高校同期会の解散
45年もつづいた高校時代の同期会「くぬぎの会」が、10月吉日、幕を閉じた。新宿歌舞伎町の日本料理・車屋本店を会場とし、きっぱりと解散した。45年間、一貫して幹事(長)を引き受けたのが勝田賢である。
勝田が「80歳が会の終わり」と決め、毎年1回、そのつど場所を変え、ここまでがんばって来た。80歳が限度というのは、勝田の人生哲学からくる断固たる方針であろう。
我らが都立武蔵丘高校の所在地は中野区上鷺宮、西武新宿線鷺宮駅と西武池袋線富士見台駅から麦畑や新興住宅の間を歩いて10分ほどのところにあった(いまも同じ場所)。戦中の1941年創設の旧制東京府立21中学校が前身で、1950年に東京都立武蔵丘高等学校となる。男女共学だが、1学年に6組、そのうち共学組は4組、全体としては男子が多く、男子は互いに呼びつけ、女子には「さん」をつけて呼んできた。
私は隣の練馬区在住で近所に学友がおらず、素足に朴歯の髙下駄、破れ学帽をかぶり、旧制高校生の真似をしてデカンショ(哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエル。兵庫県篠山市のデカンショ節をもじったとも)を気取り、少し暗い顔をして徒歩通学していた。
木曜が休日(かわりに土曜が全日)の高校だったため、その日になると奥多摩や武甲山等、日帰りできる山によく独りで登った。週に2日は練馬警察署近くの柔道場に通い、帰りは古本屋に入り浸った。
卒業してから20年、勝田と吉田(旧姓安永)寛子さんが偶然街で出会う。そろそろ同期会をということになったのが始まりである。二人は1年生で同じだった共学クラス1400を中心に約40名に連絡をつけ、「1400の会」としたが、噂を聞きつけ他のクラスからも参加があり、「くぬぎの会」と改名した。校庭に聳えていたクヌギ(櫟)が由来である。
この縁で勝田を中心に、吉田さん、浜田(旧姓松本)邦子さんが長く幹事を務め、それをずっと応援してきたのが今西久雄、佐久間正勝たちらしい。年1回の会合にとどまらず、有志だけで各地を旅した時期もあったらしい。
「らしい」と曖昧なのは、私自身はほとんど顔を出せず、この数回だけ欠かさず来ているに過ぎないからである。顔と名前が一致する友人も多いとは言えない。したがって、45年間の活動を語る資格はまったくない。だが最終回だけはぜひ書き残しておきたかった。不明な点については、勝田と今西に問い合わせた。
大方の同窓会、同期会、クラス会は、いわば公的な存在で、学校の名簿を基に卒業生全員に広く呼び掛けて結成され、同期会は同窓会の支部のような扱い、クラス会はそのなかの任意団体と扱われることが多い。私の中学(学芸大学附属大泉中学校)の同期会もそうである。
だが我らが「くぬぎの会」は個人の偶然の再会に始まり、自主的に集まって45年もつづいた。6組もあった同学年約250人のうちの「少数精鋭」。強い結束力がある。
会員数は年々減っている。去年までの物故者は男子7名、女子2名。今回の案内には2016(平成28)年7月1日現在、男子20名、女子18名、計38名の名簿が同封されていた。30名が参加の返事だったが、体調不良等のキャンセルがあり、結局、男子12名、女子13名が顔を揃えた。約65%と高い出席率である。
孫は大きくなってしまい、親の介護もほぼ終わり、話題は健康や趣味に集まる。杖を片手に「転ばぬ先の杖」と意気軒高な友。70歳を過ぎてもヒマヤラ登山をしていたが、今は手術後のリハビリに励む友。週2回の透析に通い、テニスを断念した友。目の網膜から水晶体まで広く罹病し、再手術に備える日本画家は、いまなお心眼で描いている。
また夫に先立たれたが、外出を心がけ、ダンスのレッスンは週2回、食事に気を配る、旬のモノを料理して食べる等々の、女子たちの賑やかな声も。
勝田はよく通る声で場を引っ張り、驚くほど元気である。今西はゴルフとテニスに興じ、他にも壮大な計画を練っている。菅原は焼き物に凝り個展を開く。
最後の締めは校歌斉唱。用意してきた楽譜が配られた。勝承夫作詞、安倍幸明作曲の校歌は3番まであるが、私は下記の2番が好きである。
鳥のゆくへは 秩父か富士か
空を仰げば 心はをどる
髙き文化を 目ざして進む
純情の道 自治の学舎
おお 誇あり わが母校
なお3番に、「芽ぶく銀杏に 希望を語り 秋は櫟の林に憩う」とあるが、私の心にある櫟は秋の櫟ではなく、青々と茂る真夏の櫟である。胸中で叫ぶ。「この勢いのある真夏の櫟のままで、45年の幕を下ろす!」
会の余韻を味わううち、勝田の思いに自分の思いが重なる。
