金沢八景と泥亀
私の横浜市立大学(以下、市大)在任は29年間(1973~2002年)で、大学勤務の大半を占める。京浜急行線(京急)の金沢八景駅下車、いま駅前は再開発の最中だが、改札を出て左手のガードをくぐり徒歩約5分の所に大学本部と瀬戸キャンパスがある(ほかに福浦、舞岡、鶴見の3キャンパス)。
12世紀末、鎌倉幕府の開府にともない、入り組んだ湾の多い六浦(むつうら)は重要な港となり、将軍らの遊覧する景勝地としても意識される。19世紀中頃に歌川広重の浮世絵「金沢八景」が描かれるや評判が高まり、江戸や上総・安房から海路で鎌倉・江の島見物や大山詣をする人々の船着き場として、いっそう栄えた。京急駅名の金沢八景(1930年開設)は、これに由来する。
市大の住居表示は横浜市金沢区瀬戸22-2(〒236-0027)である。瀬戸(せと)は、国道16号に面して建つ名刹・瀬戸神社、あるいは広重の浮世絵のなかの「瀬戸秋月」(後述)から採ったが、町名として置かれたのは新しく1978(昭和53)年である(横浜市金沢区地域振興課編「歴史息づく横浜金沢」)。1962年施行の住居表示に関する法律に基づき、郵便番号と新しい住居表示が全国各地で作られた流れの一環であり、私の着任時(1973年)には六浦と呼ばれていた。
新住居表示は、伝統ある旧町名を持つ東京都心部では、これらを廃して広域名にまとめる傾向があり、各地で反対運動も見られた。これに対して、広域の地名を細分化し新しく住居表示を作る例もある。市の最南端に位置する金沢区は1948(昭和23)年に磯子区から分区、大規模な埋立と急激な人口増に伴い、新しい街区と住居表示を作った。
広重の浮世絵は、次の8つの景勝地を絵に描き、その名称と特徴を示す4字成句を付す。小泉夜雨(こずみやう)⇒手子神社(小泉弁財天)。称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)⇒称名寺。乙艫帰帆(おっともきはん)⇒海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線。洲崎晴嵐(すさきせいらん)⇒洲崎神社。瀬戸秋月(せとしゅうげつ)⇒瀬戸神社。平潟落雁(ひらがたらくがん)⇒平潟湾。野島夕照(のじませきしょう)⇒野島夕照橋付近。内川暮雪(うちかわぼせつ)⇒内川入江か瀬ヶ崎から九覧亭あたりの平潟湾の一部。
八景の1枚1枚は多色刷りであるが、別に1枚の大きなモノクロ版「金沢八景」も各種刊行され、土産物として珍重された。1998年、私が学長に就任すると茂手木元蔵名誉教授(ギリシャ哲学)がその金龍院版を寄贈してくださり、卒業生の鈴木幹雄さんが額装、それを学長室の壁面に掲げた。
正門の前で京急の踏切を渡ると、地名は同じ瀬戸、そこに日本製鋼所横浜製作所(1936年~)があったが、1983年に区内の新しい埋立地・福浦へ移転、跡地に大型商業施設ダイエーができ、いまイオン金沢八景店となっている。
瀬戸の東側が泥亀(でいき)、京急線の金沢八景駅と金沢文庫駅に挟まれた一帯である。平潟湾の入海を干拓して生まれた陸地で、干拓は約350年前の1668(寛文8)年に始まった。この干拓事業に着手した人物の雅号が泥亀であることは、その頃から聞いていた。泥亀が町名として採用されたのも1975(昭和50)年と新しく、その字面と響きが心に残った。いまは高層マンションが立ち並び、京急線の車庫や東急車輌の工場がある。
そこに今回、「企画展 泥亀永島家の面影~永島家文書とその世界~」開催の連絡を受けた。昨年末、テニス仲間でもある市大木原生物学研究所の坂智宏(ばん ともひろ)教授主催のシンポジウムが開かれ(本ブログ「コムギの里帰り」2015年12月23日掲載)、そこで十数年ぶりに木原生物学研究所の創設者・木原均博士(1893~1986年)の三女・木原ゆり子さんと再会した。
コムギの祖先の発見、植物ゲノム研究等で著名な木原博士の研究交遊録を写真と解説で記す『一粒舎主人写真譜』(昭和60年)をゆり子さんから贈っていただき、つづく今回の企画展の案内に「永島家は母方の実家です」とあった。
泥亀が私の胸中で急浮上、7月20日、坂さんの車で称名寺内にある県立金沢文庫での企画展に行った。
永島祐伯(ながしま ゆうはく、1625~95年)は、但馬国の九鹿村(くろくむら、現在の兵庫県養父市)の医師の子、14歳の頃、両親とともに江戸に出て昌平坂学問所で学び、湯島聖堂の儒官として幕府の文書整理に当たった。そして隠居地として拝領した野島の一角を拠点に、1668(寛文8)年、平潟湾の干拓に着手する。
