21世紀初頭の横浜―(5)横浜築港の新たな動き
1902年4月、開港第3世代と目された若手実業家の原富太郎や中村房次郎らが「横浜貿易研究会」を設置する。そしてアメリカのエール大学留学から帰国、1900(明治33)年に渋沢栄一の支持により第一銀行横浜支店長に就任した市原盛宏(いちはら もりひろ、1858~1915年、熊本出身)を囲んで、今後の横浜について論じ合った。第3代市長・梅田義信(1848年江戸生まれ、在任1896~1903年)の任期満了に伴い、次期の市長候補をめぐり横浜市会が激しく対立していた頃である。
横浜に市政が敷かれたのは1889(明治22)年4月、わずか13年前に過ぎない。前年の市制・町村制の公布により内務省告示第一号で全国に36市が誕生、うち1889年に横浜市ほか30都市が市政を施行した。市議会が市長候補者3名以内を選び、そこから内務省が市長を指名する制度である。
市制施行後の歩みを概観すると、第一歩として1888年5月に市会(市議会)議員選挙が行われ、36人が当選した。横浜の有力者の構成を反映して、商人派(同好会)が24名、地主派(公民会)が12名である。最初の市会は1889年5月に開会、仮議長に元横浜区長の増田知(さとし)が就き、彼の司会により原善三郎(1827~1899年、埼玉出身、生糸売込商)を市会議長に選出した。
市会が選考した市長候補者は茂木保平(やすへい)、平沼専蔵、増田の3名で、内務省は増田を指名した。ここに初の横浜市長が誕生する。増田(1843年栃木県出身)は群馬県、神奈川県などの官吏を歴任後、1886(明治19)年に横浜区長、ついで市長就任、在任は1889(明治22)年6月から翌年の2月までとごく短い。第2代市長が地元出身の佐藤喜左衛門(きざえもん、1848年生まれ、在任1890~1896年)、第3代市長が上掲の梅田である。
新生の横浜市は法令に従い、市長、助役、名誉職参事会員6名からなる市参事会を置き、合議制による市行政の執行機関とした。なお「市長独任制度」による市長権限の強化は、市制・町村制が大幅改正される1911年以降である。
第4代の市長選では、「商人派」に加え若手の原や中村もが、渋沢栄一らの推す「外国語に通じ、党派がなく、実業知識を備えた人物」の市原を推し、一方の「地主派」は助役の斉藤松三を推し、これら2名を内務省へ提出、市原が認められ、1903(明治36)年1月、就任した(在任は1903~1906年)。
その直後の3月、第8回総選挙をめぐり、現職の島田三郎を推す「横浜貿易新聞」(愛称は「貿易」)と伊藤内閣の送り込んだ加藤高明(前外相)・奥田義人(前文部次官)を推す「横浜新報」(愛称は「新報」)が、候補者以上に激しく争い、政財界、新聞界を二分する紛争となったことは、前回述べた。
これに対して市内では、開港第一世代の平沼専蔵(1836~1913年、埼玉出身、洋糸等の引取商)、第二世代の小野光景(1845~1919年、長野出身、生糸売込商、横浜商法学校のちの横浜商業学校=Y校を創設、横浜正金銀行頭取、1905年から横浜商業会議所の第4代会頭)、そして第三世代の原富太郎(1868~1939年、岐阜出身、原善三郎の孫娘と結婚、原家を継いで1899年に原合名会社とした実業家、生糸売込みに加え富岡製糸場等を経営、日本庭園の三溪園を造る)らが世代を超えて、加藤・奥田両名の推薦にまわった。
二大新聞も動く。「新報」を支える原富太郎と、「貿易」を支える中村房次郎(砂糖輸入商・増田屋の次男で横浜商法学校を卒業)の両人はともに30代半ばの同年(1868年生まれ)、総選挙がらみで過熱した両陣営、両新聞のシコリが市民感情や市政運営に及ぼす悪影響を痛感し、手をたずさえることで一致する。
