【23】連載「インド産アヘン」

 植民地インドで生産・輸出されたインド産アヘンについては、宗主国イギリスの議会文書(BPP)が高い信頼度を持つはずである。そのなかに” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等14点に及ぶ統計のあることを発見、もっとも妥当性の高いものに拠り、集計を開始した。

 この史料にインド産アヘン誕生の背景説明がある。その概要は次の通り。1757年のプラッシーの戦いの勝利により、東インド会社はベンガルからガンジス川沿いの肥沃な一帯の直接支配に乗り出し、1773年から専売制による「公班土」(ビハール州産アヘンの中国名)と「喇荘土」(同じくベナーレス州産)の生産に着手した。両者を合わせ、ベンガル産アヘンとも呼ぶ。

 もう1種のインド産アヘンは、直轄植民地ではない中央インドの藩王国マルワ(Malwa)で産出し、西海岸のボンベイ近くまで陸路で搬出し輸出するマルワ・アヘン(「白波土」)で、中国でとりわけ人気が高い。

 アヘンはケシの汁を固めたもの。ケシが大きく伸び、突端の子房が膨らむと青いうちに傷をつける。滲みだす汁が天日で茶褐色のゴム状に変化すると、子どもたちがピンセットで集める。工場で小児の頭大のボール状に固めて陰干し、べニア板の箱に3段に並べ、約60キロを一箱にして輸出する。

 拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(1979年)に、インド産アヘンの統計やそれを使った研究書23点を掲げたが、うち14点がイギリス議会文書の統計、2点が中国海関(税関)の統計、それ以外が研究書ないし2次史料である。

 先行研究から入って一定のイメージを持ち、さらに1次史料に迫るという通常の過程を踏んだ。主なものでは、H.B.モース『中華帝国の国際関係』(英文、3冊、1911年)の扱う対象は1800~1860年であり、アヘン貿易の統計は他の研究からの引用(2次史料)である。西村孝夫『近代イギリス東洋貿易史の研究』(1972年)は19世紀初頭からアヘン戦争までを対象とし、貿易統計はМ・グリーンバーグ『イギリス貿易と中国の開国-1800‐1842年』(1951年)や『チャイニーズ・リポジトリ―』誌から引用している。

 インド産アヘンの輸出先はすべてが中国向けではなく、イギリス植民地のシンガポール等にも移出された(植民地間の商品移動を移出として区別する)。合わせて1815年の約58億ポンド(英貨)の輸出・移出は、5年後に約110億ポンドに跳ね上がり、1835年には約280億ポンドと急増する。1839年、清朝政府の林則徐によるアヘン没収策の実施により急減するが、翌年からまた急増期に入り、1858年までウナギ上りの勢いとなる。

 以上の数字は生産・輸出するインド側の統計である。清朝政府はアヘンを厳禁していたため「密輸」状態にあり、中国側の海関(税関)統計には載らない。1858年、第二次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約により密輸アヘンが合法化されると、「洋薬」の名称で関税がかけられ、中国の海関統計に現れる。なお厳中平等編『中国近代経済史統計資料選輯』(1955年)は、中国海関統計を10年単位で掲載する資料集である。

 合法化により、当然、輸出量は伸びる。1860年以降のインド産アヘンの生産・輸出の続伸ぶりに目を見張り、方眼紙を継ぎ足しては、集計をつづけた。

 日本史では、アヘン貿易やアヘン禍はほとんど問題に上らない。加えて先進国イギリスがいつまでもインドで専売制アヘンを大量生産し、大量輸出していたことも想像しにくい。私もこの「常識」に縛られ、明治時代に入れば終わるに違いないと思っていた。ところがなお上昇をつづける。

 ピークだけは確かめておきたいと集計をつづけると、1880(明治13)年にようやくピークを打った。インド総輸出の実に約2割をアヘンが占める。ピークに達したら終わるのも早かろうと思ったが、明治が大正になっても終わらず、方眼紙の継ぎ足しはさらに進んだ。その後の展開については、のちに作成した「インド産アヘンの140年」(1773~1914年)というグラフ(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)に譲る。

