20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』
岡倉天心(覚三)は、1903(明治36)年に『東洋の理想』、04年に『日本の覚醒』、06年に『茶の本』を、つづけて刊行している。3作品とも英文で書かれており、日本に関心があり、英語なら理解できる人々が想定読者に入っていたと思われる。日清戦争(1894~95年)を経て、日露戦争(1904年~05年)前後の国際情勢の変化を踏まえ、日本文化を海外発信しようと書かれた作品である。
天心の略歴を簡単に見ておこう。1863(文久二)年2月14日、武蔵野国横浜村、いま横浜市開港記念会館のある場所(福井藩が開いた生糸輸出の商館「石川屋」)で生まれ、そこで幼少期を過ごした。
ここは1859年の開港に伴い造られた掘割を行き来する人を見張る7つの関門の内側、すなわち「関内」にある(今はJRの駅名に残る)。海側に税関を置き、山手方面に外国人居留地を、反対側の馬車道方面に日本人町を置いた。天心の生誕地は日本人町の中央を走る本町通りの起点(最初は5丁目、のち順番を逆にして1丁目)、つまり外国人居留地にいちばん近い所にあった。
関内の日本人町と外国人居留地を隔てるものはなく、日本と外国の商人たちが自由に互いの店を訪ね、品定めや売買をしていた。これがいわゆる「居留地貿易」(居留地内だけで許される貿易)である。当然ながら内外の子どもたちも一緒に遊びまわった。天心の英語は店頭で大人の商取引を聞いて修得したと言うより、子ども同士の遊びのなかで会得したとする方が素直である。のち宣教師バラの英語塾に通い、磨きをかけた。
9歳で長延寺(神奈川宿)に預けられ、漢籍を学ぶ。一家で東京へ移った後は、13歳で東京開成学校に入り、16歳で東京大学の一期生(森鴎外と同期)、1880(明治13)年卒業後に文部省勤務。のち東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に貢献、1890(明治23)年に初代校長(学長)となった。また日本美術史研究の開拓者でもあり、フェノロサ(米国の東洋美術史家、東京大学で哲学・政治学等を講義)とともに日本美術の調査を行い、1893年には中国へ古美術の調査に行く。文化財保存の重要性に気づき、1897(明治30)年、古社寺保存法(現在の文化財保護法につながる)の成立にこぎつけた。
1898年(35歳)、東京美術学校から排斥され辞職、連帯辞職した横山大観らと日本美術院(台東区谷中)を創設。1901~02年、インドを訪問しタゴール(詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)等と交流、04年、ボストン美術館中国日本美術部に勤務(1910年部長)、06年、日本美術院を茨城県五浦へ移す。
天心の英文三部作は、こうした東京美術学校、文化財保護、日本美術院創設等の多岐にわたる活動の後にインドを訪れ、ボストン美術館の仕事に移る、満40歳から43歳にかけての「晩年」の作品である。20世紀初頭の横浜と世界を語るには欠かせない作品であるが、スケールが大きすぎる。しかし避けては通れない。そこで『日本の覚醒』(1904年、ニューヨーク)を取り上げる。底本には英文収録の講談社学術文庫版(THE AWAKENING OF JAPAN, by OKAKURA KAKUZO、夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部を私の責任で変更した。
本書は全10章からなる。全体の展開を概観するため、目次を先に見ておこう。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。
1章「アジアの夜」の冒頭で、西洋人にとっての日本イメージを次のように描く。「日本の急激な発展は、外国人にとって、多かれ少なかれ一つの謎である。この国は、花と軍艦の国、壮烈な武勇と繊細な茶碗の国、新旧両世界の薄明のなかに奇妙な陰影が交錯する、風変わりな辺境の国である。…我々が諸国民のあいだに地位を占めた今日、それは多くの西洋人の眼には、キリスト教世界への脅威と映っている。…世界は新生日本に、一方では猛烈な非難を、他方では的外れな賞賛をあびせた。我々は近代進歩の寵児となり、同時にまた<黄禍>そのものとなった。」
つづけて言う。「友愛は熱く高まり、世界の協力は実現されたとするが、それは何を目的とするのか?…富の獲得を競い、真の個性を損ない、幸福と満足は募る渇望の犠牲にされ、…中世の迷信から解放されたなどと誇るが、富の偶像崇拝に代わっただけではないのか? 」
