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【14】連載「研究課題の拡がり」

 7年間の助手時代、外国から来る研究者との付き合いもあった。欧米の中国研究者は中国への入国が制限されており(日本人も同様)、その代わりに文献史料の豊富な日本に資料収集に来た。東京大学の附置研究所である東洋文化研究所は、彼らにとって垂涎の的であった。ここで研究員となれば、大学以外の東洋文庫、国会図書館、静嘉堂等々へも行きやすい。

 図書室で使い勝手が分からずウロウロしている外国人研究者を見かけると、ついつい声をかける。そのうち職員からヘルプの内線電話がかかってくるようになり、7階の研究室から5階の図書室へ飛んで行った。

 忘れられない人が何人かいる。イギリス人のディリア・ダヴンは近代中国の女性問題をテーマに1年間の研究に来ていた。脇に幼い娘を寝かせ、図書室で史料を読んでいる姿を見たのが最初である。私にも娘がおり、家族ぐるみの付き合いになった。

 1977年、在外研究で、今度は私が家族を連れてイギリスへ行くと、北イングランドのリーズ市在住の彼女がこまごまと助けてくれた。またディリアの姉のアンナがロンドン在住のイギリス近代史家であり、彼女も種々の研究会や研究者を紹介してくれた。

 フランス人で中国近代史研究のマリアンヌ・バスティードは、アメリカでの研究歴もあり、多くの研究者がイデオロギーに惑わされていたなかで、冷静かつ論理的に研究を進めていた。文献史料と同時に見聞や対話の重要性についてもよく話し合った。現在、フランス・アカデミーの重鎮である。

 学外では、アジア経済研究所(市谷)の「中国農業史」勉強会がとても有益であった。ゲスト講師の天野元之助さん(1901~1980年)は満鉄調査部で現地調査を進め、のち大著『中国農業史研究』(1963年、お茶の水書房)を刊行、対話のなかで、中国史を理解するための農業の重要性を改めて学んだ。

 また中国古典『斉民要術』の校訂訳注(1957~59年、農業総合研究所)で著名な熊代幸雄(1911~1979年)さんは、ちょうど『比較農法論-東アジア伝統農法と西ヨーロッパ近代農法』(1969年、お茶の水書房)を刊行されたばかり。副題にある通り、先行した中国伝統農法と後発の西ヨーロッパ近代農法との比較と関係の観点から目を開かされることが多かった。

 この勉強会の関連で、ケンブリッジ大学のジョゼフ・ニーダム博士(1900~1995年)の講演会も忘れられない。生化学から科学史へ進み、とくに大著『中国の科学と文明』を執筆(11巻までが邦訳)、その壮大なスケールと考え方に圧倒された。なお同書は没後もケンブリッジ大学ニーダム研究所で続刊中である。

 原書の書名に中国語訳が付されており、civilizationを「文明」ではなく「技術」としている点が気になり質問すると、適切な中国語訳が定着していないためという返事であった。

 <文明>をはじめ<社会>、<主義>、<民主>、<革命>等、明治期の日本人による新造漢語(新しい漢字の組み合わせ+中国古典の意味変換)が、日清戦争(1894~95年)後に来日した清国(中国)留学生により現代中国語に導入された経緯があるが、なぜ<文明>が定着しないのか。

 博士は『文明の滴定-科学技術と中国の社会』(1969年、橋本敬造訳は1974年)等も著しており、「文明」はキーワードでありながら、それを使えないことに違和感を抱いているようであった。

 思えば天野さん、熊代さん、ニーダム博士の3氏は、ともに私より1世代(約30歳)年長、明治生まれの学者で、東洋文化研究所を定年退官された4名の大家(本ブログ「我が歴史研究の歩み【10】」2016年3月22日)とほぼ同世代である。1世代差は、戦後の思潮と研究動向しか知らない我々とは異なる体験とスケールの大きさを備えていた。

 こうした種々の刺激を受け、私は史観の赴くままに、思い切って新しいテーマに向かった。それは土地改革を中心とする中国現代史から、研究対象の地域と時代を一挙に拡大し、約200年を包含する広域アジアの近現代史(日本を含む)への志向である。それはさらに古代以来の都市史、文明史、中国農業史へと展開する端緒となった。

 私はまず「近代日本とアジア」に関する論考を中心に発表を始めた。長い期間にわたり日本史と東洋史・世界史とは別分野であると思われていたが、近現代では不可分の世界であり、分離できないと認識が変わりつつあった。

 その第1が「中国革命と東アジア」(1971年、東京大学出版会)で、歴史学研究会編『講座日本史』8巻所収。日本史講座に従来の常識にはない「中国革命と東アジア」が入っていたが、私には当然のテーマに思えて嬉しかった。

 本稿は、1945年8月10日朝の御前会議で日本がポツダム宣言の受諾を決定、その通知がスイス等の中立国を通じて連合国に打電され、内戦状態に入ったばかりの国民政府軍と八路軍の双方が傍受、彼らがいっせいに在留日本軍の武装解除に動き、戦後の第一歩が始まることを述べた上で、その内戦が新たに中華人民共和国の成立(1949年)を導き、日本をふくむ東アジアに大きな変化をもたらしたと述べ、日米関係と米ソ冷戦を軸に戦後史を考える主潮を補完した。

 第2が「学問の植民地支配にかんする覚書」(1971年、『東洋文化研究所紀要』54冊)で、主に植民地支配の理論と実践という視点から明治以降の日本のアジア進出を分析し、商権拡大から資本輸出に移行する過程、日本外交と列強の対華文化政策との競合を解明した。

 第3が「日本の満州侵略と中国」(1971年、『岩波講座世界歴史』27巻所収)である。1929年の世界恐慌が及ぼした満州(中国東北部)の大豆と鉄道への影響と張学良政権の基盤を分析、それが軍閥を排除し国民党政府へと編入されていく過程を述べ、1937年の第2次国共合作への展望を結びとした。

 第4の「軍医 落合泰藏・小池正直・森林太郎」(『朝日ジャーナル』1972年3月17日号)は、銃弾より病気が主敵であった明治初期における軍医たちの活躍を解明。落合は台湾出兵に同行、小池は朝鮮在勤中に朝鮮人の優れた体格と食糧の関係に注目、森はドイツ留学で陸軍兵食問題を研究した。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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