コムギの里帰り

 12月19日(土曜)午後、JICA横浜において「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り」-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッションが開かれた。
 トークのゲストとして、アフガニスタン(以下、アフガン)からM・ハイダリ農業灌漑牧畜省副大臣、A.G.グリアーニ農業灌漑牧畜省前副大臣、B.M.モステンビラ外務省経済協力副局長、北中真人JICA農村開発部部長、それに坂智広(ばん ともひろ)横浜市立大学木原生物学研究所教授が参加した。
 SATREPSとは、坂さんが中心となって進めている、JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後復興途上にあるアフガンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を指す。その5年にわたる共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考えるのが今回の市民フォーラムの狙いである。
 最初にNHKニュース特集の録画が放映され、旱魃に強いコムギの在来種をアフガンに里帰りさせるプロジェクトの概要を知る。ついで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映。これは外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい60年前、1955年に京都大学が編成した戦後初の総合的学術調査(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)の成果である。
 タルホコムギほかのコムギ遺伝資源を採集した総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。
 砂漠の中のオアシス、バザール(市場)、コムギ原料の常食であるナンやチャパティと羊肉料理、豊富な果物、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は、私(19歳)をふくめ、若者たちに大きな夢を与えた。
 この学術探検をリードした木原均(1893~1986年)さんは東京生まれ、1918年に北海道大学卒業、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」を聴いたことが植物遺伝学の研究に進むきっかけと言われる。
 のち京都大学へ移って研究教育に従事、1920年から助手、1924年に助教授、1927~42年教授、コムギの研究における世界的権威で、ゲノムという考え方を提唱した研究者であり、「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されている」(1946年)という有名な言葉を残した。また種子植物の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。
 京大退任後の1942年に財団法人木原生物学研究所(京都)を設立、1957(昭和32)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、設立40周年を期に目的の一端を果たしたとし、1984(昭和59)年に横浜市大へ移管、植物系部門を中心とした附置研究所となった。それから30年になる。
 市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(10代・11代、在任1982~1990年)の下、草薙昭雄さん(生物学)が急逝した後は、小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一横浜市長(17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めてくれた。