泥亀新田の干拓史の概略は、展示図録等によれば次の通り。干拓地は塩分が多く水田には向かず、レンコンを採取する蓮田や塩田として利用された。1703年(元禄16年)、元禄大地震により新田が荒廃、1786年(天明6年)、祐伯の6代目の子孫・段右衛門による一旦の完成の後、7月に洪水に見舞われ、1791年(寛政3年)には洪水で水没。1849年(嘉永2年)、7代目の忠篤(亀巣、1801~91)によりついに完成に至った。ちょうど広重の浮世絵が完成した頃である。
泥亀の雅号(のち屋号)の由来は、無為自然を説く中国古代の思想家・荘子の「死して甲羅を霊廟(祖先の霊を祭る所)に三千年も祀られる亀より、生きて泥のなかを這う亀のように、自由に生きたい…」(意訳)から採ったと言う。
企画展を参観後、永島家の菩提寺・龍華寺(りゅうげじ、真言宗)に墓参。寺は12世紀、源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺に起源し、関東では珍しい御室桜が咲き、紫陽花や牡丹の名所であり、「ボケ封じ観音立像」もある。この寺で、永島家最後の当主・永島加年男(かねお)さん(2008年没、享年78)の遺稿をまとめた『泥亀永島家の歴史』(平成27年、写真、年表、家系図等を加えて約400ページ)を頒布していると聞き、和田大雅住職にお会いしたが、ご子息が市大医学部卒との縁から、和田仁雅著(ご尊父)・和田大雅編の名著『真言の教え』(国書刊行会、平成11年)まで頂戴した。
旧道を移動、坂さんと「隅田川」で鰻重を食べた。かつて市大での難しい公務が山場を迎えると、畏友・小島謙一(物理学)とよく行った店である。
その後、戸塚区舞岡にある木原生物学研究所を訪れ、ゆり子さんに「木原均記念室」(2010年設置)を案内していただいた。いちばん奥に博士の遺品の机や書棚が置かれ、壁には愛用のスキーとテニスラケット、これに向かい合うように手作りの各種解説パネル、それに展示ケース内に「農利萬民」の色紙や『最新スキー術』(大正8年、博文館)等がある。本書は博士26歳のときの処女出版で、レジャー・スポーツ用ではなく、雪の多い地域で郵便配達等に使う実用スキー術を指南した内容である。
思いがけなく木原均博士と永島和子夫人のご縁も伺うことができた。いろいろな人物や風景が時空を超えて結びつく一日であった。
12世紀末、鎌倉幕府の開府にともない、入り組んだ湾の多い六浦(むつうら)は重要な港となり、将軍らの遊覧する景勝地としても意識される。19世紀中頃に歌川広重の浮世絵「金沢八景」が描かれるや評判が高まり、江戸や上総・安房から海路で鎌倉・江の島見物や大山詣をする人々の船着き場として、いっそう栄えた。京急駅名の金沢八景(1930年開設)は、これに由来する。
市大の住居表示は横浜市金沢区瀬戸22-2(〒236-0027)である。瀬戸(せと)は、国道16号に面して建つ名刹・瀬戸神社、あるいは広重の浮世絵のなかの「瀬戸秋月」(後述)から採ったが、町名として置かれたのは新しく1978(昭和53)年である(横浜市金沢区地域振興課編「歴史息づく横浜金沢」)。1962年施行の住居表示に関する法律に基づき、郵便番号と新しい住居表示が全国各地で作られた流れの一環であり、私の着任時(1973年)には六浦と呼ばれていた。
新住居表示は、伝統ある旧町名を持つ東京都心部では、これらを廃して広域名にまとめる傾向があり、各地で反対運動も見られた。これに対して、広域の地名を細分化し新しく住居表示を作る例もある。市の最南端に位置する金沢区は1948(昭和23)年に磯子区から分区、大規模な埋立と急激な人口増に伴い、新しい街区と住居表示を作った。
広重の浮世絵は、次の8つの景勝地を絵に描き、その名称と特徴を示す4字成句を付す。小泉夜雨(こずみやう)⇒手子神社(小泉弁財天)。称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)⇒称名寺。乙艫帰帆(おっともきはん)⇒海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線。洲崎晴嵐(すさきせいらん)⇒洲崎神社。瀬戸秋月(せとしゅうげつ)⇒瀬戸神社。平潟落雁(ひらがたらくがん)⇒平潟湾。野島夕照(のじませきしょう)⇒野島夕照橋付近。内川暮雪(うちかわぼせつ)⇒内川入江か瀬ヶ崎から九覧亭あたりの平潟湾の一部。
