開港記念日と横浜市歌
快晴の6月2日、みなとみらい大ホールで、林文子市長(2009年~)主催の「平成28年度 横浜開港記念式典」が開かれた。皆がまず起立し、横浜市消防音楽隊の伴奏で「横浜市歌」を斉唱、私も気持ちよく歌った。正面のパイプオルガンに照明が当たると、翼を拡げ飛翔する一羽のカモメが浮かび上がる。
両脇の2本のバナーにMinatomirai Hall Since 1998とあるのを改めて眺めた。このホール建設は高秀秀信市長(在任は1990~2002年)の肝いりで、斉藤龍助役(女性)が進めた成果である。私事にわたるが、1998年は私が横浜市立大学長に就任した年でもある。
受付で手にしたパンフレットに「横浜開港の歴史」という短文が載っている。157年前の1859年7月1日(安政六年六月二日)の横浜開港に触れ、「1854年3月31日(嘉永七年三月三日)に幕府とペリー提督との間で結ばれた日米和親条約と、1858年7月29日(安政五年六月十九日)に幕府とハリス総領事との間で結ばれた日米修好通商条約を受けたもの」とある。
この記述に2点を補足しておきたい。第1が日米和親条約の交渉の地を、人口密集地の神奈川宿を避けて横浜村(現在の大桟橋の付け根の開港広場・横浜開港資料館から神奈川県庁あたり)としたのは幕府で、戦争を伴わない「交渉条約」であり、また条約内容も「不平等」ではない。これについては、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)に示した。
第2が開港場の具体的な場所についてである。日米修好通商条約ではKanagawa(神奈川)開港とあるが、具体的にどの地を指すかを巡って幕府(横浜村説)とハリス(神奈川宿説)が「対話」を繰り返すも合意に至らぬまま、ハリスは上海へ行ってしまう。
そこで幕府は神奈川宿下の芝生村(西区浅間町)から横浜村まで約8キロの「横浜道」(よこはまみち)を急造、途中の戸部に神奈川奉行所を置き、その出先として運上所(税関)を海岸沿いに建て、外国人居留地(現在の山下町)と日本人町を造成、条約上の開港の日にぎりぎり間に合わせた(拙稿「横浜か、神奈川か」『横濱』誌2008年10月号)。この(横浜)開港場が現代につながる。
なお開港の日は日米条約では米独立記念日の7月4日とあるが、後続の日露条約で7月1日(安政六年六月二日)とされ、それに揃えて3日早くなった。
パンフレットには、作詞:森林太郎(鴎外)、作曲:南能衛(よしえ)の「横浜市歌」もある。3番まで次の通りである。
わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連(つらな)りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜に優(まさ)るあらめや
むかし思えば苫屋(とまや)の煙
ちらりほらりと立てりし処
今は百舟百千舟(ももふね ももちふね)
泊る処ぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港
横浜市歌の誕生とその契機となった開港50年祭について、拙稿「市歌と市章」(連載『挿絵が語る開港横浜』第11回、神奈川新聞2008年6月14日)により補足する。なお本ブログ「20世紀初頭の横浜」の関連項目も参照されたい。
1909(明治42)年は横浜開港50周年、市政公布20周年である。それを祝おうとする各方面の動きがやっと実り、キャンペーンに大きな役割を果たした「横浜貿易新報」(以下、「横貿」、神奈川新聞の前身)が、1909年4月11日、社論「横浜市歌を作るべし」を掲げた。これが横浜市歌の起源である。
6月1日、「開港記念祝賀会開催及び開港記念館建設に関する準備委員会」(委員長は三橋信方第5代市長)総会が開かれ、祝賀会へ向けて動きだすが、旧暦の6月2日を開港記念日とするには間に合わなかった。
6月10日の「横貿」社論は「横浜デイのデモンストレーション」。その中で7月1日の開港50年祭を機に「横浜市民の意気を示す」ため横浜日(デー)を毎年開いてはという提案をしている。この横浜日(デー)が「開港記念日」の起源と言える。なお1918(大正7)年の市会で7月1日を開港記念日として休日とする決議がなされたが、1928(昭和3)年、梅雨の最中の7月1日を避け6月2日とすると改め、現在に至る。
横浜市歌は6月17日の「横貿」紙に発表された。横浜市が鴎外と南(東京音楽学校、東京芸大の前身)に依頼、南の曲に鴎外が詞を乗せた。謝礼は鴎外に100円、南に50円とある。歌詞には算用数字表記の楽譜が添えられている。
人口500人にも満たない半農半漁の横浜村が、いまや人口40万人を数える大都会に発展(約1000倍)、100隻、1000隻の船が停泊する。これぞ開港50年にして成る都市横浜と歌う。五港開港場(北から函館、新潟、横浜、神戸、長崎)のうち、横浜港が生糸輸出を軸に外貨を稼ぐ筆頭として日本経済を牽引、首都東京に近いことも関係して横浜の急成長をもたらした。
市歌は予告通り、7月1日、新港埠頭における横浜開港五十年記念大祝賀会式典で、小学生たちが歌って披露した。翌2日付けの「横貿」社論「万歳の声」が市民の興奮を伝えている。
横浜市歌は日本で初めての市歌である。大阪市歌は12年後の1921(大正10年)にできた。中之島の市庁舎建設を機に公募、選考には鴎外、幸田露伴ら5名が当たり、堀沢周安の詞が入選、作曲は中田章(東京音楽学校)。また東京市歌は1926(大正15年)に制定、高田耕甫作詞、山田耕作作曲である。