 私も文科系の一人として応援したが、木原さんが偉大な学者であり、かつスキー、野球等を愛したという、もう一つの顔に共感を覚えた。フォーラム会場で配られた木原ゆり子「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(6回の連載、「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」所収)には、氏の「3つの顔」+αや5回にわたる学術探検行等が活写されている。
 移管から18年、私は横浜市大学長(14代、在任1998~2002年)を最後に退職した。それ以降の市大との関係の1つが教職員テニス親睦会と硬式庭球部学生との親善試合である。正式の親睦会創設は1983年で私が長く会長を務め、親善試合は1991年に始まる(硬式庭球部部長を務めた岡眞人さんのメモによる)。
 去年春の親善試合の日、学生に負けない鋭いボールを打つ左利きに目を見張った。本プロジェクトの坂さんである。親睦会副会長として会員宛に定期的にメールを送ってくれている(市民フォーラム開催もこれで知る)が、彼の仕事に触れるのは今回が初めてである。
 坂さんは1963年生まれ、1985年、岐阜大学農学部農学研究科卒業(遺伝育種学)、2000年に博士(農学)を取得、農林水産省農業研究センター・研究員、農林水産省国際農林水産業研究センター(JIRCAS)主任研究官を歴任した。JIRCAS時代の2004年から3年間、メキシコに本部を置く「国際とうもろこし小麦改良センター(CIMMYT)」に派遣され、コムギの国際共同研究プロジェクトを率いた。そして2007年、横浜市大木原生物学研究所教授(植物遺伝資源科学部門)に就任する。
 彼は研究所が保有するコムギ約6000系統とトウガラシ約400系統の貴重な遺伝資源を、(1)類型的に増殖・管理・評価して有用形質の遺伝子を探索し、画期的品種開発や地域ブランド創生に向けた遺伝資源の活用と遺伝育種学的研究を行うと同時に、(2)植物遺伝資源の収集・維持管理、評価と解析の植物ゲノムと育種への応用に向けた植物遺伝資源科学研究を通じ、地域・国際社会への貢献と、国際舞台で活躍できる若手人材の育成を行っている。
 その各論の1つが今年で5年目になるSATREPS(「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」)である。坂研究室のホームページ再掲の神奈川新聞や読売新聞の報道によれば、1979年のソ連軍侵攻とその撤退後の内戦の混乱で疲弊した農地に、アメリカから生産性の高い外来種コムギを導入したものの、強い乾燥に耐えられず平均収穫量は1ヘクタールあたり約2トン、これを4トンに引き上げる必要がある。それには品種改良された在来種が最適ではないかと、アフガン農業省でコムギの品種改良を担当する2名が坂研究室で修士課程を修了、約500粒を持ち帰った。
 木原さんが農学を志して北大に入学してから97年、アフガンで多くのコムギを収集して60年、コムギやトウガラシの貴重な遺伝資源が横浜市大へ移管されて31年になる。
 また会場となったJICA横浜は2002年、13年前のオープンである。小幡俊弘所長(1981年横浜市大卒)と話しているうちに、JICAの横浜誘致に積極的な高秀秀信市長(18代、在任1990~1998年)の意向を受けて、私も委員会に参画したことを思い出した。
 「カラコルム」放映につづくトークセッションでは、アフガンからのゲスト3氏が、生誕以前(60年前)の祖国の明るい表情に改めて驚き、ソ連侵攻からタリバン支配の35年の空白、そして再興アフガンをめざす農業の取組み等の苦闘の歴史を回顧し、未来への展望を語った。
 坂さんは、本プロジェクトを「今後の15年、20年の基礎をつくるもの」であるとし、コムギ在来種の、とくに高地(台地)の乾燥地帯の収量を高める(それが食糧自給率を高める)ことが、代替作物のケシ(麻薬アヘンの原料)撲滅にも繋がると話した。
 木原さんの偉大な活動は、それを継ぐ各方面の尽力で折々の危機を乗り越えてきた。未来を担う坂さんと教え子たちの息の長い活動はこれからもつづく。多様な気候風土に適した在来種の品種改良と、その人材育成には、少なくともあと1期=5年の継続が求められよう。実り豊かな成果を願ってやまない。
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三溪園のボランティア

