コムギの里帰り
12月19日(土曜)午後、JICA横浜において「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り」-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッションが開かれた。
トークのゲストとして、アフガニスタン(以下、アフガン)からM・ハイダリ農業灌漑牧畜省副大臣、A.G.グリアーニ農業灌漑牧畜省前副大臣、B.M.モステンビラ外務省経済協力副局長、北中真人JICA農村開発部部長、それに坂智広(ばん ともひろ)横浜市立大学木原生物学研究所教授が参加した。
SATREPSとは、坂さんが中心となって進めている、JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後復興途上にあるアフガンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を指す。その5年にわたる共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考えるのが今回の市民フォーラムの狙いである。
最初にNHKニュース特集の録画が放映され、旱魃に強いコムギの在来種をアフガンに里帰りさせるプロジェクトの概要を知る。ついで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映。これは外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい60年前、1955年に京都大学が編成した戦後初の総合的学術調査(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)の成果である。
タルホコムギほかのコムギ遺伝資源を採集した総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。
砂漠の中のオアシス、バザール(市場)、コムギ原料の常食であるナンやチャパティと羊肉料理、豊富な果物、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は、私(19歳)をふくめ、若者たちに大きな夢を与えた。
この学術探検をリードした木原均(1893~1986年)さんは東京生まれ、1918年に北海道大学卒業、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」を聴いたことが植物遺伝学の研究に進むきっかけと言われる。
のち京都大学へ移って研究教育に従事、1920年から助手、1924年に助教授、1927~42年教授、コムギの研究における世界的権威で、ゲノムという考え方を提唱した研究者であり、「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されている」(1946年)という有名な言葉を残した。また種子植物の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。
京大退任後の1942年に財団法人木原生物学研究所(京都)を設立、1957(昭和32)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、設立40周年を期に目的の一端を果たしたとし、1984(昭和59)年に横浜市大へ移管、植物系部門を中心とした附置研究所となった。それから30年になる。
市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(10代・11代、在任1982~1990年)の下、草薙昭雄さん(生物学)が急逝した後は、小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一横浜市長(17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めてくれた。
私も文科系の一人として応援したが、木原さんが偉大な学者であり、かつスキー、野球等を愛したという、もう一つの顔に共感を覚えた。フォーラム会場で配られた木原ゆり子「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(6回の連載、「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」所収)には、氏の「3つの顔」+αや5回にわたる学術探検行等が活写されている。
移管から18年、私は横浜市大学長(14代、在任1998~2002年)を最後に退職した。それ以降の市大との関係の1つが教職員テニス親睦会と硬式庭球部学生との親善試合である。正式の親睦会創設は1983年で私が長く会長を務め、親善試合は1991年に始まる(硬式庭球部部長を務めた岡眞人さんのメモによる)。
去年春の親善試合の日、学生に負けない鋭いボールを打つ左利きに目を見張った。本プロジェクトの坂さんである。親睦会副会長として会員宛に定期的にメールを送ってくれている(市民フォーラム開催もこれで知る)が、彼の仕事に触れるのは今回が初めてである。
