【22】連載「アヘン問題」
リーズ大学図書館には、議会文書(BPP)のほかに新聞・雑誌がかなり系統的に揃っていた。1785年創刊の世界最古の新聞“The Times”紙にはニュースが豊富に掲載され、さらに見出しを使ったキーワード索引(Palmers Index to the The Times)が古くから作られていて、記事の検索に役立った。
またアヘン戦争中の1842年5月14日創刊の”Illustrated London News”紙=『絵入りロンドンニュース』には、イギリス内外のニュースに加え、銅版画がふんだんに使われていた。銅版画は、報道写真が新聞に登場する前の貴重な図像史料であり、半世紀以上にわたり大きな役割を果たしている。図像史料には文字史料にない情報が豊富に含まれている。
統計資料の精査に疲れると図書館内を歩き回り、念頭に浮かぶ事項を調べるため、“The Times”紙索引を使った。A6サイズの小型版で、初期には数年分を合冊してあったが、時代が下ると分量が多くなり、1年に1冊だったと記憶している。
アヘン貿易の史料探しに頭を痛めていたとき、この索引で「アヘン」を検索すると、19世紀のイギリス国内でアヘン・チンキ(アルコールに溶かした飲用アヘン)の服用が異常に流行し、その薬害を指摘する記事がしばしば出てくる。ゴッドフリー強心剤という商品がよく売れ、泣く子に飲ませる記事(1844年頃)もある。
さらに『嵐が丘』の筆者エミリー・ブロンテの弟もアヘン中毒患者で、姉妹と弟を描いた絵から弟の姿が消されていたのを、ブロンテ記念館で見た。ロマン派の作家ド・キンシーに『アヘン常用者の告白』という有名な作品がある。
イギリス国内でこれほどアヘンが野放しであるとは、予想外の驚きであった。もともとは風土病の痛みに対する鎮痛剤として主に農村地方で使われたという。イギリスの風土はケシ栽培に適していないはずで、輸入統計を調べると、イラン産とトルコ産が大量に輸入されていた。
しかし、見つけたいと思っていたインド産アヘンと、その中国への密輸に関する資料が見つからない。どこへ行ってしまったのか。イギリス議会文書を改めて調べなおしたが、インド産アヘンに関する貿易統計がどうしても出てこない。まさか「国家機密」でもあるまい。幾人かのイギリス人にも尋ねたが、そもそもインド産アヘンの存在すら知らない歴史家が多かった。
ではイギリスの史料ではなく中国史ではどうか。有名なアヘン戦争(1839年秋~1842年8月)は、林則徐が密輸アヘンを断固として取り締まる禁輸措置に端を発したことは良く知られている。
この禁輸アヘンとは、インド産の3種のアヘン、すなわちベンガル地方で東インド会社の専売制で生産される「公班土」(ビハール州アヘンの中国名)と「喇荘土」(ベナーレス州産)である。まだ植民地になっていない中央インド産アヘンは「白浪土」(マルワ・アヘン)と表記され、根強い人気があった。
これら3種の密輸アヘンの統計は部分的には知られていたが、いずれも2次史料である。植民地インドにおけるアヘン生産とその輸出に関する宗主国イギリスの一次史料が必ずあるはずである。
諦めかけていた頃、リーズ大学のイギリス議会文書(BPP)の辺りを歩き回って目録を引き直しているうちに、” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等の史料のあることを発見した。初期の議会文書ではなく、1880年代に議会に提出されている。この時期、アヘン貿易反対論が議会内外で強まり、それに押されて提出されたことが後に分かった。
1880年代と言えば明治13~22年である。近代日本の手本とされたイギリスが、インド産アヘンの生産と中国・東南アジアへの輸出を、ここまで続けていたとは思わなかった。幕末期のアヘン戦争(1839~42年)前後を想定しており、その後の史料探索までは射程が及ばなかった。先入観は史料発掘の目も曇らせる。ちなみに「インド産アヘンの140年」(1773~1914年)というグラフを完成させたのは、さらに後のことである。
この統計が見つかるや、すぐに作業を開始した。すでに分かっていたが、中国紅茶は、中国からの輸入のなかで約8割を占めていた。紅茶の輸入によりイギリスは大幅な貿易赤字を招いた。18世紀後半の紅茶輸入急増期においても、中国への輸出品は皆無であった。