終わりがなければ始まりはない。
第二幕はどう展開するだろうか。
勝田が「80歳が会の終わり」と決め、毎年1回、そのつど場所を変え、ここまでがんばって来た。80歳が限度というのは、勝田の人生哲学からくる断固たる方針であろう。
我らが都立武蔵丘高校の所在地は中野区上鷺宮、西武新宿線鷺宮駅と西武池袋線富士見台駅から麦畑や新興住宅の間を歩いて10分ほどのところにあった(いまも同じ場所)。戦中の1941年創設の旧制東京府立21中学校が前身で、1950年に東京都立武蔵丘高等学校となる。男女共学だが、1学年に6組、そのうち共学組は4組、全体としては男子が多く、男子は互いに呼びつけ、女子には「さん」をつけて呼んできた。
私は隣の練馬区在住で近所に学友がおらず、素足に朴歯の髙下駄、破れ学帽をかぶり、旧制高校生の真似をしてデカンショ(哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエル。兵庫県篠山市のデカンショ節をもじったとも)を気取り、少し暗い顔をして徒歩通学していた。
木曜が休日(かわりに土曜が全日)の高校だったため、その日になると奥多摩や武甲山等、日帰りできる山によく独りで登った。週に2日は練馬警察署近くの柔道場に通い、帰りは古本屋に入り浸った。
卒業してから20年、勝田と吉田(旧姓安永)寛子さんが偶然街で出会う。そろそろ同期会をということになったのが始まりである。二人は1年生で同じだった共学クラス1400を中心に約40名に連絡をつけ、「1400の会」としたが、噂を聞きつけ他のクラスからも参加があり、「くぬぎの会」と改名した。校庭に聳えていたクヌギ(櫟)が由来である。
この縁で勝田を中心に、吉田さん、浜田(旧姓松本)邦子さんが長く幹事を務め、それをずっと応援してきたのが今西久雄、佐久間正勝たちらしい。年1回の会合にとどまらず、有志だけで各地を旅した時期もあったらしい。
「らしい」と曖昧なのは、私自身はほとんど顔を出せず、この数回だけ欠かさず来ているに過ぎないからである。顔と名前が一致する友人も多いとは言えない。したがって、45年間の活動を語る資格はまったくない。だが最終回だけはぜひ書き残しておきたかった。不明な点については、勝田と今西に問い合わせた。
大方の同窓会、同期会、クラス会は、いわば公的な存在で、学校の名簿を基に卒業生全員に広く呼び掛けて結成され、同期会は同窓会の支部のような扱い、クラス会はそのなかの任意団体と扱われることが多い。私の中学(学芸大学附属大泉中学校)の同期会もそうである。
だが我らが「くぬぎの会」は個人の偶然の再会に始まり、自主的に集まって45年もつづいた。6組もあった同学年約250人のうちの「少数精鋭」。強い結束力がある。
会員数は年々減っている。去年までの物故者は男子7名、女子2名。今回の案内には2016(平成28)年7月1日現在、男子20名、女子18名、計38名の名簿が同封されていた。30名が参加の返事だったが、体調不良等のキャンセルがあり、結局、男子12名、女子13名が顔を揃えた。約65%と高い出席率である。
孫は大きくなってしまい、親の介護もほぼ終わり、話題は健康や趣味に集まる。杖を片手に「転ばぬ先の杖」と意気軒高な友。70歳を過ぎてもヒマヤラ登山をしていたが、今は手術後のリハビリに励む友。週2回の透析に通い、テニスを断念した友。目の網膜から水晶体まで広く罹病し、再手術に備える日本画家は、いまなお心眼で描いている。
また夫に先立たれたが、外出を心がけ、ダンスのレッスンは週2回、食事に気を配る、旬のモノを料理して食べる等々の、女子たちの賑やかな声も。
勝田はよく通る声で場を引っ張り、驚くほど元気である。今西はゴルフとテニスに興じ、他にも壮大な計画を練っている。菅原は焼き物に凝り個展を開く。
最後の締めは校歌斉唱。用意してきた楽譜が配られた。勝承夫作詞、安倍幸明作曲の校歌は3番まであるが、私は下記の2番が好きである。
鳥のゆくへは 秩父か富士か
空を仰げば 心はをどる
髙き文化を 目ざして進む
純情の道 自治の学舎
おお 誇あり わが母校
なお3番に、「芽ぶく銀杏に 希望を語り 秋は櫟の林に憩う」とあるが、私の心にある櫟は秋の櫟ではなく、青々と茂る真夏の櫟である。胸中で叫ぶ。「この勢いのある真夏の櫟のままで、45年の幕を下ろす!」
会の余韻を味わううち、勝田の思いに自分の思いが重なる。
終わりがなければ始まりはない。
第二幕はどう展開するだろうか。
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