坂さんは1963年生まれ、1985年、岐阜大学農学部農学研究科卒業(遺伝育種学)、2000年に博士(農学)を取得、農林水産省農業研究センター・研究員、農林水産省国際農林水産業研究センター(JIRCAS)主任研究官を歴任した。JIRCAS時代の2004年から3年間、メキシコに本部を置く「国際とうもろこし小麦改良センター(CIMMYT)」に派遣され、コムギの国際共同研究プロジェクトを率いた。そして2007年、横浜市大木原生物学研究所教授(植物遺伝資源科学部門)に就任する。
彼は研究所が保有するコムギ約6000系統とトウガラシ約400系統の貴重な遺伝資源を、(1)類型的に増殖・管理・評価して有用形質の遺伝子を探索し、画期的品種開発や地域ブランド創生に向けた遺伝資源の活用と遺伝育種学的研究を行うと同時に、(2)植物遺伝資源の収集・維持管理、評価と解析の植物ゲノムと育種への応用に向けた植物遺伝資源科学研究を通じ、地域・国際社会への貢献と、国際舞台で活躍できる若手人材の育成を行っている。
その各論の1つが今年で5年目になるSATREPS(「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」)である。坂研究室のホームページ再掲の神奈川新聞や読売新聞の報道によれば、1979年のソ連軍侵攻とその撤退後の内戦の混乱で疲弊した農地に、アメリカから生産性の高い外来種コムギを導入したものの、強い乾燥に耐えられず平均収穫量は1ヘクタールあたり約2トン、これを4トンに引き上げる必要がある。それには品種改良された在来種が最適ではないかと、アフガン農業省でコムギの品種改良を担当する2名が坂研究室で修士課程を修了、約500粒を持ち帰った。
木原さんが農学を志して北大に入学してから97年、アフガンで多くのコムギを収集して60年、コムギやトウガラシの貴重な遺伝資源が横浜市大へ移管されて31年になる。
また会場となったJICA横浜は2002年、13年前のオープンである。小幡俊弘所長(1981年横浜市大卒)と話しているうちに、JICAの横浜誘致に積極的な高秀秀信市長(18代、在任1990~1998年)の意向を受けて、私も委員会に参画したことを思い出した。
「カラコルム」放映につづくトークセッションでは、アフガンからのゲスト3氏が、生誕以前(60年前)の祖国の明るい表情に改めて驚き、ソ連侵攻からタリバン支配の35年の空白、そして再興アフガンをめざす農業の取組み等の苦闘の歴史を回顧し、未来への展望を語った。
坂さんは、本プロジェクトを「今後の15年、20年の基礎をつくるもの」であるとし、コムギ在来種の、とくに高地(台地)の乾燥地帯の収量を高める(それが食糧自給率を高める)ことが、代替作物のケシ(麻薬アヘンの原料)撲滅にも繋がると話した。
木原さんの偉大な活動は、それを継ぐ各方面の尽力で折々の危機を乗り越えてきた。未来を担う坂さんと教え子たちの息の長い活動はこれからもつづく。多様な気候風土に適した在来種の品種改良と、その人材育成には、少なくともあと1期=5年の継続が求められよう。実り豊かな成果を願ってやまない。
トークのゲストとして、アフガニスタン(以下、アフガン)からM・ハイダリ農業灌漑牧畜省副大臣、A.G.グリアーニ農業灌漑牧畜省前副大臣、B.M.モステンビラ外務省経済協力副局長、北中真人JICA農村開発部部長、それに坂智広(ばん ともひろ)横浜市立大学木原生物学研究所教授が参加した。
SATREPSとは、坂さんが中心となって進めている、JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後復興途上にあるアフガンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を指す。その5年にわたる共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考えるのが今回の市民フォーラムの狙いである。
最初にNHKニュース特集の録画が放映され、旱魃に強いコムギの在来種をアフガンに里帰りさせるプロジェクトの概要を知る。ついで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映。これは外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい60年前、1955年に京都大学が編成した戦後初の総合的学術調査(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)の成果である。
タルホコムギほかのコムギ遺伝資源を採集した総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。
砂漠の中のオアシス、バザール(市場)、コムギ原料の常食であるナンやチャパティと羊肉料理、豊富な果物、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は、私(19歳)をふくめ、若者たちに大きな夢を与えた。
この学術探検をリードした木原均(1893~1986年)さんは東京生まれ、1918年に北海道大学卒業、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」を聴いたことが植物遺伝学の研究に進むきっかけと言われる。
のち京都大学へ移って研究教育に従事、1920年から助手、1924年に助教授、1927~42年教授、コムギの研究における世界的権威で、ゲノムという考え方を提唱した研究者であり、「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されている」(1946年)という有名な言葉を残した。また種子植物の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。
