【21】連載「紅茶からアヘンへ」
イギリス議会文書(BPP)の統計を使い、私はまず紅茶輸入の変遷から調べた。18世紀後半から中国産中級紅茶コングーが急速にイギリスで普及、ミルクと砂糖を入れたイングリッシュ・ティーが定着したと述べた。煮沸した湯を使い、蒸らす淹れ方は、汚染水の滅菌をするためであった。
私がイギリスに滞在した1977~78年頃は、まだポータブルワープロもノートパソコンもなく、統計の線グラフ表示にはもっぱら方眼紙を使い、足りなければ貼り足して記入した。構成比等を想定するには、日本から持ち込んだ小型の電卓が役立った。計算した後、膨大な統計をどう使うか。
何らかの形で文章化して発表することにより、考察の不足や補正も可能になり、次の史料収集にも役立つ。前著『紀行随想 東洋の近代』(1977年 朝日選書)の基となった『道』誌(世代群評社)連載の編集担当だった木村剛さんが、また書くように勧めてくれた。「紀行随想 イギリスの近代」と題し、イギリス滞在を終える前の1978年9月から帰国後の79年9月まで計7回の連載をした。1回分が400字原稿用紙で約30枚である。
同誌の連載文を読み直すと、着想⇒史料探索⇒論証の3段階のうち、まだ着想の占める比重が高く、「紀行随想」とある通り、旅を通じて現場の史料を見つけたいと抱負を述べるに留まる個所もある。同時にまた統計を使って論証する記述もあり、全体として混沌たる状態がよく表れている。
第1回(1978年9月号)がイギリス国内の旅行を通じてイングランドを中心とする風土等を描き、自動車が威張り、歩行者がビクビクせざるを得ない交通道徳に立腹したり、経済学史上の黄金時代を代表するA・スミスに触れる。
第2回(1978年11月号)は18世紀後半の蒸気機関の開発についで、P.コルクン『英帝国の富と資源』(1814年)から9つの階級の家族数と人口を引き、それぞれ必要な食糧を得るための労働時間を算出、紅茶の普及にも言及する。
第3回(1979年1月号)は、産業革命に伴うイングランドの交通網と運河の開発が対外貿易と不可分であることを述べ、植民地インドのアヘン専売制にも触れ、19世紀イギリスで液体アヘン(アヘンチンキ)が野放しであると、”The Times”紙の報道に基づいて書いている。
第4回(1979年3月号)では、上下水道普及の努力と未完の現実、急激な都市化に伴う悪環境下での労働者の生活、彼らの貧しい食事を補うミルクティーの普及していく19世紀中ごろの状況を描く。
紅茶消費の実態の一端は、農業労働者の家計簿の報告書(D.Davies 1795年)でも明らかである。家計支出の首位は約70%を占める小麦粉、ついで2位が紅茶・砂糖・バターの一括で10%強、3位がベーコンで7%強を占め、合わせて食費が90%近くを占め、近所で入手するミルクの値段は書いてないが、いわゆるエンゲル係数が高い。
なお上掲の(D.Davies 1795年)という省略表記は、本文では煩雑を避け、関心のある方は別添の文献目録のD.Davies, The Case of Labourers in Husbandry stated and considered, 1795で確認できるよう用意した。この表記法は私独自のもので、のちの一般書にも引き継いだ。
食事の中で2位(10%強)を占める紅茶・砂糖・バターのうち紅茶の比率は不明であるが、紅茶が不可欠なものであることは確かである。疲れを癒し、目覚まし効果等のある紅茶のカフェインが生活に欠かせない必需品となっていた証拠として良かろう。
『道』誌の論考は、十分な実証を伴っていないものや未整理なテーマもあるが、在外研究の機会を活かして、日本では得られない文献史料を使い、現地探訪で確かめ、その過程を記録に残したことが、のちの歴史書につながった。
これとほぼ同時期に(記憶では1978年末か1979年初頭)、並行して書いた論文「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」がある。日本近代史の遠山茂樹教授退職記念号に書くことを強く薦めてくれたのが編集責任者の辻達也さん(日本近世史)である。
これが『横浜市立大学論叢』(30巻 人文科学系列第Ⅱ、Ⅲ号、遠山茂樹教授退官記念号 1979年3月)に掲載された。題名が示す通り、貿易統計を主な史料に、アジア規模の三角貿易の実態をまとめた実証論文である。
