高校同期会の解散

 45年もつづいた高校時代の同期会「くぬぎの会」が、10月吉日、幕を閉じた。新宿歌舞伎町の日本料理・車屋本店を会場とし、きっぱりと解散した。45年間、一貫して幹事(長)を引き受けたのが勝田賢である。

 勝田が「80歳が会の終わり」と決め、毎年1回、そのつど場所を変え、ここまでがんばって来た。80歳が限度というのは、勝田の人生哲学からくる断固たる方針であろう。

 我らが都立武蔵丘高校の所在地は中野区上鷺宮、西武新宿線鷺宮駅と西武池袋線富士見台駅から麦畑や新興住宅の間を歩いて10分ほどのところにあった(いまも同じ場所)。戦中の1941年創設の旧制東京府立21中学校が前身で、1950年に東京都立武蔵丘高等学校となる。男女共学だが、1学年に6組、そのうち共学組は4組、全体としては男子が多く、男子は互いに呼びつけ、女子には「さん」をつけて呼んできた。

 私は隣の練馬区在住で近所に学友がおらず、素足に朴歯の髙下駄、破れ学帽をかぶり、旧制高校生の真似をしてデカンショ(哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエル。兵庫県篠山市のデカンショ節をもじったとも)を気取り、少し暗い顔をして徒歩通学していた。

 木曜が休日(かわりに土曜が全日)の高校だったため、その日になると奥多摩や武甲山等、日帰りできる山によく独りで登った。週に2日は練馬警察署近くの柔道場に通い、帰りは古本屋に入り浸った。

 卒業してから20年、勝田と吉田(旧姓安永)寛子さんが偶然街で出会う。そろそろ同期会をということになったのが始まりである。二人は1年生で同じだった共学クラス1400を中心に約40名に連絡をつけ、「1400の会」としたが、噂を聞きつけ他のクラスからも参加があり、「くぬぎの会」と改名した。校庭に聳えていたクヌギ(櫟)が由来である。

 この縁で勝田を中心に、吉田さん、浜田(旧姓松本)邦子さんが長く幹事を務め、それをずっと応援してきたのが今西久雄、佐久間正勝たちらしい。年1回の会合にとどまらず、有志だけで各地を旅した時期もあったらしい。

 「らしい」と曖昧なのは、私自身はほとんど顔を出せず、この数回だけ欠かさず来ているに過ぎないからである。顔と名前が一致する友人も多いとは言えない。したがって、45年間の活動を語る資格はまったくない。だが最終回だけはぜひ書き残しておきたかった。不明な点については、勝田と今西に問い合わせた。

 大方の同窓会、同期会、クラス会は、いわば公的な存在で、学校の名簿を基に卒業生全員に広く呼び掛けて結成され、同期会は同窓会の支部のような扱い、クラス会はそのなかの任意団体と扱われることが多い。私の中学(学芸大学附属大泉中学校)の同期会もそうである。

 だが我らが「くぬぎの会」は個人の偶然の再会に始まり、自主的に集まって45年もつづいた。6組もあった同学年約250人のうちの「少数精鋭」。強い結束力がある。

 会員数は年々減っている。去年までの物故者は男子7名、女子2名。今回の案内には2016(平成28)年7月1日現在、男子20名、女子18名、計38名の名簿が同封されていた。30名が参加の返事だったが、体調不良等のキャンセルがあり、結局、男子12名、女子13名が顔を揃えた。約65%と高い出席率である。

 孫は大きくなってしまい、親の介護もほぼ終わり、話題は健康や趣味に集まる。杖を片手に「転ばぬ先の杖」と意気軒高な友。70歳を過ぎてもヒマヤラ登山をしていたが、今は手術後のリハビリに励む友。週2回の透析に通い、テニスを断念した友。目の網膜から水晶体まで広く罹病し、再手術に備える日本画家は、いまなお心眼で描いている。