 19世紀初頭に話題を戻すと、この頃に植民地インドから中国へのアヘンと綿花の輸出が増え始める。アヘンと綿花がほぼ半々の割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)に達し、その分イギリスからの銀流出が減った。

 一方、紅茶購入による流出銀を取り戻す新しい商品として、産業革命の嫡子である工場製綿布を売りこむ案が、ランカシャーの商工会議所(綿工業地帯の代表)等から出る。ところがイギリスの工場製綿布は薄手で、古くから中国で生産・消費されてきた厚手綿布の市場には食い込めない。

 そこで最大の販売市場としたのが、長く輸入元であった薄手綿布の産地インドである。インドからイギリスへの綿布輸入について私はすでに把握していたが、逆にイギリスの工場製綿布がインドへ逆流する実態は分からなかった。それが新たに見つけた植民地インド側の統計と合わせると、イギリス綿布がインド綿布を凌駕し、綿布の流れが逆転するのが1815年であることが分かった。

 これは宗主国イギリスと植民地インドとの間の貿易である。逆転は自由貿易の結果ではあるまい。関税操作あるいは政治的圧力など、かなりの強制力が働いたと見て良かろう。

 1834年まで長く紅茶輸入を独占してきた国策会社の東インド会社は、ほかにも幾つもの顔を持つことも分かってきた。貿易業では中国綿布(明朝の首都・南京に由来するナンキーンと呼ばれた厚手の綿布)の輸入も独占、すなわち排他的な独占権を有する国営貿易企業としての顔である。

 加えて植民地インドでアヘン専売制(税収を伴う)を採用できたのは、ほかでもなく、徴税権を有する統治代行機関であることをも意味した。(続く)
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40年ぶりの再会

 今年の正月明けに、草光俊雄さんから新著『歴史の工房-英国で学んだこと』(みすず書房 2016年)が送られて来た。40年前にロンドンで出会い、以来、年賀状交換だけで続いていた。20年程前に共同研究『日英交流史』の筆者打合せ会で再会したものの、ゆっくり話す時間がなく、草光さんに対する私の印象と記憶は40年前に固定されている。

 まず表紙の装幀に目を奪われた。解説をみると、やはりウィリアム・モリスの作品で、強烈な印象を与える。彼がシェフィールド大学で工業化とデザインに関する博士論文をとったことを思い出し、まさに彼らしいと納得した。

 序文に目を通すと、「なぜ歴史を学ぶようになったのか」と切り出し、「…読者は一見ばらばらな対象のなかにひとつの共通するトーンがあることに気づいてくださるだろうか。それは歴史を調べたり書いたりすることへのよろこびである。…」と、楽し気に綴る。

 思い返せば1977年秋、私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに文部省の在外研究の助成を得てイギリスへ渡った。旧知のディリア・ダヴン(中国女性史の研究者)の姉のアンナがロンドン在住のイギリス近代史研究者で、アンナから日本人がいるから会わないかと紹介された。

 クサミツという珍しい苗字、イーストエンドはスピタルフィールズ青果市場の近くにある彼の寄宿先を訪ねた。18世紀のテラス・ハウスで、絹織物工が住んでいた古い建物である。この10歳若い青年から、私はロンドンの歩き方、史料の所蔵先、学界の研究動向や人脈等について、貴重な指南を受ける。

 本書は主に歴史と歴史家に関するエッセー集である。ページをくくっていると、「…1977年の晩秋だったと思う。当時リーズ大学に滞在していた東洋史の加藤佑三さんと車で旅行をし、イングランドの東部を北から南下してケンブリッジに行った…」とある。その「佑」の字をペンで「祐」と修正してあった。もう一つ、拙著の書名にも誤記があった。

 添え状にあるメールアドレスに返礼、そこで私も草光さんの俊雄をうっかり敏雄と誤記していた。すぐ返信が届いた。「…これからメール連絡がとれますね。先生のお名前を間違えたばかりではなく、新書のタイトルまで間違えて…冷や汗です。…これも何年も年賀状だけでのお付き合いだった結果だったのかと、もっと身近な付き合いをしなければいけなかったなと、反省しきりです」。

