【10】連載「東洋文化研究所の助手」
博士課程進学後は、修士論文の補正を行いつつ、日々の生活に追われていた。奨学金、亜細亜通信社の給与、それに頼まれた家庭教師の報酬を加えると、収入はかなりの額にのぼった。
1年後の1966年4月、幸いにも東京大学東洋文化研究所(略称は東文研)の助手(学校教育法の2007年改正では「助教」)のポストが決まった。大学院「入院」の果ては教員以外に職はないと言われていたが、その細い穴をやっと通過し、将来の展望を描くことができた。助手という国家公務員(教育職)の初任給は、院生時代の収入のほぼ3分の1、その激減に驚嘆する。
東洋文化研究所は、東洋文化に関する歴史、文学、哲学、文化人類学、比較文化、政治、経済等の多様な分野で構成され、助手の定員は約15名。学部の助手のような学生対応の用務はなく、もっぱら研究に専念できる、きわめて恵まれた職場であった。
私の助手在職の1966~1973年は、疾風怒濤の時代である。ベトナム戦争(1964~75年)が激化し、世界中で若者の造反と反戦運動が高まった。中国では文化大革命(1965~76年)が過激化し、日本でも1968年をピークとする学園闘争が燃え盛っていた。
まず私は修士論文の一部を使い「土地改革と基層政権の確立過程」を『歴史学研究』誌313号(1966年6月号)に掲載、これが初めての専門論文である。華北解放区で段階的に土地改革が行われ、「五四指示」(1946年)から「土地法大綱」(1947年)となり、地主からの農地無償没収と農民への配分という改革が進む。これが行政村(複数の自然村からなる)レベルの基層政権樹立の基礎となり、複数連合して県単位、解放区単位のボトムアップの政権となった。一方、全国各会派による人民政治協商会議も組織化が進む。これら2系統の政権構成が1949年10月の中華人民共和国成立を導いたことを明らかにした。
ベトナム戦争については、日々の報道にもかかわらず、ベトナム側の主張を知る機会が少ないと痛感、ペンネームの原大三郎を使い、先輩の太田勝洪さんとの共訳共編で、ベトナム労働党史編纂委員会資料(英文)を基に『ホー・チ・ミン:人とその時代』(東邦出版社 1966年)を刊行した。これは横浜市大退職時に作成した著作目録(2003年)には未収録だが、国会図書館で現物を確認することができた。
東洋文化研究所には大物教授が多数おられ、私の着任1年後、飯塚浩二(人文地理学)、江上波夫(考古学)、福島正夫(政治法制史)、米澤嘉圃(中国美術史)の4教授がそろって60歳の定年を迎えられた。助手とはほぼ一世代=30年の年齢差で、一つの時代が終わる印象を受けた。
この機会にと、助手連中と鳩首協議、お一人ずつに来ていただき、研究上の苦労等をうかがうことにした。大学院時代の「総合ゼミ」に似た試みで、1967年の初め頃だったと思う。15名の助手がそれぞれに分担し、4教授の著書・論文を精査して業績の核を見きわめ、質問事項をまとめた。
福島教授は明治法制史が専門であるが、同時進行の現代中国を分析した『人民公社の研究』(お茶の水書房 1960年)が先に出ており、これが私の専門分野と重なっていた。ついで『地租改正の研究』(有斐閣 1962年)、『日本資本主義と<家>制度』(東京大学出版会 1967年)等が出版されたが、研究の順番は逆であり、日本の地租改正等の研究で築いた方法をもって現代中国の人民公社を分析したもので、他に類を見ない。
美術史の米澤嘉授は文化財専門審議会委員や美術雑誌『国華』の主幹等をつとめ、とくに中国美術の目利きとして著名であった。『中国絵画史研究 山水画論』(平凡社 1962年)は楽しくページをめくったが、いま思うに私の山水画への関心はここに芽生えた。
飯塚教授は『日本の精神的風土』(岩波新書 1952年)、『東洋への視角と西洋への視角』(岩波書店 1964年)、『地理学と歴史』(古今書院 1966年)等を上梓しており、その平明で独特の文体に魅力を感じた。のち大先輩に対する敬意を込めて、『飯塚浩二著作集』第2巻「東洋史と西洋史とのあいだ・世界史における東洋社会」(平凡社 1975年)に私が解説を書いた(496~514ページ)。
<東洋>が中国語では<東の洋>や<日本>を指し、日本語でも同じ意味で使われていた時代があるが、近現代においては<東洋>、<亜細亜>、<アジア>の3表現は同義であるとする飯塚見解への反論である。
<東洋>は、幕末以降にその意味を変えていき、地理概念から文化概念へと急傾斜する。さらに調べを進め、「8 <東洋>-象徴語としての意味転換」(拙著『紀行随想 東洋の近代』朝日選書 1977年所収)にまとめた。
江上教授は『騎馬民族国家』(中公新書 1967年)の刊行直後で、1956年以来の東大イラク・イラン遺跡調査団長としてテル・サラサート(北メソポタミア)の原始農村遺跡発掘(東洋文化研究所に拠点)等を指導していた。
この30余年後、横浜市は江上教授の考古・美術・民族資料約2500点の寄贈を受け、2003年に「横浜ユーラシア文化館」を開設したが、私も横浜市立大学長として施設構想委員会に参画する巡りあわせとなった。
「どのように、どこからでも、打てば響く」教授各位の応答を通じて、フィールドワークやモノの資料を大切にする姿勢を学び、着想・調べ・構想・執筆等、研究の内実を知るとともに、その応答の深さに度肝を抜かれた。学際的研究の価値を教えられる研修のような、得難い経験であった。(続く)
