観梅俳句大会
2月22日(日曜)、第39回三溪園観梅俳句大会が開かれた。天気予報は全国的に荒れ模様、南関東も雨か雪とあり、懸念していたが、関係者の熱意が通じてか雨にならず、130名を超える参加があった。
会場の鶴翔閣は1902年建造の合掌造りの平屋、原善三郎が1899年に逝去すると原商店を引き継いで原合名会社に改組した原富太郎(三溪)の邸宅である。横浜港を眼下に望む野毛山からこの三之谷へ居を移した三溪は、日本庭園の設計に着手する。鶴翔閣は多忙な実業家が家族と過ごす場であり、日本庭園の構想を練る場であり、さらには再興日本画家たちを応援するサロン兼画廊でもあった。
鶴翔閣の「楽室棟」は、畳廊下・板張廊下を合わせて約100畳の広々とした空間で、ガラス格子の先に庭が望める。さらに30畳の広間や20畳の控室も開放した。鴨居は2メートルを超える高さで、2間半ある柱と柱の間を1本の桁が支える。110余年を経た現在も、まったく歪み撓みが見られない。良質な建材と、郷里の岐阜から招いた棟梁たちの、匠の技のなせる見事な構造物である。
10時半からの受付は順調に進んだ。大会委員長の加藤房子さんが言う。「今日は雨模様とあり、例年より参加者は少ないかもしれません。この観梅俳句大会は今年で39回になりますが、一期生はすでにおらず、本日の参加者のうち最高齢の女性は92歳、彼女も10回目あたりからではないでしょうか。私は薬剤師で現役ですが、もう80歳になりました」。加藤さんの句作りは、たいがいが夕食後のひと時という。
参加者の男女比はおよそ3:7。女性の場合、子育てが一段落する30代、男性は定年退職後あたりから始めたり再開することが多いとのこと。参加者の平均年齢は、ちらほら見えた小中学生を除けば、おそらく65歳あたりか。
12時半に開会、大会委員長の開会宣言についで、俳話会の山本一歩会長が挨拶した。そのなかで、昨年5月、投句箱管理の役員が急逝されたことに触れ、投句が誤って廃棄されたことへのお詫びと、再度の投句を依頼した経緯を述べ、今後の管理は三溪園にお願いすると報告した。
園長の私が挨拶に立ち、三溪園には「日本文化を世界に発信する」使命(定款にある3つの使命のうち)があり、句会を大いに歓迎すると述べた。
つづいて賞状授与に移る。横浜市長賞、三溪園理事長賞、横浜俳話会会長賞等、計30句に賞状と賞品が渡される。そこから幾つかを掲げたい。
秋声を聴けり土橋を渡るとき 渡辺時子
かなかなのさざ波となり暮れにけり 鈴木基之
一塔を浮かべてをりぬ梅千本 清水純一
水ゆるる夫の面影花菖蒲 米山愛子
観梅の一句残して逝かれけり 内藤庫江
(この句は、上掲の急逝された役員を悼むものか)
こどもの日ただただ寒いこいのぼり 宗田あずさ(青少年の部の中学生)
次いで前大会委員長、山本つぼみさん(82歳)の「講話」があった。日野草城(1901=明治34年~1956=昭和31年)の孫弟子を自認し、草城の梅と桜の句を取り上げて熱く語った。彼は学生時代に「ホトトギス」で学んだ後、大阪住友海上火災勤務のかたわら、「旗艦」を創刊、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導、戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作ったことで知られる。
休憩後に「吟行」に移り、ついで吟行句129から選句がなされた。複数の選者による秀逸句が一つ一つ読み上げられ、投句者が応じて番号と名前を告げる。
集計の間に、2名の方による講評があった。句作りの楽しみや心得を述べたなかで、「写生か抒情かではなく、写生のなかに抒情を込めたもの」、「陰と陽の2つを込めたもの」、「俳句は人生の日々の伴侶、<つぶやき>を17文字にしたもの」の言葉が、とりわけ心に残った。
そして入選句には、横浜市長賞、三溪園理事長賞、横浜俳話会会長賞等の賞状と記念品に加え、新聞5社と月刊『俳句界』を刊行する文学の森社から賞状と楯が贈られ、また全員に参加賞が配られた。受賞句から3句。
雨が研ぎ風が研ぎたる梅ま白 谷口ふみ子
臥龍梅まだ肩の荷を下ろせない 梅津大八
雨を来し靴の余寒が並びをり 梶原美邦
臥龍梅(がりゅうばい)は、三溪園が誇る、臥した龍が舞い上がらんとする風情の老木で、何本かの支柱で支えられている。早咲きの白梅が満開を過ぎるころに、白い花をつける。
全プログラムの終了は日没まぎわ。年配の方が多いにもかかわらず、大変な根気である。
帰途、いまは亡き義母が俳句を詠み、割烹着のポケットにいつも紙と鉛筆をしのばせていたことを思い出した。