 草光さんが誤記した拙著の書名は、正しくは『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)である。そのなかに「…よく泊めてもらったR・サミュエルの家で、彼と、彼のところに寄宿している草光俊雄の三人で、夜の明けるまで議論したことも、私にはありがたかった。…」とある。ここでは草光さんの名前を正しく俊雄と書いていた。

 草光さんの今回のメールには嬉しいことに40年前の写真が添付されており、「大陸浪人のような先生とまだ初々しい(?)私との写真で、おそらくブリストル経由でバースに出かけたときのものかと思います。…」とあった。

 追いかけるように「草光俊雄さん退職・出版を祝う会ご案内」が版元のみすず書房から届いた。「出版」は上掲の本だが、「退職」とは放送大学教授(東京大学教授退職後に移る)の定年を指す。4月5日、18時、有楽町の電気ビル北館20階にある外国特派員協会へ出かけた。

 発起人は、五十音順に、川勝平太(比較経済史、静岡県知事)、丹治愛(英文学)、長谷川郁夫(小澤書店創立者)、富士川義之(英文学)、宮下志朗(仏文学)の五氏(いずれも敬称略)。私が知るのは川勝さんだけ、40年程前、オクスフォード大学セント・アントニーズ校のセミナーに話をしに行った折、聞き手のなかにいた青年だが、残念ながら公務のため欠席、会うことが叶わなかった。

 寒さで遅れた桜が、この日を待っていたかのように満開となった。受付で手渡された出席者リスト(五十音順)の約100名のうち、識別できたのは川勝さんともう一人だけ。スピーカーとして「乾杯の挨拶」、(1)発起人1、(2)イギリスでの出会い、(3)発起人2、(4)編集者、(5)友人、(6)放送大学、(7)東大学生と区分された計18名が挙がっており、私は(2)のなかにあった。

 草光さんはイギリス近代史家である。慶応義塾大学の学部と修士課程では経済学説史を専攻し、「イギリスの歴史についてはほとんど無知といった体たらくでイギリスに出かけ…英語もほとんど出来なかった。…」(序文)。なまじ固定された狭いテーマを持たずに留学したのが幸いしたのではないか。

 本書の書名は、(4章)「歴史工房での徒弟時代-親方ラファエル・サミュエル」から取ったのであろう。近代イギリスの貧富差の拡大や労働者の実態、職人たちの政治運動等を明らかにするR・サミュエル主導のヒストリー・ワークショップ(歴史工房)運動について述べている。

 R・サミュエル(私の2歳年長)は『ニュー・レフト・レビュー』誌の最年少の編集者となった新左翼の若きリーダーで、オクスフォード大学ラスキン校のチューター等をつとめた。

 サミュエルの家に草光さんが寄宿し、その草光さんを私が訪ねたことになる。草光さんは、探求心と美的センスに優れており、期待と不安をエネルギーに前進する「初々しい」勇者のように見えた。

 上掲の「…車でイングランドの東部を南下し…」の旅行は、私が中古車を購入、「旅は歴史家の母」と言いつつ産業遺構等を巡っていたころで、このときは彼の留学先のシェフィールド大学で合流し、中世以来の農地の形状を残すオープンフィールドで有名なリンカーンを訪ねたのではないか。エンクロージャーで細切れにされた農地とは違い、広大に拡がる農地の風景に二人で見とれた。

 祝賀会は、最後に草光さんが奥様への感謝を含む挨拶をして散会となった。

 40年ぶりの瞬時の再会であったが、彼の著書を読み進め、ゆっくり懐かしい日々を思い起こしている。

梁山泊の若き研究者たち

 冷たい雨に桜の花も身を縮めていた。開花宣言から10日も経つのに、やっと3分咲きという異常気象である。年度末の3月31日(金曜)夕刻、ある送別会に出るため、東京大学の農学部正門を入り、構内を抜けて、最南にある東京大学総合研究博物館(以下、博物館)へ向かった。建物は東洋文化研究所(以下、東文研)の隣、懐徳館(前田侯の造った建物と庭園)の向かいにある。

