【5】連載「初めてのアジア」
中印首脳会談において周恩来首相とネルー首相が平和五原則を発表したのが私の高校2年生の1954年、翌1955年にバンドン会議(正式にはアジア・アフリカ会議、Asian-African Conference)がインドネシアのバンドンで開かれた。
バンドン会議に集まった新興国首脳、すなわち第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中華人民共和国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領の名前は忘れがたい。
マスコミ報道による輝ける「アジア・アフリカの時代」の到来が、私の脳裏に強く焼きついた。アジア・アフリカの時代の歴史的背景を知りたい、これが私の東洋史学科を目ざした大きな理由であった。
一方、私はマスコミの伝える現状とその背後にある歴史的要因とを、あまり短絡的に直結してはいけないとも考えていた。西欧諸国がアジアへ進出する以前、アジア諸国ははるかに優位に立っていた。
たとえば技術面では、コロンブスのアメリカ遠征時(1492年)のサンタマリア号は船の長さが約25メートルの帆船であるが、それより80年も前、鄭和のアフリカ遠征(1405~1430年)の「宝船」は長さが約120メートルもあり、艦隊を構成する「馬船」(交易品の馬を乗せた)も100メートル、「糧船」も70メートルあった。
西欧諸国が大西洋を越えてアメリカ大陸へ至る「大航海時代」があるなら、それ以前の太平洋からインド洋にかけての「大航海時代」があったことを見逃してはならない。鄭和の艦隊は途中から、アラビア商人の船を頼りにアフリカ東海岸まで到達した。
その後、西欧の商人がアラビア商人を水先案内とし、このルートを西から東へたどり、薬効があると信じられた胡椒等の香辛料を買い付けに来た。東南アジアの香辛料産地では貨幣(貴金属)が通用しないため、途中でインド綿布を買い、これで香辛料と替えた。初期の「三角貿易」である。
近代の西欧諸国がアジアへ進出してくるのは、a)ポルトガル(16世紀~)、b)オランダ(17世紀中葉~)、c)イギリス(18世紀後半~)の順で、それぞれの目的や支配方式は異なるが、多くのアジア諸国を植民地として支配した。植民地となったアジアの国々は、立法・司法・行政の国家三権のすべてを奪われる。
一方、中国はアヘン戦争の敗北(1842年の南京条約)から近代が始まるとされる。南京条約でイギリスに領土割譲(香港島、ここが植民地となる)と、多額の賠償金支払いを余儀なくされた。
アジアの「近代」は一般に、搾取の拡大、富の流出、主権の喪失といった負のイメージで捉えられ、輝かしい時代は1945年以降の独立から始まるとする。これがバンドン会議の象徴する「アジア・アフリカの時代」である。
それに対して開国・維新に始まる日本の近代は、欧米同様に進歩と富と民主の黎明とされ、それが現在につながると理解されている。これら「近代」の相違は何に起因するのか。私は漠然と、こうした疑問も抱いていた。
私が初めてアジア諸国に足を踏み入れたのが、この広島・アウシュビッツ平和行進である。2月6日に広島を出発、神戸で乗船し、香港、サイゴン(現ホーチミン)まで行った。内戦状態のサイゴンでは尾行され、自由行動が許されなかった。
5月はシンガポールで活動。ついでマレー半島を陸路北上し、タイに入る。タイからビルマ(現ミャンマー)へは空路しかない。モンスーン地帯の優しい緑を後にして、ビルマから空路東パキスタン(現バングラデシュ)のダッカに降り立つと、木々の緑が忽然と消えていた。
行く先々で見た農村の貧困にはあまり驚かなかった。戦後の物資不足と食糧難に対処するため、畑仕事をし、山羊や鶏を飼った経験があり、これに似た営為を目にして、むしろ懐かしささえ感じた。靴がなく裸足の姿にも違和感はない。
インドまで来て、異文化に出会うとはこういうことかと衝撃を受けた。聖なるガンジス河畔での葬儀と儀礼、右手(浄)と左手(不浄)の厳格な区別、寺院彫刻に見るヒンドゥー教の神々の赤裸々な姿、ハリジャーン(不可触民)……