 また夫に先立たれたが、外出を心がけ、ダンスのレッスンは週2回、食事に気を配る、旬のモノを料理して食べる等々の、女子たちの賑やかな声も。

 勝田はよく通る声で場を引っ張り、驚くほど元気である。今西はゴルフとテニスに興じ、他にも壮大な計画を練っている。菅原は焼き物に凝り個展を開く。

 最後の締めは校歌斉唱。用意してきた楽譜が配られた。勝承夫作詞、安倍幸明作曲の校歌は3番まであるが、私は下記の2番が好きである。

 鳥のゆくへは 秩父か富士か
 空を仰げば 心はをどる
 髙き文化を 目ざして進む
 純情の道 自治の学舎
  おお 誇あり わが母校

 なお3番に、「芽ぶく銀杏に 希望を語り 秋は櫟の林に憩う」とあるが、私の心にある櫟は秋の櫟ではなく、青々と茂る真夏の櫟である。胸中で叫ぶ。「この勢いのある真夏の櫟のままで、45年の幕を下ろす!」

 会の余韻を味わううち、勝田の思いに自分の思いが重なる。

 終わりがなければ始まりはない。

 第二幕はどう展開するだろうか。
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ディリアの逝去を悼む

 2016年4月15日の晩、「ディリアの容態」と題する突然のメールが夫のオーウェン・ウェルズさんから届いた。短い近況報告だったが、ディリアに対する深い愛を感じた。

 「ディリアは4年間にわたり癌の緩和ケア(palliative treatment)を受けてきました。この処置は癌の進行を遅らせ痛みを和らげるものですが、それが効かなくなる時期が迫っています。誰にもわからぬことながら、あと数か月が限度かと思われます。困難な日々ですが、我々は明るさを失わず、できるかぎり心を強く持っていきたいと思います」

 150余名に送信されたメールアドレスには、子どもたちルーシー、ギャラス、シーアン、姉のアンナ・ダヴン、リーズ大学のドン・レミントン、そしてビル・ジェンナーやアンディ・モーガン等、懐かしい名前が並ぶ。

 ディリア・ダヴンと出会ったのは46年前の1970年、私が東京大学東洋文化研究所の助手をしていたときである。研究所の図書室で、傍に幼児を寝かせ、資料を読んでいた。私にも2歳の娘がおり、思わず声をかけた。娘のルーシーはまだ7カ月くらいだったか。育児と研究を両立させるのは大変だったろう。週末には拙宅に泊まりに来て英気を養い、ルーシーは娘のお下がりを着ていた。

 8年後の1978年、「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマとし(文部省在外研究の助成)、今度は私が家族をつれてイギリスへ行くことになった。ディリアは中国現代史(婦人問題)を専攻し、大学では経済史を教えていた。彼女の住んでいるイングランド北部のリーズ市には、中国・モンゴル研究のセンターでもあるリーズ大学があり、ディリアに連絡をとった。当時はまだメールという便利なものはなく、航空便である。

 すぐに返事があり、リーズ市はロンドンより住みやすく、また大学図書館には貿易統計や議会文書、雑誌・新聞のバックナンバーも多い上に、中国研究学部には多くの専門家が揃っている、と。

 その頃のディリアについて書いたものが残っている。「(…ロンドンからの特急でリーズ駅に着くと)ディリア一家が出迎えにきている。東京に来ていた時のディリアとちっとも変わっていない。二人目の子供を産んだばかりなのに、昔ながらの力持ちで、大きな荷物を平気で運ぶ。大学の教壇に立つときは、おそらく別の顔をするのだろう。翌日になって、銀行で通帳をつくり、警察で外人登録をするときはついてきてくれ…」(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書 1980年)

 彼女の家には同居の準備ができていた。教会のバザーで当座の生活用品を揃える手を教えてくれ、娘はルーシーと同じバレー教室に通った。我々が新しい土地に早々と定着できたのはディリアのおかげである。やがて我々は郊外のリーズ6区バートン・クレセントにフラットを借りて「独立」する。

 2004年、私の娘一家がロンドン勤務となり好機到来、会おうということになったが、こちらの急な事情で果たせなかった。

 2012年、ディリアの名前を日本で聞く。公立大学協会(全公立大学長が参加する大学団体)の秋の学長会議が静岡県立大学で開かれ、2日目の市内見学の折、バスで隣り合わせた代理出席の国際教養大学(秋田)副学長(学術担当)で日本文学専攻のマーク・ウィリアムズさんが、リーズ大学からの赴任と知る。そして彼のリーズ大学への採用時、その人事担当がディリアとドン・レミントンの2教授であったと聞いて吃驚した。

 そして4月15日のオーエンさんのメール。これに応えて多くの人からディリアとの思い出や写真が送信されて来た。18日にはフランク・ケールさんから写真提供の呼びかけがあり、それを受けてさらに写真やメールが集まった。私も彼女の東京滞在時の思い出を送った。

