【8】連載「極西の国へ」
「広島・アウシュビッツ平和行進」の終着地アウシュビッツ、解放18周年の1963年1月27日、凍てつく寒さの中を鼓笛隊の後ろに我々がつづき、数千人の行進が進む。記念碑の前で国際アウシュビッツ委員会のホルユ委員長が、厳かにアウシュビッツ宣言を読み上げた。「我々がここで味わった苦しみを、ふたたび味わうことのないように…」。
広島を出発して1年、我々は任務を無事に終えた。このまま帰国する案もあったが、ヨーロッパにおける大衆的平和運動の中心地イギリス、そのオルダーマストン(ロンドン郊外、原子兵器研究所がある)とロンドン中心部を結ぶ恒例の平和行進が復活祭の週末にあり、参加を決めた。
我々は再び”No more Hiroshima, Never again Auschwitz”を掲げ、ポーランドから東西ドイツ、スイス、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデンを経て、またフランスに戻り、そこからドーバー海峡を渡って、「極東」の日本から、ついに「極西」のイギリスの地を踏むまで、4人の平和行進をつづけた。反応は西欧の方が高いと感じた。
オルダーマストン平和行進(1859年~)には誰もが自由に参加できる。個人・団体を含めて、総数で1万人を超えていた。春の陽気にも後押しされ、様々な人々と精力的に意見交換した。
この頃から少しずつ私のなかで歴史研究への関心が膨らんでいったように思う。短期間にあまりにも多くの経験を取り込みすぎて精神的消化不良に陥り、中心軸を求めて歴史研究へ回帰しようとしたのかもしれない。
イスラエルで地中海を見たのを最後に、内陸部を巡ってイギリスに入り、日本との類似性に出会う。広大なユーラシア大陸の両端に位置する小さな島国、この2つの海洋国家が果たした世界近代史上の役割に心が向いた。
イギリスは18世紀以来のアジア進出過程でインドを植民地とし、中国とはアヘン戦争で激突、しかし日本との国交樹立はアメリカの後塵を拝した。19世紀末から20世紀初頭にかけては、イギリスが日本との条約改正を先導、やがて日英同盟等の協調関係を築く。のちに私が研究を進めるための何かを、この地で感じ取った気がする。
ロンドンの街中ではインド人らしい人を多く見かけた。大陸の東西に位置する日本とイギリス、その中間にあるイギリスの「宝」(旧植民地)であったインドの存在は気になっていた。わずかでもインドに滞在して、ガンディーの非暴力独立運動やネルー首相らの先導した「アジア・アフリカの時代」、かつてこの地に拡がっていた綿花畑やケシ畑(アヘンの原料)が見えるような気がした。
我々はイギリスからUターンして、いよいよ日本を目ざす。私の肝炎も徐々に治まり、やがて肌に滲む胆汁の黄色も、耐え難い疲労感も消えていった。
ソ連領内のブリヤト・モンゴル共和国(仏教徒の多い飛び地)を訪問後、イルクーツクから空路北京に入る。北京には城門脇に見上げる髙さの城壁が残っていた。天安門広場に面した人民大会堂(議事堂)は、建国(1949年)10周年記念として完成したばかりだった。なお中ソ関係の悪化に伴い作られた「北京地下城」と呼ばれる核シェルター(1969年)はまだない。
大きな燃料袋を車体の上に乗せたバスがスピードをあげて市中を走る。街角のそこここに鉄くずがうず高く積んである。「土法生産」(在来技術による生産)と呼ばれる「大衆路線」による粗鉄で、新しい技術への大胆な挑戦という意味はあったものの、技術水準が低く放棄されていた。戦後の東京の焼け跡を走る木炭バス等、私自身の体験と重なる北京の現実も、のちの私の中国現代史研究の<原風景>となる。
北京から上海、広州を経て、香港で貨客船に乗り、往路と同じ航路を逆にたどって帰国した。いささか浦島太郎の感覚で、すぐに広島へ報告に。そして各地の報告会に出る日々が始まる。
我々の出発した1962(昭和37)年夏、ソ連の核実験をめぐり原水爆禁止世界大会で対立が生じ、帰国した1963(昭和38)年夏の原水爆禁止世界大会が社会党系と日本共産党系の分裂開催となり、被爆者団体協議会(被団協)も同様に分裂した。
4人の平和行進は、さまざまな団体(合計41団体)から支援を受けたが、組織的にはどの団体とも一線を画していた。こうした状況下でも、我々の報告会への反応は悪くはなかった。マスコミが継続的に報道してくれていたことも関係していたと思う。
精神的な消化不良にも相変わらず悩んでいたが、ある日ふと気づいた。この旅は、私にとって「天恵」ではなかったかと。アジア・ヨーロッパ諸国の地理や風土について勘が働き、肌の色、宗教、食べ物、風俗習慣、貧富の差といった各レベルで具体的な判断がつくようになった。言葉も風土も宗教もまったく違う所で生きる人々の日常や感情を体感できた。いずれも大まかではあるが。
歴史的経験による国家間の感情のしこり(中印、印パ、中東における旧植民地と旧宗主国、ナチスドイツとその支配下にあった国々等々)も、ある程度まで理解できるように思った。「地理(学)と歴史(学)は兄弟」に共感できるようになったのも、この旅のおかげである。
時を経るとともに、この旅で感取した何かを文字史料で補完する歴史研究の方法はないか、と考えるようになった。もっとも、卒業論文の不完全燃焼、1年3か月の33カ国を回る大旅行、病を押しての強行軍、それらすべてが私の歴史研究を支えていると気づく余裕を得るには、もう少しの時間と精神のリハビリが必要であったが……(続く)