1903年4月8日、「新報」紙が主張(社論)「太平洋上の競争と横浜築港問題」を発表、築港に関する国・県・市の責任範囲の明確化と、市民一体の運動を提言する。ついで市原市長が就任半年後の7月、市議ほか各界の名士を招き、市政の基本について演説した。「横浜の今日までの発達の多くは、外交の圧迫、外国人の移住、天与の良港、政府の庇護のたまもの、いわゆる受動的発達で、これは絶頂に達し、いまや自動的すなわち働きかけの発達が必要…」と強調する。
その「自動的発達」に港湾設備の充実、工業振興、市民生活の保全助成(福祉)の3つを掲げ、「我が市百年の大計の確立」を訴えるとともに、党争を解消し各層を結集、広く意思疎通と感情融和を助成する機関の設立を提案する。
その筆頭に掲げる港湾設備の充実については、防波堤建造を中心とする第1期築港に次いで、第2期築港は貿易量の拡大に伴う大型接岸施設(繋船岸壁工事)の新設と税関設備の拡充を柱とし、所管は内務省から離れ大蔵省(税関を所管)へ移る。第2期築港の前期は1899~1905年、後期は1906年度から開始、1917年の大桟橋改修をもって完成、19年の歳月を要した。
全国規模の港湾政策は、国が内務省に港湾調査会を設置(1900年=明治33年)、3年後に廃止、1906(明治39)年に再設置し、翌年、「重要港湾の選定及び施設の方針」を提案して政策とし採用された。すなわち全国の14港を指定、うち横浜・神戸・関門・敦賀の4港を第一種港湾(重要港)として国が起工、地元に負担金を課すこと(その率については規定がなく両者の交渉による)としており、この制度は1945年の敗戦までつづく。
この全国的制度の誕生前に、横浜の第2期築港が先行する。ついで1903年7月、横浜商業会議所も港湾修築を建議、これを受けて8月、港湾改良期成委員会が結成され、9月の総会で、第2期横浜税関拡張工事の早期着工と、今後の工事費の3分の1は横浜市が負担する建議書を市参事会へ提出した。
この提案通り、1906(明治39)年から第2期横浜税関拡張工事が始まる。7月、市会が負担金確保に300万円の事業公債起債を決定するも、国内の募集は困難と判断、翌月に外債(英貨31万7000ポンド)募集に変更した。これは国と地方自治体の公費分担率を地元が提案し実施された最初の事例である。(続く)
横浜に市政が敷かれたのは1889(明治22)年4月、わずか13年前に過ぎない。前年の市制・町村制の公布により内務省告示第一号で全国に36市が誕生、うち1889年に横浜市ほか30都市が市政を施行した。市議会が市長候補者3名以内を選び、そこから内務省が市長を指名する制度である。
市制施行後の歩みを概観すると、第一歩として1888年5月に市会(市議会)議員選挙が行われ、36人が当選した。横浜の有力者の構成を反映して、商人派(同好会)が24名、地主派(公民会)が12名である。最初の市会は1889年5月に開会、仮議長に元横浜区長の増田知(さとし)が就き、彼の司会により原善三郎(1827~1899年、埼玉出身、生糸売込商)を市会議長に選出した。
市会が選考した市長候補者は茂木保平(やすへい)、平沼専蔵、増田の3名で、内務省は増田を指名した。ここに初の横浜市長が誕生する。増田(1843年栃木県出身)は群馬県、神奈川県などの官吏を歴任後、1886(明治19)年に横浜区長、ついで市長就任、在任は1889(明治22)年6月から翌年の2月までとごく短い。第2代市長が地元出身の佐藤喜左衛門(きざえもん、1848年生まれ、在任1890~1896年)、第3代市長が上掲の梅田である。
新生の横浜市は法令に従い、市長、助役、名誉職参事会員6名からなる市参事会を置き、合議制による市行政の執行機関とした。なお「市長独任制度」による市長権限の強化は、市制・町村制が大幅改正される1911年以降である。
第4代の市長選では、「商人派」に加え若手の原や中村もが、渋沢栄一らの推す「外国語に通じ、党派がなく、実業知識を備えた人物」の市原を推し、一方の「地主派」は助役の斉藤松三を推し、これら2名を内務省へ提出、市原が認められ、1903(明治36)年1月、就任した(在任は1903~1906年)。