 それから半年後の10月13日(木曜)21:13、ディリア逝去のメール。英語とフランス語による以下の短文である。

ディリア・ダヴン(名誉)教授  1944年6月9日-2016年10月13日
ディリアは、自宅にて家族に囲まれ、安らかに眠りました。
葬儀につきましては、準備が整い次第、お知らせいたします。
下記の方々に感謝の意を表したく存じます。ディリアに尽くしてくださったNHA(国民健康機関)のみなさま、とくにアラン・アンソニー医師、グレーム・サマー医師(腫瘍専門医)、GP(年金担当)、そして素晴らしい地域看護師チームのみなさま、ありがとうございました。

 つづけて葬儀に関する通知が来た。10月25日、式場はリーズ6区のHeadingley New Social Club。ドレスコードは「喪服に拘らず色とりどりのお好みの服装で」、また会場については「ディリアの生前の希望に添い、教会ではなく地域交流館で行い、そこでお別れをし、どなたも火葬場にはお出でいただきませぬよう。みなさま方におかれましては、葬儀の後にご会食いただき、ディリアに別れの言葉をおかけください」と結ばれていた。享年72。彼女らしい遺言である。

 この地域交流館は我々の住んだフラットのごく近くと分かり、また驚かされた。

 胸に迫るものを抑えきれない。

 心からご冥福を祈る。
 

江戸散策

 北九州市立大学長の近藤倫明さんと初めてお会いしたのは、10年ほど前であったか、その頃は同大学の副学長で、「若きプリンス」の趣があった。学長に就任したのは2011年、今年度で6年の任期を満了する。
 
 公立大学協会(全公立大学長が会員、以下、公大協)の5月総会や秋の学長会議では、冗談を交えてよく歓談した。私は横浜市立大学長(1998~2002年)、公大協相談役、都留文科大学長(2010~2014年)、そして再び相談役に復帰して、毎回出席している。

 今年10月の学長会議は北九州市立大学で開催と決まり、再会を期していたが、所用で出席できなくなった。私の欠席は初めてで、お詫びもしたいと思い、「…貴学へ伺えない代わりに、大兄が東京に来られるさい、数時間、江戸をご案内します。…」とメールすると、二つ返事で「…江戸へのご招待ありがたくお受けしたく…」とあった。

近藤さんとは親子ほどの年齢差があるが、どこか波長が合う。心理学(認知科学、視知覚の研究)の研究者で、歴史学の私とは同じ人文科学という共通項もある。

 台風18号が沖縄(とくに久米島)を襲い、五島列島あたりを北上して速度を上げるという。飛行機が飛ばなければ断念するしかない。幸い直撃はなく、10月6日(木曜)の昼過ぎ、会議を終えた近藤さんと文部科学省東館の玄関前で会うことができた。
 
 10月というのに真夏日。太陽が照りつけ、案内先の変更も考えないではなかったが、「昼食は店が空く1時過ぎとし、まず江戸でいちばん高い場所へ」と、愛宕山(標高25.7メートル)の急階段を一気に登った。ここから江戸湾に入る舟が一望できる。舟はこれを航路の目印とした。1925年、電波を送る適地として東京放送(NHKの前身)が陣取る。
 
 愛宕山から西新橋へ向かい、かつて公大協が初代の事務所を置いた吉荒ビルを案内し、内堀通りの裏側の小路を抜けて、行きつけだった蕎麦屋をめざすが、再開発のため休業の張り紙。やむなく表通りに戻りステーキ屋を発見、これからの強行軍に備えて筋肉に栄養を補給した。
 
 暑さを避けて、再建なったイイノビル敷地内にある緑地帯のベンチに座り、水を噴霧する空冷装置の下で、CD-ROM『江戸東京重ね地図』(菁映社 2001年刊)のコピー6通分12枚を開く。これは高校時代の友人・今西久雄が大の池波正太郎ファンで、それが嵩じ通産省(当時)の助成事業を活用して作った勝れ物である。安政3(1856)年の江戸切り絵図と現在の地図を照合できる。

 中央省庁街の南端に文部科学省、ここは幕末には内藤能登守政義日南延岡藩七万石の所領(坪数も記載)、その東側に真田信濃守幸教十万石、北の外務省は筑前福岡藩松平美濃守(黒田)五二万石、新丸ビル一帯は老中備後福山藩阿部伊勢守正弘十一万石(以上はいずれも上屋敷)等と、一目瞭然である。