京大退任後の1942年に財団法人木原生物学研究所(京都)を設立、1957(昭和32)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、設立40周年を期に目的の一端を果たしたとし、1984(昭和59)年に横浜市大へ移管、植物系部門を中心とした附置研究所となった。それから30年になる。
市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(10代・11代、在任1982~1990年)の下、草薙昭雄さん(生物学)が急逝した後は、小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一横浜市長(17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めてくれた。
私も文科系の一人として応援したが、木原さんが偉大な学者であり、かつスキー、野球等を愛したという、もう一つの顔に共感を覚えた。フォーラム会場で配られた木原ゆり子「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(6回の連載、「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」所収)には、氏の「3つの顔」+αや5回にわたる学術探検行等が活写されている。
移管から18年、私は横浜市大学長(14代、在任1998~2002年)を最後に退職した。それ以降の市大との関係の1つが教職員テニス親睦会と硬式庭球部学生との親善試合である。正式の親睦会創設は1983年で私が長く会長を務め、親善試合は1991年に始まる(硬式庭球部部長を務めた岡眞人さんのメモによる)。
去年春の親善試合の日、学生に負けない鋭いボールを打つ左利きに目を見張った。本プロジェクトの坂さんである。親睦会副会長として会員宛に定期的にメールを送ってくれている(市民フォーラム開催もこれで知る)が、彼の仕事に触れるのは今回が初めてである。
坂さんは1963年生まれ、1985年、岐阜大学農学部農学研究科卒業(遺伝育種学)、2000年に博士(農学)を取得、農林水産省農業研究センター・研究員、農林水産省国際農林水産業研究センター(JIRCAS)主任研究官を歴任した。JIRCAS時代の2004年から3年間、メキシコに本部を置く「国際とうもろこし小麦改良センター(CIMMYT)」に派遣され、コムギの国際共同研究プロジェクトを率いた。そして2007年、横浜市大木原生物学研究所教授(植物遺伝資源科学部門)に就任する。
彼は研究所が保有するコムギ約6000系統とトウガラシ約400系統の貴重な遺伝資源を、(1)類型的に増殖・管理・評価して有用形質の遺伝子を探索し、画期的品種開発や地域ブランド創生に向けた遺伝資源の活用と遺伝育種学的研究を行うと同時に、(2)植物遺伝資源の収集・維持管理、評価と解析の植物ゲノムと育種への応用に向けた植物遺伝資源科学研究を通じ、地域・国際社会への貢献と、国際舞台で活躍できる若手人材の育成を行っている。
その各論の1つが今年で5年目になるSATREPS(「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」)である。坂研究室のホームページ再掲の神奈川新聞や読売新聞の報道によれば、1979年のソ連軍侵攻とその撤退後の内戦の混乱で疲弊した農地に、アメリカから生産性の高い外来種コムギを導入したものの、強い乾燥に耐えられず平均収穫量は1ヘクタールあたり約2トン、これを4トンに引き上げる必要がある。それには品種改良された在来種が最適ではないかと、アフガン農業省でコムギの品種改良を担当する2名が坂研究室で修士課程を修了、約500粒を持ち帰った。
木原さんが農学を志して北大に入学してから97年、アフガンで多くのコムギを収集して60年、コムギやトウガラシの貴重な遺伝資源が横浜市大へ移管されて31年になる。
また会場となったJICA横浜は2002年、13年前のオープンである。小幡俊弘所長(1981年横浜市大卒)と話しているうちに、JICAの横浜誘致に積極的な高秀秀信市長(18代、在任1990~1998年)の意向を受けて、私も委員会に参画したことを思い出した。
「カラコルム」放映につづくトークセッションでは、アフガンからのゲスト3氏が、生誕以前(60年前)の祖国の明るい表情に改めて驚き、ソ連侵攻からタリバン支配の35年の空白、そして再興アフガンをめざす農業の取組み等の苦闘の歴史を回顧し、未来への展望を語った。
坂さんは、本プロジェクトを「今後の15年、20年の基礎をつくるもの」であるとし、コムギ在来種の、とくに高地(台地)の乾燥地帯の収量を高める(それが食糧自給率を高める)ことが、代替作物のケシ(麻薬アヘンの原料)撲滅にも繋がると話した。
木原さんの偉大な活動は、それを継ぐ各方面の尽力で折々の危機を乗り越えてきた。未来を担う坂さんと教え子たちの息の長い活動はこれからもつづく。多様な気候風土に適した在来種の品種改良と、その人材育成には、少なくともあと1期=5年の継続が求められよう。実り豊かな成果を願ってやまない。
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