八景の1枚1枚は多色刷りであるが、別に1枚の大きなモノクロ版「金沢八景」も各種刊行され、土産物として珍重された。1998年、私が学長に就任すると茂手木元蔵名誉教授(ギリシャ哲学)がその金龍院版を寄贈してくださり、卒業生の鈴木幹雄さんが額装、それを学長室の壁面に掲げた。
正門の前で京急の踏切を渡ると、地名は同じ瀬戸、そこに日本製鋼所横浜製作所(1936年~)があったが、1983年に区内の新しい埋立地・福浦へ移転、跡地に大型商業施設ダイエーができ、いまイオン金沢八景店となっている。
瀬戸の東側が泥亀(でいき)、京急線の金沢八景駅と金沢文庫駅に挟まれた一帯である。平潟湾の入海を干拓して生まれた陸地で、干拓は約350年前の1668(寛文8)年に始まった。この干拓事業に着手した人物の雅号が泥亀であることは、その頃から聞いていた。泥亀が町名として採用されたのも1975(昭和50)年と新しく、その字面と響きが心に残った。いまは高層マンションが立ち並び、京急線の車庫や東急車輌の工場がある。
そこに今回、「企画展 泥亀永島家の面影~永島家文書とその世界~」開催の連絡を受けた。昨年末、テニス仲間でもある市大木原生物学研究所の坂智宏(ばん ともひろ)教授主催のシンポジウムが開かれ(本ブログ「コムギの里帰り」2015年12月23日掲載)、そこで十数年ぶりに木原生物学研究所の創設者・木原均博士(1893~1986年)の三女・木原ゆり子さんと再会した。
コムギの祖先の発見、植物ゲノム研究等で著名な木原博士の研究交遊録を写真と解説で記す『一粒舎主人写真譜』(昭和60年)をゆり子さんから贈っていただき、つづく今回の企画展の案内に「永島家は母方の実家です」とあった。
泥亀が私の胸中で急浮上、7月20日、坂さんの車で称名寺内にある県立金沢文庫での企画展に行った。
永島祐伯(ながしま ゆうはく、1625~95年)は、但馬国の九鹿村(くろくむら、現在の兵庫県養父市)の医師の子、14歳の頃、両親とともに江戸に出て昌平坂学問所で学び、湯島聖堂の儒官として幕府の文書整理に当たった。そして隠居地として拝領した野島の一角を拠点に、1668(寛文8)年、平潟湾の干拓に着手する。
泥亀新田の干拓史の概略は、展示図録等によれば次の通り。干拓地は塩分が多く水田には向かず、レンコンを採取する蓮田や塩田として利用された。1703年(元禄16年)、元禄大地震により新田が荒廃、1786年(天明6年)、祐伯の6代目の子孫・段右衛門による一旦の完成の後、7月に洪水に見舞われ、1791年(寛政3年)には洪水で水没。1849年(嘉永2年)、7代目の忠篤(亀巣、1801~91)によりついに完成に至った。ちょうど広重の浮世絵が完成した頃である。
泥亀の雅号(のち屋号)の由来は、無為自然を説く中国古代の思想家・荘子の「死して甲羅を霊廟(祖先の霊を祭る所)に三千年も祀られる亀より、生きて泥のなかを這う亀のように、自由に生きたい…」(意訳)から採ったと言う。
企画展を参観後、永島家の菩提寺・龍華寺(りゅうげじ、真言宗)に墓参。寺は12世紀、源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺に起源し、関東では珍しい御室桜が咲き、紫陽花や牡丹の名所であり、「ボケ封じ観音立像」もある。この寺で、永島家最後の当主・永島加年男(かねお)さん(2008年没、享年78)の遺稿をまとめた『泥亀永島家の歴史』(平成27年、写真、年表、家系図等を加えて約400ページ)を頒布していると聞き、和田大雅住職にお会いしたが、ご子息が市大医学部卒との縁から、和田仁雅著(ご尊父)・和田大雅編の名著『真言の教え』(国書刊行会、平成11年)まで頂戴した。
旧道を移動、坂さんと「隅田川」で鰻重を食べた。かつて市大での難しい公務が山場を迎えると、畏友・小島謙一(物理学)とよく行った店である。
その後、戸塚区舞岡にある木原生物学研究所を訪れ、ゆり子さんに「木原均記念室」(2010年設置)を案内していただいた。いちばん奥に博士の遺品の机や書棚が置かれ、壁には愛用のスキーとテニスラケット、これに向かい合うように手作りの各種解説パネル、それに展示ケース内に「農利萬民」の色紙や『最新スキー術』(大正8年、博文館)等がある。本書は博士26歳のときの処女出版で、レジャー・スポーツ用ではなく、雪の多い地域で郵便配達等に使う実用スキー術を指南した内容である。
思いがけなく木原均博士と永島和子夫人のご縁も伺うことができた。いろいろな人物や風景が時空を超えて結びつく一日であった。
スポンサーサイト