 これからの行程を確認すると、話題は<オートファジー>でノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典さんに及ぶ。生命活動の基本を解明した自食作用の理論の背後に「人間も自然や生命体の一つで、それに生かされている」という大隅さんの思いがある。近藤さんは「…140億個の脳細胞と60兆個もある全身の細胞数のうち、(心理学や認知科学)は140億に重点を置きすぎ、60兆を忘れていたのではないか…」と言う。
 
 日比谷公園野外音楽堂の脇を通り、図書館と日比谷公会堂を右手に松本楼の脇を抜け、私の一番好きな場所のテニスコートへ。このあたりも広い大名屋敷の跡で、長門萩藩松平大膳大夫(毛利)三十七万石と肥前佐賀藩松平肥前守直正(鍋島)三十五万石等の領地。そして公園を出てからは桜田門や警視庁を左手にして進む。右側には、よく手入れされた松林(皇居前広場)の先に、日比谷-丸の内-東京駅前-大手町とつづく高層ビル群が聳える。

 二重橋前を抜け、いよいよ大手門から皇居東御苑に入る。ここが江戸城の本丸である。両側に樹木、中央に芝生の広場。この大奥一帯の奥(北)に天守閣があったが、明暦の大火(1657年)で焼け落ち、わずか19年間の生命を終えた。その天守台が巨大な石組に支えられて現存する。
 
 明暦の大火の火元は本郷丸山(文京区)の本妙寺等の説があるが、冬の北風にあおられて炎は江戸城や深川の芭蕉庵あたりまで及び、3万とも10万とも言われる多数の死者を出した。だが、その復興過程で江戸は急膨張、全国から人々が流入し、人口はやがて100万人を数え(1800年頃)、ロンドン・北京と並ぶ「世界繁盛の三都」の1つとなった。

 歴史認識は時空を超えても、「世代差は超えられない?」。18歳で入学する学生と教職員との年齢差(最長で約50歳)・体験差による価値観の相違、教職員間の同じ問題に大学は追いついていないのではと言うと、近藤さんは現役学長らしく、「それを新しい社会人大学(学部)の構想として煮詰めているところです。…<多世代共学>による新たな<知の展開>…」と心強い答えが返ってきた。

 北桔橋門から出て右折すると、いつものように皇居周走(1周5キロ)のランナーたちに出会う。桜田門近くの広場を出発し、反時計回りで走る。そのいくつかの理由から、近藤さんの一説。対象を見る時、眼球は左下から右上へ動く(グランスカーブ)ため、反時計周りでは常に堀や城が見え、逆だと流れる車列しか目に入らない、と。なるほど!

 神保町の古書店街を回り、ウィンドーの奥に掛かる大きな古地図で、江戸が「の」の字を描く(時計回り)ように造られた街であることを再確認。居酒屋で乾いた喉を潤し、尽きぬ議論を次に残して解散した。スマホの歩数計には15000余とあり、距離にして14キロほど、7時間の楽しい道行であった。

三溪と横浜-その活躍の舞台

 平成28年度原三溪顕彰講演会(「原三溪・柳津(やないづ)文化の里構想実行委員会」と岐阜市教育委員会の共催)が、9月25日、岐阜市のメディアコスモス・みんなのギャラリーで開かれ、講演「三溪と横浜-その活躍の舞台」を行う機会をいただいた。

 「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」(以下、委員会とする)とは、原三溪出生地の柳津を文化の里とすべく、廣瀬曻さん(岐阜市に合併される直前までの柳津町長)を会長に、尾関孝彦さん、青木平七郎さん、友田靖雄さん、林憲和さんを副会長、市川春雄さんを事務局長とする組織である。今回は委員会創立から5年となる記念と、『青木富太郎(原三溪)公私日記帳 解読版』の刊行(文化庁補助事業)を祝うものであった。

 委員会主催の講演会は平成24年に始まり、丸山幸太郎(岐阜女子大学)「原三溪の生涯と生き方」、同「原三溪 その美の追求」、川幡留司(三溪園)「三溪翁 故郷への篤き思い」、猿渡紀代子(横浜美術館)「原三溪と美術」、清水緑(三溪園)「原三溪と近代美術家支援」と5回つづいて(いずれも会場は柳津公民館)、今回の会場は岐阜市の中心部に移り、活動が市域全体に拡がったことを示す。