どこでも人々は、ノーモア・ヒロシマを伝える写真パネルを熱心に見つめ、説明に耳を傾けてくれた。私は、いま出会う人々、この地、この空気、なに一つ見逃さず、心に刻もうと思った。
ところが7月、マドラス(現チェンナイ)で私はとつぜん倒れ、病院に担ぎ込まれる。3日後に意識が回復。鞄の底に残っていた数杯分の粉末味噌汁で息を吹き返した。だが、インド人医師が「5年ほど前にガンジス河流域で暴威をふるった流行性肝炎で、重症です。耐性のない外国人は死ぬこともある。1か月入院したら、すぐ帰国して、しっかり治療しなさい」と言う。
1か月分の入院費はない。半月後、それまでの支払いを済ませると病院から脱走、汽車の長旅を耐え、ようやくボンベイ(現ムンバイ)の寺(佐藤上人が属する日本山妙法寺)にたどり着き、南インドとセイロン(現スリランカ)をまわって来る一行を待った。
黄疸で目も皮膚も汗も黄色になった。極度に疲れ、意志の力では如何ともしがたい倦怠感が襲う。佐藤上人や山崎、梶村にはたいへん迷惑をかけたが、愚痴ひとつ言わず励ましてくれた。
2つの問題が私の念頭を去らなかった。まずは平和行進の目的である核兵器廃絶と虐殺行為廃絶を訴える行動である。これから先、アウシュビッツ解放18周年記念日の来年1月27日までは、何としても持ちこたえなければならない。
もう1つは大学院生の本分としての歴史研究である。イランの首都テヘランで博物館に寄り、遊牧民のモンゴル人が支配した広大な帝国(イランあたりはイルハン国と呼ばれた)を包含する多様な世界に魅せられた。
私の卒業論文は、モンゴル人の支配が終わった後に誕生したサファビー朝(1501~1736年)ペルシャ(イラン)を対象とし、文化的優位に立つペルシャが次第に西欧(とくにフランス)の優位へと逆転する歴史過程を探ろうとしたものである。
だが、これは広い歴史の課題のうちの「東西関係」の、さらにその1部にすぎない。解明されていない多くの課題が残されている。歴史研究の世界はさらに拡がる。そう思うと、肝炎も吹き飛ばせるような気がした。(続く)
バンドン会議に集まった新興国首脳、すなわち第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中華人民共和国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領の名前は忘れがたい。
マスコミ報道による輝ける「アジア・アフリカの時代」の到来が、私の脳裏に強く焼きついた。アジア・アフリカの時代の歴史的背景を知りたい、これが私の東洋史学科を目ざした大きな理由であった。
一方、私はマスコミの伝える現状とその背後にある歴史的要因とを、あまり短絡的に直結してはいけないとも考えていた。西欧諸国がアジアへ進出する以前、アジア諸国ははるかに優位に立っていた。
たとえば技術面では、コロンブスのアメリカ遠征時(1492年)のサンタマリア号は船の長さが約25メートルの帆船であるが、それより80年も前、鄭和のアフリカ遠征(1405~1430年)の「宝船」は長さが約120メートルもあり、艦隊を構成する「馬船」(交易品の馬を乗せた)も100メートル、「糧船」も70メートルあった。
西欧諸国が大西洋を越えてアメリカ大陸へ至る「大航海時代」があるなら、それ以前の太平洋からインド洋にかけての「大航海時代」があったことを見逃してはならない。鄭和の艦隊は途中から、アラビア商人の船を頼りにアフリカ東海岸まで到達した。
その後、西欧の商人がアラビア商人を水先案内とし、このルートを西から東へたどり、薬効があると信じられた胡椒等の香辛料を買い付けに来た。東南アジアの香辛料産地では貨幣(貴金属)が通用しないため、途中でインド綿布を買い、これで香辛料と替えた。初期の「三角貿易」である。
近代の西欧諸国がアジアへ進出してくるのは、a)ポルトガル(16世紀~)、b)オランダ(17世紀中葉~)、c)イギリス(18世紀後半~)の順で、それぞれの目的や支配方式は異なるが、多くのアジア諸国を植民地として支配した。植民地となったアジアの国々は、立法・司法・行政の国家三権のすべてを奪われる。