 私の東文研助手時代は1967~72年、それから50年になることに気づき、愕然とした。そのころは総合研究資料館として、東文研と同じ建物にあった。

 そんなことを思い出しつつ、1年前に記憶を戻す。博物館地階にある大型動物解剖室で、キリンの解剖に取り組む一人の若い女性を見た。遠藤秀紀教授(獣医学、比較解剖学、遺体科学)の指導を受け、博士論文の執筆に余念のない郡司芽久さんである。遠藤さんには『哺乳類の進化』(東京大学出版会 2002年)のほか、『解剖男』講談社現代新書 2006年)や『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』(光文社新書 2010年)等の啓蒙書がある。

 全国の動物園から献体を受けて学術的解剖を行う唯一の大学施設が、遠藤教授の率いる教室と聞いて納得はしたものの、うら若き女性研究者が、大きなキリンの解剖に独り挑戦する姿にミスマッチの魅力があった。麒麟女を自称する。

 このキリンの解剖現場には偶然に迷い込んだのではない。マダガスカルだけに生息する夜行性サルのアイアイを中心とする動物学(サル学)の権威、島泰三さんから「キリンの解剖を見たくないか」と誘われ、二つ返事で応じた。彼はアイアイ・ファンドを主宰しており、上野動物園のアイアイ館は彼の肝いりで作られた。最近の著書は『ヒト 異端のサルの1億年』(中公新書 2016年)。

 島さんと私は、長い伝統を有する向陵テニスクラブ(以下、向陵)のメンバーである。キリンの解剖を見せてもらうことになったのも、郡司さんが学術振興会の「育志賞」の書面審査に通り、彼女がプレゼンをするので異分野の私に予行練習を聞いてくれと言ってきたのも島さんであり、彼女を含め遠藤研を巣立つ大学院生2人の送別会に参加しないかと誘ってくれたのも島さんである。

 学術振興会の育志賞とは、そのホームページによれば、天皇陛下の即位20年に当たる平成21年、社会的に厳しい経済環境の中で勉学や研究に励む若手研究者を支援・奨励するための事業の資として下賜金を賜り、それを受けて学術振興会が「将来、我が国の学術研究の発展に寄与することが期待される優秀な大学院博士課程学生を顕彰することで、その勉学及び研究意欲を高め、若手研究者の養成を図ることを目的として、平成22年度に創設」したものである。

 第7回(平成28年度)育志賞には、大学長推薦90名、学会長推薦54名(重複推薦を含む)の計130名が応募し、審査(佐々木毅委員長等9名の委員会)を経て17名が受賞した。その一人が郡司さんで、3月8日(水)の日本学士院での授賞式では、秋篠宮殿下・妃殿下の前で受賞者代表の栄に浴したという。

 彼女は幼少期から動物を飼育し、夢は動物学者、とくにキリンの不思議な佇まいに強く惹かれた。博士課程(農学生命科学研究科 農学国際専攻)の研究テーマは「偶蹄類の頸部伸長に伴う筋骨格構造の進化とその遺伝基盤の解明」であり、キリンの解剖を通じて、その構造を解明した。

 哺乳類は首の長さに関わらず頸椎数は一定、つまりヒトとキリンの首の骨は同じ7個である。にもかかわらずキリンは首を柔軟に動かし、地上の草から髙所の木の葉まで食べることができる。彼らは如何にしてこのような首を獲得したのか。答えは第一胸椎周囲における肋骨の構造や筋肉にあり、と解明した。この研究成果は、哺乳類全体の体の構造や形を決定づける仕組みの解明に貢献すると期待される、と育志賞の受賞理由にある。

 送別会場の博物館3階会議室には、遠藤教授と大学院生(修士・博士課程)の工藤光平、郡司芽久、小林沙羅、吉田将崇、今井亮太、楠見繭、風見奈穂子(進学順)の7名(男子3、女子4)に教授秘書の佐々木智恵(いずれも敬称略)。リケジョ(理系女子)の多いのが頼もしい。

 向陵からは島夫妻に加え、弁護士・弁理士の赤尾直人さん、フレンチシェフで「鉄人」と呼ばれる浅川秀樹さん、それに私の5名が参加、合わせて14名である。浅川さんが特別料理を差し入れてくれた。

 大学院生たちの扱う動物はニワトリ、キリン、アシカ、カメ、ワニ、ヘビ、モモンガとそれぞれ異なる。風貌といい情熱といい、各人の個性も多彩である。多様な動物から得られる知見を導く理論と解剖手法は遠藤さんが伝授すると同時に、遠藤さんも若い知性の格闘の経過・結果から得るものが多いと言う。

