白雲邸
三溪園の内苑御門をくぐると右手に築地塀、その奥に数寄屋風建築の「白雲邸」がある。原三溪の隠居所として1920(大正9)年に完成、夫妻は隣接する鶴翔閣から移り住んだ。
主屋に接して倉(蔵)があり、翌1921(大正10)年の建造、鉄筋コンクリート造(異形鉄筋を使用)・本瓦葺に黒タイル張りである。1階は調理場で煮炊きをすべて電熱器で行い、地階は食品貯蔵庫、そして2階と3階は美術品の収蔵庫である(三溪長女・春子さんの長男・西郷健一郎さんへの川幡留司参事の聞書き)。
主屋ともども1923(12)年の関東大震災をも耐え抜いて、震災復興の先頭に立つ三溪を支える大切な場所となった。横浜市指定有形文化財(平成元年指定、倉は平成15年に追加指定)である。
築94年を経た今年、これまでの調査を受けて、倉(延べ面積214.18㎡)の保存修理工事が行われた。
9月29日、補修工事を請け負った松井リフォーム株式会社の竹中千就工事長の案内で、中島哲也総務課長とともに完成寸前の倉と、倉に接する主屋の檜皮葺きの一部の進捗状況を、足場を登って実見した。工事は順調で、倉のタイル張りと内装の一部を残して最終段階に入っていた。
屋根の上から全体を眺望すると、今回の工事外の主屋の広い檜皮葺の屋根が気になった。檜の皮を重ねて葺く技法は、日本家屋の特徴の一つであるが、檜皮を止める竹釘が各所に浮き上がって見える。檜皮が油を失い、痩せて沈んだ結果、竹釘が露出したもので、これが新たな課題となった。
今回の倉の工事は11月13日に完了。取り替えたブラケット、瓦、金具類の一部は、その歴史的価値に鑑みて現場保存した。
さて、いま白雲邸と呼んでいるが、改めてその名称の由来を知りたいと思い、川幡さん(上掲)に尋ねた。57年にわたって三溪園に勤務し、それぞれの時点の情報を地道に蓄積している三溪園の生き字引である。
そのメモ類や史料をお借りし、私が私なりの筋道で再構成し、川幡さんに点検してもらったのが以下の記述で、誤りなどがあれば文責は私にある。
「大正十年度三溪荘経費決算報告」という書類に「三溪荘」とあるのが、現在の「白雲邸」(の主屋)である。その建設中に並行して月華殿や聴秋閣等の移築が行われており、資材等の置き場や届け先を示すために「三溪荘」と呼んだ(原家お抱えの大工・杉山利文さんへの川幡さんの聞書き)。これは暫定的な呼び名で、その後は使われていない。
ついで三溪園の全園完成を祝う大茶会として、鈍翁益田孝(三井物産初代社長で茶友)主催の「大師会茶会」が1923(大正12)年4月に開かれたが、その茶会記には「清風居」とある。こちらも茶会のみに使われた名称で、一般的には「隠居所」と呼び習わしたという。
それでは「白雲邸」の名は、いつ、どのようにして生まれたのか。ここからは川幡さんが三溪園に勤務しはじめた時期に重なり、名称企画の一員にもなっている。
戦後の1953(昭和28)年、三溪園は原家から横浜市に寄贈され、財団法人三溪園保勝会の管理となったが、1966(昭和41)年には私邸「白雲邸」も三溪園へ贈られた。そして茶会等にも使えるよう和室に炉を備える等の準備を進めるなかで、どうしても正式名称が必要となった。
執事の桃井、村田両家や三溪の知人たちも、名称に心当たりがないことから、以下の理由を付して「白雲邸」と命名する案を作成した。
(1) 三溪が益田孝から譲り受け、愛用した箱根強羅の別荘を「白雲洞」と称していた
(2) 三溪は幼少から漢詩漢文を学び、自らも漢詩を作ったが、自身の漢詩集(鎌倉円覚寺の朝比奈宗源管長編集)に白雲の語を多用している
(3) 中国晩唐の詩人・牧杜(ぼくと)の「山行」に「遠上寒山石径斜 白雲生処有人家」とあり、俗界を離れた仙境を表す詩語として白雲が使われている
(4) 横臥して読書する三溪の自画像が、「竹林の七賢人」(3世紀の中国、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行、これは当時の知識人の精一杯で命がけの見解表明とも言われる)や、「虎渓三笑」(中国の著名な画題の一つ、儒・仏・道の親和を象徴する)にある隠者・儒者を思わせる装いである
この案は好評を得て、「白雲邸」に決定した。ほどなく原家当主の範行さんから三溪自筆の「白雲長随君」の横額が贈られ、いま白雲邸の和室に掛けられている。門に掲げる揮毫「白雲邸」は、茶友・松永安左エ門耳庵翁、95歳の手になる。ご高齢をためらいつつの依頼に、柴田桂作執事を通じて快諾いただいた。
なお今年の所蔵品展示「秋の雲」(10月2日~11月4日)には、三溪自身の墨書「白雲心」(縦30センチ、横62センチ)が出品された。禅語で「無心にして物事にとらわれない自由闊達の境地」をいう。
白雲邸は、いま静かに95年の歳月を積む。そして現役時代の三溪の足跡を伝える鶴翔閣(1902年完成)が今年で築133年を迎えた。三溪の居場所であったこれら2つの建物が、国指定名勝・三溪園の守り主のように感じられる。
