【3】連載「大学院進学」
卒業論文の執筆と並行して「就職か大学院進学か」の選択に直面する。まだ明白な将来像が浮かばない。戦中戦後の食糧難の経験から飢えへの恐怖は根強くあったが、その後は経済成長が当然だと思える時代が到来、未来への悲観的見方は少しずつ薄れていた。
マスコミは花形で、目ざす者も多かった。新聞や月刊誌に加え、新聞社系や出版社系の週刊誌が次々と誕生し、テレビ局も開局、若い新鮮な人材を求めていた。
一方、文系の大学院進学は「入院」と揶揄され、そのうえ「退院(大学院修了)」後の社会復帰(就職)は困難と言われていた。だが、卒業論文の不完全燃焼を払拭しきれなかった私は「入院」を決めた。
先生方が心配し、無職でも食べて行けるか、家庭の事情をそれとなく聞いてくれたりしたが、それらをすべて無視し、「なんとかなる」ではなく「なんとかする」を唯一の拠りどころにして、突き進んだ。
中世ペルシャ史の卒業論文は、史料不足が致命的だった。大学院では史料の多さを優先したい。中国現代史の史料は比較的多かったが、過去50年間は歴史学の対象にしない方が良いと言う教員もいた。当時、外交文書の公開は50年経過後であり、その意味では合理的な見解である。ただ外交文書は内政等を含む歴史史料のごく一部に過ぎない。
私は近い過去を対象とする現代史を通じて、「アジア・アフリカの時代」の歴史的背景を究明しようと考えた。中世ペルシャ史から中国現代史へのテーマの「大転換」も教員や友人たちを驚かせたが、ペルシャ(イラン)もアジアであり、私は格別の違和感を持たなかった。
大学院に進むと同時に、私は仲間と教員に「総合ゼミ」の開設を提案した。旧来のゼミとは異なり、院生全員と教員全員が参加するもので、毎回、歴史学に共通する(と思われる)課題を院生が提案する。反対意見もあったが、動き出した。今では珍しくないが、当時は「先進的」に見えたらしく、京都大学の院生が「視察」に来た。
この「総合ゼミ」のテーマに掲げた1つが、マルクス主義の構成要素である弁証法である。弁証法(dialectic)は古代ギリシャ以来の伝統をもち、近代に至り、ヘーゲルからマルクスへと引き継がれた。<意見>(正)と<反対意見>(反)の対立と矛盾を通じて<高い次元の認識(総合)>に到達するという考え方で、正・反・合の論理とも略称される。
この限りでは十分に納得できた。またヘーゲルの精神や理念を基礎にする<観念論的弁証法>に対して、マルクスは物質的なものの自己展開を基本とする<唯物弁証法>であり、両者の否定・継承関係を確かめるのが面白かった。
唯物弁証法には上部構造と下部構造という概念がある。上部構造とは平たく言えば思想、文化、法律、制度、階級等やそれに対応する生産関係であり、下部構造とはその土台となる生産・消費等の経済構造(生産力)である。下部構造が上部構造を規定し、一定の生産力段階になると新たな階級関係が生まれ、その逆はない。
この論法で歴史の進歩を解釈したのが<発展段階説>である。古代奴隷制、中世封建制、近代資本制、そして生産力が次の段階となる(はずの)近未来において、(理想とされる)共産制社会が生まれる、と説く。
ところが、この思想(主義)を突き詰めていくと、生産力が低い段階(後進国)では革命の目標も低い水準に設定せざるをえない、という矛盾に陥る。生産力が低い社会は、いつも「後塵を拝す」という<宿命論>にも通じかねない。
これに反論したのが、「食うものさえ十分に得られない」とされた中国農村(後進国のなかの最後進地帯)を根拠地として革命運動を進めていた毛沢東である。彼は「生産力が生産関係を規定する」と同時に、「生産関係が生産力を規定する」側面を強調し、中国農村の課題解決は、革命によってまず生産関係を変えることであり、それにより社会を発展させると主張した。
この「総合ゼミ」はそれなりに楽しく有益であり、教員と学生が何を考えているか互いに理解し、「あの名著のかげにこの思想あり」と納得したりした。しかし、このままつづけることに限界を感じ始めたころ、歴史学は<普遍妥当性>と<個別具体性>の二つを満たさなければならない、という言葉に目がとまる。
「アジア・アフリカの時代」を知り、アジア史を学ぶには、アジア各地の現場を見なければならない、<個別具体性>を知らなければ歴史も現在も分からないと、「ひらめき」のように感じた。
アジアへの旅、これが私の行動指針となる。
司馬遷『史記』等の古典的歴史書はたんなる書斎の産物ではなく、旅と聞き取り(資料収集)を重ね、さまざまな苦難を乗り越えて書き上げられたものである。「百聞は一見に如かず」等々、もっともらしい理屈は後からつけた。
ところが1960(昭和35)年当時、日本の外貨準備は極端に乏しく、旅券取得を厳しく制限していた。学生身分では、オールギャランティーの留学(一切の経費を相手校が負担)が唯一開かれた道であったが、アジアの大学では募集がなかった。(続く)