同誌には以下の9本が収録され、充実した構成である。遠山茂樹「スペンサーの訳書二つ」、辻達也「<下馬将軍>政治の性格」、井上一「帝国主義に関するひとつの学説とその解釈のイデオロギー性」、柳沢悠「19世紀末南インドの農業生産と農業労働者」、伊東昭雄「蒋渭水と台湾抗日民族運動」、今井清一(編)「横浜貿易新報社説目録 1898~1911年」、阿津坂林太郎「遠山茂樹教授著作目録」、福田以久生「横浜市立大学図書館所蔵文書について その三」、そして私の「19世紀アジア三角貿易」(p65~100)。
拙稿は、統計分析を主とし、紅茶、アヘン、綿製品の3章に分けて論じている。末尾に掲げた次の3表は、いまでも貴重なデータである。第1表「紅茶・アヘン・綿製品 1815~1898年」、第2表「インドの主要輸出-アヘン・原綿・綿糸 1815~1899年」、第3表「中国の主要輸出入 1860~1900年」。
本稿を読み直すと、第1表で紅茶・アヘン・綿製品の3大商品をまとめ、第2表ではインド産アヘンの輸出統計の詳細を載せ(以上はイギリス議会文書から)、第3表では中国側の海関統計を基に上海を主とする開港場の輸出入合計を明らかにしている。『道』誌連載の第5回(1979年同年5月号)にも「アジア三角貿易」(1880年)の概念図を掲載した。
本稿を書いたころには、紅茶・アヘン・綿製品の3大商品による、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の統計を正確に把握できていた。貿易統計の集計に作業の焦点を絞り、個別の文書史料に深入りしなかったのが幸いしたと思う。ただ国際文化会館の松本重治さんから頂戴したジャーデン・マセソン商会のサ・ジョン・ケジック氏宛の紹介状(同商社の文書利用について)を存分に活用する時間がなかったのが残念である。
とは言え、ここに至るまでどうしても見つからない統計があり、苦しい時間が流れていた。先入観により史料探索の目が曇り、発掘が遅れたからである。歴史家は良き史料ハンターたれと言われるのに、当時は暗中模索の最中にあり、あわや断念の可能性もないではなかった。(続く)
私がイギリスに滞在した1977~78年頃は、まだポータブルワープロもノートパソコンもなく、統計の線グラフ表示にはもっぱら方眼紙を使い、足りなければ貼り足して記入した。構成比等を想定するには、日本から持ち込んだ小型の電卓が役立った。計算した後、膨大な統計をどう使うか。
何らかの形で文章化して発表することにより、考察の不足や補正も可能になり、次の史料収集にも役立つ。前著『紀行随想 東洋の近代』(1977年 朝日選書)の基となった『道』誌(世代群評社)連載の編集担当だった木村剛さんが、また書くように勧めてくれた。「紀行随想 イギリスの近代」と題し、イギリス滞在を終える前の1978年9月から帰国後の79年9月まで計7回の連載をした。1回分が400字原稿用紙で約30枚である。
同誌の連載文を読み直すと、着想⇒史料探索⇒論証の3段階のうち、まだ着想の占める比重が高く、「紀行随想」とある通り、旅を通じて現場の史料を見つけたいと抱負を述べるに留まる個所もある。同時にまた統計を使って論証する記述もあり、全体として混沌たる状態がよく表れている。
第1回(1978年9月号)がイギリス国内の旅行を通じてイングランドを中心とする風土等を描き、自動車が威張り、歩行者がビクビクせざるを得ない交通道徳に立腹したり、経済学史上の黄金時代を代表するA・スミスに触れる。
第2回(1978年11月号)は18世紀後半の蒸気機関の開発についで、P.コルクン『英帝国の富と資源』(1814年)から9つの階級の家族数と人口を引き、それぞれ必要な食糧を得るための労働時間を算出、紅茶の普及にも言及する。
第3回(1979年1月号)は、産業革命に伴うイングランドの交通網と運河の開発が対外貿易と不可分であることを述べ、植民地インドのアヘン専売制にも触れ、19世紀イギリスで液体アヘン(アヘンチンキ)が野放しであると、”The Times”紙の報道に基づいて書いている。