 国指定名勝・三溪園は、多くのボランティアに支えられている。「訪れるたびに別のガイドさんの説明があり、三溪園がより深く分かる」という趣旨の言葉をいただくと、園長としても嬉しい。
 三溪園のボランティアが始まったのは2003年、今年で13年目になる。a)ガイド127名、b)合掌造40名、c)庭園79名に分かれ、今年6月段階で合計206人が登録、年齢は29歳から87歳まで、男性118名、女性57名である。
 a)ガイドは、庭園・歴史的建造物の由来や動植物、イベントの話題・情報など、三溪園の多彩な魅力を来園者に伝える。毎日11時と14時から、内苑入口を出発して1時間の案内をする。新緑と紅葉の時期の古建築公開では、建物のスポットガイドにも協力する。いずれも無料で提供。
 曜日ごと7班のグループが活動しており、「訪れるたびに別のガイドさんの説明…」とあるのは、曜日により、また同じ曜日でも担当者により、説明の仕方が少しずつ違うからである。
 ガイド登録後に三溪園主催の研修で最低限の共通事項を修得するが、さらに研鑽を重ね、それぞれが得意分野を持っている。造園、古建築、襖絵、茶室、花や樹木、野鳥の種類と特性、三溪園を作った原三溪の思想や生き方等々、広範囲に及ぶ。20世紀になって新興都市横浜に生まれた17ヘクタール余の日本庭園(来年は開園110周年)、国指定名勝・三溪園の奥深さが、自ずと絶えざる研鑽の喜びを与えてくれる。
 また10人以上を対象とするガイド予約制度もあり、これによる案内を受けた延べ人数はこの1年で11,407人にのぼる。毎日11時からと2時からのガイド案内、それにフリーガイド(来園者の依頼を受けて当日に受け付ける)を受けた人は、10万人以上と推定できる。今年の入園者数は約44万人(見込み)であり、来園者の4人に1人以上がガイドの受益者と見てよかろう。
 b)合掌造りの旧矢篦原(やのはら)住宅は、岐阜県飛騨白川郷から昭和35(1960)年に移築された江戸時代後期の民家で、現存する最大規模の合掌造りである。式台玄関や書院造の座敷、農家ながら立派な接客空間や京都本願寺への寄付により許された火灯窓を備える等、矢篦原家の権勢ぶりをうかがわせる。
 ここは三溪園内で唯一、常時開放で民具等を展示、屋内外の管理を行うとともに、ガイドや当時の飛騨地方の生活の一端を再現する年中行事、季節の飾りつけ、催しの実施等を行っている。囲炉裏には薪をくべ、火を絶やさない。
 c)庭園は、国指定名勝の三溪園の庭園景観維持のため、花や竹や木など植栽の手入れを行う。三溪園が計画する年10~20回ほどの作業に数回参加するほか、各自が日時と作業内容を決めて活動できる。これはa)ガイド、b)合掌造りとの重複登録も可能。
 その三溪園ボランティアの定例連絡会が12月17日(木曜)午後、鶴翔閣で開催された。従来は新年会を兼ねていたが、今年は忘年会を兼ね、この1年の締めくくりもする。参加者は78名と三溪園職員。
 羽田雄一郎主事の司会進行により13時の定刻に始まった。受付で配られた「次第」(裏面は会議の仕様と忘年会の仕様がある)と3種の資料に沿って、川越寛副園長の開会挨拶、羽田主事「2015年の活動のふりかえり」(10分)、「ボランティア各有志グループ活動報告」(15分)として、竹内勲さんが「自然観察会」を、久家孝之さんが「茶の湯会」を、勝部暢之さんが「英語ガイドの会」をそれぞれ報告した。ついで吉川利一事業課長「三溪園の事業報告と計画」(15分)と質疑応答が10分、ほぼ「次第」通りに進む。
 次がボランティア歴10年の11名(うち3名は欠席)への感謝状贈呈式である。五十音順に、有馬紘一、大高順子、川口伸江、倉田茂男、小林千朋(欠席)、鷺岡俶江(欠席)、白鳥久美子、樋泉武(欠席)、西村鉉一、増田穣、宮崎松実(敬称略)のみなさん。今年は第4期(2005年登録者)に当たり、第1期からの27名を加えると、合計38名になる。
 私は挨拶のなかで、東京オリンピック(2020年)に向けて外国人の来園者がいっそう増えることが予想され、ガイドの仕方にも新たな工夫が必要になろう、みなさんの知恵を拝借したい…と述べた。
 感謝状には「あなたは三溪園ボランティアとして10年の長きにわたり活躍され、三溪園の魅力の増進と発信に大きく貢献されましたので、ここに感謝の意を表します」とある。私が一人一人に読み上げてお渡しした。
