【24】連載「19世紀アジア三角貿易」
イギリス議会文書の精査を通じて、19世紀初頭に(1)中国からイギリスへの紅茶、(2)植民地インドから中国へのアヘン、(3)イギリスからインドへの工場製綿布という3大商品による3か国(地域)を結ぶ三角貿易が誕生したことを確認し、これを「19世紀のアジア三角貿易」と命名した。
これらは段階的に成立してくる。これまで述べて来たものをまとめると、(1)、(2)、(3)の順に貿易量・貿易額が増える。(1)の中国からイギリスへの紅茶は1740年代に増え始め、1780年代からコングーという中級茶が伸び、1840年代から第2の急増期を迎え、1870年代からはインド・セイロン紅茶が登場する。
対中紅茶貿易はイギリス東インド会社(貴族・議員等が大株主で半官営)が独占権を握っていたが1834年に廃止、貿易監督官が広東に置かれ、貿易業務は新設された民間の巨大商社(その筆頭がジャーデン・マセソン商会)が担う。
ついで(2)植民地インドから中国及びイギリス植民地のシンガポールとマレー半島へのアヘン輸出が増える。紅茶の対価となった銀(銀塊)の減少を補うため、1773年に東インド会社がベンガル地方で専売制アヘンの生産を開始、輸出港カルカッタ(コルコト)で民間の貿易商人に売り渡した。
対する清朝中国はアヘン禁輸政策下にあり、やがて1839年、林則徐が密輸アヘン厳禁政策を採用すると、これに反発したイギリスが戦争を仕掛ける(~1842年のアヘン戦争)。中国へのアヘンはこの年だけ減るが、翌1840年から反転急増し、ついで第2次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約(1858年)によるアヘン合法化(これまでは密輸)でさらに増えた。
最後に登場するのが(3)のイギリスからインドへの工場製綿布である。長い間、イギリスは中国からは厚手の、インドからは薄手の綿布・綿製品を輸入してきたが、イギリスが自ら生産し始めたのが綿工業主導の産業革命である。原綿の生産基地をアフリカからアメリカ南部へ移し、奴隷貿易で労働力を確保、安定した原綿供給と綿布生産の増強を図った。
その結果、綿布の流れが逆転し、1815年以降、イギリス製綿布がインドへ向かい始める。1813年に東インド会社がインド貿易から撤退し、民間貿易商に開放された「インド貿易の自由化」も一因となった。この逆流は、宗主国イギリスと植民地インドとの貿易であり、対等な二国間貿易とは言えない。
東インド会社はアヘンの生産・輸出で銀を獲得、専売制により植民地財政の税収を増やし、その多くを本国送金して本国財政に貢献するという「一石三鳥」を実現させた。またインド軍と呼ばれる軍隊を保有、インドを直轄植民地とする1857年までの過渡期に間接統治機関の役割も果たした。
このインド軍は将校がイギリス人、兵士の大部分がセポイ(インド人兵士)という構成で、植民地内の治安維持を行うとともに、イギリス軍の指揮下で海外派兵に従軍した。アヘン戦争(1839~42年)のイギリス派遣軍の大半はセポイである。
アジア三角貿易が形成されると、次第に他の商品も登場し、それぞれの構成比も変わり、構造は複雑になる。
アヘンは薬用と麻薬の両面を持ち、現在も最強の鎮痛剤として厳重な管理下で医療に使われているが、当時は莫大な利益を生む商品であり、麻薬として野放しであった。アヘン貿易が国際世論の批判を受け、またアヘンがイギリス人兵士の戦闘能力に支障をきたすとされて1917(大正6)年に全面的に廃止されるまで、これが現実であった。
需要の勢いが止まらない紅茶については、安く輸入することが課題であった。アヘン戦争直後(1843年)、R・フォーチュンが茶樹を上海港からインドへ移送、インドやセイロンでの栽培を試みる。約30年後、インド産紅茶が市場に登場、やがてイギリスに入る紅茶は中国産とインド産がほぼ半々に近づく。
イギリス産業革命の進行は同時に都市化を意味した。急速に膨張する都市の上下水道等、インフラ整備は遅れ、人々は身を守るため、水は煮沸(滅菌)して飲んだ。
都市人口の増加に伴い紅茶需要も増える。熱湯で淹れた紅茶に砂糖と牛乳を入れるミルクティーが階層を問わず人びとを魅了し、生活に不可欠なものとして日常に根づいていく。
その紅茶ははるか「極東」の中国(そしてインド)から、砂糖は大西洋を挟んだ遠い「極西」のカリブ海からの輸入で、牛乳だけが地元産と、日々の生活もまたグローバル化していった。
イギリス産業革命の産物である綿製品は、薄手を主とするインドへの輸出を突破口に、ついで厚手綿布市場の中国にも拡大し、1880年代以降、紅茶輸入に匹敵する貿易額となる。
こうして「加工貿易立国論」が国策として推進され、農業・工業・サービス業にいたる全産業分野で「比較優位」に基づき採用され、経済効率を高めた。たとえば食料源の小麦の生産農家が工場労働者へと流れれば、小麦は隣国フランスから輸入、代わりに綿製品を輸出して稼げば足りるとした。
多国間貿易は地域をさらに拡張していく。この頃から「東インド」に代わり「インド以東」という言い方が現れる。「インド以東」とは、植民地インドから東の地域、現在の東南アジア、東アジア、南下してオーストラリア・ニュージーランドあたりを指す(日本には言及が少ない)。
とくに「飢餓の1840年代」以降、貧窮する人たちが北米についでオーストラリア・ニュージーランドへ移民を始める。この広域をいかに効率よくネットワーク化するか。政治と産業の「広域化・世界化」(グローバル化)は、民間の商社のみならず、外務省、海軍省、植民地省等でも検討された。
