三溪園ボランティア連絡会

 2017(平成29)年1月18日(水曜)、三溪園ボランティア連絡会・懇親会が園内の鶴翔閣楽室棟で開かれ、約90名が参加した。三溪園内部の会議ではあるが、ボランティア活動の現状を伝えたく、その一端を紹介したい。

 三溪園ボランティアは2004(平成15)年9月に発足(85名)、昨年2016(平成28)年6月の第11次募集で64名が加わり、総計230名(男性156名、女性74名)を数えるまでに発展した。担当は「ガイド」146名、「合掌造」47名、「庭園」83名(昨年6月1日現在、重複登録あり)の3つに分かれる。

 ボランティアの居住地は横浜市内のほか、神奈川県の川崎・大和・逗子・鎌倉・藤沢・横須賀・綾瀬・茅ヶ崎・海老名等、そして東京の世田谷・太田・町田、さいたま市と千葉県八千代市に及ぶ。30歳から88歳まで在籍だが、60歳代後半から70歳代前半の方が多い。ガイドと通園で2万歩超を歩く猛者も。

 連絡会は今年度から装いを新たに、忘年会を午前開始の新年会に変え、活動状況の発表と、それを次の活動に生かす話し合いの場とした。

 担当の羽田雄一郎事業課主事が中心となり、昨年11月初旬からボランティアと打ち合わせ、会員に向けて原稿(400~1200字程度)を募集、それらを基に配布資料(32ページ、写真入り)を作成した。次第、ボランティアの歩み(年表)、人数の変遷、3つのボランティア活動の概況、すなわち「ガイド」の解説と団体予約の変遷、「合掌造」の運営管理と年間の活動、「庭園」の保守管理等を簡潔に示す。

 ついで17名の発表者名(一人当たり5分程度)と、活動報告・エピソード紹介等の15本の文章が並ぶ。スピーチといい文章といい、その一つ一つが個性的で、ユーモアに富む。人と自然が大好きな人たちだと感じ入る。

 その背景には、三溪園とその創始者・原三溪への敬愛、そして三溪園と日本文化を広く伝えたいとする情熱、来園するたびに再発見する三溪園の魅力そのものがあろう。ひとたび門をくぐれば五感のすべてが解放される空間、四季の移ろい、一つとして同じではない動植物、17棟の古建築(重要文化財)、記念館展示の美術品、これらの魅力を自ら感受するにとどまらず、反転してこれを来園者にどう伝えるかに腐心している。この貴重な活動なくして、三溪園は世に伝わらない。

 ガイドと合掌造の担当は曜日ごとに班を組み、庭園担当を兼ねることもできる。発表者17名のお名前を、了承を得て記す(敬称略)。「ガイド」の湯川幹男(月曜班)、宇草圭司(火曜班)、渡辺悦子(水曜班)、松原祥五(木曜班)、秋元正治(金曜班)、新中和男(土曜班)、八木哲雄(日曜班)。ついで「合掌造」の酒巻史郎(月曜班)、矢野幸司(火曜班)、井上登志子(水曜班)、伊藤明博(金曜班)、松井正(土曜班)、鈴木彰文(日曜班)。畔上政男(「庭園」)、小林千朋(「茶の湯の会」)、竹内勲(「自然観察の会」)、勝部暢之(「英語の会」)。

 文章を寄せた15名のお名前と題名は以下の通り(敬称略)。大野陽(ガイド月曜班)「私と三溪園」、西村鉉一(ガイド月曜班)「ある日のガイド」、小野俊明(ガイド水曜班)「大切にしていること」、滝川泰治(ガイド水曜班)「無題」、中江実(ガイド水曜班)「庭園ガイドのエピソード」、渡辺悦子(ガイド水曜班)「押し寄せる異文化の波」、大西功(ガイド金曜班・庭園)「三溪園を訪れる外国人観光客のおもてなしについて」、新中和男(ガイド土曜班)「私の三溪園ガイド…反省の日々」、天野健一(ガイド土曜班)「…百年後に…」、酒巻史郎(合掌造月曜班)「平成28年度三溪園ボランティア活動報告・エピソード」、矢野幸司(合掌造火曜班)「平成28年度三溪園ボランティア全体連絡会活動報告」、志村忠夫(合掌造水曜班)「三溪園は素晴らしい」、崎豊(庭園・合掌造)「三溪園の自然を楽しんでいます」、出口孝嗣(ガイド水曜班)「外国人観光客ガイド関連の小話2つ」、勝部暢之(「英語の会」)「英語ガイド 新春の抱負」。