 これに応えて、めいめいがこの10年を振り返って挨拶をされた。それぞれに堂々として、思いあふれる挨拶である。
「怪我をして休んでから復帰したときに班の人たちが暖かく迎え入れてくれたことが忘れられない。信頼できる方々と毎週お会いできるのが嬉しい」
「2歳のときに潮干狩りに来てから、これまで三溪園へ来るたびに感得するものがあり、自分が成長している実感を持ちます」
「庭園、古建築、三溪園の作者の原三溪の人物像、記念館に展示される書画や写真等々、これらの奥深さに触れる毎日です」
「東京の日本庭園で三溪園のパンフとボランティア募集の案内を見て応募した。名勝としての質と深さは三溪園がはるかに勝ると思います」
「自分の周辺を含めて、横浜市民が意外に三溪園を知らない。世界に誇る文化遺産をまず地元の人たちに伝える必要があるのではないでしょうか」等々。
 15時からの忘年会も定刻に始まった。乾杯を終えるや、すぐに談笑の輪が11のテーブルを越えて拡がり、盛会のうちに定刻の16時半、お開きとなった。

【7】連載「アウシュビッツ到着」

 「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的な行為をくり返さないための象徴である。…広島をくりかえしてはならない。アウシュビッツをくりかえしてはならない…」(加藤祐三・梶村慎吾著『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年)の冒頭のことば)。英語では、”No more Hiroshima, never again Auschwitz”とした。
 1962年秋のキューバ危機は、いまなお存在する核戦争の危機を象徴していた。核兵器を有する国々の政府と軍の責任者に理性的な判断を促すと同時に、我々が広く核戦争の脅威を知ること、知らせることが大切である。我々の掲げるスローガン「ノーモア広島」は、時宜を得て強い説得力があった。
 アウシュビッツの名は、アジア諸国ではあまり知られていなかったが、ユーゴスラビア、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドと東欧諸国を北進するにつれ、急速に関心を集めた。
 しかし、人々の信仰や思想信条に関わる部分が多いため、一筋縄ではいかない。上掲書の第四章は、1節が「社会主義・自由・宗教」、2節が「ヨーロッパの戦争と平和」、3節が「ショパンの遺産」、4節が「アウシュビッツの鉄条網」から成るが、1節では1956年のハンガリー革命(反ソ暴動)に背をむけたカトリック教会の役割や、スラブ民族の正教会とヒトラーに同調したバチカンとの対立等々に関する、ハンガリー青年らとの微妙な対話を取り上げた。
 2節では、チェコスロバキアの青年との会話、そしてベルリンの壁で分断された西ベルリン側の世論に漂う、複雑な感情を描いている。西側の「神を否定する共産党独裁による弾圧」キャンペーンに対し、東欧諸国ではむしろ「ナチスドイツ復活反対」という意識が強い、と書いた。
 この個所で次のような歴史分析が出てくる。読み返して、その後の私の歴史研究につながる発想に改めて驚かされた。その一部を、修正なしに抄録する。
 「ヨーロッパは近代を生んだぼくらの先輩である。その恩恵をこうむった国の数ははかり知れない。近代以降、世界中の国々がヨーロッパを中心に廻っていた。みなそこへ眼をそそぎ、そこから教えをこうた。軍艦を先頭にたてて商品を売りこみ、植民地化していったヨーロッパのことは、今は考えないでおこう。ヨーロッパの技術や思考法や哲学を世界の国々が見習った。ヨーロッパ自身も、自己を中心として全世界が廻っているように考えるようになった。
 この先輩が生みだしたヨーロッパ的思考は、こう考えてくると、どうも「両刃の剣」のような気がする。片方の刃は正と邪を峻別し、ひとたび自己が正となれば他はすべて邪となる考え方である。この論理は、たとえ厳密で緻密なものであっても、そしてたとえどのような形で科学性が主張されていても、ぼくらのとるところではない。
 ヨーロッパ的思考にもう一つの面があるはずだ。人間という存在は、一人一人が理性をもち、権利を有し、尊厳に値するというものだ。そこには人間にたいする絶対的な信頼がある。性善説とでも楽天主義とでも呼んでいいかもしれない。悪魔のいる場所はなくなる。ぼくらはこの意味でのヨーロッパ的思考をとる。それには双手をあげて賛成したい。