 (知的)挑戦には失敗がつきものであり、その山を幾つ超えるかで勝負が決まる。そのときに違う研究対象と方法を持つ若者たちが同じ研究室に集まることにより、教えあい学びあい、切磋琢磨することにより前へ進むことができる。

 私の脳裏に「遠藤研という名の梁山泊」のイメージが思い浮かんだ。梁山泊は宋代の『水滸伝』に描かれた豪傑・野心家の集まる場所である。遠藤研の若き研究者たちは権力奪取の野望ではなく、大型動物の進化、ひいては生命の進化(の歴史)を知ろうとする、限りない夢に挑戦する豪傑・野心家たちである。

 研究結果がすぐに応用・実用につながる訳ではないためか、研究費獲得には苦労すると遠藤さんは言う。いわゆる実学ではなく純粋な知的探求心は、これぞ大学の重要な本質の一つであるが、現今の科学研究費の配分は実学に強く傾きがちであり、それも短期に成果が出るモノが重視される。

 若手研究者の就業実態も有期(2~5年程度)が多く、将来に不安を残す場合が少なくない。先輩たちの様子から、諦めて収入の良い職に就く人もいる。郡司さんは育志賞を得たため学術振興会の特別研究員(奨励金あり)として国立科学博物館(つくば市の研究部門)に勤めつつ、遠藤研でも解剖を続けるという。後輩たちの励みになれば良い。

 年配者からは、「アシコシ ツカエ」「ツキイチ コテン」(加藤)とか「いまのうちから体を鍛えておけ。それが知能を支える秘訣」(赤尾さん)などの激励につづき、シェフ浅川の料理が披露される。トマトクリームスープ、ラタトゥイユ(南仏風野菜の煮込み)、ビーフストロガノフ、これに院生持参のチマキ等を、赤尾さん差し入れのワインとともに堪能した。デザートのフラン・マラスキーノ風味&バニラアイスクリームのフランボワーズソース添えの盛り付けの妙技には、女性たちの目が釘付けになった。

 全国の大学の幾つもの研究室で、文系・理系を問わず、若き研究者が情熱を傾けて研究に励んでいる。少子高齢社会で人口減少に直面する我が国の未来を支えるための、彼らは唯一とも言える貴重な人材群である。応援していきたい。

白雲邸屋根の葺き替え

 三溪園の内苑にある白雲邸は、原三溪の隠居所として1920(大正9)年に落成した数寄屋風木造建築の平屋で、97歳を迎える(横浜市指定有形文化財)。屋根は、檜(ひのき)の樹皮で葺く檜皮葺(ひわだぶき)と呼ばれる伝統技法で、30~40年ごとに葺き替えなければならない(瓦葺は60~100年と長い)。

 一昨年(昨年度)の白雲邸の主屋に隣接する倉の補修工事の模様は、本ブログ「白雲邸」(2015年11月23日掲載)に載せたが、そのとき、主屋の屋根の檜皮(ひわだ)を止める竹釘が、各所に浮き上がっていることが分かった。檜皮が油を失い、痩せて沈み、竹釘が露出したものである。

 これが新たな課題となり、横浜市の予算計上が実現、約30年に1回にあたる3度目の葺き替え工事が昨年末から始まった。工期は今年3月まで。

 施工業者は、昨年11月の入札(6社が応札)により、谷上社寺工業株式会社(本社は和歌山県橋本市)に決まった。古建築の補修工事には伝統技法を駆使する多数の職人が不可欠であり、その会社は関西の数社に限られる。

 まず建物全体を覆う仮屋根(約450㎡)工事と足場組みがあり、ついで古い檜皮を剥がし、木造の骨組み部分の補修を行った段階の昨年12月22日、中島哲也総務課長と進捗状況を視察、現場責任者の矢野友則さんから説明を聞いた。補修途中の木組みの姿が見られるのは今だけである。