このような多くの諸問題を究明する途上にいた私は、まず1冊にまとめることを優先し、焦点を「19世紀アジア三角貿易」に絞った。(続く)
これらは段階的に成立してくる。これまで述べて来たものをまとめると、(1)、(2)、(3)の順に貿易量・貿易額が増える。(1)の中国からイギリスへの紅茶は1740年代に増え始め、1780年代からコングーという中級茶が伸び、1840年代から第2の急増期を迎え、1870年代からはインド・セイロン紅茶が登場する。
対中紅茶貿易はイギリス東インド会社(貴族・議員等が大株主で半官営)が独占権を握っていたが1834年に廃止、貿易監督官が広東に置かれ、貿易業務は新設された民間の巨大商社(その筆頭がジャーデン・マセソン商会)が担う。
ついで(2)植民地インドから中国及びイギリス植民地のシンガポールとマレー半島へのアヘン輸出が増える。紅茶の対価となった銀(銀塊)の減少を補うため、1773年に東インド会社がベンガル地方で専売制アヘンの生産を開始、輸出港カルカッタ(コルコト)で民間の貿易商人に売り渡した。
対する清朝中国はアヘン禁輸政策下にあり、やがて1839年、林則徐が密輸アヘン厳禁政策を採用すると、これに反発したイギリスが戦争を仕掛ける(~1842年のアヘン戦争)。中国へのアヘンはこの年だけ減るが、翌1840年から反転急増し、ついで第2次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約(1858年)によるアヘン合法化(これまでは密輸)でさらに増えた。
最後に登場するのが(3)のイギリスからインドへの工場製綿布である。長い間、イギリスは中国からは厚手の、インドからは薄手の綿布・綿製品を輸入してきたが、イギリスが自ら生産し始めたのが綿工業主導の産業革命である。原綿の生産基地をアフリカからアメリカ南部へ移し、奴隷貿易で労働力を確保、安定した原綿供給と綿布生産の増強を図った。
その結果、綿布の流れが逆転し、1815年以降、イギリス製綿布がインドへ向かい始める。1813年に東インド会社がインド貿易から撤退し、民間貿易商に開放された「インド貿易の自由化」も一因となった。この逆流は、宗主国イギリスと植民地インドとの貿易であり、対等な二国間貿易とは言えない。
東インド会社はアヘンの生産・輸出で銀を獲得、専売制により植民地財政の税収を増やし、その多くを本国送金して本国財政に貢献するという「一石三鳥」を実現させた。またインド軍と呼ばれる軍隊を保有、インドを直轄植民地とする1857年までの過渡期に間接統治機関の役割も果たした。
このインド軍は将校がイギリス人、兵士の大部分がセポイ(インド人兵士)という構成で、植民地内の治安維持を行うとともに、イギリス軍の指揮下で海外派兵に従軍した。アヘン戦争(1839~42年)のイギリス派遣軍の大半はセポイである。
アジア三角貿易が形成されると、次第に他の商品も登場し、それぞれの構成比も変わり、構造は複雑になる。
アヘンは薬用と麻薬の両面を持ち、現在も最強の鎮痛剤として厳重な管理下で医療に使われているが、当時は莫大な利益を生む商品であり、麻薬として野放しであった。アヘン貿易が国際世論の批判を受け、またアヘンがイギリス人兵士の戦闘能力に支障をきたすとされて1917(大正6)年に全面的に廃止されるまで、これが現実であった。
需要の勢いが止まらない紅茶については、安く輸入することが課題であった。アヘン戦争直後(1843年)、R・フォーチュンが茶樹を上海港からインドへ移送、インドやセイロンでの栽培を試みる。約30年後、インド産紅茶が市場に登場、やがてイギリスに入る紅茶は中国産とインド産がほぼ半々に近づく。
イギリス産業革命の進行は同時に都市化を意味した。急速に膨張する都市の上下水道等、インフラ整備は遅れ、人々は身を守るため、水は煮沸(滅菌)して飲んだ。
都市人口の増加に伴い紅茶需要も増える。熱湯で淹れた紅茶に砂糖と牛乳を入れるミルクティーが階層を問わず人びとを魅了し、生活に不可欠なものとして日常に根づいていく。
その紅茶ははるか「極東」の中国(そしてインド)から、砂糖は大西洋を挟んだ遠い「極西」のカリブ海からの輸入で、牛乳だけが地元産と、日々の生活もまたグローバル化していった。
イギリス産業革命の産物である綿製品は、薄手を主とするインドへの輸出を突破口に、ついで厚手綿布市場の中国にも拡大し、1880年代以降、紅茶輸入に匹敵する貿易額となる。
こうして「加工貿易立国論」が国策として推進され、農業・工業・サービス業にいたる全産業分野で「比較優位」に基づき採用され、経済効率を高めた。たとえば食料源の小麦の生産農家が工場労働者へと流れれば、小麦は隣国フランスから輸入、代わりに綿製品を輸出して稼げば足りるとした。
多国間貿易は地域をさらに拡張していく。この頃から「東インド」に代わり「インド以東」という言い方が現れる。「インド以東」とは、植民地インドから東の地域、現在の東南アジア、東アジア、南下してオーストラリア・ニュージーランドあたりを指す(日本には言及が少ない)。
とくに「飢餓の1840年代」以降、貧窮する人たちが北米についでオーストラリア・ニュージーランドへ移民を始める。この広域をいかに効率よくネットワーク化するか。政治と産業の「広域化・世界化」(グローバル化)は、民間の商社のみならず、外務省、海軍省、植民地省等でも検討された。
このような多くの諸問題を究明する途上にいた私は、まず1冊にまとめることを優先し、焦点を「19世紀アジア三角貿易」に絞った。(続く)
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