制定から107年になる現在も、横浜市立の学校の入学式や卒業式、また市の賀詞交換会等でこの市歌は歌われており、開港を契機に誕生・成長してきた都市横浜の誇りを今に受け継いでいる。
両脇の2本のバナーにMinatomirai Hall Since 1998とあるのを改めて眺めた。このホール建設は高秀秀信市長(在任は1990~2002年)の肝いりで、斉藤龍助役(女性)が進めた成果である。私事にわたるが、1998年は私が横浜市立大学長に就任した年でもある。
受付で手にしたパンフレットに「横浜開港の歴史」という短文が載っている。157年前の1859年7月1日(安政六年六月二日)の横浜開港に触れ、「1854年3月31日(嘉永七年三月三日)に幕府とペリー提督との間で結ばれた日米和親条約と、1858年7月29日(安政五年六月十九日)に幕府とハリス総領事との間で結ばれた日米修好通商条約を受けたもの」とある。
この記述に2点を補足しておきたい。第1が日米和親条約の交渉の地を、人口密集地の神奈川宿を避けて横浜村(現在の大桟橋の付け根の開港広場・横浜開港資料館から神奈川県庁あたり)としたのは幕府で、戦争を伴わない「交渉条約」であり、また条約内容も「不平等」ではない。これについては、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)に示した。
第2が開港場の具体的な場所についてである。日米修好通商条約ではKanagawa(神奈川)開港とあるが、具体的にどの地を指すかを巡って幕府(横浜村説)とハリス(神奈川宿説)が「対話」を繰り返すも合意に至らぬまま、ハリスは上海へ行ってしまう。
そこで幕府は神奈川宿下の芝生村(西区浅間町)から横浜村まで約8キロの「横浜道」(よこはまみち)を急造、途中の戸部に神奈川奉行所を置き、その出先として運上所(税関)を海岸沿いに建て、外国人居留地(現在の山下町)と日本人町を造成、条約上の開港の日にぎりぎり間に合わせた(拙稿「横浜か、神奈川か」『横濱』誌2008年10月号)。この(横浜)開港場が現代につながる。
なお開港の日は日米条約では米独立記念日の7月4日とあるが、後続の日露条約で7月1日(安政六年六月二日)とされ、それに揃えて3日早くなった。
パンフレットには、作詞:森林太郎(鴎外)、作曲:南能衛(よしえ)の「横浜市歌」もある。3番まで次の通りである。
わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連(つらな)りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜に優(まさ)るあらめや
むかし思えば苫屋(とまや)の煙
ちらりほらりと立てりし処
今は百舟百千舟(ももふね ももちふね)
泊る処ぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港
横浜市歌の誕生とその契機となった開港50年祭について、拙稿「市歌と市章」(連載『挿絵が語る開港横浜』第11回、神奈川新聞2008年6月14日)により補足する。なお本ブログ「20世紀初頭の横浜」の関連項目も参照されたい。
1909(明治42)年は横浜開港50周年、市政公布20周年である。それを祝おうとする各方面の動きがやっと実り、キャンペーンに大きな役割を果たした「横浜貿易新報」(以下、「横貿」、神奈川新聞の前身)が、1909年4月11日、社論「横浜市歌を作るべし」を掲げた。これが横浜市歌の起源である。
6月1日、「開港記念祝賀会開催及び開港記念館建設に関する準備委員会」(委員長は三橋信方第5代市長)総会が開かれ、祝賀会へ向けて動きだすが、旧暦の6月2日を開港記念日とするには間に合わなかった。
6月10日の「横貿」社論は「横浜デイのデモンストレーション」。その中で7月1日の開港50年祭を機に「横浜市民の意気を示す」ため横浜日(デー)を毎年開いてはという提案をしている。この横浜日(デー)が「開港記念日」の起源と言える。なお1918(大正7)年の市会で7月1日を開港記念日として休日とする決議がなされたが、1928(昭和3)年、梅雨の最中の7月1日を避け6月2日とすると改め、現在に至る。
横浜市歌は6月17日の「横貿」紙に発表された。横浜市が鴎外と南(東京音楽学校、東京芸大の前身)に依頼、南の曲に鴎外が詞を乗せた。謝礼は鴎外に100円、南に50円とある。歌詞には算用数字表記の楽譜が添えられている。
人口500人にも満たない半農半漁の横浜村が、いまや人口40万人を数える大都会に発展(約1000倍)、100隻、1000隻の船が停泊する。これぞ開港50年にして成る都市横浜と歌う。五港開港場(北から函館、新潟、横浜、神戸、長崎)のうち、横浜港が生糸輸出を軸に外貨を稼ぐ筆頭として日本経済を牽引、首都東京に近いことも関係して横浜の急成長をもたらした。
市歌は予告通り、7月1日、新港埠頭における横浜開港五十年記念大祝賀会式典で、小学生たちが歌って披露した。翌2日付けの「横貿」社論「万歳の声」が市民の興奮を伝えている。
横浜市歌は日本で初めての市歌である。大阪市歌は12年後の1921(大正10年)にできた。中之島の市庁舎建設を機に公募、選考には鴎外、幸田露伴ら5名が当たり、堀沢周安の詞が入選、作曲は中田章(東京音楽学校)。また東京市歌は1926(大正15年)に制定、高田耕甫作詞、山田耕作作曲である。
制定から107年になる現在も、横浜市立の学校の入学式や卒業式、また市の賀詞交換会等でこの市歌は歌われており、開港を契機に誕生・成長してきた都市横浜の誇りを今に受け継いでいる。
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