横須賀造船所150周年の記念講演

 慶応元(1865)年九月二十七日の鍬入れ式で誕生した横須賀製鉄所は、明治4(1872)年に横須賀造船所と改称された。今年は横須賀造船所150周年にあたり、各種の行事が予定されている。そのトップを切って、5月23日、汐入にあるベイサイドポケットを会場に、横須賀開国史研究会(山本詔一会長)の総会記念講演、鈴木淳(東京大学教授)「横須賀造船所再考」が行われた。
 横須賀開国史研究会は、学術研究会であるとともに会員460人超を有する市民文化団体で、今年で16年目に入る。「開国史基礎講座」、「研究講座」、「古文書を読む会」等々の各種の催しを継続、その稀有な活動と意義に関しては、本ブログ「横須賀開国史講演会」(2014年12月16日)でも取り上げた。
 今回の鈴木さんの講演は、10か月後に刊行の『開国史研究』第十六号に詳しく掲載されるはずであるが、それに先立ち、視聴者の一人として受けた感銘をまとめておきたい。
 演題「横須賀造船所再考」の通り、従来の歴史像を再考しようとするものである。史料コピー等を含めて、A4×5ページの配布物とパワーポイントの放映を併用、諄々とした語り口で、久しぶりに聴く大学の講義のようであった。
 造船・鉄鋼という新技術の導入にお雇い外国人(この場合はフランス人)の力を借りつつ、現場の担い手である技術者・技能者をいかに確保したかという、創設初期の中核的課題を明らかにしていく。
 鈴木さんは、著書『明治の機械工業-その生成と展開』(ミネルヴァ書房 1996年)、『新技術の社会誌』(中央公論新社 1999年 『日本近代』15)、『科学技術政策』(山川出版社 2010年)等で知られる、技術と社会のかかわりに精通する歴史家である。その具体論の一つが今回の演題と見られる。
 個性的な着想を基に、乏しい資料を丹念に読み解き、鋭く分析をすすめる。さすがである。典拠なしの従来の見解、すなわち横須賀造船所の主たる技能者が江戸・東京から転職してきた「渡り職人」とする説を否定し、明治3年に500名強におよんだ造船・鉄工の職人の過半が地元(横須賀町とその周辺)から採用された人たち(農業を兼業)であったと推定した。技術の「伝習」がたえず行われ、明治6年には熟練工である抱職工の約4割が農繁期に欠勤する兼業農家であったと示す史料が存在するからである。
そして、月給を与えられながら欠勤が多かった抱職工の大半は、明治6年中に月給と出勤日に応じた手当を与えられる「等外吏」(最下位ながら正規の官吏)に位置づけられたと述べる。
 この経営改革を担った責任者が肥田浜五郎(1830~1889年)で、彼の履歴と才能を追う。韮崎代官江川太郎左衛門の侍医の子として生まれ、江戸で蘭学を学び、長崎海軍伝習、機関科の将校として技術を学び、咸臨丸の蒸気方(機関長)として渡米(1860年)、病気の勝海舟に代わり、肥田たちが操船を主導したと言われる。メーア島の米海軍工廠等を見学、造船現場を確認した。帰国後、1861(文久元)年、軍艦操練所頭取手伝出役を経て軍艦頭取出役となる。翌年、幕府軍艦として初の蒸気軍艦「千代田形」の蒸気機関を設計、長崎製鉄所に出張して製造、造船技術のトップエリートとして活躍。
 1863(文久3)年、軍艦頭取、海路上洛する徳川家茂の御座舟「翔鶴丸」の船将(艦長)を務めた。翔鶴丸の前身は、アメリカで1857年に製造された外輪蒸気商船「ヤンチー」(揚子)で、1864(元治元年)年に幕府が買い取り、9月、小栗忠順の交渉により横浜停泊中のフランス軍艦乗員の修理を受けた。その作業の誠実さに幕府は強い信頼を寄せ、親密な日仏関係の端緒となる。
 1865(慶応元)年、肥田は横須賀造船所の工作機械を購入のためオランダに派遣され、帰途、レオンス・ヴェルニー(フランス人、のち横須賀造船所首長)と会見、彼に機械を引き継いで帰国。1868(慶応4)年、軍艦頭に昇進、富士山丸艦長となる。維新後は、静岡藩海軍学校頭、1869(明治2)年8月15日民部省出仕、工部少丞、1870(明治3)年、造船頭兼製作頭として横須賀在勤、翌年11月から岩倉使節団理事官として欧米各国を歴訪、岩倉から絶大な信頼を得た。