 ついで1月25日、正月明けから始まった檜皮葺き工事の視察を行った。主屋の屋根が278㎡、門の屋根が10㎡、合わせて約300㎡という広い屋根工事(なお延床面積は約284㎡)のうち、半分近くがすでに完成しており、私が行ったときは、北側の軒先の4間ほどにわたり、5人の職人が並んで檜皮を葺く作業の最中であった。みな40歳前後、心技体を備えた職人たちである。

 水で濡らした檜皮を丁寧に並べ、口に含んだ竹釘を取り出しては小型の金槌で素早く打ち留める。その間、5秒とかからない。正確な動きとリズミカルな金槌の音。

 屋根を下から仰ぎ見ることはあっても、上から眺める機会はほとんどない。たまたま私は一昨年に次いで2度目である。ふだん見えない所の作業に深く心を動かされ、自分の無知ぶりを思う。

 檜皮葺の概略を知ろうと、河原伸治(京都市文化財保護課技師)「檜皮葺について」(京都市文化観光資源保護財団「会報」)、「檜皮葺の技法」(公益社団法人 全国社寺等屋根工事技術保存会)、(株)友井社寺のホームページの解説等を読み、少し理解が進んだ。その一端をお伝えしたい。

 檜皮葺は、最も格式の高い技法として奈良時代に起源、貴族の住宅や神仏を祀る社殿や仏堂に使われてきた。現在のように軒先を厚く見せ、竹釘で檜皮を固定する技法は平安時代以降のものと考えられ、これにより日本人の感性にあった優美な曲線を持つ屋根が作られるようになった。現在、檜皮葺の建造物は、国宝・重文に限ると全国に約730棟あり、うち最大の2割150棟が京都市内にある。

 原材料の檜皮を採取する技能者を「原皮師」(もとかわし)という。直径60cm以上、樹齢70年以上の檜の皮を剥き、30㎏に束ねて檜皮葺師に納める。油分を多く含んだものが良質で、丹波地方の檜が最良とされる。

 その檜皮を,いくつかの規格に加工する。今回使うのは、厚さが約1.5~1.8㎜で幅が約12㎝、長さは約80㎝、約50㎝、約40㎝、約25㎝の4種類、昔の貴族が持つ笏(しゃく)のような形に見える。

 葺くのは「葺師」(ふきし)で、軒先から1.2cmずつ上方へずらして葺いていく。厚みは10cmほどだが、軒先だけは数10cmの厚さにする。重さは檜皮1㎡当たり20㎏、本瓦葺の200㎏と比べるととても軽く、建物にかかる圧が小さい。

 軒面を手斧で仕上げた後、水切銅板等を竹釘で留める。隅は雨水の滞留によって傷みやすいため、入念に施工される(谷葺、隅葺)。

 竹釘は経年劣化がほとんどなく、加工しやすく強度がある。昔は葺師自作の真竹が使われたが、今は専門職人(「竹釘師」)が主に孟宗竹で作ることが多い。加工して天日で干し、大釜で乾煎(からいり)して完成する。今回の工事では、長さ3.6cm×径3㎜の竹釘を多く使った。その数は、1坪(3.3㎡)当たり平葺箇所だけでも2400~3000本、白雲邸の場合、実に70万~90万本という途方もない数を使っている。

 2月2日、中島総務課長と3度目の視察を行い、また矢野さんから説明を受けた。「原皮師」、「竹釘師」の仕事を受け、「葺師」の仕事が大詰めを迎えている。三者一体の伝統技法の連携に古建築が支えられていることを改めて思う。

 2月16日、第3回名勝三溪園整備委員会(尼崎博正委員長ほか計7名)が開かれた。本委員会は本園の保存整備事業を進める「頭脳であり心臓」に他ならず、白雲邸の屋根葺替工事の必要性を提言したのも本委員会である。事業内容(平成28年度報告及び29年度計画・年次計画)の審議後に、現地確認の1つとして白雲邸の工事を視察した。檜皮葺き工事は終わって棟瓦(むねがわら)を載せる最終段階にあり、委員各位は興味深く見ていた。

 3月末、予定通りに工事が完了した。桜の花を背に内苑に入ると、塀越しに明るい茶色の屋根が目に入る。今後30余年にわたり、白雲邸は雨漏り等の心配もなく、呼吸しつつ生きる建物本来の姿を見せてくれるに違いない。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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