【9】連載「報告書出版と修士論文」
1963年7月、広島・アウシュビッツ平和行進から帰国、出発地の広島へ報告に行き、ついで全国各地で、また東大駒場祭等の学園祭で、写真展示と講演を主とする報告会を開いた。新聞各紙の報道もあり、おかげで熱気ある報告会となった。
限られた報告会にとどまらず、支援者や事務局を支えてくれた友人たち、それに多くの読者にも広く読んでもらえる報告書を作りたいと考え、執筆に取りかかった。手元には日誌類、事務局へ送信した手紙、写真入りで報道された国内外の新聞記事、キャプションを付けた写真等々、かなりの資料がある。
報告書の担当は梶村慎吾と私である。佐藤行通団長は「任せる」の一言を残し次の平和運動に邁進、草稿を送ったが格別の注文は来なかった。山崎友宏(財務担当)は帰国翌年の秋にポーランドへ留学、担当個所の原稿は航空便で送ってきた。カメラ担当の梶村は、写真やメモをもとに分担個所を記述した。
私は日々の行動を書き留める担当(記録+報告)であった。個々の記述を関連付け、いかに明確に伝えるかに苦労したが、ずっと抱えていた精神的消化不良が書くことで解消していくのが分かり、少しずつ楽になっていった。
一方、自活のためのアルバイトもしなければならない。26歳になった私は、築地本願寺の近くにあった亜細亜通信社(のち中国通信社と改名)に勤めた。テープ印刷されて出てくる新華社等の中国語ニュースと英文テレタイプで来る新華社電、それにラジオ放送を情報源に翻訳・編集して記事とし、国内の各新聞社等へ配信する仕事である。
深夜が勝負時で、新聞社の朝刊締切が早朝2時、問い合わせもあり気が抜けない。やがてインドで罹った流行性肝炎再発の恐怖を覚え、昼間のシフトに替えてもらった。そこでは花形のニュース作成(速報性)ではなく、中長期の見方を中心とした長めの記事を書いた。
日々の生活に追われるなかで、最重要の問題が後回しになっていた。修士課程2年はその倍まで在学できる。すなわち私は1963年度のうちに修士論文を提出、審査を経て課程を修了しなければならない。論文の提出期限は1964年1月。
論文テーマは中国現代史と決めてはいたが、先行研究を整理し、史料を読み、論旨を立て、実証するだけの時間的余裕がないまま、平和行進の準備に約2年、33カ国の旅に1年3か月を要し、論文執筆に専念する時間は限られていた。帰国後は報告会に報告書作成とアルバイトが加わった。
修士論文提出は絶望的と分かった。しかし、ここで歴史研究の道を諦めるわけにはいかない。慌てて指導教員の松本善海教授(東洋文化研究所)に相談した。すると、1963年12月末に退学届を出せ、そして翌1964年4月に再入学届を出せ、とのこと。このマジックに救われた。心より感謝。
1年間の余裕を得て、1965年1月に修士論文「中国の土地改革と農村社会-1930年代~1956年」を提出した。国共内戦の激化(1930年~)、満州事変(1931年)、国共合作による抗日戦争(~1945年)、戦後内戦から中華人民共和国の成立(1945年~1949年)、人民公社の設立(1956年)とつづく激動中国の変革を貫く主役は、最大多数の農民と農村社会であると考え、そこに焦点を当てた。すなわち各段階の土地改革と、それにより変わる農村社会のあり様を分析した。
なかでも1947~48年の華北解放区各地の土地改革と基層政権の樹立過程を重点的に分析、資料を読みこみ、法令や各種の新聞雑誌記事に加え、刊行直後のルポルタージュ、ウィリアム・ヒントン『翻身-ある中国農村の革命の記録』(1966年)等も重要な参考資料とした。
なお<翻身>(ファンシェン)とは「寝返りをうつ」の意味から転じて、「抑圧された者が立ち上がる」、「解放される」を意味する新しい言葉である。本書は一般書としても稀有の内容を持つため、加藤幹雄、春名徹、吉川勇一と私の4人で共訳し、1972年、平凡社から出版した。
とにもかくにも修士論文を提出することができ、博士課程進学も決まり、心おきなく平和行進の報告書作成に集中した。初めは暗いトンネルを彷徨うようであったが、章と節でポイントを示し、それぞれに適切な見出しをつけると視界が一挙に開けるのを感じた。
論文と違い、不特定多数の読者の目線に立って論旨や表現を再検討する作業が不可欠で、脱稿したのは4月頃と記憶している。帰国から約1年半、そして修士論文を提出してから約3か月間で完成稿にまとめ、友人たちが賑やかに集まって清書をしてくれ、それにまた補正を重ねた。
だが、どのように本を出版するのか分からない。梶村が東大YMCA寮の寮生に聞いて回り、後輩の藤村誠さんの親戚を介して弘文堂を紹介してもらった。その弘文堂の田村勝夫編集部長、生田栄子編集課長、萩原実、竹内正午の諸氏からさまざまな教示と示唆をもらい、1965年8月、加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 新書版)がやっと日の目を見た。
本書の見返しのページに加納竜一・水野肇『ヒロシマ二十年-原爆記録映画製作者の証言』の広告があり、後で気づいたが、本書刊行の1965年8月は、奇しくも広島原爆投下20年に当たっていた。この刊行月の決定は、田村編集部長の思いをかけた計算にちがいない。
多くの方々の支援のおかげで、ここまで来ることができた。どこまで恩返しできたかは分からないが、平和行進を広く知ってもらえる形にしたことで、重い責任をひとまずは果たせたと安堵した。(続く)