 帰国後、工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み、1875(明治7)年4月、海軍少将となり、横須賀造船所長、主船(造船)局長を歴任。幕臣(とくに技術官僚)が維新後の明治政府に貢献した役割はつとに知られているが、肥田はそれを代表する人である。
 ついで講演では、1866年に洋務派官僚の左宗棠(陝甘総督)が作った福州船政局造船所(馬尾造船所)との比較分析、とくにフランスからの技術移転の日中比較を行う。ちなみにヴェルニーは、横須賀に来る前に福州で技術指導をしている。
 横須賀造船所では、外来技術(とくに造船、製鉄等)の導入にさいし外国渡航経験者の果たした役割が大きい。鈴木さんが示した表「明治4年12月の横須賀造船所詰技術官」には、31名(造船上師から造船少手まで)の月給、のちの明治5年1月の職名、姓名、本籍、浦賀奉行所との関係、伝習・渡航歴、幕府海軍(慶応4年2月)の階級、榎本艦隊との関連、最終職が詳細に記されている。これによれば咸臨丸等の渡航経験者と浦賀奉行所の与力・同心が多い。
 遡れば、和船技術を洋式帆船や蒸気船に応用した技術の伝統があり、また外国船との応対の経験(発砲交戦を回避するに至る直接の接触や交流)が豊富な浦賀奉行所の存在があり、それが外来技術への強い探究心を掻き立てたことも、横須賀造船所の技術者・技能者に地元出身者が多い要因となろうと述べる。
 外国経験者が多いのは、日米修好通商条約の批准書交換のため1860年に幕府が派遣した遣米使節(咸臨丸はその随行艦)、文久遣欧使節(1862年)、明治の岩倉使節団(1871~73年)等、度々の海外派遣が行われたからである。
 その使節派遣が可能であったのは、最初の日米和親条約(1854年)が発砲交戦を伴わない「交渉条約」で、領土割譲の政治的恨みがなく、賠償金も伴わなかったためである。技術移転の好循環は、国際政治の好環境と無縁ではない。
スポンサーサイト

富岡製糸場の歌

 「天に青雲、日の光、お国は上野(こうずけ)、北甘楽(きたかんら)。甘楽、甘楽、北甘楽、富岡製糸の汽笛(ふえ)はなる。」
 これは1921(大正10)年10月に発表された歌謡「甘楽行進歌 原、富岡製糸所行進歌」(北原白秋作詞、弘田竜太郎作曲)の1番で、全部で6番まである。北原白秋『国民歌謡集 青年日本の歌』(昭和7年、立命館出版部)所収、のち『白秋全集』30 歌謡集2(1987年、岩波書店)に再録、ここから引用した。
 晴れ渡った上野(こうずけ=群馬県)の甘楽(かんら)にある富岡製糸(1番)、広大な桑畑と養蚕の風景(2番)、積み上げた繭袋は近くの妙義山や榛名山より高い(3番)、生糸を繰る腕利きの娘たち(4番)、輝く宝の生糸の積み出し(5番)、富岡は日本の誉、「世界の富を引き寄せた」(6番)と謳歌する。
 富岡製糸場(白秋の歌では富岡製糸所)は昨年、世界文化遺産に登録された。その概略については、このブログ「横須賀開国史講演会」(2014年12月16日)で取り上げた通り、明治5(1872)年設立の官営製糸場である。養蚕地帯を中心に全国から集めた士族の子女らを、高い技術と規律を身につけた模範伝習工女とし、彼女らを地元に戻して良質な生糸の増産をめざした。
 1903(明治36)年から1939(昭和14)年までの36年間、原三溪(1868~1939年)の原合名会社が経営に当たった(のち片倉工業が承継)。
 この歌が作られた1921(大正10)年は、三溪にとって会社経営はもとより、1906年に開園した三溪園の造営を進めていた絶好調の時代である。すなわち1902年に鶴翔閣が完成、三溪は横浜港を眼下に望む野毛山から移り住み、日本庭園の造営に本腰を入れ、1914年の旧燈明寺三重塔移築により外苑を、また1922年の聴秋閣の移築により内苑を完成させた。
 本年3月の三溪園理事会の折、内田弘保理事長から福岡県柳川市立歴史民俗資料館(北原白秋生家記念財団)で上記「甘楽行進歌」の存在を知ったとうかがい、さっそく調べた。『青年日本の歌』には大正7年から昭和6年までに作られた歌謡、すなわち白秋(1885~1942年)の33歳から46歳までの作品計93篇が収められている。