広島を出発して1年、我々は任務を無事に終えた。このまま帰国する案もあったが、ヨーロッパにおける大衆的平和運動の中心地イギリス、そのオルダーマストン(ロンドン郊外、原子兵器研究所がある)とロンドン中心部を結ぶ恒例の平和行進が復活祭の週末にあり、参加を決めた。
我々は再び”No more Hiroshima, Never again Auschwitz”を掲げ、ポーランドから東西ドイツ、スイス、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデンを経て、またフランスに戻り、そこからドーバー海峡を渡って、「極東」の日本から、ついに「極西」のイギリスの地を踏むまで、4人の平和行進をつづけた。反応は西欧の方が高いと感じた。
オルダーマストン平和行進(1859年~)には誰もが自由に参加できる。個人・団体を含めて、総数で1万人を超えていた。春の陽気にも後押しされ、様々な人々と精力的に意見交換した。
この頃から少しずつ私のなかで歴史研究への関心が膨らんでいったように思う。短期間にあまりにも多くの経験を取り込みすぎて精神的消化不良に陥り、中心軸を求めて歴史研究へ回帰しようとしたのかもしれない。
イスラエルで地中海を見たのを最後に、内陸部を巡ってイギリスに入り、日本との類似性に出会う。広大なユーラシア大陸の両端に位置する小さな島国、この2つの海洋国家が果たした世界近代史上の役割に心が向いた。
イギリスは18世紀以来のアジア進出過程でインドを植民地とし、中国とはアヘン戦争で激突、しかし日本との国交樹立はアメリカの後塵を拝した。19世紀末から20世紀初頭にかけては、イギリスが日本との条約改正を先導、やがて日英同盟等の協調関係を築く。のちに私が研究を進めるための何かを、この地で感じ取った気がする。
ロンドンの街中ではインド人らしい人を多く見かけた。大陸の東西に位置する日本とイギリス、その中間にあるイギリスの「宝」(旧植民地)であったインドの存在は気になっていた。わずかでもインドに滞在して、ガンディーの非暴力独立運動やネルー首相らの先導した「アジア・アフリカの時代」、かつてこの地に拡がっていた綿花畑やケシ畑(アヘンの原料)が見えるような気がした。
我々はイギリスからUターンして、いよいよ日本を目ざす。私の肝炎も徐々に治まり、やがて肌に滲む胆汁の黄色も、耐え難い疲労感も消えていった。
ソ連領内のブリヤト・モンゴル共和国(仏教徒の多い飛び地)を訪問後、イルクーツクから空路北京に入る。北京には城門脇に見上げる髙さの城壁が残っていた。天安門広場に面した人民大会堂(議事堂)は、建国(1949年)10周年記念として完成したばかりだった。なお中ソ関係の悪化に伴い作られた「北京地下城」と呼ばれる核シェルター(1969年)はまだない。
大きな燃料袋を車体の上に乗せたバスがスピードをあげて市中を走る。街角のそこここに鉄くずがうず高く積んである。「土法生産」(在来技術による生産)と呼ばれる「大衆路線」による粗鉄で、新しい技術への大胆な挑戦という意味はあったものの、技術水準が低く放棄されていた。戦後の東京の焼け跡を走る木炭バス等、私自身の体験と重なる北京の現実も、のちの私の中国現代史研究の<原風景>となる。
北京から上海、広州を経て、香港で貨客船に乗り、往路と同じ航路を逆にたどって帰国した。いささか浦島太郎の感覚で、すぐに広島へ報告に。そして各地の報告会に出る日々が始まる。
我々の出発した1962(昭和37)年夏、ソ連の核実験をめぐり原水爆禁止世界大会で対立が生じ、帰国した1963(昭和38)年夏の原水爆禁止世界大会が社会党系と日本共産党系の分裂開催となり、被爆者団体協議会(被団協)も同様に分裂した。
4人の平和行進は、さまざまな団体(合計41団体)から支援を受けたが、組織的にはどの団体とも一線を画していた。こうした状況下でも、我々の報告会への反応は悪くはなかった。マスコミが継続的に報道してくれていたことも関係していたと思う。
精神的な消化不良にも相変わらず悩んでいたが、ある日ふと気づいた。この旅は、私にとって「天恵」ではなかったかと。アジア・ヨーロッパ諸国の地理や風土について勘が働き、肌の色、宗教、食べ物、風俗習慣、貧富の差といった各レベルで具体的な判断がつくようになった。言葉も風土も宗教もまったく違う所で生きる人々の日常や感情を体感できた。いずれも大まかではあるが。
歴史的経験による国家間の感情のしこり(中印、印パ、中東における旧植民地と旧宗主国、ナチスドイツとその支配下にあった国々等々)も、ある程度まで理解できるように思った。「地理(学)と歴史(学)は兄弟」に共感できるようになったのも、この旅のおかげである。
時を経るとともに、この旅で感取した何かを文字史料で補完する歴史研究の方法はないか、と考えるようになった。もっとも、卒業論文の不完全燃焼、1年3か月の33カ国を回る大旅行、病を押しての強行軍、それらすべてが私の歴史研究を支えていると気づく余裕を得るには、もう少しの時間と精神のリハビリが必要であったが……(続く)
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