 講演の冒頭で聴衆のみなさんに尋ねた。「これまでの講演会を聴かれた方は?」にはパラパラと手が挙がる程度であったが、「三溪園へ行かれた方は?」には200余名の参加者のうちなんと8割以上の挙手があった。岐阜出身の原三溪(青木富太郎、1868~1939年)が創生した三溪園が、いまいっそう強い支持を受けている。これも委員会の5年にわたる活動の成果であろう。

 三溪の生まれ育ちについては地元の方々が詳しいと思い、三溪が活躍の舞台とした都市横浜をタテ糸に、そして三溪の活躍(主に三溪園の創生、原合名会社の経営)をヨコ糸に話をした。配布資料の講演要旨「三溪と横浜-その活躍の舞台」に次の3つの論点を示し、「略年表」で補足した。時間の都合から講演で省略した何点かを補足して述べたい。

 1 横浜都市化の起源は条約にあり
 2 幕府主導のインフラ整備とその後の横浜の発展
 3 三溪園の創生と原合名会社

 横浜という都市は誰でも知っているようでいて、実は意外に知られていない。そこで拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)等を基に、当時の図像を放映して都市横浜の起源と都市の特性(1と2)を語った。①平城京の誕生は約1300年前、平安京は1200年前、鎌倉は800年前、江戸は400年前。それに比べ横浜はきわめて若い都市である。②150余年前、日米和親条約(1854年)が幕府とペリーの間で締結されたのが横浜村(神奈川宿から約4キロの半農半漁の村)で、これが横浜都市化の起源となる。

 そして③条約内容は(俗説に反して)日本にきわめて有利であり、④都市インフラ(横浜居留地、波止場、税関等)の整備は幕府が主導、ついで横浜市が継承発展させた。⑤この状況下で生糸が最大の輸出品となり、開港直後に「関内」の「横浜居留地」で生糸売込商となった原善三郎(亀屋、原商店)らが活躍する。⑥「居留地貿易」(貿易業務を居留地内部の取引に限定)は日本の市場開放を段階的に進める形態となる。⑦条約締結時には想定されなかった生糸輸出が国際市場の動向により急増、横浜の都市化に拍車をかけた。なお拙稿「横浜か、神奈川か」(『横濱』誌連載、「横浜の夜明け」8、2008年10月号)や本ブログ「20世紀初頭の横浜-(3)インフラ整備」(2015年11月11日掲載)等も参照されたい。

 若い都市横浜には全国から人が集まり、急激な人口増となった。横浜村の人口は500人弱、開港から30年後1889年の市政公布時に12万人、1901年の第1次市域拡張で30万人(三溪園のある本牧村等が中区に編入)となる。「三日住めば浜っ子」は、進取の気性に富む開放的な市民気質を表し、「三代住んで江戸っ子」と対比された。

 原商店(亀屋)は本町通り1丁目の町会所(現在の横浜市開港記念会館)に近く、日本大通りを挟んで、いちばん外国人居留地側にあった。青木富太郎(三溪)は岐阜から東京へ出て東京専門学校(早稲田大学)で学び、1891年、原善三郎の孫娘・屋寿と結婚、原家を継ぎ、開港横浜の第3世代をリードする。最初の仕事が横浜生糸売込問屋・原商店編『横浜生糸貿易十二年間概況』(明治27=1894年刊)で、1882(明治12)年から12年間の総括である。『明治三十一年横浜生糸貿易概況』(1899=明治32年刊)から編者名が原合名会社となる。

 「3 三溪園の創生と原合名会社」では、新しい美的空間の三溪園がどのように創られたかに焦点を絞り、原合名会社の活動にも触れた。文献史料が少なく設計図もなく、分かるのは古建築の移築や三溪による茶室の設計・建造の年だけである。そこで20年にわたる造園過程を3期に分け、創生される時々の姿を再現するという手法を採った。なお移築は1898(明治30)年の古社寺保存法(岡倉天心らが主導)の精神の体現でもある。