 詩人・歌人の白秋みずからが「これらの歌謡は、2,3を除けば、すべて作曲され、あまねく国民の間に唱和され、レコードにも吹き込まれ…、その大部分は山田耕作氏の作曲により…」と序文で述べ、その末尾を「しかもまたわたしは言おう。ただ、かかる貧しいわたくしの国民歌謡も、単に作曲の用として作詞せられたものでないことである。詩は曲の主体であるからである」と結ぶ。
 富岡製糸場の歌について三溪園参事の川幡留司さんに尋ねた。川幡さんは三溪園が財団となった1953(昭和28)年の数年後から勤務、三溪園の「生き字引」である。彼の聞き書き(原家執事の村田徳治翁等から)や新聞記事等の保存は、他にない貴重な資料群となっている。
 彼は自身のパソコン(「川幡資料館」と呼ばれている)から、北原白秋作詞、弘田竜太郎作曲「富岡製糸場“繰糸の歌”」(全5番)を出してくれた。これは粋な言い回しで繰糸の作業工程を歌う。製作年は不明だが、大正ロマンとも呼ばれる時代の雰囲気を有しており、上掲と同じく大正中期と思われる。
 1番「箒しづかに索緒(くちたへ)しゃんせ 繭は柔肌 絹一重 わたしゃ十七 花なら蕾 手荒なさるな まだ未通女」
 2番「いつもほどよい繰糸湯(とりゆ)の繭よ すまず にごらず つやつやと 惚れりゃほどよく 熱いはさめる 焼かず はなれず さらさらと」
 3番「ひとつひとつとつけたせ繭は 慾からめば度外糸 一人一人に情増せ恋は 両(ふた)つどりすりゃ 義理知らず」
 4番「裁附(きりづけ)しやんすな 縁切らしやるな 巻けば巻きつく繭の糸 よりによりかけ からんだ糸よ おまへ切れても わしゃ切れぬ」
 5番「いとし小枠へ巻きとる糸は それは黄の糸 白の糸 むしれむら糸 む
らなく きよく いつもむら気じゃ 身がもてぬ」
 弘田の作曲で、斎藤惇作詞「原富岡製糸場“工場歌”」(全4番)や葛原しげる作詞「原富岡製糸場“運動歌”」(全3番)等もあった。製作年は不明だが、弘田の肩書が東京音楽学校教授とあり、それがドイツ留学から戻って短期間だった(作曲専念のため辞任)ことから、昭和5年頃と思われる。
 白い制服姿の工女たちが運動場で輪になり、「原富岡製糸場“運動歌”」を歌い踊っていたという。作詞者の葛原は跡見女学校教諭、同校は若き日の三溪がしばし教鞭を取った職場であり、屋寿(やす)夫人の出身校でもある。
 1番「くるりくるくる たゆまずめぐる 我が糸車 元車 元気にめぐる 車をみれば 心も勇み 手も勇む とりゆの中には まゆをとり 空にもあさまの ヨイさ煙ぞのぼる」
 2番「するりするする つきせぬ糸の その美しさ 清らかさ よりよくかけて ただ一すじに 心もみがけよき糸と 車にかがやく糸のあや みかぼの山(注1)にも ヨイさ光のあらん」
 3番「さらりさらさら せせらぎうたう 鏑の川(注2)の瀬の音や よどみもあらぬ 心をあわせ いそしみはげむ楽しさよ みくにのなをあげとみをます われらの業こそ ヨイさまことの幸さ」
 (注1)の御荷鉾(1216m)は群馬県にあり、この山の北側に降った雨水が、かぶらの川(注2)に注ぐ。富岡製糸場はその豊かな水を使った。
 工女たちが新しい時代に希望を託し、生き生きと働く姿が目に浮かぶ。

過去から見える未来

 総合地球環境学研究所(京都)の第6回地球研東京セミナー「環境問題は昔らからあった-過去から見える未来-」が、2015年1月16日、有楽町朝日ホールで開かれた。去年、第5回セミナーに初めて出たが(都留文科大学学長ブログ115「都市は地球の友達か‼?」)、今回もほぼ満席の盛況ぶりである。それから4か月近く経つが、時おり思い出すほど印象が強かったので、ここに報告しておきたい。
 4つの講演、すなわち鬼頭宏(上智大学)「人口変動と環境制約-江戸システムを事例として」、中塚武(総合地球環境学研究所)「気候変動によって人間社会に何が起こったか-弥生から近世まで」、工藤雄一郎(国立歴史民俗学研究所)「旧石器・縄文時代の環境変動と人々の生活の変化を考える」、羽生淳子(総合地球環境学研究所)「縄文人に主食はあったか-食の多様性と環境問題」があり、最後に村上由美子(総合地球環境学研究所)の司会(いずれも敬称略)で4氏のパネルディスカッションが行われた。