限られた報告会にとどまらず、支援者や事務局を支えてくれた友人たち、それに多くの読者にも広く読んでもらえる報告書を作りたいと考え、執筆に取りかかった。手元には日誌類、事務局へ送信した手紙、写真入りで報道された国内外の新聞記事、キャプションを付けた写真等々、かなりの資料がある。
報告書の担当は梶村慎吾と私である。佐藤行通団長は「任せる」の一言を残し次の平和運動に邁進、草稿を送ったが格別の注文は来なかった。山崎友宏(財務担当)は帰国翌年の秋にポーランドへ留学、担当個所の原稿は航空便で送ってきた。カメラ担当の梶村は、写真やメモをもとに分担個所を記述した。
私は日々の行動を書き留める担当(記録+報告)であった。個々の記述を関連付け、いかに明確に伝えるかに苦労したが、ずっと抱えていた精神的消化不良が書くことで解消していくのが分かり、少しずつ楽になっていった。
一方、自活のためのアルバイトもしなければならない。26歳になった私は、築地本願寺の近くにあった亜細亜通信社(のち中国通信社と改名)に勤めた。テープ印刷されて出てくる新華社等の中国語ニュースと英文テレタイプで来る新華社電、それにラジオ放送を情報源に翻訳・編集して記事とし、国内の各新聞社等へ配信する仕事である。
深夜が勝負時で、新聞社の朝刊締切が早朝2時、問い合わせもあり気が抜けない。やがてインドで罹った流行性肝炎再発の恐怖を覚え、昼間のシフトに替えてもらった。そこでは花形のニュース作成(速報性)ではなく、中長期の見方を中心とした長めの記事を書いた。
日々の生活に追われるなかで、最重要の問題が後回しになっていた。修士課程2年はその倍まで在学できる。すなわち私は1963年度のうちに修士論文を提出、審査を経て課程を修了しなければならない。論文の提出期限は1964年1月。
論文テーマは中国現代史と決めてはいたが、先行研究を整理し、史料を読み、論旨を立て、実証するだけの時間的余裕がないまま、平和行進の準備に約2年、33カ国の旅に1年3か月を要し、論文執筆に専念する時間は限られていた。帰国後は報告会に報告書作成とアルバイトが加わった。
修士論文提出は絶望的と分かった。しかし、ここで歴史研究の道を諦めるわけにはいかない。慌てて指導教員の松本善海教授(東洋文化研究所)に相談した。すると、1963年12月末に退学届を出せ、そして翌1964年4月に再入学届を出せ、とのこと。このマジックに救われた。心より感謝。
1年間の余裕を得て、1965年1月に修士論文「中国の土地改革と農村社会-1930年代~1956年」を提出した。国共内戦の激化(1930年~)、満州事変(1931年)、国共合作による抗日戦争(~1945年)、戦後内戦から中華人民共和国の成立(1945年~1949年)、人民公社の設立(1956年)とつづく激動中国の変革を貫く主役は、最大多数の農民と農村社会であると考え、そこに焦点を当てた。すなわち各段階の土地改革と、それにより変わる農村社会のあり様を分析した。
なかでも1947~48年の華北解放区各地の土地改革と基層政権の樹立過程を重点的に分析、資料を読みこみ、法令や各種の新聞雑誌記事に加え、刊行直後のルポルタージュ、ウィリアム・ヒントン『翻身-ある中国農村の革命の記録』(1966年)等も重要な参考資料とした。
なお<翻身>(ファンシェン)とは「寝返りをうつ」の意味から転じて、「抑圧された者が立ち上がる」、「解放される」を意味する新しい言葉である。本書は一般書としても稀有の内容を持つため、加藤幹雄、春名徹、吉川勇一と私の4人で共訳し、1972年、平凡社から出版した。
とにもかくにも修士論文を提出することができ、博士課程進学も決まり、心おきなく平和行進の報告書作成に集中した。初めは暗いトンネルを彷徨うようであったが、章と節でポイントを示し、それぞれに適切な見出しをつけると視界が一挙に開けるのを感じた。
論文と違い、不特定多数の読者の目線に立って論旨や表現を再検討する作業が不可欠で、脱稿したのは4月頃と記憶している。帰国から約1年半、そして修士論文を提出してから約3か月間で完成稿にまとめ、友人たちが賑やかに集まって清書をしてくれ、それにまた補正を重ねた。
だが、どのように本を出版するのか分からない。梶村が東大YMCA寮の寮生に聞いて回り、後輩の藤村誠さんの親戚を介して弘文堂を紹介してもらった。その弘文堂の田村勝夫編集部長、生田栄子編集課長、萩原実、竹内正午の諸氏からさまざまな教示と示唆をもらい、1965年8月、加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 新書版)がやっと日の目を見た。
本書の見返しのページに加納竜一・水野肇『ヒロシマ二十年-原爆記録映画製作者の証言』の広告があり、後で気づいたが、本書刊行の1965年8月は、奇しくも広島原爆投下20年に当たっていた。この刊行月の決定は、田村編集部長の思いをかけた計算にちがいない。
多くの方々の支援のおかげで、ここまで来ることができた。どこまで恩返しできたかは分からないが、平和行進を広く知ってもらえる形にしたことで、重い責任をひとまずは果たせたと安堵した。(続く)
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