 ヨーロッパの心ある人は、ぼくらがこんなことをいうまでもなく、十分に承知していることだろう。この点にこそ、ヨーロッパの未来がかかっており、それを実現していくことに、自分たちが人類の平和に寄与できる新しい任務があると思っているに違いない。」
  「正と邪」を峻別し自己の正当性を強調する方法よりも、私自身は人間一人一人の尊厳への信頼、つまり性善説・楽天主義の側に立ちたいと宣言しているように読み取れる。
 ついで3節「ショパンの遺産」では、ショパンのみならず、すぐれた映画を生みだすポーランド人の情熱の根源を探ろうとした。ショパンやコペルニクスの像さえナチスによって引きずり降ろされ、ショパンの楽譜が焼き払われる記録映画も見た。ナチスがそれほどまでにショパンを消し去ろうとしたのは、ポーランド人がショパンをそれほど深く愛していたからに他ならない。
 アウシュビッツ(ポーランド語ではオスビェンチムと言う)は、ポーランドの首都ワルシャワから約286キロ、チェコスロバキアの首都プラハから330キロ、オーストリアの首都ウィーンから300キロ、ドイツのベルリンから500キロの位置にある。
 この小さなオスビェンチム村にナチスがアウシュビッツ強制収容所を設け、1940年6月14日、クラコウ市から700人のユダヤ人を強制労働に送り込んだ。1943年、その数は300万人に及ぶ。周辺にはIG化学染料会社(官営工業)等の企業が進出、毒ガスのチクロンB等を製造した。詳細は本書に譲る。
 我々は、1963年1月27日、解放18周年記念日にアウシュビッツに到着した。零下20℃、前年の2月6日に広島を出て約1年、我々の最終目的地である。あの虐殺行為を忘れぬよう、アウシュビッツ博物館となっており、館長は非常に数少ない収容所の生き残りである。
 昼前に降り始めた雪がまつ毛に張りつき、視界がぼやける。先頭を行く鼓笛隊の次に我々、その後ろに数千人の人々がつづく。記念碑前で黙祷・献花、そして国際アウシュビッツ委員会のホルユ委員長が次のように読み上げた。
 「…聞け、世界の人々よ。われわれがここで味わった苦しみを、ふたたび味わうことのないように、広島とアウシュビッツをくりかえしてはならない」(アウシュビッツ宣言)。(続く)

「東アジアの近代建築」から30年

 11月29日(日曜日)、東京港区の建築会館でシンポジウム「東アジア近代建築史研究の回顧と展望-『東アジアの近代建築』から30年-」が開かれた。副題の『東アジアの近代建築』は村松貞次郎先生退官記念シンポジウムの記録であり、村松伸・西澤泰彦編で刊行された(非売品)。
 このシンポジウムに参加した人たちの裾野は広い。30年=1世代と言われるが、村松伸さん(東京大学)や西澤さん(名古屋大学)の世代が現役の今、総括と展望を行う意義はとても深い。
 村松貞次郎さんの後任となり、その後の研究を先導したのが藤森照信さん(東京大学名誉教授)や堀勇良さん(元文化庁主任文化財調査官)であり、堀さんに言わせれば40年組、後で分かったが1940年代生まれを指す。今回の企画の責任者は1950年代生まれの村松伸さんと1960年代生まれの西澤さん、そこに1970年代生まれの谷川竜一さん(金沢大学)たちが加わり、発表者は1970年代生れが多かった。土台のしっかりした健全な年齢構成と言える。ちなみに私は1930年代生まれ、藤森さんの10歳上である。
 29年前になるが、上掲の村松さん、西澤さんや藤原さんら若手に声をかけられ、私が編著者の形で『アジアの都市と建築』(鹿島出版会 1986年)を刊行した。私は都市史には関心を持っていたが建築史とは無関係の、近代アジア史専攻である。編著者とは名ばかり、短く冒頭の挨拶を書いた程度である。
 この6年前、私は『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)を刊行、在外研究でイギリスに滞在し、「西から東への影響」と「東から西への影響」を設定、「19世紀アジア三角貿易」(18世紀中ごろに始まる)を解明し、ついで『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)を出版、そのⅣ「香港植民地の形成」、Ⅴ「上海居留地の成長」の2章で、香港や上海の初期都市形成を扱った。これが私に声をかけてくれた一因であろう。