マスコミは花形で、目ざす者も多かった。新聞や月刊誌に加え、新聞社系や出版社系の週刊誌が次々と誕生し、テレビ局も開局、若い新鮮な人材を求めていた。
一方、文系の大学院進学は「入院」と揶揄され、そのうえ「退院(大学院修了)」後の社会復帰(就職)は困難と言われていた。だが、卒業論文の不完全燃焼を払拭しきれなかった私は「入院」を決めた。
先生方が心配し、無職でも食べて行けるか、家庭の事情をそれとなく聞いてくれたりしたが、それらをすべて無視し、「なんとかなる」ではなく「なんとかする」を唯一の拠りどころにして、突き進んだ。
中世ペルシャ史の卒業論文は、史料不足が致命的だった。大学院では史料の多さを優先したい。中国現代史の史料は比較的多かったが、過去50年間は歴史学の対象にしない方が良いと言う教員もいた。当時、外交文書の公開は50年経過後であり、その意味では合理的な見解である。ただ外交文書は内政等を含む歴史史料のごく一部に過ぎない。
私は近い過去を対象とする現代史を通じて、「アジア・アフリカの時代」の歴史的背景を究明しようと考えた。中世ペルシャ史から中国現代史へのテーマの「大転換」も教員や友人たちを驚かせたが、ペルシャ(イラン)もアジアであり、私は格別の違和感を持たなかった。
大学院に進むと同時に、私は仲間と教員に「総合ゼミ」の開設を提案した。旧来のゼミとは異なり、院生全員と教員全員が参加するもので、毎回、歴史学に共通する(と思われる)課題を院生が提案する。反対意見もあったが、動き出した。今では珍しくないが、当時は「先進的」に見えたらしく、京都大学の院生が「視察」に来た。
この「総合ゼミ」のテーマに掲げた1つが、マルクス主義の構成要素である弁証法である。弁証法(dialectic)は古代ギリシャ以来の伝統をもち、近代に至り、ヘーゲルからマルクスへと引き継がれた。<意見>(正)と<反対意見>(反)の対立と矛盾を通じて<高い次元の認識(総合)>に到達するという考え方で、正・反・合の論理とも略称される。
この限りでは十分に納得できた。またヘーゲルの精神や理念を基礎にする<観念論的弁証法>に対して、マルクスは物質的なものの自己展開を基本とする<唯物弁証法>であり、両者の否定・継承関係を確かめるのが面白かった。
唯物弁証法には上部構造と下部構造という概念がある。上部構造とは平たく言えば思想、文化、法律、制度、階級等やそれに対応する生産関係であり、下部構造とはその土台となる生産・消費等の経済構造(生産力)である。下部構造が上部構造を規定し、一定の生産力段階になると新たな階級関係が生まれ、その逆はない。
この論法で歴史の進歩を解釈したのが<発展段階説>である。古代奴隷制、中世封建制、近代資本制、そして生産力が次の段階となる(はずの)近未来において、(理想とされる)共産制社会が生まれる、と説く。
ところが、この思想(主義)を突き詰めていくと、生産力が低い段階(後進国)では革命の目標も低い水準に設定せざるをえない、という矛盾に陥る。生産力が低い社会は、いつも「後塵を拝す」という<宿命論>にも通じかねない。
これに反論したのが、「食うものさえ十分に得られない」とされた中国農村(後進国のなかの最後進地帯)を根拠地として革命運動を進めていた毛沢東である。彼は「生産力が生産関係を規定する」と同時に、「生産関係が生産力を規定する」側面を強調し、中国農村の課題解決は、革命によってまず生産関係を変えることであり、それにより社会を発展させると主張した。
この「総合ゼミ」はそれなりに楽しく有益であり、教員と学生が何を考えているか互いに理解し、「あの名著のかげにこの思想あり」と納得したりした。しかし、このままつづけることに限界を感じ始めたころ、歴史学は<普遍妥当性>と<個別具体性>の二つを満たさなければならない、という言葉に目がとまる。
「アジア・アフリカの時代」を知り、アジア史を学ぶには、アジア各地の現場を見なければならない、<個別具体性>を知らなければ歴史も現在も分からないと、「ひらめき」のように感じた。
アジアへの旅、これが私の行動指針となる。
司馬遷『史記』等の古典的歴史書はたんなる書斎の産物ではなく、旅と聞き取り(資料収集)を重ね、さまざまな苦難を乗り越えて書き上げられたものである。「百聞は一見に如かず」等々、もっともらしい理屈は後からつけた。
ところが1960(昭和35)年当時、日本の外貨準備は極端に乏しく、旅券取得を厳しく制限していた。学生身分では、オールギャランティーの留学(一切の経費を相手校が負担)が唯一開かれた道であったが、アジアの大学では募集がなかった。(続く)
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