 私は以上17の発表に耳を澄ませ、15の文章すべてを読み、そこに展開する熱く多彩な世界に胸を打たれた。

 さらに研鑽を積み、一方的な伝達者に終わらず、感動を伝えたい、楽しい時間を共有したいとするもの。多様なガイドから説明を受け、より深く味わってほしいと願うもの。三溪の庭作り等をデータ化するもの。時々のその瞬間にしか出会えない美しさを伝えるもの。多彩な動植物や古建築への飽くなき探究を表すもの。落ち葉掻きや草むしり等は第一印象を支える基本として作業に励むというもの。外国人への説明の工夫を語ろうとするもの……

 提案もある。不測の事態への対応、雨後のぬかるみや水たまりへの対処、高齢者用のベンチ設置、「無料ガイドあり」の案内板設置、鳥害や糞害対策の工夫、簡単な会話リスト(数か国語で)の作成、外国人向けガイド検討会設置、松風閣展望台に方角標識を置く等々。今後も心して検討を進めたい。

 閉会の辞で私は、四つ折りの三溪園リーフレットについて提案した。リーフレットは日本語版のほか英語版、中国語版(繁体字と簡体字)、ハングル版の5種がある。これには地図のほか、園の概要や古建築等の重要な解説が付されている。まず集合場所で来園者に呼びかけ、現在地、遠くに見える三重塔、右手の茅葺屋根の鶴翔閣を結ぶ「三角測量」を行い、リーフレット上でも確認する。その後も時々の現在地をリーフレットで照合しあう。

 リーフレットで広大な庭園の概観を把握・確認しつつ、個々の説明を受ければ分かりやすく、記憶の定着にも、のちの反復・検討にも、また感動を家族や知人に伝えるときにも役立つ。新しいファンを増やすことにもつながろう。この「小兵ながら優れ者」を、うまく活用していただけないか、と。
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【19】連載「文字史料と図像史料」

 短期間の滞在で一定の成果を得るには、文献史料の利用効率を高めることが鍵になる。所蔵機関を特定して文献史料を絞り込めば、その次はモノの史料の現場確認である。

 「西から東への影響」は、研究テーマ「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」の中心課題で、その解明に必要なものはほとんどが文献史料である。文献史料には、文字史料(統計を含む)と図像史料(地図、版画、写真、絵画等)があり、図像は端的に視覚に訴える重要な史料であるが、文字史料による補填が必要となる。

 文献史料を発見できるか否かは着想いかんで決まるため、母語か否かは二次的問題である。とは言うものの同じテーマであれば、英語を母語とする研究者に対して明らかに差がつく。古い新聞の見出しのニュアンスや背景の判読スピードにも圧倒的な差が出る。42歳、運転や史料解読に目の疲れを感じるようにもなり、車・鉄道・バスの使い分けを考え始めた。

 そこに刷り上がったばかりの拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年10月)が送られてきた。幸いにも本書は読売・朝日・毎日の三紙で好意的な書評が出たらしく、編集者の笠坊乙彦さんから「これを三冠王と呼んでいます」という添え書きがあった。

 その1つ、朝日新聞の1977年10月31日付けの書評に、「…中国研究者として知られ、ヒントンの『翻身』その他の翻訳もある著者は、東南アジアへの旅によって…アジアの全体像に挑戦しているようにみえる。まことに貴重な努力であるとともに、アジアへの思考を刺激せずにはおかない」。

 ついで「どれ一つをとっても長大な論文を必要とするテーマである。それでいて読みづらいとか、固くてこまるとかいったところはない。…問題の意味を十分に知り、自分のものとしていなければ、できることではない。それに筆が実にやわらかい。…」とある。私は発奮した。

 本書には問題提起したままフォローしていない課題がいくつもある。着想だけが示され、実証が伴っていない課題と言い換えても良い。そのどれかに焦点を絞り、実証を進めよう。

 本書の「2 植民地支配の技術」では、ポルトガル・スペインによる統治時代がオランダ時代へ、さらにイギリス時代へと進むことと、それぞれの統治方式の差異を大まかに述べたが、イギリスの植民地統治の論理と実体の一部でも明らかにできないか。

 超大国イギリスのインド植民地化と、中国に対するアヘン戦争及びそれ以降の中国に対する支配方式は明らかに違う。幕末期の日本への対応はさらに異なる。イギリスのアジア諸国に対するこのような差はどこから生じるのか。本国からの距離による側面(軍事面のシーレーンの長短等)も確かにあるとはいえ、それだけでは説明しにくい。

 横浜開港直前の1859年3月1日付けで、初のイギリス駐日総領事に任命されたR・オールコックは、中国在勤が15年と長く、1944年に福州領事、46~55年には上海領事として辣腕を振るい、市場開拓のための「再戦論」を主張、これが第2次アヘン戦争(1856~60年)の遠因となった。

 だが日本に対してはアメリカの後塵を拝し、最恵国待遇を主張して「二番手」の条約を結んだ制約もあり、強硬な政策展開をしなかった。日本国内を広く旅行し、収集した工芸品をロンドン万博(1862年開催)に出品、また外国人として初の霊山富士に登り感激するなど、親日家として振る舞う。

 日本はアメリカとの間で開国・開港をソフトランディングさせ(1854年の日米和親条約と1858年の日米修好通商条約)、1859年、横浜開港を迎える。この開港場をめぐって、米公使ハリスは神奈川宿に築港を主張、幕府は4キロ離れた横浜村に築造した外国人居留地と港を主張して対立、ハリスは最後まで横浜港に上陸せず、公使館を神奈川から江戸(麻布)へ移した。

 最初に横浜港を訪れた外交官がオールコックにほかならない。彼は横浜の良港ぶりに驚く。そして外国人居留地に商社を構えたイギリス貿易商の要望に応えて横浜港を黙認、一方で、外交的な配慮から神奈川宿の浄瀧寺に領事館を置いた(公使館は江戸高輪の東漸寺)。

 その後、生麦事件に端を発する薩英戦争(1863年8月)や、長州藩による下関海峡封鎖に抗議する四国連合艦隊(英・仏・蘭・米)の砲台攻撃(1864年7月)がつづくなか、南北戦争(1861~65年)に突入したアメリカが外交舞台から遠のくと、イギリスはフランスと拮抗しつつ対日外交の主導権を握る。

 明治政府はイギリス協調路線をとった。そして1894(明治27)年に日英通商航海条約を締結して治外法権を撤廃すると同時に、イギリスを暗黙の同盟者として日清戦争(1894~95年)に勝利し、台湾を割譲して植民地化した。お雇い外国人からイギリスの植民地支配の手法と技術を学び、その応用編を台湾で実施する。その一部については拙稿「学問と植民地支配にかんする覚書」『東洋文化研究所紀要』1971年3月)に収めた。

 イギリスの植民地支配にどう踏みこむか模索していた時、アヘン戦争(1839~42年)直後のイギリス支配を描く一つのポンチ絵に出合った。イギリスを頭脳、インドを胴体とし、伸ばした腕の肘がシンガポール、手首が香港島、5本の指が上海・広州等の五港開港場を押さえている。インドとシンガポール・香港は直轄植民地であり、上海ほか五港は南京条約(1842年)で獲得した租界(居留地)である。

 このポンチ絵には妙に納得力があり、これを文字史料で裏付けようと思った。文字史料のなかで経年的にほぼ同一基準の史料と言えば貿易統計である。これはイギリス議会文書(British Parliamentary Papers、略称BPP) のなかにある。政府が議会に提出した資料であり、議院内閣制の国ではとくに信頼性が高い。

 この貿易統計を集中的に精査し、まず貿易の骨格から突き止める。17世紀に始まる中国産紅茶のイギリスへの輸入急増の実態を把握すれば、これを突破口として、イギリスを中心とする世界貿易の全体像が描けるのではないか。(続く) 

船医、この10年

 我らの「清談会」は、2005(平成17)年に始まり、夏と冬の年2回、定例会を重ねて来た。メンバーは横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った異分野の学者たち。今日まで続いたのは、発起人で「清談会」の命名者、そして粛々と幹事をつとめてきた小島謙一さんのおかげである。

 この23回目が2016(平成28)年12月27日(火曜)、新高輪プリンスの古稀殿(中華料理)で開かれ、最初に穂坂正彦さんと私の80歳(傘寿)を祝ってくれた。穂坂さんは1936(昭和11)年1月生まれ、同年12月生まれの私の実質1年先輩である。

 今回の話題提供者は穂坂さん(医学)。市大医学部教授(泌尿器学)を退任後に就いた船医(シップ・ドクター)の体験を淡々と語った。聞き手は、年令順に丸山英氣さん(法律学)、小島さん(物理学)、浅島誠さん(生物学)、そして私(歴史学)の4名。

 穂坂さんは海が大好きなうえ、9歳先輩の市大名誉教授・西丸與一さん(法医学、『法医学教室の午後』の著者)から大きな影響を受けたと思われる。西丸さんは、市大退職後、1998年4月就航の「ぱしふぃっくびいなす」号(Pacific Venus、日本クルーズ客船社)の初代船医となった。

