【23】連載「インド産アヘン」
植民地インドで生産・輸出されたインド産アヘンについては、宗主国イギリスの議会文書(BPP)が高い信頼度を持つはずである。そのなかに” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等14点に及ぶ統計のあることを発見、もっとも妥当性の高いものに拠り、集計を開始した。
この史料にインド産アヘン誕生の背景説明がある。その概要は次の通り。1757年のプラッシーの戦いの勝利により、東インド会社はベンガルからガンジス川沿いの肥沃な一帯の直接支配に乗り出し、1773年から専売制による「公班土」(ビハール州産アヘンの中国名)と「喇荘土」(同じくベナーレス州産)の生産に着手した。両者を合わせ、ベンガル産アヘンとも呼ぶ。
もう1種のインド産アヘンは、直轄植民地ではない中央インドの藩王国マルワ(Malwa)で産出し、西海岸のボンベイ近くまで陸路で搬出し輸出するマルワ・アヘン(「白波土」)で、中国でとりわけ人気が高い。
アヘンはケシの汁を固めたもの。ケシが大きく伸び、突端の子房が膨らむと青いうちに傷をつける。滲みだす汁が天日で茶褐色のゴム状に変化すると、子どもたちがピンセットで集める。工場で小児の頭大のボール状に固めて陰干し、べニア板の箱に3段に並べ、約60キロを一箱にして輸出する。
拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(1979年)に、インド産アヘンの統計やそれを使った研究書23点を掲げたが、うち14点がイギリス議会文書の統計、2点が中国海関(税関)の統計、それ以外が研究書ないし2次史料である。
先行研究から入って一定のイメージを持ち、さらに1次史料に迫るという通常の過程を踏んだ。主なものでは、H.B.モース『中華帝国の国際関係』(英文、3冊、1911年)の扱う対象は1800~1860年であり、アヘン貿易の統計は他の研究からの引用(2次史料)である。西村孝夫『近代イギリス東洋貿易史の研究』(1972年)は19世紀初頭からアヘン戦争までを対象とし、貿易統計はМ・グリーンバーグ『イギリス貿易と中国の開国-1800‐1842年』(1951年)や『チャイニーズ・リポジトリ―』誌から引用している。
インド産アヘンの輸出先はすべてが中国向けではなく、イギリス植民地のシンガポール等にも移出された(植民地間の商品移動を移出として区別する)。合わせて1815年の約58億ポンド(英貨)の輸出・移出は、5年後に約110億ポンドに跳ね上がり、1835年には約280億ポンドと急増する。1839年、清朝政府の林則徐によるアヘン没収策の実施により急減するが、翌年からまた急増期に入り、1858年までウナギ上りの勢いとなる。
以上の数字は生産・輸出するインド側の統計である。清朝政府はアヘンを厳禁していたため「密輸」状態にあり、中国側の海関(税関)統計には載らない。1858年、第二次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約により密輸アヘンが合法化されると、「洋薬」の名称で関税がかけられ、中国の海関統計に現れる。なお厳中平等編『中国近代経済史統計資料選輯』(1955年)は、中国海関統計を10年単位で掲載する資料集である。
合法化により、当然、輸出量は伸びる。1860年以降のインド産アヘンの生産・輸出の続伸ぶりに目を見張り、方眼紙を継ぎ足しては、集計をつづけた。
日本史では、アヘン貿易やアヘン禍はほとんど問題に上らない。加えて先進国イギリスがいつまでもインドで専売制アヘンを大量生産し、大量輸出していたことも想像しにくい。私もこの「常識」に縛られ、明治時代に入れば終わるに違いないと思っていた。ところがなお上昇をつづける。
ピークだけは確かめておきたいと集計をつづけると、1880(明治13)年にようやくピークを打った。インド総輸出の実に約2割をアヘンが占める。ピークに達したら終わるのも早かろうと思ったが、明治が大正になっても終わらず、方眼紙の継ぎ足しはさらに進んだ。その後の展開については、のちに作成した「インド産アヘンの140年」(1773~1914年)というグラフ(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)に譲る。
19世紀初頭に話題を戻すと、この頃に植民地インドから中国へのアヘンと綿花の輸出が増え始める。アヘンと綿花がほぼ半々の割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)に達し、その分イギリスからの銀流出が減った。
一方、紅茶購入による流出銀を取り戻す新しい商品として、産業革命の嫡子である工場製綿布を売りこむ案が、ランカシャーの商工会議所(綿工業地帯の代表)等から出る。ところがイギリスの工場製綿布は薄手で、古くから中国で生産・消費されてきた厚手綿布の市場には食い込めない。
そこで最大の販売市場としたのが、長く輸入元であった薄手綿布の産地インドである。インドからイギリスへの綿布輸入について私はすでに把握していたが、逆にイギリスの工場製綿布がインドへ逆流する実態は分からなかった。それが新たに見つけた植民地インド側の統計と合わせると、イギリス綿布がインド綿布を凌駕し、綿布の流れが逆転するのが1815年であることが分かった。
これは宗主国イギリスと植民地インドとの間の貿易である。逆転は自由貿易の結果ではあるまい。関税操作あるいは政治的圧力など、かなりの強制力が働いたと見て良かろう。
1834年まで長く紅茶輸入を独占してきた国策会社の東インド会社は、ほかにも幾つもの顔を持つことも分かってきた。貿易業では中国綿布(明朝の首都・南京に由来するナンキーンと呼ばれた厚手の綿布)の輸入も独占、すなわち排他的な独占権を有する国営貿易企業としての顔である。