 鬼頭さんは、標題の講演に関する概要「人口変動と環境制約-江戸システムを事例として-」をA4×2枚で示すとともに、「歴史に学び、未来に備える」と題した24枚の貴重なpptスライド(放映とプリント配布)を使い、明快に講演を進めた。
 日本の森林面積比率が世界的にきわめて高いこと(近世~現在で65%超、他国は25%~5%)、日本列島の人口変動に4つの波があったこと、そして文明システムの構成要素を示した後に、<資源・環境>、<人口動態>、<文明システム>の3要素からなる「文明システムの転換モデル(試案)」を提示した。
 強調点は、①21世紀は人口減退の時代だが、過去にも人口減退の時代があった、②人口減退は文明システムの成熟期に起き、そこでは量的成長は難しく環境変動の影響を強く受けた、③文明成熟期は次世代の文明を模索する時であり、今こそ歴史的経験を活かして持続可能な社会を構築する時である。
 中塚さんは、地球研の「高分解能古気候学と歴史・考古学の連携による気候変動に強い社会システムの模索」プロジェクト(5年計画)の初年度の成果を発表した。データ証拠(主にグラフ)をpptスライド(28枚分、放映とプリント配布)で示し、次の2点を強調した。
 ア)寒冷地の樹木の年輪幅は夏の気温上昇で広くなるが、日本のような温暖地の樹木の年輪幅では夏の気温の復元が難しいため、広域のデータから東アジアの夏季気温(平均値)を求めた。イ)気候変動と歴史年表を照合、古代の倭国大乱、中世の動乱、近世の3大飢饉(享保・天明・天保)のそれぞれで、気候変動と社会動乱との間に「きわめて普遍的な」関係性があることを証明。
 パネルディスカッションでは、まず年代測定等、最近の分析手法の進歩による新しい知見や、過去の実像を明らかにしつつある研究状況が、4氏からともども語られた。すなわち炭素年代測定法が絶対年代の決定に近づき、花粉分析はウルシとヤマウルシを区別できるほど精度を上げ(2004年~)、土器に付く残存物の分析も進んだ。田んぼに埋蔵されている杉の巨木の年代を先史時代の2300年BCまで測定、また縄文中期の気候変動は年単位の同定が可能となった。
 こうした過去に関する研究の進展を踏まえて、「過去から見える未来」をどう描くか。過去の知見の深化は未来への展望を必ずしも意味しないが、幾つかの面で過去の新しい知見が未来の予見に役立つとして、次の2点が強調された。
 第1は、気温や降水量の数10年周期の長間隔の変動は記憶に残りにくく、対応が遅れる。その結果、しばしば飢饉や反乱・内乱が引き起こされ、社会体制の変革が促された。これを認識し、記憶を継承し、状況に対応する社会を構想することが望まれる(中塚)。
 ちなみに今年4月25日に起きたネパールの大地震が80年目であり、地震の脅威が集団的記憶として残らず、惨事が拡大したと言われる。
 第2に、江戸時代後半(人口の4つの波のうち第3の人口減少期)は文明成熟期にあり、文明システムの環境収容力が上限に近づくとともに、人口成長が困難になった。現代(第4の人口減少期)も似た状況下にあり、主要先進国では1970年代から出生率の低下(少子化)が起きている。こうした時代こそ次世代の文明を模索する時にほかならず、歴史を教訓とし、持続可能な社会(Future Earth構想)を構築しようと提案する(鬼頭)。
 鬼頭さんが示す1960年代からの主要文献(R.カーソンの『沈黙の春』やローマクラブの『成長の限界』等)の古典的業績に立ち返り、文明の「意識の転換」の意義を考えてつづけていきたいと思う。
 私は『地球文明の場へ 新しい旅立ち』(『日本文明史』第7巻 1992年 角川書店)において装置・制度・自然・個体の4つからなる「文明の三角錐」論(自然を底辺におく4面体=三角錐)を展開したが、それから20余年、とくに装置の肥大、なかでも人工知能の開発が人間を支配しかねない状況にまで進み、制御の仕組みの遅れ(=制度の不適合)が危惧される(本ブログ「地球環境とサイエンス」2014年10月1日参照)。また個体の劣化は著しく、総じて「文明の三角錐」は倒壊寸前にあるのではないか。
 特定のテーマを深く追う研究者にとって、時折でも「過去から見える未来」という普遍的な課題に思いを寄せる意義は大きい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR