緩和ケアと友情
横浜市立大学(以下、市大)文理学部人文課程東洋史の1985(昭和60)年前後の卒業生は仲が良く、卒業後30年余を経ても集まることが多い。教員にも声がかかる。連絡係を買っているのが西野均君(1988年卒業、横浜市職員、いまは市大附属病院勤務)で、彼の地道な努力が友情の輪をつないでいるようだ。
先月11月18日(金曜)の朝、西野からメール連絡が入った。
「昨夜、三田登美子さんから連絡をいただき、西川亘さんが入院中であり、東洋史関係の諸先輩方への連絡を依頼されました。西川さんは、胃がんを患い療養中のところ、先日、強い痙攣発作を発症し、救急入院となり、検査所見から、脳への転移が疑われ、症状が芳しくないとのことです。」
私はもどかしい思いで返信した。「連絡、ありがとう。2年前に中華街でみなにお会いしたとき、大腸癌の経験者として私は<毎年、定期健診だけはやっておけ>と強く言い、癌に対しては<早期発見ソク治療しかない。検査技術は格段に進歩している>と口を酸っぱくして言ったのに、残念でならない。」
その日の夕方、埼玉県の病院を尋ねた。私は10年前に受けた大腸癌手術に至るまでの不安な日々に、最近逝去したイギリス人の友人の「緩和ケア」の経過が重なり、動顛する気持ちを押さえて、ベッドに仰臥した西川と対面した。その報告を、西野へ以下のメールで伝える。
「西川君を病院に見舞い、いま帰宅しました。彼はしっかりとした口調で、<癌が頭に転移し、終末期治療に入っている。先ほど放射線治療を受けてきた…>というので、思い切って<…これから緩和ケアに入るから、健常者には分からない格闘が始まる。もし嫌でなければ言い残しておきたいことをICレコーダーに吹きこんだらどうか>と勧めると、彼は<…そうですね。吹き込んでみたい>と前向きな声が聞かれた。…<緩和ケア>については、つい最近、旧知のイギリス人の経験があります。下記の私のブログの数回前、10月21日掲載「ディリアの逝去を悼む」に書いたのでご覧ください。私からのこの返信をみなさんへ転送してください。」
1時間もしないうちに西野からメールが来た。
「早々にお見舞いに行っていただき、ありがとうございました。<もう面会者と話もできない状況かも知れないから、皆で見舞いに行くのは、西川さんの負担になる>と言われたので、かなり心配していましたが、先生のメールを拝見して、少し気持ちが楽になりました。先生のメールは諸先輩方へ転送させていただきます。…」
その後、気にしつつ、2度目の見舞いに行けないまま日が過ぎた。12月22日昼、西野から西川の訃報が届いた。見舞いに行った日から33日目である。
「…西川亘様におかれましては、2016年12月21日、ご逝去されました。…西川さんの生前のご意志により、通夜、告別式は行われませんが、ご出棺前に最後のお別れの場を設けていただきましたので、ご参列お願い申し上げます。…ご家族(弟様)からお預かりしたPDFファイルを添付いたしましたので、そちらもご覧ください。」
24日(土曜)、斎場に着くと同級生や前後の卒業生たち、それに初めて会う方々が多数集まっていた。奥に安置された西川の遺体に合掌。享年55。穏やかな表情に安堵する。
弟の次郎さんが「…先生が見舞いに来てくださってから、兄は急に前向きに闘病生活を始めました…」と言う。あのとき話した「…記録を残さないか…」の勧めは西川に良かったのか、不安があった。「…これが兄の書き残したものです…録音する代わりに自分で書きました」とノートを見せてくれた。
几帳面な字でびっしり書いている。あの状況で、ここまで大量に書くことができるものか。最初が2016.11.19の日付(私が見舞っ た翌日)。冒頭に「これは、私こと西川亘の終末闘病日記となる。<闘病>というよりは、緩和Careの中で、<生>に関して気付いた見解を綴っておこうという方を主眼としたい…」とある。その気概と整然とした文章に驚嘆した。
1行空けて、癌の告知からの経過を淡々と綴る。「昨年11月に体調の悪さを自覚して医師の診断を受けると、薄々予期していた通り、胃癌と診断。胃カメラ映像を見ると、もう相当進行しているのが素人眼にも瞭然。既に肝臓にも多数転移。手術はできないとの主治医の言葉。ステージは幾つくらいか、怖くて尋ねることもできなかったが、既に末期段階であったものと後推量する。」
その約1年後の2016年11月9日、「未明に目が覚めると左手首に痙攣を覚え、独り身では携帯電話での連絡もつけようがないと気づき、この11月9日が、私の第二の人生の初日なのだ…何とか発作が一時収まり、救急車を呼び…16日からガンマーナイフ(放射線照射治療)を行い、知人にもメール連絡を行う。」と記す。
「18日…、病室の外の廊下に加藤祐三教授の姿が。僕は40年(ママ)も前の教え子だ。…言い残しておきたいことを記せとの有益な提言を戴いた。」とある。
次ページから最終ページの12月18日(逝去の3日前)に至るまで、見舞いに訪れた多数の友人たちの名前と会話や印象を綿密に記す。学生時代の友人のみならず、俳優(『日本タレント名鑑』にあり、舞台・映画・テレビ等に芸歴を持つ)として共に活躍した人、会社勤務時代の人も含まれるようである。なんと多彩で豊かな交友か。
このノートは、人生の最後を濃密に生きた命の記録、死を目前に、生きる今を書いた、かけがえのない記録である。彼の卒業論文「アジア主義者の転向-橘樸の場合をめぐって」(『横浜市立大学学生論集』1986年号に掲載)にも劣らぬ立派な存在証明である。