会場の鶴翔閣は1902年建造の合掌造りの平屋、原善三郎が1899年に逝去すると原商店を引き継いで原合名会社に改組した原富太郎(三溪)の邸宅である。横浜港を眼下に望む野毛山からこの三之谷へ居を移した三溪は、日本庭園の設計に着手する。鶴翔閣は多忙な実業家が家族と過ごす場であり、日本庭園の構想を練る場であり、さらには再興日本画家たちを応援するサロン兼画廊でもあった。
鶴翔閣の「楽室棟」は、畳廊下・板張廊下を合わせて約100畳の広々とした空間で、ガラス格子の先に庭が望める。さらに30畳の広間や20畳の控室も開放した。鴨居は2メートルを超える高さで、2間半ある柱と柱の間を1本の桁が支える。110余年を経た現在も、まったく歪み撓みが見られない。良質な建材と、郷里の岐阜から招いた棟梁たちの、匠の技のなせる見事な構造物である。
10時半からの受付は順調に進んだ。大会委員長の加藤房子さんが言う。「今日は雨模様とあり、例年より参加者は少ないかもしれません。この観梅俳句大会は今年で39回になりますが、一期生はすでにおらず、本日の参加者のうち最高齢の女性は92歳、彼女も10回目あたりからではないでしょうか。私は薬剤師で現役ですが、もう80歳になりました」。加藤さんの句作りは、たいがいが夕食後のひと時という。
参加者の男女比はおよそ3:7。女性の場合、子育てが一段落する30代、男性は定年退職後あたりから始めたり再開することが多いとのこと。参加者の平均年齢は、ちらほら見えた小中学生を除けば、おそらく65歳あたりか。
12時半に開会、大会委員長の開会宣言についで、俳話会の山本一歩会長が挨拶した。そのなかで、昨年5月、投句箱管理の役員が急逝されたことに触れ、投句が誤って廃棄されたことへのお詫びと、再度の投句を依頼した経緯を述べ、今後の管理は三溪園にお願いすると報告した。
園長の私が挨拶に立ち、三溪園には「日本文化を世界に発信する」使命(定款にある3つの使命のうち)があり、句会を大いに歓迎すると述べた。
つづいて賞状授与に移る。横浜市長賞、三溪園理事長賞、横浜俳話会会長賞等、計30句に賞状と賞品が渡される。そこから幾つかを掲げたい。
秋声を聴けり土橋を渡るとき 渡辺時子
かなかなのさざ波となり暮れにけり 鈴木基之
一塔を浮かべてをりぬ梅千本 清水純一
水ゆるる夫の面影花菖蒲 米山愛子
観梅の一句残して逝かれけり 内藤庫江
(この句は、上掲の急逝された役員を悼むものか)
こどもの日ただただ寒いこいのぼり 宗田あずさ(青少年の部の中学生)
次いで前大会委員長、山本つぼみさん(82歳)の「講話」があった。日野草城(1901=明治34年~1956=昭和31年)の孫弟子を自認し、草城の梅と桜の句を取り上げて熱く語った。彼は学生時代に「ホトトギス」で学んだ後、大阪住友海上火災勤務のかたわら、「旗艦」を創刊、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導、戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作ったことで知られる。
休憩後に「吟行」に移り、ついで吟行句129から選句がなされた。複数の選者による秀逸句が一つ一つ読み上げられ、投句者が応じて番号と名前を告げる。
集計の間に、2名の方による講評があった。句作りの楽しみや心得を述べたなかで、「写生か抒情かではなく、写生のなかに抒情を込めたもの」、「陰と陽の2つを込めたもの」、「俳句は人生の日々の伴侶、<つぶやき>を17文字にしたもの」の言葉が、とりわけ心に残った。
そして入選句には、横浜市長賞、三溪園理事長賞、横浜俳話会会長賞等の賞状と記念品に加え、新聞5社と月刊『俳句界』を刊行する文学の森社から賞状と楯が贈られ、また全員に参加賞が配られた。受賞句から3句。
雨が研ぎ風が研ぎたる梅ま白 谷口ふみ子
臥龍梅まだ肩の荷を下ろせない 梅津大八
雨を来し靴の余寒が並びをり 梶原美邦
臥龍梅(がりゅうばい)は、三溪園が誇る、臥した龍が舞い上がらんとする風情の老木で、何本かの支柱で支えられている。早咲きの白梅が満開を過ぎるころに、白い花をつける。
全プログラムの終了は日没まぎわ。年配の方が多いにもかかわらず、大変な根気である。
帰途、いまは亡き義母が俳句を詠み、割烹着のポケットにいつも紙と鉛筆をしのばせていたことを思い出した。
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