 第1期は、1902(明治35)年に鶴翔閣を建て野毛山から転居(三溪34歳)、山上にあった善三郎の別荘(松風閣)と中国風庭園に加え、外苑に渓流を通し、池を掘り、梅林を主とする植栽を進め、野趣溢れる庭園を1906年に三溪園として公開した(38歳)。翌年に東慶寺仏殿を移築、外苑を整備する。生糸輸出は好調で、1899年に原合名会社に改組、富岡製糸場の経営にも関わり(1902年~)、開港第3世代の代表として市内の世論形成にも関与した。

 第2期が1914(大正3)年の旧燈明時三重塔の移築(シンボルの設置)により外苑・内苑の一体化を模索し始めた時期(三溪46歳~)。三重塔は内苑・外苑の各所から見上げることができ、見る場所により異なる趣を呈する。これが次の内苑の創生に新たなヒントを与えたと思われる。この頃、第1次世界大戦の影響で経済全般が好況、三溪は市内政治から距離を置き(第3世代の交代)、三溪園創生と原合名会社の事業に打ち込んだ。

 第3期が1917(大正6)年の三溪の設計・建造による蓮華院の完成、臨春閣移築に始まる内苑の本格的造成の時期(三溪49歳~54歳)。のちに起こした実測図で判明したが、臨春閣の南面と三重塔を結ぶ線は直角に交わる。この第3屋(2階のある部分)あたりから遠望する、三重塔に中秋の名月がかかる瞬間は感動的である。

 さらにクロマツ、シバ、サクラ、モミジ、マキ、イチョウ、ササ、ツバキ、トベラ等の多種多彩な植栽や、石(踏石、手水鉢、石灯籠、石棺等)の位置を定め、1920(大正9)年の戦後恐慌にも工事は中断することなく、5年後の1922(大正11)年、聴秋閣の移築をもって内苑の完成を見る。短期に変動する生糸相場と格闘する一方、造園により不変の美を追究しつづけたのであろう。その翌年の1923(大正12)年、関東大震災に襲われる。三溪園も被害を受けるが、三溪は壊滅状態となった横浜の復興に奔走する。

 大震災から84年を経た2007(平成19)年、三溪園は名勝指定を受けた。その理由として「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」とある。

 講演の結びには、この世界に類のない宝、「近代の自然主義に基づく風景式庭園」を横浜の地に残した三溪の功績に心から感謝したい。この名勝は世界の財産であり、「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」、三溪園職員、同ボランティア、横浜で活動する「原三溪市民研究会」(発足して6年)のみなさんと相たずさえて、保存・継承に力を尽くしていきたい、と述べた。

 講演会の後、廣瀬さんの案内により、創立5周年記念、「公私日記帳(解読版)」刊行を祝う式典会場へ向かう。丸テーブルが10卓、同席の岐阜市教育長の早川三根夫さん、横浜の原三溪市民研究会会長の廣島亨さんと再会、挨拶に立つ方々や参加諸氏の熱気に圧倒された。廣瀬さんのご子息・修さん(岐阜県会議員)たち若手も参加しており、とても頼もしく思う。

 翌日は、尾関さんと市川さんの案内(運転手も兼ね)で、廣島さん、同じく原三溪市民研究会の速水美智子さん、野中宏泰さんの3人とともに、岐阜県歴史資料館の入江康太さんを訪ね、今回刊行された「公私日記帳」の原本等の貴重な資料を見る。この「公私日記帳 明治17年10月より」は、三溪の父・青木久衛が書いた1867年から1897年まで54冊の「諸事日記帳」のうちの1冊で、連合戸長となった多忙の父に代わり、17歳の長男・富太郎(三溪)が書いたもの。ほかに明治24年分収録の富太郎の結婚に関する久衛の記録、三溪の手紙2通、三溪園の絵はがき等の資料も見た。これら一次資料に関する論考を早く発表してほしいと入江さんに一同で要請、快諾を得る。

 ついで三溪ゆかりの水琴亭を訪ねてから、神戸町(ごうどちょう)へ移動、文人で画家の高橋杏村(1804~1868年、長女の琴が三溪の母親)の旧宅跡地と日吉神社の三重塔(幼少時の三溪が目に焼き付けたもの)、神護寺・善学院(杏村の墓碑、森林太郎撰の彰徳碑がある)を訪ねた。2年前、同じく尾関さんと市川さんの案内で三溪の生まれた柳津佐波(やないずさば)を訪ねており(本ブログ「原三溪の故郷」2014年10月22日)、おかげで岐阜時代の三溪がより明確になった。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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