先月11月18日(金曜)の朝、西野からメール連絡が入った。
「昨夜、三田登美子さんから連絡をいただき、西川亘さんが入院中であり、東洋史関係の諸先輩方への連絡を依頼されました。西川さんは、胃がんを患い療養中のところ、先日、強い痙攣発作を発症し、救急入院となり、検査所見から、脳への転移が疑われ、症状が芳しくないとのことです。」
私はもどかしい思いで返信した。「連絡、ありがとう。2年前に中華街でみなにお会いしたとき、大腸癌の経験者として私は<毎年、定期健診だけはやっておけ>と強く言い、癌に対しては<早期発見ソク治療しかない。検査技術は格段に進歩している>と口を酸っぱくして言ったのに、残念でならない。」
その日の夕方、埼玉県の病院を尋ねた。私は10年前に受けた大腸癌手術に至るまでの不安な日々に、最近逝去したイギリス人の友人の「緩和ケア」の経過が重なり、動顛する気持ちを押さえて、ベッドに仰臥した西川と対面した。その報告を、西野へ以下のメールで伝える。
「西川君を病院に見舞い、いま帰宅しました。彼はしっかりとした口調で、<癌が頭に転移し、終末期治療に入っている。先ほど放射線治療を受けてきた…>というので、思い切って<…これから緩和ケアに入るから、健常者には分からない格闘が始まる。もし嫌でなければ言い残しておきたいことをICレコーダーに吹きこんだらどうか>と勧めると、彼は<…そうですね。吹き込んでみたい>と前向きな声が聞かれた。…<緩和ケア>については、つい最近、旧知のイギリス人の経験があります。下記の私のブログの数回前、10月21日掲載「ディリアの逝去を悼む」に書いたのでご覧ください。私からのこの返信をみなさんへ転送してください。」
1時間もしないうちに西野からメールが来た。
「早々にお見舞いに行っていただき、ありがとうございました。<もう面会者と話もできない状況かも知れないから、皆で見舞いに行くのは、西川さんの負担になる>と言われたので、かなり心配していましたが、先生のメールを拝見して、少し気持ちが楽になりました。先生のメールは諸先輩方へ転送させていただきます。…」
その後、気にしつつ、2度目の見舞いに行けないまま日が過ぎた。12月22日昼、西野から西川の訃報が届いた。見舞いに行った日から33日目である。
「…西川亘様におかれましては、2016年12月21日、ご逝去されました。…西川さんの生前のご意志により、通夜、告別式は行われませんが、ご出棺前に最後のお別れの場を設けていただきましたので、ご参列お願い申し上げます。…ご家族(弟様)からお預かりしたPDFファイルを添付いたしましたので、そちらもご覧ください。」
24日(土曜)、斎場に着くと同級生や前後の卒業生たち、それに初めて会う方々が多数集まっていた。奥に安置された西川の遺体に合掌。享年55。穏やかな表情に安堵する。
弟の次郎さんが「…先生が見舞いに来てくださってから、兄は急に前向きに闘病生活を始めました…」と言う。あのとき話した「…記録を残さないか…」の勧めは西川に良かったのか、不安があった。「…これが兄の書き残したものです…録音する代わりに自分で書きました」とノートを見せてくれた。
几帳面な字でびっしり書いている。あの状況で、ここまで大量に書くことができるものか。最初が2016.11.19の日付(私が見舞っ た翌日)。冒頭に「これは、私こと西川亘の終末闘病日記となる。<闘病>というよりは、緩和Careの中で、<生>に関して気付いた見解を綴っておこうという方を主眼としたい…」とある。その気概と整然とした文章に驚嘆した。
1行空けて、癌の告知からの経過を淡々と綴る。「昨年11月に体調の悪さを自覚して医師の診断を受けると、薄々予期していた通り、胃癌と診断。胃カメラ映像を見ると、もう相当進行しているのが素人眼にも瞭然。既に肝臓にも多数転移。手術はできないとの主治医の言葉。ステージは幾つくらいか、怖くて尋ねることもできなかったが、既に末期段階であったものと後推量する。」
その約1年後の2016年11月9日、「未明に目が覚めると左手首に痙攣を覚え、独り身では携帯電話での連絡もつけようがないと気づき、この11月9日が、私の第二の人生の初日なのだ…何とか発作が一時収まり、救急車を呼び…16日からガンマーナイフ(放射線照射治療)を行い、知人にもメール連絡を行う。」と記す。
「18日…、病室の外の廊下に加藤祐三教授の姿が。僕は40年(ママ)も前の教え子だ。…言い残しておきたいことを記せとの有益な提言を戴いた。」とある。
次ページから最終ページの12月18日(逝去の3日前)に至るまで、見舞いに訪れた多数の友人たちの名前と会話や印象を綿密に記す。学生時代の友人のみならず、俳優(『日本タレント名鑑』にあり、舞台・映画・テレビ等に芸歴を持つ)として共に活躍した人、会社勤務時代の人も含まれるようである。なんと多彩で豊かな交友か。
このノートは、人生の最後を濃密に生きた命の記録、死を目前に、生きる今を書いた、かけがえのない記録である。彼の卒業論文「アジア主義者の転向-橘樸の場合をめぐって」(『横浜市立大学学生論集』1986年号に掲載)にも劣らぬ立派な存在証明である。
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