【2】連載「アジアへの関心」
アジアへの関心が私のなかに芽生えたのは、中学から高校時代である。マスコミ報道等から新たな国際政治の動きを感じとっていた。サンフランシスコ平和会議(1951年9月)、朝鮮戦争の休戦(1953年7月)、バンドン会議(アジア・アフリカ会議、1955年4月)と展開、インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領ら新興アジア・アフリカのリーダーが新しい時代を開こうとしていた。
「アジア・アフリカの時代」と呼ばれたが、私の関心はごくぼんやりとしたもので、とくに焦点が絞られていたわけではない。周囲の雰囲気は欧米志向が強く、クルマとジャズのアメリカ、映画のフランス、そして硬い哲学のドイツに人気があった。
1955(昭和30)年に高校を卒業、浪人生活を飽きずに過ごすため、紅露外語という予備校で新しくドイツ語を学び始めた。早くも6月下旬からヘーゲルやヘッセを原書で読むテンポの速さに感激した。大学受験の外国語はドイツ語とした。物理と数学とドイツ語で点を稼いだように思う。
東京大学教養学部文科2類では、ドイツ語既習組(Aクラス)+フランス語既習組(Cクラス)+中国語組(Eクラス)、合わせて20人ほどが第2外国語の英語の授業で一緒になった。みな個性的な男ばかり、浪人経験者も少なくなく、大人と少年が同居したような集団で人生を語り、コンパや小旅行を楽しんだ。
のちにロシア近代史家となる和田春樹が同じAクラスで、彼は著書『ある戦後精神の形成 1938~1965』(2006年 岩波書店)で、私について「その個性的な風貌で、強い印象を与えた」と述べているが、和田は古井由吉(作家)と同じ最年少なのに、意外にませていた。なお同級生以下は呼び捨て、一年先輩から指導教授までを「さん付け」とする慣習があり、以来、それに従っている。
当時の仲間たちの間で囁かれていた「三種の神器」が、英会話、自動車運転免許、社交ダンスである。私もそれなりに精を出した。Cクラスにはダンス教師のアルバイトをしている者もいた。後に知ったことだが、この「三種の神器」は駒場でも本郷でも例外的な、ごく少数者の間の流行だったようである。
部活ではラグビー部を選んだが、雨上がりのグランドを走って足首を痛め、退部を余儀なくされた。ついで自動車部に入り、2年次の夏休みに北海道一周ツアーを敢行、また全国を旅し、山登りにも励んだ。
2年次の後期には進学先を決めなければならない。文学部東洋史学科(学生定員8名)を選んだ。その背景には「アジア・アフリカの時代」という新時代の歴史的背景を見極めたいとする思いがあった。「若気の至り」である。
本郷へ進学したころから、学内外の動きが激しくなった。1958年、警職法改悪反対の声が東洋史学科から上がり、その延長上に1960年をピークとする安保闘争が始まる。教員と学生の関係も変わりつつあり、対話志向が強まった。サブゼミと称して、種々の読書会や研究会ができる。キェルケゴールやサルトルにも人気があったが、私はドイツ語でヘーゲルやニーチェを読むのを楽しみ、また毛沢東の著作をめぐる議論にも熱中した。
好景気と言われ、新聞社や雑誌社の就職先も増えつつあった。学生団体も多様化し、マスコミの論説類も旧来とは異なる新しい思潮を紹介していた。
当然ながら、歴史の考え方にも変化が生まれていた。史学界ではマルクス・レーニン主義や毛沢東主義が声高に叫ばれる一方、小さな事象や事件にこそ歴史の本質が隠れているとする見解(のちに社会史と呼ぶ)も根強よくあった。
特定の主義思想としてではなく、毛沢東が喧伝した百花繚乱・百家争鳴が人気を得ていた。多様多彩な思想に満ちた世界を理想とするもので、明治維新期の「万機公論に決すべし」に底通する、「新しい時代」の雰囲気を感じさせた。
過去にとらわれず、自由に発想し主張せよ! その状況を作り出せ! レッセフェール! 日本の大学内で初めて「民主主義」が花咲いた時期と言えるかもしれない。デモにも教員と学生が一緒に参加し、似たスローガンを叫んだ。
卒業論文に着手したのが4年次の秋である。高校時代に古本屋で入手したフランスの思想家モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(大岩誠訳 岩波文庫)が、頭の片隅にあった。
アジアと西欧との関係が急速に西欧優位へと転換し始める16・17世紀、その代表例としてペルシャ(イラン)と西欧(とくにフランス)の文化思想関係が気になり、東洋史学科の卒論らしく重点をペルシャ側に置いて、「サファビー朝ペルシャの支配体制」とした。
ペルシャ語とアラビア語も履修したが、付け焼刃では史料解読にほとんど役立たない。論文指導の専任教員がおらず、史料もない。お会いしたこともない先輩の本田實信北海道大学教授が、段ボール2箱の史料(英訳版が主)と研究書(洋書)を送ってくださった。また博士課程の酒井良樹さんほかの先輩たちから、いろいろと有意義な助言をもらった。
審査する教員側も、私の卒論に困惑されたに違いない。のちに私自身が大学教員となり、思いもよらない卒論テーマに出会うたびに、当時の教員の気持ちに思いが及んだ。
55年前のこの卒論が、私の歴史研究の出発点である。いま思うと、西アジアの雄たるオスマントルコを外したことが不思議である。乏しい史料に加え、論旨は支離滅裂、研究史の整理も足りない。