第4回(1979年3月号)では、上下水道普及の努力と未完の現実、急激な都市化に伴う悪環境下での労働者の生活、彼らの貧しい食事を補うミルクティーの普及していく19世紀中ごろの状況を描く。
紅茶消費の実態の一端は、農業労働者の家計簿の報告書(D.Davies 1795年)でも明らかである。家計支出の首位は約70%を占める小麦粉、ついで2位が紅茶・砂糖・バターの一括で10%強、3位がベーコンで7%強を占め、合わせて食費が90%近くを占め、近所で入手するミルクの値段は書いてないが、いわゆるエンゲル係数が高い。
なお上掲の(D.Davies 1795年)という省略表記は、本文では煩雑を避け、関心のある方は別添の文献目録のD.Davies, The Case of Labourers in Husbandry stated and considered, 1795で確認できるよう用意した。この表記法は私独自のもので、のちの一般書にも引き継いだ。
食事の中で2位(10%強)を占める紅茶・砂糖・バターのうち紅茶の比率は不明であるが、紅茶が不可欠なものであることは確かである。疲れを癒し、目覚まし効果等のある紅茶のカフェインが生活に欠かせない必需品となっていた証拠として良かろう。
『道』誌の論考は、十分な実証を伴っていないものや未整理なテーマもあるが、在外研究の機会を活かして、日本では得られない文献史料を使い、現地探訪で確かめ、その過程を記録に残したことが、のちの歴史書につながった。
これとほぼ同時期に(記憶では1978年末か1979年初頭)、並行して書いた論文「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」がある。日本近代史の遠山茂樹教授退職記念号に書くことを強く薦めてくれたのが編集責任者の辻達也さん(日本近世史)である。
これが『横浜市立大学論叢』(30巻 人文科学系列第Ⅱ、Ⅲ号、遠山茂樹教授退官記念号 1979年3月)に掲載された。題名が示す通り、貿易統計を主な史料に、アジア規模の三角貿易の実態をまとめた実証論文である。
同誌には以下の9本が収録され、充実した構成である。遠山茂樹「スペンサーの訳書二つ」、辻達也「<下馬将軍>政治の性格」、井上一「帝国主義に関するひとつの学説とその解釈のイデオロギー性」、柳沢悠「19世紀末南インドの農業生産と農業労働者」、伊東昭雄「蒋渭水と台湾抗日民族運動」、今井清一(編)「横浜貿易新報社説目録 1898~1911年」、阿津坂林太郎「遠山茂樹教授著作目録」、福田以久生「横浜市立大学図書館所蔵文書について その三」、そして私の「19世紀アジア三角貿易」(p65~100)。
拙稿は、統計分析を主とし、紅茶、アヘン、綿製品の3章に分けて論じている。末尾に掲げた次の3表は、いまでも貴重なデータである。第1表「紅茶・アヘン・綿製品 1815~1898年」、第2表「インドの主要輸出-アヘン・原綿・綿糸 1815~1899年」、第3表「中国の主要輸出入 1860~1900年」。
本稿を読み直すと、第1表で紅茶・アヘン・綿製品の3大商品をまとめ、第2表ではインド産アヘンの輸出統計の詳細を載せ(以上はイギリス議会文書から)、第3表では中国側の海関統計を基に上海を主とする開港場の輸出入合計を明らかにしている。『道』誌連載の第5回(1979年同年5月号)にも「アジア三角貿易」(1880年)の概念図を掲載した。
本稿を書いたころには、紅茶・アヘン・綿製品の3大商品による、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の統計を正確に把握できていた。貿易統計の集計に作業の焦点を絞り、個別の文書史料に深入りしなかったのが幸いしたと思う。ただ国際文化会館の松本重治さんから頂戴したジャーデン・マセソン商会のサ・ジョン・ケジック氏宛の紹介状(同商社の文書利用について)を存分に活用する時間がなかったのが残念である。
とは言え、ここに至るまでどうしても見つからない統計があり、苦しい時間が流れていた。先入観により史料探索の目が曇り、発掘が遅れたからである。歴史家は良き史料ハンターたれと言われるのに、当時は暗中模索の最中にあり、あわや断念の可能性もないではなかった。(続く)
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