その直後の3月、第8回総選挙をめぐり、現職の島田三郎を推す「横浜貿易新聞」(愛称は「貿易」)と伊藤内閣の送り込んだ加藤高明(前外相)・奥田義人(前文部次官)を推す「横浜新報」(愛称は「新報」)が、候補者以上に激しく争い、政財界、新聞界を二分する紛争となったことは、前回述べた。
これに対して市内では、開港第一世代の平沼専蔵(1836~1913年、埼玉出身、洋糸等の引取商)、第二世代の小野光景(1845~1919年、長野出身、生糸売込商、横浜商法学校のちの横浜商業学校=Y校を創設、横浜正金銀行頭取、1905年から横浜商業会議所の第4代会頭)、そして第三世代の原富太郎(1868~1939年、岐阜出身、原善三郎の孫娘と結婚、原家を継いで1899年に原合名会社とした実業家、生糸売込みに加え富岡製糸場等を経営、日本庭園の三溪園を造る)らが世代を超えて、加藤・奥田両名の推薦にまわった。
二大新聞も動く。「新報」を支える原富太郎と、「貿易」を支える中村房次郎(砂糖輸入商・増田屋の次男で横浜商法学校を卒業)の両人はともに30代半ばの同年(1868年生まれ)、総選挙がらみで過熱した両陣営、両新聞のシコリが市民感情や市政運営に及ぼす悪影響を痛感し、手をたずさえることで一致する。
1903年4月8日、「新報」紙が主張(社論)「太平洋上の競争と横浜築港問題」を発表、築港に関する国・県・市の責任範囲の明確化と、市民一体の運動を提言する。ついで市原市長が就任半年後の7月、市議ほか各界の名士を招き、市政の基本について演説した。「横浜の今日までの発達の多くは、外交の圧迫、外国人の移住、天与の良港、政府の庇護のたまもの、いわゆる受動的発達で、これは絶頂に達し、いまや自動的すなわち働きかけの発達が必要…」と強調する。
その「自動的発達」に港湾設備の充実、工業振興、市民生活の保全助成(福祉)の3つを掲げ、「我が市百年の大計の確立」を訴えるとともに、党争を解消し各層を結集、広く意思疎通と感情融和を助成する機関の設立を提案する。
その筆頭に掲げる港湾設備の充実については、防波堤建造を中心とする第1期築港に次いで、第2期築港は貿易量の拡大に伴う大型接岸施設(繋船岸壁工事)の新設と税関設備の拡充を柱とし、所管は内務省から離れ大蔵省(税関を所管)へ移る。第2期築港の前期は1899~1905年、後期は1906年度から開始、1917年の大桟橋改修をもって完成、19年の歳月を要した。
全国規模の港湾政策は、国が内務省に港湾調査会を設置(1900年=明治33年)、3年後に廃止、1906(明治39)年に再設置し、翌年、「重要港湾の選定及び施設の方針」を提案して政策とし採用された。すなわち全国の14港を指定、うち横浜・神戸・関門・敦賀の4港を第一種港湾(重要港)として国が起工、地元に負担金を課すこと(その率については規定がなく両者の交渉による)としており、この制度は1945年の敗戦までつづく。
この全国的制度の誕生前に、横浜の第2期築港が先行する。ついで1903年7月、横浜商業会議所も港湾修築を建議、これを受けて8月、港湾改良期成委員会が結成され、9月の総会で、第2期横浜税関拡張工事の早期着工と、今後の工事費の3分の1は横浜市が負担する建議書を市参事会へ提出した。
この提案通り、1906(明治39)年から第2期横浜税関拡張工事が始まる。7月、市会が負担金確保に300万円の事業公債起債を決定するも、国内の募集は困難と判断、翌月に外債(英貨31万7000ポンド)募集に変更した。これは国と地方自治体の公費分担率を地元が提案し実施された最初の事例である。(続く)
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