2章から7章までは、徳川体制の本質を抉る「史論」である。「家康の偉大な才能は、ミカドの権威を国家的規模において認めた」(皇室崇拝を認めた)が「徳川家だけがその最高司祭者」とし、公家を優遇し、大名より上の身分としたうえで、政治的権力は剥奪したと述べる。仏教と新儒教に触れ、これが「危急のさいに平静を失わない日本人の瞑想的気質」を育てたと言う。
とくに興味深いのは、6章「幕閣と大奥」で、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策についての次のように述べる。「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価、さらに「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」。また7章で「…阿部正弘の自由主義政策のおかげで、(彼らは)西洋の知識も少なからず身に着けていた…」とも言う。
人物評価にこれだけの紙数を割くのは、ここ(阿部正弘)だけである。歴史の転換点を鋭く見抜いた史論である。ただ史実の具体的な記述が少ないため、本書だけを読んでも分かりにくい点があろう。阿部の主導した対ペリー外交の具体相については、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照していただきたい。
他に名前が出てくるのは、7章では井伊直弼、佐久間象山、勝海舟である。8章「復古と維新」では、近代の特徴として①立憲政治、②高等普通教育、③徴兵制、④女性の地位の向上を挙げるが、個人名は挙げていない。9章「再生」では幸田露伴、尾崎紅葉、陶工の真葛香山、画家の狩野芳崖等10名を挙げる。10章「日本と平和」では「自己犠牲という高貴な理想を守った」大久保利通、木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げるにとどめ、記述はごく短い。
最後に、始まったばかりで行方不能の日露戦争(1904~05年)に関連して、「ロシア軍の野蛮性」に触れ、「…今日ロシアは、極東の平和的国民が禍をもたらすと言うが、その非難はロシア自身に返されるべき…」と強く述べる。そのうえで「ヨーロッパはわれわれに戦争を教えた。彼らはいつ平和の恵みを学ぶのか」と結ぶ。(続く)
天心の略歴を簡単に見ておこう。1863(文久二)年2月14日、武蔵野国横浜村、いま横浜市開港記念会館のある場所(福井藩が開いた生糸輸出の商館「石川屋」)で生まれ、そこで幼少期を過ごした。
ここは1859年の開港に伴い造られた掘割を行き来する人を見張る7つの関門の内側、すなわち「関内」にある(今はJRの駅名に残る)。海側に税関を置き、山手方面に外国人居留地を、反対側の馬車道方面に日本人町を置いた。天心の生誕地は日本人町の中央を走る本町通りの起点(最初は5丁目、のち順番を逆にして1丁目)、つまり外国人居留地にいちばん近い所にあった。
関内の日本人町と外国人居留地を隔てるものはなく、日本と外国の商人たちが自由に互いの店を訪ね、品定めや売買をしていた。これがいわゆる「居留地貿易」(居留地内だけで許される貿易)である。当然ながら内外の子どもたちも一緒に遊びまわった。天心の英語は店頭で大人の商取引を聞いて修得したと言うより、子ども同士の遊びのなかで会得したとする方が素直である。のち宣教師バラの英語塾に通い、磨きをかけた。
9歳で長延寺(神奈川宿)に預けられ、漢籍を学ぶ。一家で東京へ移った後は、13歳で東京開成学校に入り、16歳で東京大学の一期生(森鴎外と同期)、1880(明治13)年卒業後に文部省勤務。のち東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に貢献、1890(明治23)年に初代校長(学長)となった。また日本美術史研究の開拓者でもあり、フェノロサ(米国の東洋美術史家、東京大学で哲学・政治学等を講義)とともに日本美術の調査を行い、1893年には中国へ古美術の調査に行く。文化財保存の重要性に気づき、1897(明治30)年、古社寺保存法(現在の文化財保護法につながる)の成立にこぎつけた。