一方、中国はアヘン戦争の敗北(1842年の南京条約)から近代が始まるとされる。南京条約でイギリスに領土割譲(香港島、ここが植民地となる)と、多額の賠償金支払いを余儀なくされた。
アジアの「近代」は一般に、搾取の拡大、富の流出、主権の喪失といった負のイメージで捉えられ、輝かしい時代は1945年以降の独立から始まるとする。これがバンドン会議の象徴する「アジア・アフリカの時代」である。
それに対して開国・維新に始まる日本の近代は、欧米同様に進歩と富と民主の黎明とされ、それが現在につながると理解されている。これら「近代」の相違は何に起因するのか。私は漠然と、こうした疑問も抱いていた。
私が初めてアジア諸国に足を踏み入れたのが、この広島・アウシュビッツ平和行進である。2月6日に広島を出発、神戸で乗船し、香港、サイゴン(現ホーチミン)まで行った。内戦状態のサイゴンでは尾行され、自由行動が許されなかった。
5月はシンガポールで活動。ついでマレー半島を陸路北上し、タイに入る。タイからビルマ(現ミャンマー)へは空路しかない。モンスーン地帯の優しい緑を後にして、ビルマから空路東パキスタン(現バングラデシュ)のダッカに降り立つと、木々の緑が忽然と消えていた。
行く先々で見た農村の貧困にはあまり驚かなかった。戦後の物資不足と食糧難に対処するため、畑仕事をし、山羊や鶏を飼った経験があり、これに似た営為を目にして、むしろ懐かしささえ感じた。靴がなく裸足の姿にも違和感はない。
インドまで来て、異文化に出会うとはこういうことかと衝撃を受けた。聖なるガンジス河畔での葬儀と儀礼、右手(浄)と左手(不浄)の厳格な区別、寺院彫刻に見るヒンドゥー教の神々の赤裸々な姿、ハリジャーン(不可触民)……
どこでも人々は、ノーモア・ヒロシマを伝える写真パネルを熱心に見つめ、説明に耳を傾けてくれた。私は、いま出会う人々、この地、この空気、なに一つ見逃さず、心に刻もうと思った。
ところが7月、マドラス(現チェンナイ)で私はとつぜん倒れ、病院に担ぎ込まれる。3日後に意識が回復。鞄の底に残っていた数杯分の粉末味噌汁で息を吹き返した。だが、インド人医師が「5年ほど前にガンジス河流域で暴威をふるった流行性肝炎で、重症です。耐性のない外国人は死ぬこともある。1か月入院したら、すぐ帰国して、しっかり治療しなさい」と言う。
1か月分の入院費はない。半月後、それまでの支払いを済ませると病院から脱走、汽車の長旅を耐え、ようやくボンベイ(現ムンバイ)の寺(佐藤上人が属する日本山妙法寺)にたどり着き、南インドとセイロン(現スリランカ)をまわって来る一行を待った。
黄疸で目も皮膚も汗も黄色になった。極度に疲れ、意志の力では如何ともしがたい倦怠感が襲う。佐藤上人や山崎、梶村にはたいへん迷惑をかけたが、愚痴ひとつ言わず励ましてくれた。
2つの問題が私の念頭を去らなかった。まずは平和行進の目的である核兵器廃絶と虐殺行為廃絶を訴える行動である。これから先、アウシュビッツ解放18周年記念日の来年1月27日までは、何としても持ちこたえなければならない。
もう1つは大学院生の本分としての歴史研究である。イランの首都テヘランで博物館に寄り、遊牧民のモンゴル人が支配した広大な帝国(イランあたりはイルハン国と呼ばれた)を包含する多様な世界に魅せられた。
私の卒業論文は、モンゴル人の支配が終わった後に誕生したサファビー朝(1501~1736年)ペルシャ(イラン)を対象とし、文化的優位に立つペルシャが次第に西欧(とくにフランス)の優位へと逆転する歴史過程を探ろうとしたものである。
だが、これは広い歴史の課題のうちの「東西関係」の、さらにその1部にすぎない。解明されていない多くの課題が残されている。歴史研究の世界はさらに拡がる。そう思うと、肝炎も吹き飛ばせるような気がした。(続く)
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