それが19世紀初頭になると植民地インドから中国・東南アジア等へ、アヘンと綿花の輸出が増え始める。両者がほぼ半々の割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)にあたる。時代が下るにつれてアヘン輸出の比率が高まることが、この新しい史料で分かった。
バラバラに見えた二国間貿易を三国・地域間貿易として把握すると、まったく新たな構造になる。中国産紅茶、インド産アヘン、イギリス製綿製品の三大商品による三国・地域間(インドはイギリス植民地であり、慣例では「地域」と呼ぶべき)の貿易、言い換えれば「三角貿易」に発展し、これによりイギリスの貿易赤字が急減する。これを私は「19世紀アジア三角貿易」と命名した。
「三角貿易」という概念と部分的な統計的知見はすでに知られていた。つまり二国間貿易から多国間貿易への移行期に三角貿易が存在する。二国間では輸出入品目が合わず、三国間で処理すれば輸出入が循環するからである。
その好例が、香辛料を求めてアジアへ来た西洋人(早くはポルトガル、ついでオランダ、イギリス)がインドで綿布を買い(支払いは主に銀貨ないし銀塊)、その綿布を対価に銀貨や銀塊の通用しない東南アジアで香辛料を買い付け、帰国して銀貨や銀塊を手にする。西洋・インド・東南アジア間の、綿布・香辛料・銀貨(と銀塊)による三角貿易である。
もう一つが大西洋三角貿易である。18世紀後半に勃興したイギリス産業革命の工場製綿布を軸に、原料の綿花を初めアフリカ、のちアメリカ南部で栽培し、その労働力としてアフリカからアメリカへの奴隷貿易を介在させ、工場製綿布を奴隷やその地域の人々に売るという、綿花・奴隷・綿布の三角貿易である。
これらの先行例に倣うかのように、「19世紀アジア三角貿易」が成立する。この具体像が、新しく出てきた議会統計の整理により徐々に分かってきた。
三角貿易を構成する香料や紅茶も、綿花も綿糸・綿布も、またアヘンも銀塊もみな等しく軽量で高価、かつ熱帯の海を渡っても変質しない。軽量・高価・不変質という3つの特性は、当時の船による長距離運送、つまり世界貿易にとって不可欠の要素である、という共通性が同時に浮かび上がった。(続く)
またアヘン戦争中の1842年5月14日創刊の”Illustrated London News”紙=『絵入りロンドンニュース』には、イギリス内外のニュースに加え、銅版画がふんだんに使われていた。銅版画は、報道写真が新聞に登場する前の貴重な図像史料であり、半世紀以上にわたり大きな役割を果たしている。図像史料には文字史料にない情報が豊富に含まれている。
統計資料の精査に疲れると図書館内を歩き回り、念頭に浮かぶ事項を調べるため、“The Times”紙索引を使った。A6サイズの小型版で、初期には数年分を合冊してあったが、時代が下ると分量が多くなり、1年に1冊だったと記憶している。
アヘン貿易の史料探しに頭を痛めていたとき、この索引で「アヘン」を検索すると、19世紀のイギリス国内でアヘン・チンキ(アルコールに溶かした飲用アヘン)の服用が異常に流行し、その薬害を指摘する記事がしばしば出てくる。ゴッドフリー強心剤という商品がよく売れ、泣く子に飲ませる記事(1844年頃)もある。
さらに『嵐が丘』の筆者エミリー・ブロンテの弟もアヘン中毒患者で、姉妹と弟を描いた絵から弟の姿が消されていたのを、ブロンテ記念館で見た。ロマン派の作家ド・キンシーに『アヘン常用者の告白』という有名な作品がある。
イギリス国内でこれほどアヘンが野放しであるとは、予想外の驚きであった。もともとは風土病の痛みに対する鎮痛剤として主に農村地方で使われたという。イギリスの風土はケシ栽培に適していないはずで、輸入統計を調べると、イラン産とトルコ産が大量に輸入されていた。
しかし、見つけたいと思っていたインド産アヘンと、その中国への密輸に関する資料が見つからない。どこへ行ってしまったのか。イギリス議会文書を改めて調べなおしたが、インド産アヘンに関する貿易統計がどうしても出てこない。まさか「国家機密」でもあるまい。幾人かのイギリス人にも尋ねたが、そもそもインド産アヘンの存在すら知らない歴史家が多かった。
