原均(前掲)の司会で進められた。各分野の挑戦と経験を踏まえた発言はとても興味深く、堪能できたのは参加した聴衆の特権である。

 私の独断と偏見で、いくつかの発言を記しておきたい。①安価な機械翻訳ができれば、視聴覚障害にも応用が可能になる。②外国語の障壁が低くなる分、コミュニケーション力を増やす教育が望まれる。③翻訳は文章の「送り手」と「受け手」のどちらが適しているか、それぞれの利点は何か。④訪日観光客はいま世界で16位、目標値を高くし2020年までに4500万人を目ざしたい、経済効果は乗用車2台=訪日観光客3人に相当する。⑤旅マエ・旅ナカ・旅アトをつなげるには機械翻訳による情報提供は不可欠、それを通じて日本の「美しさ」と「楽しさ」の深淵へ誘うことができる。⑥機械翻訳により日本の膨大な書籍をデジタル出版して外国へ提供し、電子図書館も作りたい。⑦全訳ならぬ「要約の技術」も展開できないか。⑧機械翻訳の精度が95%に近づくと新たな難問が生じるのではないか。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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