論文は通ったものの、この雪辱を果たすというべきか、敗者復活戦に臨むというべきか、このまま身を引くわけにはいかないと強く思った。(続く)
「アジア・アフリカの時代」と呼ばれたが、私の関心はごくぼんやりとしたもので、とくに焦点が絞られていたわけではない。周囲の雰囲気は欧米志向が強く、クルマとジャズのアメリカ、映画のフランス、そして硬い哲学のドイツに人気があった。
1955(昭和30)年に高校を卒業、浪人生活を飽きずに過ごすため、紅露外語という予備校で新しくドイツ語を学び始めた。早くも6月下旬からヘーゲルやヘッセを原書で読むテンポの速さに感激した。大学受験の外国語はドイツ語とした。物理と数学とドイツ語で点を稼いだように思う。
東京大学教養学部文科2類では、ドイツ語既習組(Aクラス)+フランス語既習組(Cクラス)+中国語組(Eクラス)、合わせて20人ほどが第2外国語の英語の授業で一緒になった。みな個性的な男ばかり、浪人経験者も少なくなく、大人と少年が同居したような集団で人生を語り、コンパや小旅行を楽しんだ。
のちにロシア近代史家となる和田春樹が同じAクラスで、彼は著書『ある戦後精神の形成 1938~1965』(2006年 岩波書店)で、私について「その個性的な風貌で、強い印象を与えた」と述べているが、和田は古井由吉(作家)と同じ最年少なのに、意外にませていた。なお同級生以下は呼び捨て、一年先輩から指導教授までを「さん付け」とする慣習があり、以来、それに従っている。
当時の仲間たちの間で囁かれていた「三種の神器」が、英会話、自動車運転免許、社交ダンスである。私もそれなりに精を出した。Cクラスにはダンス教師のアルバイトをしている者もいた。後に知ったことだが、この「三種の神器」は駒場でも本郷でも例外的な、ごく少数者の間の流行だったようである。
部活ではラグビー部を選んだが、雨上がりのグランドを走って足首を痛め、退部を余儀なくされた。ついで自動車部に入り、2年次の夏休みに北海道一周ツアーを敢行、また全国を旅し、山登りにも励んだ。
2年次の後期には進学先を決めなければならない。文学部東洋史学科(学生定員8名)を選んだ。その背景には「アジア・アフリカの時代」という新時代の歴史的背景を見極めたいとする思いがあった。「若気の至り」である。
本郷へ進学したころから、学内外の動きが激しくなった。1958年、警職法改悪反対の声が東洋史学科から上がり、その延長上に1960年をピークとする安保闘争が始まる。教員と学生の関係も変わりつつあり、対話志向が強まった。サブゼミと称して、種々の読書会や研究会ができる。キェルケゴールやサルトルにも人気があったが、私はドイツ語でヘーゲルやニーチェを読むのを楽しみ、また毛沢東の著作をめぐる議論にも熱中した。
好景気と言われ、新聞社や雑誌社の就職先も増えつつあった。学生団体も多様化し、マスコミの論説類も旧来とは異なる新しい思潮を紹介していた。
当然ながら、歴史の考え方にも変化が生まれていた。史学界ではマルクス・レーニン主義や毛沢東主義が声高に叫ばれる一方、小さな事象や事件にこそ歴史の本質が隠れているとする見解(のちに社会史と呼ぶ)も根強よくあった。
特定の主義思想としてではなく、毛沢東が喧伝した百花繚乱・百家争鳴が人気を得ていた。多様多彩な思想に満ちた世界を理想とするもので、明治維新期の「万機公論に決すべし」に底通する、「新しい時代」の雰囲気を感じさせた。
過去にとらわれず、自由に発想し主張せよ! その状況を作り出せ! レッセフェール! 日本の大学内で初めて「民主主義」が花咲いた時期と言えるかもしれない。デモにも教員と学生が一緒に参加し、似たスローガンを叫んだ。
卒業論文に着手したのが4年次の秋である。高校時代に古本屋で入手したフランスの思想家モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(大岩誠訳 岩波文庫)が、頭の片隅にあった。
アジアと西欧との関係が急速に西欧優位へと転換し始める16・17世紀、その代表例としてペルシャ(イラン)と西欧(とくにフランス)の文化思想関係が気になり、東洋史学科の卒論らしく重点をペルシャ側に置いて、「サファビー朝ペルシャの支配体制」とした。
ペルシャ語とアラビア語も履修したが、付け焼刃では史料解読にほとんど役立たない。論文指導の専任教員がおらず、史料もない。お会いしたこともない先輩の本田實信北海道大学教授が、段ボール2箱の史料(英訳版が主)と研究書(洋書)を送ってくださった。また博士課程の酒井良樹さんほかの先輩たちから、いろいろと有意義な助言をもらった。
審査する教員側も、私の卒論に困惑されたに違いない。のちに私自身が大学教員となり、思いもよらない卒論テーマに出会うたびに、当時の教員の気持ちに思いが及んだ。
55年前のこの卒論が、私の歴史研究の出発点である。いま思うと、西アジアの雄たるオスマントルコを外したことが不思議である。乏しい史料に加え、論旨は支離滅裂、研究史の整理も足りない。
論文は通ったものの、この雪辱を果たすというべきか、敗者復活戦に臨むというべきか、このまま身を引くわけにはいかないと強く思った。(続く)
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