ではイギリスの史料ではなく中国史ではどうか。有名なアヘン戦争(1839年秋~1842年8月)は、林則徐が密輸アヘンを断固として取り締まる禁輸措置に端を発したことは良く知られている。
この禁輸アヘンとは、インド産の3種のアヘン、すなわちベンガル地方で東インド会社の専売制で生産される「公班土」(ビハール州アヘンの中国名)と「喇荘土」(ベナーレス州産)である。まだ植民地になっていない中央インド産アヘンは「白浪土」(マルワ・アヘン)と表記され、根強い人気があった。
これら3種の密輸アヘンの統計は部分的には知られていたが、いずれも2次史料である。植民地インドにおけるアヘン生産とその輸出に関する宗主国イギリスの一次史料が必ずあるはずである。
諦めかけていた頃、リーズ大学のイギリス議会文書(BPP)の辺りを歩き回って目録を引き直しているうちに、” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等の史料のあることを発見した。初期の議会文書ではなく、1880年代に議会に提出されている。この時期、アヘン貿易反対論が議会内外で強まり、それに押されて提出されたことが後に分かった。
1880年代と言えば明治13~22年である。近代日本の手本とされたイギリスが、インド産アヘンの生産と中国・東南アジアへの輸出を、ここまで続けていたとは思わなかった。幕末期のアヘン戦争(1839~42年)前後を想定しており、その後の史料探索までは射程が及ばなかった。先入観は史料発掘の目も曇らせる。ちなみに「インド産アヘンの140年」(1773~1914年)というグラフを完成させたのは、さらに後のことである。
この統計が見つかるや、すぐに作業を開始した。すでに分かっていたが、中国紅茶は、中国からの輸入のなかで約8割を占めていた。紅茶の輸入によりイギリスは大幅な貿易赤字を招いた。18世紀後半の紅茶輸入急増期においても、中国への輸出品は皆無であった。
それが19世紀初頭になると植民地インドから中国・東南アジア等へ、アヘンと綿花の輸出が増え始める。両者がほぼ半々の割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)にあたる。時代が下るにつれてアヘン輸出の比率が高まることが、この新しい史料で分かった。
バラバラに見えた二国間貿易を三国・地域間貿易として把握すると、まったく新たな構造になる。中国産紅茶、インド産アヘン、イギリス製綿製品の三大商品による三国・地域間(インドはイギリス植民地であり、慣例では「地域」と呼ぶべき)の貿易、言い換えれば「三角貿易」に発展し、これによりイギリスの貿易赤字が急減する。これを私は「19世紀アジア三角貿易」と命名した。
「三角貿易」という概念と部分的な統計的知見はすでに知られていた。つまり二国間貿易から多国間貿易への移行期に三角貿易が存在する。二国間では輸出入品目が合わず、三国間で処理すれば輸出入が循環するからである。
その好例が、香辛料を求めてアジアへ来た西洋人(早くはポルトガル、ついでオランダ、イギリス)がインドで綿布を買い(支払いは主に銀貨ないし銀塊)、その綿布を対価に銀貨や銀塊の通用しない東南アジアで香辛料を買い付け、帰国して銀貨や銀塊を手にする。西洋・インド・東南アジア間の、綿布・香辛料・銀貨(と銀塊)による三角貿易である。
もう一つが大西洋三角貿易である。18世紀後半に勃興したイギリス産業革命の工場製綿布を軸に、原料の綿花を初めアフリカ、のちアメリカ南部で栽培し、その労働力としてアフリカからアメリカへの奴隷貿易を介在させ、工場製綿布を奴隷やその地域の人々に売るという、綿花・奴隷・綿布の三角貿易である。
これらの先行例に倣うかのように、「19世紀アジア三角貿易」が成立する。この具体像が、新しく出てきた議会統計の整理により徐々に分かってきた。
三角貿易を構成する香料や紅茶も、綿花も綿糸・綿布も、またアヘンも銀塊もみな等しく軽量で高価、かつ熱帯の海を渡っても変質しない。軽量・高価・不変質という3つの特性は、当時の船による長距離運送、つまり世界貿易にとって不可欠の要素である、という共通性が同時に浮かび上がった。(続く)
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