 建築を歴史的に研究する建築史の分野は、「史」が付く通り、歴史家の仕事と交差するが、私の主な関心は「都市」にあり、なかでも19世紀中ごろに誕生して急成長する上海、香港、横浜に置かれていた。これが彼らとの接点である。
2014年5月、西澤さんから1通のメールが届いた。『東アジアの近代建築』刊行から30年になる2015年、総括のシンポジウムを企画しているという。
 また学術振興会の外国人特別研究員(2010~12年)として受け入れた陳雲蓮さん(中国)が、ケンブリッジ大学図書館で拙著『黒船前後の世界』を見つけ一読、いろいろご教示願えればともあった。そこで陳さんから何回も論考を送ってもらい、幾度か話し会う機会を得たが、彼女の独創性や実証性に感嘆した。
 そして西澤さんからのメールから1年半、今回のシンポジウムが実現した。陳さんの報告「上海・北四川路が結ぶ近世と近代」もある。ところが所用が重なり、着いたのが夕方、聴けたのは徐東千「開港期の韓国ソウル」と鮎川慧「植民地期の香港とイギリス人建築家・技術者」の2報告だけであった。しかし懇親会では、初めて会う若手研究者たちと大いに歓談することができた。
 事前に報告趣旨を集めた冊子(予稿集)がある。これによりシンポジウムの概要を伝えたい。
 10時開会、「序-回顧編―東アジア近代建築研究の回顧」(5報告)、第1部「東アジア近代建築史研究の現在」(6報告)、第2部「世界の中の東アジア近代建築史研究」(6報告)と進み、6時半に終了した。なお冊子には第3部「資料編-各地の調査とその成果」(4報告)も収録されている。
 冊子の「開催趣旨」(西澤さんほか)にある通り、30年前の『東アジアの近代建築』の果たした役割は、それを契機として、①組織的な研究体制の確立、②国境を越えた研究者の交流、③国際的な共同調査・研究の3つが生まれた点にある。その成果物は、東京大学+清華大学(北京)『中国近代建築史総覧』(全14冊)、2001年に発足したmAAN(modern Asian Architecture Network)や東アジア建築文化会議(EAAC)等に見られる。
 こうした研究者の広域交流の発展は、研究内容にどのような変化をもたらしたか、これからもたらすのか。2つの基調講演から見たい。
 第1部「東アジア近代建築史研究の現在」の基調講演は、藤森照信「この40年」である。40年前、日本近代建築の通史を書くには、大航海時代以降のヨーロッパの影響を受けた東アジアの近代建築(400年をかけた<建築の大航海時代>)を解明する必要があると考えた藤森さんは、その伝播ルートを逆にたどる企画を立て、村松さんや西澤さんらとアモイを調査、ついで1983年に上海の調査に出かけた。この東アジア調査の成果は、『日本の近代建築 上下』(岩波新書、1993年)に収められている。
 そして次のような展望を語る。「上海には、19世紀半ばから20世紀半ばまでの100年間に欧米で生起したほとんどの歴史的様式がそっくり伝えられており、その識別こそ全体把握の鍵になる。そして、この方面こそ東アジアの近代建築研究者がこれから力を注ぐべきであろう。」
 第2部「世界の中の東アジア近代建築史研究」の基調講演は、村松伸「<世界の中の東アジア建築の200年>を構想するために」(副題「私たちを取り巻く建築環境はどこから来て、どこに向かうのか」)である。彼が33年前に藤森さんと話し合ったライフワークこそ<世界の中の東アジア建築の200年>を構想することであった。その構成要素として1つの中心的問い、5つの衝撃(イギリスの産業革命に端を発する西洋建築の世界への波及200年史)、13の大問、40の小問があると言う。
 そして建築史研究は「私たちが現在直面している様々な課題を、建築環境という私たちの得意とする専門的視点から、解決する手段や知恵を過去から発掘する行為で、…人文学に限りなく近い建築史研究の本来的役割…」と結ぶ。
 30年の節目で関係者が一堂に会し、問題を共有できたことの収穫は大きい。我々は新たな研究の出発地点に立った。これからが楽しみである。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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