加えて植民地インドでアヘン専売制(税収を伴う)を採用できたのは、ほかでもなく、徴税権を有する統治代行機関であることをも意味した。(続く)
この史料にインド産アヘン誕生の背景説明がある。その概要は次の通り。1757年のプラッシーの戦いの勝利により、東インド会社はベンガルからガンジス川沿いの肥沃な一帯の直接支配に乗り出し、1773年から専売制による「公班土」(ビハール州産アヘンの中国名)と「喇荘土」(同じくベナーレス州産)の生産に着手した。両者を合わせ、ベンガル産アヘンとも呼ぶ。
もう1種のインド産アヘンは、直轄植民地ではない中央インドの藩王国マルワ(Malwa)で産出し、西海岸のボンベイ近くまで陸路で搬出し輸出するマルワ・アヘン(「白波土」)で、中国でとりわけ人気が高い。
アヘンはケシの汁を固めたもの。ケシが大きく伸び、突端の子房が膨らむと青いうちに傷をつける。滲みだす汁が天日で茶褐色のゴム状に変化すると、子どもたちがピンセットで集める。工場で小児の頭大のボール状に固めて陰干し、べニア板の箱に3段に並べ、約60キロを一箱にして輸出する。
拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(1979年)に、インド産アヘンの統計やそれを使った研究書23点を掲げたが、うち14点がイギリス議会文書の統計、2点が中国海関(税関)の統計、それ以外が研究書ないし2次史料である。
先行研究から入って一定のイメージを持ち、さらに1次史料に迫るという通常の過程を踏んだ。主なものでは、H.B.モース『中華帝国の国際関係』(英文、3冊、1911年)の扱う対象は1800~1860年であり、アヘン貿易の統計は他の研究からの引用(2次史料)である。西村孝夫『近代イギリス東洋貿易史の研究』(1972年)は19世紀初頭からアヘン戦争までを対象とし、貿易統計はМ・グリーンバーグ『イギリス貿易と中国の開国-1800‐1842年』(1951年)や『チャイニーズ・リポジトリ―』誌から引用している。
インド産アヘンの輸出先はすべてが中国向けではなく、イギリス植民地のシンガポール等にも移出された(植民地間の商品移動を移出として区別する)。合わせて1815年の約58億ポンド(英貨)の輸出・移出は、5年後に約110億ポンドに跳ね上がり、1835年には約280億ポンドと急増する。1839年、清朝政府の林則徐によるアヘン没収策の実施により急減するが、翌年からまた急増期に入り、1858年までウナギ上りの勢いとなる。
以上の数字は生産・輸出するインド側の統計である。清朝政府はアヘンを厳禁していたため「密輸」状態にあり、中国側の海関(税関)統計には載らない。1858年、第二次アヘン戦争の中間で結ばれた天津条約により密輸アヘンが合法化されると、「洋薬」の名称で関税がかけられ、中国の海関統計に現れる。なお厳中平等編『中国近代経済史統計資料選輯』(1955年)は、中国海関統計を10年単位で掲載する資料集である。
合法化により、当然、輸出量は伸びる。1860年以降のインド産アヘンの生産・輸出の続伸ぶりに目を見張り、方眼紙を継ぎ足しては、集計をつづけた。
日本史では、アヘン貿易やアヘン禍はほとんど問題に上らない。加えて先進国イギリスがいつまでもインドで専売制アヘンを大量生産し、大量輸出していたことも想像しにくい。私もこの「常識」に縛られ、明治時代に入れば終わるに違いないと思っていた。ところがなお上昇をつづける。
ピークだけは確かめておきたいと集計をつづけると、1880(明治13)年にようやくピークを打った。インド総輸出の実に約2割をアヘンが占める。ピークに達したら終わるのも早かろうと思ったが、明治が大正になっても終わらず、方眼紙の継ぎ足しはさらに進んだ。その後の展開については、のちに作成した「インド産アヘンの140年」(1773~1914年)というグラフ(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)に譲る。
19世紀初頭に話題を戻すと、この頃に植民地インドから中国へのアヘンと綿花の輸出が増え始める。アヘンと綿花がほぼ半々の割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)に達し、その分イギリスからの銀流出が減った。
一方、紅茶購入による流出銀を取り戻す新しい商品として、産業革命の嫡子である工場製綿布を売りこむ案が、ランカシャーの商工会議所(綿工業地帯の代表)等から出る。ところがイギリスの工場製綿布は薄手で、古くから中国で生産・消費されてきた厚手綿布の市場には食い込めない。
そこで最大の販売市場としたのが、長く輸入元であった薄手綿布の産地インドである。インドからイギリスへの綿布輸入について私はすでに把握していたが、逆にイギリスの工場製綿布がインドへ逆流する実態は分からなかった。それが新たに見つけた植民地インド側の統計と合わせると、イギリス綿布がインド綿布を凌駕し、綿布の流れが逆転するのが1815年であることが分かった。
これは宗主国イギリスと植民地インドとの間の貿易である。逆転は自由貿易の結果ではあるまい。関税操作あるいは政治的圧力など、かなりの強制力が働いたと見て良かろう。
1834年まで長く紅茶輸入を独占してきた国策会社の東インド会社は、ほかにも幾つもの顔を持つことも分かってきた。貿易業では中国綿布(明朝の首都・南京に由来するナンキーンと呼ばれた厚手の綿布)の輸入も独占、すなわち排他的な独占権を有する国営貿易企業としての顔である。
加えて植民地インドでアヘン専売制(税収を伴う)を採用できたのは、ほかでもなく、徴税権を有する統治代行機関であることをも意味した。(続く)
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