1年後の1966年4月、幸いにも東京大学東洋文化研究所(略称は東文研)の助手(学校教育法の2007年改正では「助教」)のポストが決まった。大学院「入院」の果ては教員以外に職はないと言われていたが、その細い穴をやっと通過し、将来の展望を描くことができた。助手という国家公務員(教育職)の初任給は、院生時代の収入のほぼ3分の1、その激減に驚嘆する。
東洋文化研究所は、東洋文化に関する歴史、文学、哲学、文化人類学、比較文化、政治、経済等の多様な分野で構成され、助手の定員は約15名。学部の助手のような学生対応の用務はなく、もっぱら研究に専念できる、きわめて恵まれた職場であった。
私の助手在職の1966~1973年は、疾風怒濤の時代である。ベトナム戦争(1964~75年)が激化し、世界中で若者の造反と反戦運動が高まった。中国では文化大革命(1965~76年)が過激化し、日本でも1968年をピークとする学園闘争が燃え盛っていた。
まず私は修士論文の一部を使い「土地改革と基層政権の確立過程」を『歴史学研究』誌313号(1966年6月号)に掲載、これが初めての専門論文である。華北解放区で段階的に土地改革が行われ、「五四指示」(1946年)から「土地法大綱」(1947年)となり、地主からの農地無償没収と農民への配分という改革が進む。これが行政村(複数の自然村からなる)レベルの基層政権樹立の基礎となり、複数連合して県単位、解放区単位のボトムアップの政権となった。一方、全国各会派による人民政治協商会議も組織化が進む。これら2系統の政権構成が1949年10月の中華人民共和国成立を導いたことを明らかにした。
ベトナム戦争については、日々の報道にもかかわらず、ベトナム側の主張を知る機会が少ないと痛感、ペンネームの原大三郎を使い、先輩の太田勝洪さんとの共訳共編で、ベトナム労働党史編纂委員会資料(英文)を基に『ホー・チ・ミン:人とその時代』(東邦出版社 1966年)を刊行した。これは横浜市大退職時に作成した著作目録(2003年)には未収録だが、国会図書館で現物を確認することができた。
東洋文化研究所には大物教授が多数おられ、私の着任1年後、飯塚浩二(人文地理学)、江上波夫(考古学)、福島正夫(政治法制史)、米澤嘉圃(中国美術史)の4教授がそろって60歳の定年を迎えられた。助手とはほぼ一世代=30年の年齢差で、一つの時代が終わる印象を受けた。
この機会にと、助手連中と鳩首協議、お一人ずつに来ていただき、研究上の苦労等をうかがうことにした。大学院時代の「総合ゼミ」に似た試みで、1967年の初め頃だったと思う。15名の助手がそれぞれに分担し、4教授の著書・論文を精査して業績の核を見きわめ、質問事項をまとめた。
福島教授は明治法制史が専門であるが、同時進行の現代中国を分析した『人民公社の研究』(お茶の水書房 1960年)が先に出ており、これが私の専門分野と重なっていた。ついで『地租改正の研究』(有斐閣 1962年)、『日本資本主義と<家>制度』(東京大学出版会 1967年)等が出版されたが、研究の順番は逆であり、日本の地租改正等の研究で築いた方法をもって現代中国の人民公社を分析したもので、他に類を見ない。
美術史の米澤嘉授は文化財専門審議会委員や美術雑誌『国華』の主幹等をつとめ、とくに中国美術の目利きとして著名であった。『中国絵画史研究 山水画論』(平凡社 1962年)は楽しくページをめくったが、いま思うに私の山水画への関心はここに芽生えた。
飯塚教授は『日本の精神的風土』(岩波新書 1952年)、『東洋への視角と西洋への視角』(岩波書店 1964年)、『地理学と歴史』(古今書院 1966年)等を上梓しており、その平明で独特の文体に魅力を感じた。のち大先輩に対する敬意を込めて、『飯塚浩二著作集』第2巻「東洋史と西洋史とのあいだ・世界史における東洋社会」(平凡社 1975年)に私が解説を書いた(496~514ページ)。
<東洋>が中国語では<東の洋>や<日本>を指し、日本語でも同じ意味で使われていた時代があるが、近現代においては<東洋>、<亜細亜>、<アジア>の3表現は同義であるとする飯塚見解への反論である。
<東洋>は、幕末以降にその意味を変えていき、地理概念から文化概念へと急傾斜する。さらに調べを進め、「8 <東洋>-象徴語としての意味転換」(拙著『紀行随想 東洋の近代』朝日選書 1977年所収)にまとめた。
江上教授は『騎馬民族国家』(中公新書 1967年)の刊行直後で、1956年以来の東大イラク・イラン遺跡調査団長としてテル・サラサート(北メソポタミア)の原始農村遺跡発掘(東洋文化研究所に拠点)等を指導していた。
この30余年後、横浜市は江上教授の考古・美術・民族資料約2500点の寄贈を受け、2003年に「横浜ユーラシア文化館」を開設したが、私も横浜市立大学長として施設構想委員会に参画する巡りあわせとなった。
「どのように、どこからでも、打てば響く」教授各位の応答を通じて、フィールドワークやモノの資料を大切にする姿勢を学び、着想・調べ・構想・執筆等、研究の内実を知るとともに、その応答の深さに度肝を抜かれた。学際的研究の価値を教えられる研修のような、得難い経験であった。(続く)
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