主屋に接して倉(蔵)があり、翌1921(大正10)年の建造、鉄筋コンクリート造(異形鉄筋を使用)・本瓦葺に黒タイル張りである。1階は調理場で煮炊きをすべて電熱器で行い、地階は食品貯蔵庫、そして2階と3階は美術品の収蔵庫である(三溪長女・春子さんの長男・西郷健一郎さんへの川幡留司参事の聞書き)。
主屋ともども1923(12)年の関東大震災をも耐え抜いて、震災復興の先頭に立つ三溪を支える大切な場所となった。横浜市指定有形文化財(平成元年指定、倉は平成15年に追加指定)である。
築94年を経た今年、これまでの調査を受けて、倉(延べ面積214.18㎡)の保存修理工事が行われた。
9月29日、補修工事を請け負った松井リフォーム株式会社の竹中千就工事長の案内で、中島哲也総務課長とともに完成寸前の倉と、倉に接する主屋の檜皮葺きの一部の進捗状況を、足場を登って実見した。工事は順調で、倉のタイル張りと内装の一部を残して最終段階に入っていた。
屋根の上から全体を眺望すると、今回の工事外の主屋の広い檜皮葺の屋根が気になった。檜の皮を重ねて葺く技法は、日本家屋の特徴の一つであるが、檜皮を止める竹釘が各所に浮き上がって見える。檜皮が油を失い、痩せて沈んだ結果、竹釘が露出したもので、これが新たな課題となった。
今回の倉の工事は11月13日に完了。取り替えたブラケット、瓦、金具類の一部は、その歴史的価値に鑑みて現場保存した。
さて、いま白雲邸と呼んでいるが、改めてその名称の由来を知りたいと思い、川幡さん(上掲)に尋ねた。57年にわたって三溪園に勤務し、それぞれの時点の情報を地道に蓄積している三溪園の生き字引である。
そのメモ類や史料をお借りし、私が私なりの筋道で再構成し、川幡さんに点検してもらったのが以下の記述で、誤りなどがあれば文責は私にある。
「大正十年度三溪荘経費決算報告」という書類に「三溪荘」とあるのが、現在の「白雲邸」(の主屋)である。その建設中に並行して月華殿や聴秋閣等の移築が行われており、資材等の置き場や届け先を示すために「三溪荘」と呼んだ(原家お抱えの大工・杉山利文さんへの川幡さんの聞書き)。これは暫定的な呼び名で、その後は使われていない。
ついで三溪園の全園完成を祝う大茶会として、鈍翁益田孝(三井物産初代社長で茶友)主催の「大師会茶会」が1923(大正12)年4月に開かれたが、その茶会記には「清風居」とある。こちらも茶会のみに使われた名称で、一般的には「隠居所」と呼び習わしたという。
それでは「白雲邸」の名は、いつ、どのようにして生まれたのか。ここからは川幡さんが三溪園に勤務しはじめた時期に重なり、名称企画の一員にもなっている。
戦後の1953(昭和28)年、三溪園は原家から横浜市に寄贈され、財団法人三溪園保勝会の管理となったが、1966(昭和41)年には私邸「白雲邸」も三溪園へ贈られた。そして茶会等にも使えるよう和室に炉を備える等の準備を進めるなかで、どうしても正式名称が必要となった。
執事の桃井、村田両家や三溪の知人たちも、名称に心当たりがないことから、以下の理由を付して「白雲邸」と命名する案を作成した。
(1) 三溪が益田孝から譲り受け、愛用した箱根強羅の別荘を「白雲洞」と称していた
(2) 三溪は幼少から漢詩漢文を学び、自らも漢詩を作ったが、自身の漢詩集(鎌倉円覚寺の朝比奈宗源管長編集)に白雲の語を多用している
(3) 中国晩唐の詩人・牧杜(ぼくと)の「山行」に「遠上寒山石径斜 白雲生処有人家」とあり、俗界を離れた仙境を表す詩語として白雲が使われている
(4) 横臥して読書する三溪の自画像が、「竹林の七賢人」(3世紀の中国、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行、これは当時の知識人の精一杯で命がけの見解表明とも言われる)や、「虎渓三笑」(中国の著名な画題の一つ、儒・仏・道の親和を象徴する)にある隠者・儒者を思わせる装いである
この案は好評を得て、「白雲邸」に決定した。ほどなく原家当主の範行さんから三溪自筆の「白雲長随君」の横額が贈られ、いま白雲邸の和室に掛けられている。門に掲げる揮毫「白雲邸」は、茶友・松永安左エ門耳庵翁、95歳の手になる。ご高齢をためらいつつの依頼に、柴田桂作執事を通じて快諾いただいた。
なお今年の所蔵品展示「秋の雲」(10月2日~11月4日)には、三溪自身の墨書「白雲心」(縦30センチ、横62センチ)が出品された。禅語で「無心にして物事にとらわれない自由闊達の境地」をいう。
白雲邸は、いま静かに95年の歳月を積む。そして現役時代の三溪の足跡を伝える鶴翔閣(1902年完成)が今年で築133年を迎えた。三溪の居場所であったこれら2つの建物が、国指定名勝・三溪園の守り主のように感じられる。
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