 以下の記述の大半は、穂坂さんの詳細な配布資料に基づく。

 穂坂さんが船医をつとめた「ぱしふぃっくびいなす」号は、総トン数:26,518トン、旅客定員:644名、乗務員数220名、客室数:283。長さ:183.4m、幅:25.0m、高さ:12階。104日間の世界一周クルーズのほか、日本近海やアジア・インド洋クルーズ、オーストラリア・ニュージーランドクルーズ等を実施している。なお世界を一周する客船は世界に10艘あり、その専属船医は30~40名で、きわめて稀有な職業だという。

 本船の船医は原則1名、看護師2名の態勢で、旅客と乗務員、最大864人の総合医療を担う途方もない重責である。乗船期間中、休まる日は1日たりともない。

 船医の業務は、(1)総合医療、(2)メンタルヘルスケア、(3)感染症の予防、(4)検疫・死亡者対応、(5)医療外業務に分かれるという。

 うち(1)総合医療では全診療科の治療と外科的処置、救急蘇生等を行う。診療所(病室2、ベッド数3床)は、全診療科の薬剤を揃えている。重症者や専門医を必要とする患者には寄港地で同伴し、現地の医師と対応を決める。

 (2)メンタルヘルスケアでは、様々な精神疾患の治療に当たる。特に乗務員は狭い空間で土日祝日もなく、長期間、変化のないメンバーと共に仕事をするため、よほど人間関係が円滑でなければ耐えられない。薬物・アルコール依存症、うつ病、統合失調症等の発症率も高い。船からの投身自殺にも遭遇した。

 (3)旅行者感染症は、マラリア、エボラ熱、ジカ熱、マースほか多くあり、CDC(Centers for Disease Control and Prevention)からリアルタイムの情報を得て、疾患の説明、予防対策を船客、乗務員に周知する。

 (4)検疫・死亡者対応とは、入国検疫、死亡者検疫・遺体搬送手続等。

 (5)医療外業務では、トップ4役(船長、機関長、ホテルマネージャー、船医)の一人として船客の送迎、パーティーや催事での挨拶・接遇、洋上スクール校長、運動会PTA会長、ドクタートーク等に出る。社交性も必要であろう。

 穂坂さんの強靭な精神と肉体、そして人々に貢献する真摯な態度は、市大で苦労をともにした時から熟知している。彼は1995~1999年に医学部長を、私も1995~98年に国際文化学部長ついで1998~2002年に学長をつとめ、ともに力を合わせて医学部・病院改革に邁進した。

 若き日に総合医を志しつつ、一流の泌尿器学専門医となった後、2001年、65歳にして全診療科を担う船医に就任、ついで70歳(古稀)から80歳(傘寿)まで10年連続の勤務を完遂した。これだけの激務、これほど広範な業務を、一人でよく乗り越えたものだと感服する。

 適切な判断で一命を救われた患者からの感謝、そして末期の患者を見守った穂坂さんの印象を、一例ずつ挙げたい。

 突然の胸痛で倒れた女性(52歳)。狭心症の所見で直ちに投薬するも船は大西洋の真ん中。次の寄港地の医師とともに帰国を説得、患者は紹介状を持って渋々帰国した。後に次のような趣旨のメールが届く。「ご紹介いただいたS医大を受診した。即入院、絶対安静で、血管を広げる手術を受け、おかげで元気を取り戻した。せっかく先生に助けていただいた命、体力の回復に努め、また何時か、船上でお会いできる日を楽しみにしている。」

 もう1つが、直腸癌で手術不能、腸管浸潤、リンパ腺・肝・脾臓転移、人工肛門設置という末期癌の女性(52歳)である。高熱を出し、転移巣の細菌感染と診断。抗生物質の点滴で3日後に解熱。その後は寄港地で観光を楽しむ。船内では喜々として盆踊りに興じた。余命3ヶ月。

 穂坂さんは、精神科医エリザベス・キューブラ=ロスの『死ぬ瞬間』(On Death and Dying、1969年)を思い出す。告知から衝撃・否認・怒り・取引・抑鬱・受容を経て、患者は穏やかに尊厳を保ち、死を迎える。

 死を受容し、残された時間を精一杯生きている、この人の姿に穂坂さんは胸を打たれた。

 話し終え、穂坂さんは言う。「これで医療活動から引退する」。私は驚いて言った。「こんなに貴重な経験は、医療行為を通じて若い医師たちに伝えるべきだ」。「医療知識は日々進化して、ついていけない」と穂坂さん。小島さんがすかさず入る。「知識と知恵は別物です」。この名言に穂坂さんはゆっくり頷いた。

 この日、清談会の解散は、いつもより少し遅くなった。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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