1898年(35歳)、東京美術学校から排斥され辞職、連帯辞職した横山大観らと日本美術院(台東区谷中)を創設。1901~02年、インドを訪問しタゴール(詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)等と交流、04年、ボストン美術館中国日本美術部に勤務(1910年部長)、06年、日本美術院を茨城県五浦へ移す。
天心の英文三部作は、こうした東京美術学校、文化財保護、日本美術院創設等の多岐にわたる活動の後にインドを訪れ、ボストン美術館の仕事に移る、満40歳から43歳にかけての「晩年」の作品である。20世紀初頭の横浜と世界を語るには欠かせない作品であるが、スケールが大きすぎる。しかし避けては通れない。そこで『日本の覚醒』(1904年、ニューヨーク)を取り上げる。底本には英文収録の講談社学術文庫版(THE AWAKENING OF JAPAN, by OKAKURA KAKUZO、夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部を私の責任で変更した。
本書は全10章からなる。全体の展開を概観するため、目次を先に見ておこう。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。
1章「アジアの夜」の冒頭で、西洋人にとっての日本イメージを次のように描く。「日本の急激な発展は、外国人にとって、多かれ少なかれ一つの謎である。この国は、花と軍艦の国、壮烈な武勇と繊細な茶碗の国、新旧両世界の薄明のなかに奇妙な陰影が交錯する、風変わりな辺境の国である。…我々が諸国民のあいだに地位を占めた今日、それは多くの西洋人の眼には、キリスト教世界への脅威と映っている。…世界は新生日本に、一方では猛烈な非難を、他方では的外れな賞賛をあびせた。我々は近代進歩の寵児となり、同時にまた<黄禍>そのものとなった。」
つづけて言う。「友愛は熱く高まり、世界の協力は実現されたとするが、それは何を目的とするのか?…富の獲得を競い、真の個性を損ない、幸福と満足は募る渇望の犠牲にされ、…中世の迷信から解放されたなどと誇るが、富の偶像崇拝に代わっただけではないのか? 」
2章から7章までは、徳川体制の本質を抉る「史論」である。「家康の偉大な才能は、ミカドの権威を国家的規模において認めた」(皇室崇拝を認めた)が「徳川家だけがその最高司祭者」とし、公家を優遇し、大名より上の身分としたうえで、政治的権力は剥奪したと述べる。仏教と新儒教に触れ、これが「危急のさいに平静を失わない日本人の瞑想的気質」を育てたと言う。
とくに興味深いのは、6章「幕閣と大奥」で、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策についての次のように述べる。「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価、さらに「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」。また7章で「…阿部正弘の自由主義政策のおかげで、(彼らは)西洋の知識も少なからず身に着けていた…」とも言う。
人物評価にこれだけの紙数を割くのは、ここ(阿部正弘)だけである。歴史の転換点を鋭く見抜いた史論である。ただ史実の具体的な記述が少ないため、本書だけを読んでも分かりにくい点があろう。阿部の主導した対ペリー外交の具体相については、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照していただきたい。
他に名前が出てくるのは、7章では井伊直弼、佐久間象山、勝海舟である。8章「復古と維新」では、近代の特徴として①立憲政治、②高等普通教育、③徴兵制、④女性の地位の向上を挙げるが、個人名は挙げていない。9章「再生」では幸田露伴、尾崎紅葉、陶工の真葛香山、画家の狩野芳崖等10名を挙げる。10章「日本と平和」では「自己犠牲という高貴な理想を守った」大久保利通、木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げるにとどめ、記述はごく短い。
最後に、始まったばかりで行方不能の日露戦争(1904~05年)に関連して、「ロシア軍の野蛮性」に触れ、「…今日ロシアは、極東の平和的国民が禍をもたらすと言うが、その非難はロシア自身に返されるべき…」と強く述べる。そのうえで「ヨーロッパはわれわれに戦争を教えた。彼らはいつ平和の恵みを学ぶのか」と結ぶ。(続く)
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